闇
アーシェがハンカチを探そうと鞄に手を伸ばすと、先にキースがハンカチを差し出してきた。
それはアーシェのハンカチだった。
そういえば、貸したままだった。
「洗っておいた」
「ありがと……」
「返しただけだぞ」
目元をおさえたそのハンカチからは、懐かしいキースの匂いがした。なんだか可笑しい。自分のハンカチなのに。
「ふふふ」
「落ち着いたか?」
「ええ」
アーシェは涙をぬぐいおえると、鞄の中にハンカチと一緒に手紙をしまった。これまでもらった手紙と同様、大事に残しておかなければ。
「俺も覚悟を決めなければならないな」
「なんの?」
「強くなりたいと言っただろう。おまえが前に進もうとしているのに、痛みから遠ざけようとするのは誤りだったかもしれん」
ゆるんでいた気持ちを、アーシェは急いで引き締めた。
「……話してくれるっていうこと?」
ちょっと待って、ともう一度鞄の中に手を入れて、目的のものを取り出す。
小さな鐘。それを指先で打ち鳴らした。
「これ、内緒話用の魔術具。イメルダ先生に渡されたの」
昨日のうちにティアナといろいろ実験した。効果の続く時間は五分ほど。聞こえる範囲はほんの数歩分。ベンチを離れたところから会話は聞きとれないはずだ。
「あの天の救護師か……。周到なことだな」
「私にファルネーゼに残ってほしいというようなことを言ってたわ。……それはそうよね。兄さまの思っていたとおりよ。それで? クラウディオ様とヘルムート様になにがあるの?」
誰か、この魔術具の存在を知っているかもしれないので、一応人の視線から隠すように再び取り出したハンカチで覆った。
「俺は、禁呪を使ったのがクラウディオではないかと考えている」
その可能性は、アーシェも頭に浮かべたことがあった。
「クラウディオが魔力を暴走させて後遺症が残ったのが十六年前。その際に魂の固着を行ったが、完全には成功しなかった。そういうことではないか。俺は魔術のことをまだよくわかっていないが、クラウディオがおまえに禁呪をかけた時になにか影響を受けて同じ瑕がついたとは考えられないか? ただの偶然というより、その方が納得がいく」
「……でも、クラウディオ様がどうしてそんなことを」
「ちょうど十六年前にクラウディオの母親が死んでいる」
魔力枯れでずっとチョーカーをつけていたという、あの。
「そんなことまで調べてたの」
アーシェは無意識に首元をさすった。
「ヘルムート殿が教えてくれた。俺も図書館で当時の記録をあたってみたが、秋のことだった。原因は火災とされていたが、時期は合っている。叔母上がおまえを宿した頃と」
母親が死に瀕して、八歳の少年が禁呪を使った?
それなら、この魂はクラウディオの母親のものだったということになる。
「あっ。それであんな変なことを?」
「変とは?」
「だ、だから私がクラウディオ様を……とか……ああもう、いいわ」
はじめてクラウディオの隣に座った時に感じた、彼への不思議な親しみのようなものは、そこから来ていたのだろうか?
「秋、ね。確かに時期は合っているけど、それだけで……」
けれど、なにかが引っかかっている。
アーシェは違和感の正体を探そうとした。
「それだけではない。これは、あまり言いたくはなかったが」
キースは言葉を切って、重く息を吐き出してから、ゆっくりと口を開いた。
「入学式の日、おまえは倒れただろう。大公の話がはじまってから、間もなく。ティアナの話では、おまえは大公の声を聴いて怯えていたようだったと。俺は大公とおまえになにかがあると思ったんだ。それで大公の周辺を調べていた」
「クラウディオ様の父親、よね? 名前、ええと確か……」
「セザール」
どんな声だっただろうか。思い出そうとしたが、まったく浮かばない。
「妻の名は、マルツィアだ」
「セザール、マルツィア……」
唇にのせてみると、確かに知っていた名のような気がした。
アーシェは右の手のひらで首をおさえながら考えた。
「思い当たることはないか?」
クラウディオは自分が父親似だと言っていた。黒い髪の男のはずだ。それ以外になにを聞いただろうか。
彼の物心ついた頃には魔力のほとんど残っていなかったというマルツィア。
前大公の血を引いていたのはセザールではなくマルツィアの方だ。大賢者の血を持っていた。それなのに魔力がもうなかった。なぜ?
「――違うわ」
「なにがだ?」
「マルツィアは前大公の娘だったのよね? セザールの方が婿入りして。ということは、マルツィアはファルネーゼで生まれ育ったのでしょう」
「おそらくそうだろう」
「でも、たぶん私の前の魂の持ち主は、ケルステン人だろうって話したわよね?」
「……それは俺も考えたが、マルツィアは病を得なければファルネーゼの大公になるはずだった人物だ。ケルステンの飛竜についての秘密くらい、知っていてもおかしくないのでは? 妹がケルステンに嫁いでもいる」
「マルツィアの妹?」
「ヘルムート殿の母御ということだ。名はイヴェッタ」
ケルステンに縁はあった、ということか。それでも。
アーシェは小さく首を横に振った。
「やっぱり違うと思う。母さまが言ってたけど、生まれる前の私はケルステン語が母語だった可能性が高いみたいなの。私の記憶にないくらい幼い頃、ひとりでよくケルステン語を話してたって」
「それは……聞いていないぞ」
キースは額をおさえた。
「ごめんなさい。情報を共有しておいた方が良かったわね」
「ハズレか……」
「でも、大公になにか関係がある、というのは、そうかも。本当に思い出せないの。倒れた時のこと。まるで塗りつぶされたみたいに真っ黒で……」
そうだ、確か、その夜も大騒ぎしたという話だった。ティアナとマリーベルが距離を縮めたあの夜。夢遊病のようにひとりで部屋を出ていこうとしたとか。
朝、気づいたら汗をびっしょりかいていて、ベッドに腰掛けていて、マリーベルがアーシェの両肩をつかんでいた。となりにはティアナがいた。そのシーンからしか思い出せない。
――アーシェ。そうよ、あなたはアーシェよ。頭がはっきりした? そう! わたしがわかるのね。そうよ。落ち着いて……
あの時、正気に戻るまでの自分は、いったい誰だったのだ。
アーシェはぞくりとして、己を抱きしめるように腕をつかんだ。
「……アーシェ?」
考えないようにしていた。いつもそうしてきた。
けれど本当は、答えは自分の中にあるはずなのだ。
探さなくては。拾わなくては。
支えようと言ってくれる人たちがいるのだから。
――めちゃくちゃ叫んでたもんね、昨日は
――やめて、触らないで、許して……そんな感じよね
――痛い、と……本当に痛そうな声で……
なぜか、息苦しくなってきた。
耳鳴りがする。世界が曇って、薄暗くなる。喉が渇き、舌が痺れる。
青いローブの黒髪の男。
耳元で囁く声。
――お気持ちをお察ししますよ。笑顔を張り付けるのも疲れるでしょう?
――どうです、二人で楽しみませんか?
「セザール……」
アーシェの体は力を失い、ベンチから転がり落ちた。
「アーシェ!!」
キースの声が遠く聞こえた。




