失われた魔力
キースが入国管理局での詳しい経緯をヘルムートに話している間、アーシェはチョーカーを返却した件についてクラウディオに説明した。
「君の考えている通り、それは自己暗示の一種だろう。物心ついた頃から毎日繰り返していたとすれば相当な回数だが、その割には魔力が残っているな。君の元々の魔力量が多めだったか、あるいは、原初の魔法というより魔術に近い形にまで効率化して使えていたか。……君は精神魔術に適性があるのかもしれないな」
精神魔術に適性。攻撃魔術とは真逆ではないだろうか。
少なくとも護身には役立ちそうもない。
「本当は、彼女に飲み込まれずに、うまく記憶だけ引き出せればいいのですが……」
「記憶を引き出す、か……。君とは状況が違うが、思い出さなければいけないことがあるのは同じだ。僕もフルヴィアに相談してみるかな」
クラウディオは口元に手を当てながら言った。
「思い出すというのは、魔力波に瑕を受けた時の?」
「ああ。あの禁呪を扱えるほどの魔術師というのはそう多くはないが、まあ幾人か思い浮かべることはできる。しかし、僕が現在のところ第一容疑者だというのは、僕自身も同意するところだ。違うとは思いたいが、客観的に見るとな」
クラウディオが禁呪を使ったとするなら、アーシェの中にいる彼女は、少なくとも彼と接点があったということになる。生まれる前からの縁。そんなものが、彼との間にあったのなら。もしかして、彼にだけは触れられるのも、彼女が彼に気を許しているからなのかもしれない。
アーシェは複雑な思いでクラウディオを見た。
「母上を亡くした火災から、僕は三か月ほど寝込んでね。高熱を繰り返して一時は危ないところまで行ったんだそうだ。記憶の欠落はそのせいだと思っていたが、もしかするとそうではないのかもしれない」
クラウディオは右腕の金時計を開き、時計盤の表面をさすった。
「あの時の僕は、魔力波に瑕を負っただけじゃない。魔力を大きく削られているんだ」
アーシェの前に示された金時計の中で、ゆっくりと回った緑色が、八時で止まった。
「十年前、僕がはじめて魔力容量を表示させることに成功した時、これが本当に合っているのかと疑った。僕の生まれつきの魔力容量が予想より低かった可能性も考えたが、ヘルムートと実験を繰り返すうち、そうではないことがわかった。逆転魔術というのを知っているかな」
聞いたことのない単語だったので、アーシェは即座に首を横に振った。
「……そうか。その知識がないとすれば、君はやはり母上ではない。……いや、今はその話ではなく」
クラウディオは短く咳払いをした。
「魔術で物を壊すのは簡単だが、復元するのは非常に難しいんだ。たとえば本を一冊炭にするだけの炎を出すのは魔術師ならたいてい誰でもできる。だが炭になった本を元に戻すことは容易ではない。それが時間の流れに逆らうことだからだ」
そう言われるとどこかで読んだことがあるような気がした。物質の時間を戻す魔術。なにか、おとぎ話のようなものに出てきたような。
「正直に言えば僕でもかなりの集中を要するし――いいか、これは自慢だぞ。今のファルネーゼで逆転魔術をまともに扱える者はたぶん僕しかいない」
「そ、それは自慢してもいいと思います」
クラウディオはやはり傑出した才能を持つ魔術師なのだ。イメルダの気持ちもわかる。彼こそがファルネーゼの頂点に立つべき人物なのだと。
「そういうわけで、逆転魔術は高度だし魔力もかなり注ぐ必要がある。一般人の魔力容量なら本一冊で三時間分ほどかな。まあそんな出力はふつう出せないから意味のない仮定だが」
アーシェが今まで使ってきた魔力全部と一冊が引き換えとは。途轍もない魔術だ。
「で、それを試しにヘルムートと使ってみて……僕の魔力残量に目に見える変化はなかった。そういうことだ」
「オレは二目盛りほど減ったけど……こっちはちょっとしか出さなかったつもりなんだけど引っ張られてな。こえーこえー」
キースとの話が終わったのか、ヘルムートが割り込んできた。
「ええとつまり、私の減っている魔力分くらいの力を一気に使っても、減ったように見えないくらい魔力容量があるということですか?」
「とんでもねぇよなー」
大賢者の血、おそるべし、である。
「これを話したのはつまり、それほど魔力を持っている僕が、この瑕を負った時におそらく何時間分もの魔力を失ったということを問題にしたかったわけだ」
「……禁呪を使用した可能性があるということか」
キースが言った。
「そうだ。だから僕が怪しいと僕は思う。魂の固着一回でこれほど消費するとも思えないが、瑕がついたのは魔力が暴走したからだろうから、失敗してコントロールが効かなくなったと仮定すれば……ありえなくはない」
クラウディオはあらたまってアーシェを見た。
「そういうわけで、僕と君の記憶をさぐる。ヘルムートには入国管理局のデータを調べてもらう。とりあえずこのふたつを並行してやっていこう。いいか?」
「は、はい。ありがとうございます」
深い靄にとざされていた道の先が、風を受けてあっという間に見晴らせるようになったかのようだった。
「フルヴィアは中立だろ? どこまで話す?」
「フルヴィア以外の高等精神魔術師となると大公派しかいないからな、仕方ない。そのあたりはイメルダとも相談だな……まあ、最低限アーシェが僕の対であることは伏せるとして」
「セザールに関係してるかもしれない話とかは余計だよなぁ」
