自覚
翌日、木曜日は、クラウディオの最後の治療の日だった。
いつものようにカトリンを先に帰してから、イメルダはアーシェに向き直った。
「ペルラさんのことですが。ご両親は大公派ですね。お父様が行政区で議員をしていらっしゃいます」
「そうなのですね……。気をつけます」
昨日の朝クラウディオに話しておいたので、調べてくれたのだろう。
「ペルラさん自身は、努力家のひたむきな子という印象ですけどね……。ティアナさんは、ヘルムート様の姪なのですって? 完全にこちら側の味方と考えてよいのですね?」
「はい。それほど詳しく話してはいませんが、秘密は守ってくれています」
「……他の方と組む気はなさそう?」
「条件の合うのが彼女しか……。といっても、実習で同じクラスに入るだけで、それもコースが分かれるまでですよね?」
入学してから半年で、コースは分かれる。ティアナは救護師コース志望なので、そこから先はアーシェと一緒に実習することはなくなるはずだ。
クラウディオが腕を組んだ。
「あとちょうど四か月。それまでボロを出さないようにするしかないな。ま、大公派がいてもいなくてもすることは同じだ」
「まあ、それは確かに」
イメルダはうなずいた。
「魂の固着についてもうかがいました。あなたの中にある過去の記憶が男性を拒んでいるとするなら、救護術ではどうしようもありません。やはり糸口を見つけるなら精神魔術でしょうね。フルヴィアには私からうまく話しておきます。あなたの内側に古の魔術の痕跡が見つかったと。かけられた方に罪はありませんからね、気にすることはありません」
いつも通りの穏やかな調子でイメルダは言った。
「あなたが健康に人並みの日常生活を送れるようになるよう、こちらは最大限協力しますからね。安心なさって」
それは、アーシェが大公補佐官になる可能性があるからだろうか?
一瞬そんな風に考えてしまい、アーシェは自分を戒めた。これまでだってイメルダはアーシェのために色々してくれたのに。
イメルダは荷物をまとめて立ち上がった。
「さて、私はもう戻ります。毎回長居していて、カトリンさんに怪しまれてもいけませんからね」
「ありがとう、イメルダ」
「いえいえ。クラウディオさんのためなら、このくらい」
イメルダは微笑んで言った。幼い頃からクラウディオの家庭教師をしていたというから、本当に長い付き合いなのだろう。孫のような気持ちなのかもしれない。
「昨日は、ヴィエーロ先生のところで何をしたのですか?」
部屋にふたりきりになったので、アーシェは気になっていたことを聞いた。
「ああ。なかなか面白かったぞ。まず講義の準備として薬草園で必要分を採取して、講義での実験の補助をやって、午後は研究室の整理を手伝った。君はあそこに出入りしているんだな……なかなか骨の折れる仕事だった」
「以前色々な先生の研究室を訪問したことがありますが、もっと散らかっている部屋もありましたよ」
「そういうものか」
クラウディオの部屋も、金時計の設計で取り込んでいた時はそこそこ雑然としていたが。
「ヴィエーロにも褒められたぞ、まるで本当にこういう生徒がいたような気がしてきた、と」
少し得意そうにクラウディオは言った。
「そうですね、ディルクさんは本当に、クラウディオ様とは印象が違っていて……でも、性格がちょっと意地悪ではないですか?」
「えっ。そうか?」
意外そうな反応をされたので、アーシェは少しもごもごした。
「なんというか、突き放したところがあるというか」
「ああ。他人にあまり興味のないタイプにしようと思ってな。社交的だとクラスに入ってからが不都合だろう」
「なるほど、そういうことなのですね……」
確かに、親しみやすい人柄を演じていれば、他者と関わる機会は増えてしまうだろう。
「まあ僕自身もそういうところはあるから、やりやすいし」
「そんなことはないですよ! 全然違いました。クラウディオ様はもっとお優しいです」
アーシェは反射的に言い返していた。
「いや、そうかな……」
クラウディオは少し照れたように前髪をかきあげた。
「僕が君から優しく見えているとすればそれは、僕自身が君に親切にしたいと思っているからだ。本来の僕はけっこう冷たいぞ」
「違います。なにもなくてもクラウディオ様は……私がなんの役にも立っていなかった頃だって、ちゃんと助言をしてくださったり、それに、それに制限装置のことだって、会ったこともない誰かのために、一生懸命に」
アーシェの言葉を、クラウディオは手をあげて遮った。
「買いかぶりだ。気持ちは嬉しいが」
こんなに必死に言いつのってしまったのは、なぜだろうか。認めたくなかったのかもしれない。ディルクとクラウディオが同じだなんて。
「僕は、ディルクの時はむしろ気を抜いているというか……気楽にしているというか。深く考えず、何も背負うもののない僕が他人から言われたらこう答えるだろうなというのを出しているにすぎない。全くの別人を頭の中で構築するのはさすがに面倒だから」
「そ、うですか……」
「うん。そのほうが人から見ても自然な感じになると思ってね」
アーシェは喉の奥が渇いていくのを感じた。
上手く笑えていただろうか。
今日はもう帰りますね、と言った声は震えていなかっただろうか。
螺旋階段をゆっくりと下りながら、体は不安定に揺れているようだった。
ぐるぐる、ぐるぐると落ちていく。
(私じゃ、誰の相手にもならない。そんなことはじめからわかっていたのに)
母から借りた恋愛小説をぱたんと閉じた、あの日に封じ込めた苦いものがじわじわと広がっていく。
手すりをつかんだ小さな手。一歩一歩、降りていく、細い脚。五年も前から変わらないままの靴のサイズ。
(恋とか。そんなのは、私には無関係の出来事……)
なのに。どうして。
――僕は年上が好みだし。変な趣味もないよ
たったあれだけの台詞に、どうしてこんなにざらざらした気持ちになってしまうのか。
わかっていたけど、わかりたくなかった。
(なんで、涙、勝手に出るの)
気付きたくなんてなかったのに。
ぐるぐる、ぐるぐる。
このまま落ちて、消えてしまえばいい。




