しらないわたし
冷たい湖の底に放り込まれたようだった。
ぬくもりが消え去り、光が消え去り、呼吸を奪われた。
――すべて。すべて忘れさせてやろう。そなたを苦しめるもの、悲しませるものすべて、魂の底に沈めよう。
――そなたの生きている限り、決して蘇らぬように。二度と辛い思いをせぬように封じてしまおう。
しらないこえ。よびかけられる、しらないなまえ。それはわたしじゃない。
でも、それなら、わたしはだれ。
くるしい。くるしい。いきができない。いきていけない。
ひかりをなくしたせかいで、いきていけない。かなしい。さびしい。くるしい。くるしい。
ちが。ちがう。わたしのきもちじゃない。わたしじゃない。
いいえ、わたしはわたし。あなたはわたし。これをぜんぶあげる。
(……いらない!)
だめ。もどらなきゃ。どうやって? わたしはだれ? わたしはなに?
「……シェ。アーシェ」
あーしぇ。
アーシェ。
「アーシェ!」
しってる。しってるこえ。わたしのなまえ。それがわたし。
「苦しいのか? アーシェ!」
そうなの。くるしいの。だって、そう、いつだってこうして戻ったのに、うまくいかなくて、そう、ぜんぶうごかなくて。これがわるい。つまって、しめつけて。
とれない。くるしい。苦しい。たすけて。助けて。助けて助けて助けて!
(兄さま!)
枷がはずれた。
息が通った。
魔力が通った。
「アーシェ」
(そう。私はアーシェ。私はアーシェ。アーシェ・ライトノア!)
心の中で唱える。毎朝繰り返してきたように。
私はアーシェ。他の誰でもない。
今のままの私が私。
それ以外は、沈めて、埋めて、蓋をして。
世界に光が戻った。
今にも泣き出しそうな、青い顔のキースが見えた。
「に、さま。ありが……」
名前を呼んでくれてありがとう。
息をさせてくれてありがとう。
守ってくれてありがとう。
ごめんなさい。
そんな顔、させたく、ないのに――
「チョーカーを付け直してもよろしい?」
イメルダの言葉に、アーシェは首を横に振った。
「……それは、もういりません」
「なぜです?」
「私、体の魔力の流れが読めるようになってきて。これまで自分がどんな風に魔法を使ってきたのかも、ようやくわかったんです。……だからこれからは、なぜか魔力を使ってしまうってことは、ないと思います。たぶん精神魔術の範疇に入ると思うので、今度フルヴィア先生に相談してもいいですか?」
「……本当に、大丈夫ですか?」
「たぶん……」
アーシェは金時計を開いて、白い時計盤をこすった。ゆるりと回ってくる色が、九時のあたりで止まる。
「やっぱり、ほとんど変わってない……。私、ここに来るまで毎日のようにずっと魔法を使っていたんです、悪い夢から覚めるたびに。悪い夢から覚めるために。それが積み重なって、きっとこんなに減ってしまった。ヴィエーロ先生のお薬があったから、最近は使ってなかったし、一回や二回、使っても、一気に減ったりしない……自分でコントロールできると思います」
イメルダはアーシェの話にうなずきつつ、金時計を確認した。
「そういうことでしたら、ええ。これは預かりましょう」
キースが、手にしていたチョーカーをイメルダに渡した。
「兄さま。あとでゆっくり、また話すわ。もう少しだけ……休ませて」
「ああ」
アーシェは目を閉じようとした。が、その時ちょうど搬送室のドアが開いた。
「イメルダ! ここに……おっ、やっぱいるじゃん」
ヘルムートだ。
「いや、中庭で子どもが倒れたってハナシ聞いたからさ。心配になって。平気? アーシェちゃん」
「はい。先生に救護術を使っていただきましたので、もう」
ベッドに近づいてきたヘルムートに、キースが言った。
「アーシェは今から休むところだ。悪いが出直してもらいたい」
「兄さま、いいわ。せっかく来てくださったのだし、お話したいもの。横になっていれば大丈夫」
本当は体を起こしたかったが、さすがに無理だった。
キースは渋い顔をしたが、アーシェの意思を優先してくれた。
「大丈夫? じゃ、手短にな。今日あいつと会っただろ? 昼休みに」
言いかけて、ヘルムートがちらりとイメルダを見る。
「カトリンさん、昨日の資料の整理の続きをしましょう。ヘルムート様、急患がありましたら呼んでください。隣の部屋にいますので」
「ほいほい」
イメルダがカトリンを誘って出て行ったので、アーシェはキースを見た。
「兄さま。さっきの鐘は?」
「ああ……。ここに」
キースはアーシェの枕元の鞄から魔術具の鐘を取り出した。アーシェはそれを受け取り、指で鳴らした。救護院の中といえど、色々な人間がいるだろう。ヘルムートが入っていったのを見て聞き耳を立てたりとか。ないとは言い切れない。
「それなに?」
「念のために……内緒話の魔術具です。イメルダ先生にいただいて」
「へーっ」
ヘルムートは鐘をつまんで色々な角度から眺めた。
「私、はじめはまったくわかりませんでした。クラウディオ様、見事な変装でしたよ。あのね、兄さま。今日波形の掲示を見に行った時に、クラウディオ様に会ったの。はじめて外で」
「あの髪、オレが切ったのあれ。さっぱりしただろ? 前髪はだいぶ残したけどな」
「前髪が一番切る必要があったのでは?」
いつも邪魔そうだし。
「目がな。あいつの目は目立つから、隠すために伸ばしてんのよ」
「ああ……とても綺麗で珍しいですものね」
「金の目は大賢者の血を濃く引いてる証みたいなもんなんだ。オレには出なかったけど」
ヘルムートは自身の琥珀色の瞳を指しながらにやりと笑った。そうは言うが、ヘルムートの瞳も美しい色だし、光の加減によっては金に近いといえる。
「今日は実験みたいなもんだったからメガネもかけてごまかしたけど、授業に出る時はできれば目もちゃんと染めたいって言ってたぜ。協力してやって」
「目を、染める……? そんなことができるのですか?」
「魔術ならな。あいつに魔術をかけるにはアーシェちゃんを通す必要があるから。一応魔力を放つことはできるんだろ?」
「私がやるということですか? 自信がありませんが……」
「いやー放つだけだって。平気平気。あいつが上手くコントロールするさ」
「まあ、やってみるだけなら」
笑顔をみせようとしたが、なかなか難しかった。
キースが小さくため息をついた。
「アーシェ。そのくらいにしておけ」
「……はい」
やはり、まだくらくらする。
アーシェはおとなしく目を閉じた。




