或る少年の記憶 3
エルネスティーネは部屋から出ることができなかった。
いつも見送ってくれるエルネスティーネを、扉の外へと引っ張ってみたことがある。
途端に魔力にはじかれ、少年は階段の前につんのめった。
「大丈夫? ジーノ」
誰かに厳しく言われているだけ、その程度のものだと思っていたのに。
「ごめんなさい、私はそっちには行けないの」
心配そうに扉の一歩手前に立ちつくしている彼女は、本当にそれ以上は進めないようだった。
「ねえ、エルネスティーネはどうしてここにいるの?」
「だって、他に行くところがないもの」
「じゃあ、どこから来たの?」
核心的なことを聞くと、彼女はいつも笑ってごまかした。
「どこ、だったかしら? うーん、思い出せないの」
そのうち、聞かない方がいいのだと理解して、少年はなにも言わなくなった。
彼女を困らせたいわけではない。ただここにいてくれさえすればいいのだから。
「いつか大人になったら、ぼくがここからきみを出してあげる」
「ジーノが?」
「そう。だから……」
その先はまだ言えなかったけれど。
「そうね、あなたならできるのかも。楽しみに待っているわね」
エルネスティーネはそう答えて、確かに微笑んでくれたのだ。
ニャア、と猫の鳴き声がした。
なぜかそれが意識の奥にまで届いて、少年はゆるゆると重い瞼をあげた。
まぶしかった。何度か瞬きを繰り返して、目の前に猫がいることを確認した。幻聴などではなかったようだ。
白い猫の黄金色の眼が黒い髪の少年を映していた。
「ジーノ様。お目覚めになられましたか」
男の声がして、猫が胸の上からするりと降りていった。少年はベッドの天蓋をぼんやりと見ていた。ここはどこだろう。
「ご気分は?」
どうやらこの声は自分に話しかけているようだ、と少年は思った。
枕に預けた頭を少しだけ動かして横を見ると、そこに褐色の肌の青年がいた。彫刻のように美しい顔をしている。
誰だ、と聞こうとしたが、唇が動かなかった。言葉の発し方さえも忘れてしまったようだった。
男の手が伸びてきて、少年の額を覆った。冷たい手だった。
「ふむ。意識はおありのようだ」
どうやら男は魔術師だ。金時計が手首に光っている。
しかしローブは着ていない。異国の民族衣装のようなものを身にまとっている。確か南大陸の――ミュシクスの高貴な家柄の者だけに許される服装だ。
男が水差しを向けてきた。細い先を唇にあてがわれ、少量の水が口内に注がれる。
ごくり、と飲み込むと、もうひとさし注がれた。
呑みこんで、小さく首を横に振る。もういらない、と。
目が慣れてくると、部屋の中はそれほど明るくもなかった。カーテンの間から一筋の光が差し込んでいるので、昼間ではあるのだろうが。
長い長い悪夢を見ていたような気がする。
ずっと誰かを探していたような気がする。
熱くて、痛くて、苦しくて、心細くて、寒くて、怒りに震えて、悲しくて、叫びながらさまよっていた。
そうして今、自分はどこにたどりついてしまったのだろう。
体の上の布団が重くて起き上がれない。
思考も同様に重かった。
このまままた眠ってしまいたい気持ちと、現状を把握しろと訴える理性とのはざまで、少年は部屋を眺めた。猫が絨毯の上に丸まって尻尾をゆらしている。パチパチとはぜる暖炉の傍で。
揺れる火を見ると、急に恐ろしくなった。もがこうとするが、体がうまく動かない。
「ジーノ様」
男が呼びかけた。そうだ、それが自分の名前だった。
「あ、……、っ」
話そうとすると喉が痛んだ。乾いた咳が体を揺らした。
もう一度差し出された水を飲む。
唇の端からこぼれおちたしずくを、男の指がぬぐった。
「まだ身を起こされるには早い」
なだめるように男が言う。
持ち上げようとした頭を、少年は再び枕に預けた。
重いのは布団ではない。
この体だ。
少しずつ思考が回転していく。ここは、自分の部屋だ。なぜ今までわからなかったのだろう。
瞬きを繰り返して、少年は考えた。暖炉で火が燃えている。季節は冬。そうだっただろうか?
なにかがおかしい。
いや、すべてが。
少年は男を見た。
見知らぬ誰か、ではない。彼を知っていた。祖父の対だった男だ。やっと認識できた。
「……ラズハット。母上は」
どうにか動かせた舌と唇で、一番大事なことを聞いた。
「マルツィア様の葬儀は済んでおります」
答えは確かに耳に届いたが、思考は理解を拒もうとした。
来てはいけない世界に来てしまった。そう思った。
なにも残ってはいませんよ、と言われたが、それでも見に行くと言い張った。
母が死んだという場所。自分が倒れていたという場所。
それは毎日のように通い詰めていたあの図書館だった。
幾日待たされただろうか。ようやく外出許可が出た。車椅子にのせられ、たどり着いたそこは寒々しく、人の立ち入れぬようにロープが張られていた。建物の土台だけが残されて、黒い土の上にうっすらと雪が積もっている。
目覚める前の少年の記憶は、自宅の部屋で母と話していた場面で終わっていた。なぜ自分と母が図書館にいたのか、少年にはわからなかった。自分はともかく、母は外出などしないのに。
あの部屋に入るための鍵をくれた司書も焼け死んでしまったという。鍵はといえば、倒れていた時にも身につけていたようで、薄汚れたまま保管されていた。
入り口のあった場所からはじまって、本棚の位置関係を頭に描き、地面を探した。閉鎖書庫の場所を。
不思議な通路から階段を下りる、記憶の中の歩数。段は二十八。あれは明らかに地下だった。
しかし、どこにも穴などあった形跡はなかった。
図書館の設計図にも、地下室など書かれていないという。
少年は落胆し、同時に安堵していた。
ああ、もう二度と会うことはないのだろう。けれどあの書庫は焼けなかったのだ、と思った。否、そう信じた。
なにかの魔術が働いて空間をつないでいた。炎によって術はほどかれ、不思議な扉は消え失せた。手の届かない場所になったが、その向こうで、彼女はきっと元気にしている。
そう決めつけることで、心を守った。それ以上は考えないことにした。
彼女を探そうという気持ちにはなれなかった。
会えたところで、なんになるだろう。
もう魔術が使えない。どんなに体の中の魔力を動かそうとしてみても、放つことがままならない。
ファルネーゼを守る番人になるために育てられた、その期待に応えるだけの充分な力を持っていた、はずだったのに。
これまでに学んできたことのすべてが、価値を失った。
教師たちが天才と誉めそやした少年は、今や凡人以下の存在だった。ひとりで歩くこともできず、人に頼らなければ生きていけない、無力な存在と成り果てた。
何よりも守りたかった母まで失って。
何者にもなれなくなった自分では、もう約束を守ることなんてできないのだから。




