めざめ
地面にうずくまったアーシェは額から血を流していた。キースは爪が食い込むほどにこぶしを握り締めていた。
咄嗟に触れるのを躊躇して、このざまだ。
「アーシェ。アーシェ、アーシェ!」
アーシェは喉が詰まったような音をたてて短く息をしていた。震える小さな手が首のうしろをかこうとしていた。魔術具のチョーカーの金具のあたりを。
「苦しいのか? アーシェ!」
答えはない。このまま、構わず抱き上げて救護院に連れていくべきか。こんなに苦しんでいるのに、触れてもいいのか。
キースが判断に迷っていると、あたりに人が集まってきた。
どうしたの? なに? 子どもが倒れてる。先生を呼んだ方がいいんじゃない?
ざわめきが急激に大きくなる。魔術具の効果が切れたのだ。
「キース。どうした?」
キースが顔をあげると、見知った顔があった。
「ジョエル……! これを。このチョーカーを外してやってくれ」
「これ?」
クラスメイトの女剣士は膝をつき、爪の赤く塗られた指先でアーシェの首筋に触れた。
「こうかな……」
数秒後、チョーカーが開いた。
は、とアーシェが息を吐き出した。
「アーシェ」
涙に濡れた青い瞳がキースを見る。
「に、さま。ありが……」
そのまま、瞼がおりる。アーシェはジョエルの膝の上で動かなくなった。
ジョエルがアーシェの頬を軽く叩いている。キースはベンチの上の魔術具をハンカチごとアーシェの鞄の中に入れ、肩にかけた。
「どうする。私が運んでやろうか?」
キースは指先でアーシェの濡れた目元をぬぐった。
アーシェはぴくりとも反応しなかった。
「いや。俺が」
チョーカーを拾い、鞄に突っ込む。
抱き上げた従妹の体は、彼女が自分から飛び込んできていたあの頃よりも軽く感じた。
「なんか、大変だな、お前のお姫サマ」
「……世話をかけたな。助かった」
キースは救護院へと向かった。
ベッドに寝かされ、あちこちの擦り傷を手当てしてもらったアーシェは、なかなか目覚めない。
事情は特に聞かれなかった。イメルダは会議とやらで不在で、搬送室で助手をしている学生が「まあ、大変。また!」と声をあげて、てきぱきと対応してくれた。
「このままついていらっしゃるの?」
アーシェの顔を見ていると、助手がそう声をかけてきた。
「できればそうしたいが」
彼女は椅子を出してくれた。
「どうぞ。何度かお会いしてますわよね。ええと、アーシェさんの、お兄様で……?」
「ありがとう。従兄のキースだ」
「まあ、そうでしたの。わたくしはカトリン。イメルダ先生の対で、アーシェさんとはお友だち。の、つもりですの。うふふ、よくいらっしゃるから」
ほがらかに笑うカトリンは、品のあるたたずまいで、貴族の生まれであることがにじみ出ていた。
「彼女から聞いている。優しい先輩だと」
「あら! 嬉しいですわ」
「救護術というのは、難しいか?」
せっかくの機会なので、訊ねてみる。
思い付きでやってみるなどと言ったが、アーシェのように賢いわけではない自分に、果たして修められるものなのか。
「救護師は、一般的な魔術師と比べて数が少ないだろう。特殊な技能が必要なのか」
アリンガムの近衛隊に、魔術師は二十人いるが、うち救護師は二人だ。救護師は、どこでも不足している。こんな時代では特に。
「そうですね……イメージがつかみにくいというのはあるかもしれないですわ。体の内側に向けて魔力を使うので、感覚が通常の魔術とは多少違うようですね。それで、うまくいかなくてコースをやめる方も、それなりに」
「ふむ」
「わたくしは、楽をさせてもらっております。イメルダ先生に組んでいただけたので。対魔術は、相手の構成をのぞけてしまうので……優秀な方と組むと上達がとても速いんですのよ」
「そういうものなのか」
では、アーシェは宣言したとおりに、魔術を使いこなすようになるかもしれない。
あっという間に上達して、助けなど必要としなくなるかもしれない。
彼女はいつも謙遜するが、昔から頭の回転が速く、なんでも器用にこなしていた。体力勝負以外で、キースは勝てたためしがない。
「……置いて行かれてしまうかな」
口の中で呟いた。
アーシェが一人で身を守れるようになれば、安心なのに。キースはなぜか気が塞ぐのを感じた。
「救護術コースにご興味が?」
「ああ……。応急に傷をふさぐことだけでもできれば、戦場で役に立つかと思ったのだが」
「病気ではなく怪我だけなら、体の表面への作用が多いので、いくらかやりやすいですね。専門の講義もありますし、他のコースのついでに挑戦するような方もおりますわよ。属性付与の方が、というのはちょっと聞きませんけれど」
その時、ドアが開いて、イメルダが戻ってきた。
「先生、おかえりなさい」
「あら……」
イメルダはキースを見て、足早にベッドへ近づいた。
「また倒れたそうで、さきほど。傷の処置は済んでいます」
「……なにが?」
イメルダが厳しい目を向けてくる。
「……なにも」
ただ、話していただけだった。
話さなければよかった。
嫌な予感はしていた。それは当たっていた。開けてはいけない扉だった。
だがそこを進まなければ、突きあたりと同じだ。
どうすればよかったのか。
イメルダはアーシェの額に手を当て、小さく何か呟いていた。胸に顔を近づけ、そしてはっと頭をあげる。
「キースさん。チョーカーは?」
「ここに」
アーシェの枕元に置かれている荷物の中から、チョーカーを取り出す。
「なぜ外したのです?」
「……苦しんでいたのだ。このチョーカーにはなにか副作用が?」
「副作用だなんて。確かに強力に魔力を抑えはしますが、それだけです。通常の患者のものは自分で外せないよう、細工をされていますが、アーシェさんのは自由にできるようにしてありますし」
イメルダはアーシェの金時計に目をやりながら言った。
「まさか、魔力を使ったのですか?」
「アーシェの魔力はアーシェのためのものだ」
「もちろん彼女のために申し上げています」
「あの、あの……あっ! アーシェさんが目を開けましたわ」
不穏な空気におろおろとしていたカトリンが声をあげた。
さまよったアーシェの瞳がキースをみとめて止まった。キースは小さくうなずいた。
「アーシェさん。気分はいかが?」
「あたま、が……」
「痛むのですか」
アーシェに顔を向けたままイメルダが左手を横に差し出し、カトリンがつないだ。
イメルダの皺の多い右手がアーシェの傷ついた額を覆う。
大きく息を吸い、そして吐いて、彼女は厳かに囁いた。
「荒波よ鎮まれ。凪を呼べ。鐘の音は遥かに」
手が離れると、アーシェの表情から苦痛の色が消えていた。
「ありがとうございます……」
「いえ、これが私の仕事ですからね。チョーカーを付け直してもよろしい?」
「……それは、もういりません」
アーシェは答えた。




