いざファルネーゼへ
ファルネーゼへの入学を決めたアーシェだったが、これを知った弟は泣いて嫌がった。
「姉さまと四年も離れ離れなんて! どうして? 魔術師になりたいなんて思っていなかったでしょう? きっと男の人がいっぱいいるよ。家にいたほうがいいよ!」
「ごめんね、コリン。でも姉さまはもう決めたの。頑張るから、応援してちょうだい」
「だって、四年も経ったら僕は……」
「大丈夫。大人のあなたもハグできる私になって戻ってくるわ。だからコリンも素敵な青年になっていてね」
なんとか説得はしたが、コリンは機会あるごとにアーシェをぎゅっと抱きしめては「ねえ、やっぱり行くのをやめるでしょう?」と言ってくるのだった。
アーシェはそんな弟が可愛くてしかたなく、だからこそ決意を新たにするのだった。
アントニーの推薦状と一緒に願書を送り、ファルネーゼから届いた問題を解いて――記述がほとんどで、意外なことに自分の考え方などを書く部分が多かった――返送すると、ほどなく魔術信で合格通知と入学案内が届いた。あっさりとしたものだった。
春の終わりごろ、アーシェはファルネーゼへと旅立った。
出立前には父が任地からわざわざ見送りに戻ってきてくれた。母は「がんばって! 無理をしてはいけませんよ。私は、あなたが元気でいればそれでいいのです」と涙ぐんでいた。
侍女のメイヤはハンカチで顔をおさえ、もっと大っぴらに泣いていた。
「お嬢様がこのような試練に立ち向かわれるとは。メイヤはお待ち申し上げております。立派な魔術師になられますよう! 新しい太陽のお導きがありますように」
使用人たちはもちろん「魂の固着」の術者を探すというようなことまでは知らないが、アーシェが発育不全と男性恐怖症を治すため、大魔術師たちに教えを乞うのだというふうに考えているようだった。
アーシェは最後にしっかりとコリンを抱きしめ、頬にキスをして、別れを惜しめるだけ惜しんだ。
心残りではあった。コリンには大丈夫だなどと請け合ったが、本当は、成功するイメージを持てないでいる。あれから悪夢をすぐに忘れようとするのをやめ、内容がうっすらとでも頭にあるうちになんとか書きつけようと幾度も挑戦してはみたのだが、吐くわ倒れるわでやはりどうにもならなかったのだ。
けれど、もう後戻りはできない。しない。
馬車に乗り、街道を行く。アーシェは領地の外に出たことがない。両親ができるだけ人目に触れぬよう、不吉の子として恐れられぬようにと、かばって隠してきたからだ。
初めての旅だった。別に観光地に寄ったりするわけではないが、アーシェにとってはじゅうぶん新鮮で楽しい体験だった。
それに、アーシェは一人ではなかった。なんと、従兄のキースが一緒だったのだ。
二月前、キースが魔術学院に入学を決めたという報告を受けた時、アーシェは耳を疑った。
「だって、兄さまはもう王国騎士団に入っているじゃない!」
「休団届を出したから大丈夫だ。問題はない」
「あるでしょ? そんな何年も休むなんて」
「魔術槍には以前から興味があった。それに武器の属性付与コースはそんなに長くない。筋がよければ半年ほどで卒業だそうだ」
「あ、そうなの……」
「そうだ。だからおまえをサポートできるのははじめのうちだけだが、それでも半年過ごせたとなれば俺も安心だ。その頃には友人もできているだろう」
「やっぱり私のためじゃない! 母さまに頼まれたの? もう、心配性が過ぎるわ!」
はじめのうちは大反対していたチェルシーがある時からなにも言わなくなった裏にはこういう仕掛けがあったのか。アーシェは頭を抱えた。
「叔母上はなにも無理は言っていない。俺が自分で決めたことだ」
キースが無理と感じなかったというだけで、実際はチェルシーに泣き落とされたのだろう。人のいい甥っ子が断れないよう、うまく誘導して言ったに違いないのだ。
「ともに行こう。俺も楽しみだ」
「はぁ……」
こうなったら撤回しろと言っても聞くまい。もう合格通知ももらったというし。アーシェは素直に感謝して、好意に甘えることにしたのだった。
実際、ひとりでは心細かっただろうと思う。人付き合いに不安しかないアーシェにとって、気心の知れたキースがついてきてくれるというのは、実に心強かった。
客車の中でキースと顔を突き合わせ、久しぶりに語らうのは本当に楽しく気兼ねなかったし、長旅もあっという間に感じた。
キース・バルフォアはもうじき二十歳。貴族男性としてはほとんどが結婚を済ませる年頃だが、騎士団で忙しくしているらしくまだ独身だ。
「引く手あまただからじっくり選んでいるのよ。すぐに相手を決めるのは選択肢のない者のすることです」などと母は言っていたが、どうだろう。恋人くらいはいるのだろうか?