「過去が誰だったかという問題は置いて、魂の固着をかけられているらしいという情報だけを持ち込むべきだろうな」
クラウディオとヘルムートが相談をはじめたので、アーシェはキースの方を見た。
「やっぱり打ち明けてよかったわね、兄さま?」
「それはいいが、気をつけろ。記憶をさぐるとなると、また昨日のように倒れるかもしれん」
「大丈夫よ、先生方がついているのだし。それに、もうチョーカーもないから」
アーシェは昨日気を失う前に見たキースの表情を思い出し、なるべく心配をかけないよう微笑んで言った。
あまり効果はなかったのか、キースはため息の後で小さく「そうか」と返した。
「さて、この話はここまでにして、続きはまた後日としよう。アーシェは少し残ってくれないか。試したいことがあるんだ」
「試したい……? あ、もしかして目の染色ですか?」
「それだ。実習はまだだろう? 基礎から教えよう」
「そんじゃーオレらはお邪魔だから帰るか。キース、演習場で手合わせでも?」
ヘルムートの誘いに応じて、キースも席を立った。
「望むところだ」
研究室にふたりきりとなったところで、クラウディオは腕を上に伸ばした。
「はぁ……少し疲れたな。さっさと済ませよう」
「すみません、難しい話を持ち込んで」
「いや、君のせいでは。というか、君はなんだか今日は機嫌がいいな」
「そうでしょうか? ……ふふ。そうかもしれません。昨日とてもいいことがあったので」
アーシェは、意識していなかったことを指摘されてはにかんだ。
「倒れたと聞いたが?」
クラウディオは怪訝そうに言った。
「それはそうなのですが、その前に。それに、今までずっと家族以外に秘密にしてきたことを、ようやく話せてすっきりしてもいて……。やっと一歩を踏み出せるというような」
「ふうん」
「魔族の子と言われてきましたが、こんな風に受け入れていただけて。やっぱり相談してよかったです」
クラウディオは首を傾げた。
「魔族? なぜそこに魔族が出てくるんだ」
「ええと、生まれる前の記憶を持っているからと……」
「ああ……うーん、そうか。一般的にはそういう認識なのか」
「違いますか?」
「魔物の魂はめぐるものではないからな。魔族も結局は魔物の一種なんだ。あれが復活するのは、闇の魔力が大量に残っていてそれが別の魔物に取り付いたり、一時的に喪われていた魔力を得ることで魔の自覚を取り戻したりする場合だ。いずれにしても人の子として生まれることはありえない。闇の生物学は必修じゃないが、興味があるなら受けてみるといい。あのロージャー・ロアリングが専門にしていた分野だぞ」
どこかで聞いたような話だった。
さっきの、逆転魔術に関する説明を受けた時と同じような。
「……興味はなさそうだな。まあ、最果てに残った魔物もほとんどが狩りつくされて、今ではあまり実用性のない科目だ。積極的に勧めはしない」
黙っているとそんな風に受け取られて、話を切り替えられた。
「さあ、始めようか。僕は学院に通ったわけじゃないからカリキュラムについては目を通したことがあるだけだ。君は今、魔力の出力量の調節を学んでいる段階――ということでいいな?」
「はい。紙に穴を開けています。小さいのから大きいのまで」
「よし。さっきも言ったが、僕は自分では使えないのに持て余すほどの量を持っているんだ。遠慮することはない。君の方の出力は針の先ほどの細いイメージでいいぞ。残りは僕のを使う」
クラウディオが立ち上がった。杖を持っていないのが、なんだか新鮮だ。
アーシェもソファから離れ、クラウディオの隣に立つ。
「昨日のディルク様、素敵でしたよ。友人が格好いいと騒いでいました」
「ああ……。ちゃんと別人感が出ていたか?」
「それはもうバッチリでした! 私も騙されましたから」
「それならよかった」
クラウディオは満足そうにうなずいた。
「でもあの髪はちょっと派手ではありませんか?」
「派手だからいいんだ。色の印象は記憶に残りやすい。あのオレンジの奴、と覚えてもらえれば、今の僕の姿を見た時に同一人物とは思わないだろう」
「そういうものですか……」
「まあ染めるのも染め直すのも面倒だったから、髪も目と同様魔術で染めてしまいたいな。その方が手軽だし髪も傷まない」
クラウディオが左手を差し出す。
「習っていると思うが一応言っておく。対魔術が共同魔術と違うのは、イメージの共有が起こることだ。共同魔術では結局、ひとりが周りの魔力を集めて大きめの魔術を使うだけだが、対魔術は双方の魔力を解け合わせて発動させることになる。そこでイメージが共有され――つまり思考を相手に開くことになってしまう」
アーシェはうなずいてその手を握った。
「もちろん相手の記憶を読むようなことはできないが、考えていることの対流が起こるというのかな。慣れるまでは少し気持ち悪いぞ」
クラウディオは右手の人差し指を立て、くるくると回してみせた。
「がんばります……!」
「その意気だ。君は僕の、そうだな、眉間あたりに向けて放ってくれ。構成はすべて僕がやる。今というタイミングでこう、合図を送るから、そこで放つんだ。いいな」
こう、と言いながらクラウディオは握る力を強くし、またすぐ元に戻した。
「わ、私、人に向けて放つのは初めてです。緊張します」
「はは。まあ失敗しても大丈夫だ。たいした魔術じゃない。気楽にやってくれ」
そう言われても、ドキドキしてしまう。アーシェは大きく息を吸って、吐いて、落ち着こうとした。




