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アーシェは大人になれない  作者: 相生瞳
第三章
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初めて授業を休んだ日



 寮に戻り、気分が悪いんですと言い訳して毛布をかぶって、そのまま夕食も口にせずに過ごした。眠れなかった。

 そうしたら本当に熱が出て、朝食はルシアが食堂からもらってきたパンを使ってミルク粥を作ってくれた。初めて授業を休んだ。ひとりきりの二〇五号室で、本も読まずに転がっていた。

 うとうとして昼がすぎ、さすがに空腹を感じて、何かなかったかと引き出しを開けた。チョコレートの包みがひとつ。


 いつだったかクラウディオがくれたチョコレートだ。もう溶けて形がいびつになっていた。

 彼はよくチョコレートをくれた。はじめにお菓子をたくさんくれた時、アーシェが真っ先に手をつけたので、好物だと気づいてくれたのだろう。人をよく見ている。いや、記憶力のいい彼にとっては当たり前のことなのだろうか。

 とても食べる気になれなかった。ゴミ箱に捨てた。



(望みがないって思い知らされて、やっと認められたなんて、馬鹿みたい……)



 窓を開けて空気を入れ替える。白いレースのカーテンがひるがえった。よく晴れていて、裏庭にたくさんの洗濯物が並んでいた。幾重にも連なって、二階にいるアーシェの視線の上にまで。

 ぼんやりしていると、ノックの音が聞こえた。

「はい」

 まだ午後の授業中だが、誰だろう。


 ドアを開けて、姿を現したのはイメルダだった。

「もう起きているのですか? まあ、思ったより元気そうだこと」

「先生……。わざわざ、すみません」

 案内してきたのか、イメルダのうしろにはジャンナがいたが、軽く頭を下げて去っていった。

 アーシェはイメルダに言われるままにベッドに腰掛け、診察を受けた。

「熱はもう下がったようね。気分は?」

「……お腹がすきました」

 アーシェが正直に答えると、イメルダは肩をすくめて鞄からリンゴと小さなナイフを取り出した。

「あっ。ありがとうございます」

 なんて用意のいい。

「鐘は?」

 音になるかならないかのひそやかなイメルダの言葉にはっとして、アーシェは自分の机にそれを取りに行った。

 鳴らして、ベッドわきに置く。

「ジャンナさんは大公派です。彼女には気をつけて」

 アーシェは背筋を伸ばした。

「大公派といってももちろん色々でね。現在の情勢に合わせて長い物に巻かれているだけ、という人もいれば、積極的に大公のやり方を推し進めていこうという改革的な人も。彼女は後者の方」

 イメルダはすいすいとリンゴの皮をむいていった。慣れた手つきだった。

「往診には私も時々来ますから、今日のことであなたが疑われたりはしないと思いますが。念のためにね」

「はい……」

「まあ呼ばれてもいないのに来なければよかったのですが、やはりあなたが気になってしまい。いけませんね、私も」

 リンゴの皮が細く長く伸びていく。蛇のように。

「ご心配をおかけしまして……」


「このリンゴね。私が持ってきたのではありません。女子寮の前で、キースさんに渡されたのです」

「えっ」

「授業が早く終わったなんて言っていましたけど、どうでしょうね」

 今日は金曜で、キースといつもの待ち合わせの日だったので、もし朝食で会えれば、行けないことを伝えてほしいとマリーベルたちに頼んだが。どうやらちゃんと食堂に来ていたようだ。

 手の上でリンゴを割って、器用に芯を外すと、イメルダはアーシェに一切れを渡した。

「キースさんはまるであなたの父親かなにかですね。あなたを目の離せない子どもと思い、庇護下に置こうとしているよう」

 アーシェはなにか言おうかと思ったが、口の中がいっぱいで喋れなかった。

 甘い蜜と酸味が広がっていく。

「でもいつか、あなたも独り立ちできるよう頑張らなければね」

「……わかっています」

 呑みこんで、それだけ答えた。


「フルヴィアのことですが、来週の木曜、救護院で。いつものように。相談することもあるのでしょう?」

「ありがとうございます」

「疲れが出たのかもしれませんね。しっかり栄養を摂って、ゆっくり休んで。月曜からまた、授業に出られるように」

「……はい」


 イメルダが帰っていくと、なんだか体が重くなって、アーシェはまた横になった。





 ――いいえ、私が悪いのです。すべて。私が間違えてしまったから。考えないようにして目をそらしていたから。きちんと向き合おうとしなかったから……!


 ――耐えていればやりすごせると思っていた。ぐずぐずして逃げ道を探して。


 ――もっと早くに決断していれば。


 ――そうよ、私が殺したようなものだわ!





「――アーシェ!」

 は、と息を吸い込んだ。自分が悲鳴をあげていたことに気づく。

「は、は、っ……はぁっ」

 胸を押さえて息をする。

「大丈夫ですか? 汗が……」

「待って待って、お水もってくるから」

「はい、これで拭いたげて」

 ここは、ファルネーゼ。女子寮の二〇五号室。

 三人のルームメイトが心配そうに世話をやいてくれている。ティアナ。マリーベル。ルシア。


(ここにいる、私はアーシェ)


 久しぶりの悪夢だった。

 心臓が暴れまわっている。


(私はアーシェ。だから大丈夫……こっちが現実……)


 魔力を回す。呼吸が落ち着いていく。

 ゆるゆると状況が見えてくる。

 昨晩飲んだ薬が、もう効いていなかったのかもしれない。時計を確認した。三時半。レポートに書かなければ。

「ごめんね。もっと急いで帰ってくればよかったね」

「はい、お水。こぼさないように気をつけて」


 喉を降りていく冷たさに、視界が広がっていく。

 ルシアの手のひらがアーシェの額にあてられた。

「うん、もー熱はさがってるね」

「はい、もう……。いつもご迷惑をおかけして……」

「んふふ。もー慣れっこだよねぇ」

 額から頭にのぼった手が髪を撫でていく。

「イメルダ先生にも、アーシェさんが熱を出したこと、お伝えしておきましたよ。とても案じていらっしゃって」

「あ、お昼に来ていただきました」

「そうなの? 診てもらえてよかったわね。それならもう安心かしら」


 また、勝手に涙が流れてきた。

「わ! どうしたの。だいじょぶ?」

「心細かった? 風邪の時ってそうよね」

「まだ気分が悪いですか? あっ、窓が開けっぱなしに……」



 たくさん泣いたら、少しすっきりした。

 夕食の時には、いつも通りに笑えたと思うし、ちゃんと美味しく感じられた。



 名前のついてしまったこのどうしようもない気持ちは、気付いてしまった後では見ないフリもできなくて。

 だから隠していくしかないのだろうと思った。


(できるかしら……ペアなんかじゃなかったらよかったのに)


 また彼と手をつなぐ時のことを思うと、憂鬱だった。





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