それはちょっと寂しいな、とアーシェは思った。彼は由緒あるバルフォア家の長男。つまり跡取りであるのだから、いつかは結婚するというのはわかっているが。
幼い時分から兄同然に慕って仲良くしていたものだから、なんだろう、独占欲じみたものがあるのだろうか。兄を取られたくない妹心、そんな感じだ。
バルフォア家は武人の家柄ではないが、キースはスティーブンに憧れ、大人になったら軍人になるといってライトノア家に入りびたり、小さい頃はよく父に稽古をつけてもらっていた。
その甲斐あってか、ちゃんと試験に受かって騎士団の花形の近衛隊として仕事をしているのだから、たいしたものだ。
キースはモテると母は言っていたが、世間の噂にうといアーシェには実際どうだかわからない。叔母としての贔屓目かもしれないし。
優しくて頼りがいがあり、将来有望。そこは間違いないが。少々目つきが悪く、頑固で、はっきりものを言いすぎるきらいがあるし、ロマンチックな口説き文句を吐けるようなタイプでもない。
(ちゃんと兄さまのいいところをわかってくれるような人が見つかるといいな……)
そして、その日はそんなに早く来なくてもいい。アーシェはそんな風に思うのだった。
国境まではバルフォア家の馬車で、御者も女性に頼んでいたが、その先は専用の装備の馬車が必要ということで、御者も男性ばかりという。
キースはなんとか手配できないかと交渉してくれたが、アーシェは首を横に振った。
「そのくらいは大丈夫よ。というか、学院に入ったら身近にもっと男性が増えるのだし、気にしていても仕方ないわ」
馬車を乗り換え、出国の手続きをして、アーシェははじめてアリンガム国を出た。が、まだはじめて異国に入ったとはならない。
馬車で数分も走ると、みるみる景色が乾いていった。この先は、昔、魔族との戦いで不毛の地となったといわれる広大な荒地だ。どの国にも属さないし、だれも欲しがらない。
どんな植物を植えても育たないとされる干上がった赤い土。大地はあちこちひび割れており、ガタガタと不安定だ。荒地用というだけあって客車の椅子の前にはしっかりと握れる手すりが準備されている。アーシェはそれに捕まり、はずみでキースの方に倒れたりしないよう踏ん張っていた。
「聞きしに勝る光景だな」
国を出るまでは観光ガイドとして説明役にまわっていたキースも、アーシェ同様に物珍しく風景を眺めていた。
かつては街があったのだろう、建物の土台らしきもの、石造りの門の倒れた一部、尖って突き刺さったなにか、数々の残骸が通り過ぎていく。しばし古代の戦いに思いをはせる。が、一時間も経つとその代り映えのなさに飽き、乗り心地の悪さもあいまって「まだ着かないのかしら?」と口にすることになった。
「さて。昼過ぎには到着と言っていたが。……あれは?」
キースが窓の外になにかを見、表情を険しくした。
「え、どれ?」
言われてアーシェも見てみたが、ぽつぽつと残る廃墟を荒漠が包んでいるだけだった。その間に、キースは足元の荷物入れのロックを外し、素早く携帯用の槍を取り出していた。
「空だ」
「空?」
「そこを動くな」
あっという間に分解されていた槍を組み立てたキースは、扉を開けて走行中の馬車から飛び降りた。赤い土ぼこりが派手に舞い上がる。
「ちょ、嘘でしょ?!」
「お客さん!」
御者の慌てた声も聞こえる。
「飛竜だ! 物陰でじっとしていろ!」
「えええええ!」
御者の悲鳴とともに馬車が突然向きを変えて、アーシェは舌を噛みそうになった。手すりがなければ床に投げ出されていたかもしれない。
(飛竜? こんな場所に?)
開いたままの扉から空を睨む。キースが走っていった方向のずっと上。小さく黒い影が飛んでいる。
飛竜は、東国ケルステンにしか生息しない。それを捕らえ、飼いならすことができるのはケルステンの特殊な専門集団だけだ。飛竜にまたがった彼らは竜騎兵と呼ばれる非常に強力な兵士となり、圧倒的な機動力と膂力で戦場を乱すことで知られていた。
(兄さまが危ない)
アーシェはすぐに考えを巡らせた。はぐれ飛竜を相手に、槍一本はさすがに無茶がすぎる。防具もなしでは爪の一撃すら受けられまい。
馬車を守るために囮になろうとしたのだろうが――飛竜は通常動くものを狙う――それにしても判断がむやみに早すぎる。少しくらい相談してから行けばいいのに!
馬車が止まるまでにアーシェの腹は決まっていた。急いで荷を探ってから馬車を降りると、御者が怯えて走り出しそうになる馬をおさえる魔術具を地に打ち込んでいるところだった。斜めにえぐられた跡のある大きな岩の陰だ。
「お嬢さん、客車の中でじっとしてて!」
そういうわけにはいかなかった。キースはアーシェの大事な家族だ。失うことはできない。