夢中
「うわああああああッ」
「きゃあー!」
前者は明らかな悲鳴、後者は歓声ともとれる声だった。
ほとんど崖といっていい角度の岩肌を滑り落ちた二人は、命綱に引っ張られてガクンと止まり、ぶらぶらと不安定に揺れていた。
「はー! ちゃんと止まりました! やりましたね殿下!」
少女は目をきらきらさせて青い顔の少年に話しかけた。
「……そなた、存外肝が据わっておるな……」
「とてもスリルがありました! それに殿下のあのお声。うふふふ」
腕の中で楽しそうに笑っている少女に、少年は命じた。
「忘れよ!」
「はあい」
ケルステンの王族の男子は、十歳になると自分の飛竜を持つきまりがあった。
これはいわゆる試練の儀のようなもので、野生の飛竜のタマゴを捕らえに行くのである。
野生のタマゴから孵る飛竜は、兵士たちの使うような飼育場の飛竜よりもひとまわり大きく、力も強いとされていた。もちろん、これを従えるのは難しいが、それを乗りこなしてこそ一人前の王族と認められるのだ。
婚約者の少女が「試練を見学したい」と申し出た時、王子ははじめ「邪魔だから来るな」と断った。
「だいたい、ついてきて何をするのだ?」
「だって、飛竜の巣まで行って、タマゴを盗んでくるのでしょう? 面白そうではありませんか」
彼女は両親から引き離され、一人で王宮にとどまり、妃教育を受けている。文句の一つも言わず、熱心にやっているらしい。
少しは気晴らしをさせてやった方がよいだろうが、と少年は考えた。
「いや……危険なのだぞ」
「そうなのですか? 殿下があぶないのならなおさら、心配なのでご一緒したいです」
「はあ?」
まったく懐かれたものだった。さっぱり理由はわからないが。
しかし飛竜を育てはじめれば、しばらくは顔を合わせることもできなくなる。
「……まあ長旅になるしつまらんかもな……そなたがいた方がよいか」
少女は手をたたいて喜んだ。
「はい! 殿下が退屈しないよう、私がおそばでたくさんお話いたします!」
そんなこんなで二人は野生の飛竜の生息地までやってきたのだった。
険しい山々の間にある辺鄙な場所である。飛竜たちに異常がないか見張るための基地が設けられており、ここで儀式の手ほどきがあった。
婚約者を連れてきた王子は前代未聞と言われたが、娯楽に飢えていた基地の人々は歓迎ムードだった。
少女はその美しさと朗らかさであっという間に人々を惹きつけ、囲まれていた。
基地の責任者の老人と、王都からきた見届け人の官吏、そして護衛騎士の三人だけが王子の隣にいて、今後の説明をしている。
「殿下! 殿下! どうですか? 似合いますか?」
少女が少年に手を振った。長い金の髪を束ね、くるくると巻いて邪魔にならぬようにまとめてもらったようだ。
「あのように可憐な方を妻にされるとは、王子は果報者ですな」
老人の言葉に、少年は不機嫌に答えた。
「……あれが余に惚れこんでおるのだ。仕方なかろう」
しばらくすると、少女は人の輪から抜け出して少年の隣に戻ってきた。
「飛竜の巣に乗り込むときの装備を貸していただいたのです!」
分厚い革のズボンだのベルトだのを大事に胸に抱えて、幼子のようにはしゃいでいる。少年よりひとつ年上のはずだが。
「……まさか本当に飛竜の巣までついてくる気ではあるまいな?」
「禁止なのですか?」
少女が老人を見上げた。
「護衛騎士を連れてはいけないという決まりはあるのですが、婚約者を同伴してはいけないという一文はないですな」
「まあ! それはよかった」
「よくはあるまい。遊びではないのだぞ」
「でも……」
男たちが寄ってきて口々に言った。
「王子のおっしゃる通り。留守番がいいですよ! 俺たちとここで待っていましょう、お嬢さん」
「マジックカードで暇をつぶしませんか? すぐに取ってきます」
「お気に召すようなお茶があるといいのですが。一番いいやつが古くて」
王子はますます不機嫌顔になった。
「……安全に問題はないのだろうな?」
「タマゴの入手については、きちんと手順を守れば大丈夫でございます。事故がないわけではないですが、むしろ危険なのは雛が羽ばたきはじめてからなので」
少女は少年に期待に満ちた目を向けた。
「……よかろう。余の勇姿を目に焼き付けることを許す」
「ありがとうございます!」
いま、少女の腕の中には、飛竜のタマゴがあった。巣の中で「これが一番ステキな色艶のように感じます! たぶん!」と少女が選んだものだ。少年から見れば、どれも大差なかったが。
タマゴは、緑色の液体でべったりと濡れている。親の飛竜が追ってこないようにするための、飛竜の嫌う匂いのする薬液がかけられているのだ。
飛竜の巣というやつはどれもこれも岩山の上にあり、よじ登るまでが一苦労だった。降りるのは一瞬だったが。
親をおびき寄せる係の者がへまをしたのか、予定より早く飛竜が戻ってきたので、タマゴを守ろうとする少女を抱えてあわてて飛び降りた次第だ。
「タマゴは無事であろうな?」
なんとか足場にたどりつき、ベルトとロープを固定していた金具を外しながら王子は言った。
「はい! もちろん。あっ」
「あ?」
「どうしましょう。ヒビが」
「何?!」
飛竜のタマゴは人の頭よりひとまわりほど大きい。ちょうど兜くらいといったところか。両腕でそれを抱え込んでいる少女は、内部からコツコツと音が鳴るのを聞いた。
「まあ! きっと大丈夫です。これは傷ついたのではなく、孵るだけかも」
「待て待て待て、説明を聞いただろう! 生まれる時は顔を見せねば――余の方に渡せ!」
少年が慌ててタマゴを引き取ろうとすると、殻が一部はがれて落ちた。
ヂィッ、と飛竜の子が鳴いた。しわくちゃの皮膚と黒い目が見えた。
「かわいい!」
「かわいいかぁ……?」
少年は指をそっと出した。つん、とくちばしがそれをつつく。
「よし。ちゃんと余を親と認識したな」
少年がタマゴごと雛を引き取ると、少女も指を差し出した。
「こら、親以外が触ると――」
「うふふ。くすぐったい」
「……おい……」
雛は少女にも懐いていた。どうも二人同時に見てしまったようだ。
少年はため息をついた。
「いけませんか? 両親になれたようで私はとても嬉しいのですが!」
「あのな……これは試練なのだぞ。この先の飼育も余が一人でやらねばならん」
「婚約者が一緒にやってはいけないという決まりは?」
「一人でやるべしと書いてある。タマゴの入手についてそう書かれていないのは、飛竜をおびき出したり、なにかと他の手が必要だからだろうな」
それに、飛竜を育てるのは危険が多い。生まれたての雛のうちはよいが、すぐに力が強くなり、女の細腕では手に負えなくなる。野生の雛は特に注意が必要だった。
「二人で親、というのも、前例がない。違反と見られるかもしれん。そなたも親と思われていることは漏らさぬ方がよいだろう」
「残念です……」
「そもそも、そなたがついてくるから……」
いや、許可したのは余だが、と少年は苦々しく呟いた。
しかし、肩を落として雛の頭を撫でているこの少女が、勇敢にタマゴを守ったのだ。
「…………名前をつけてもよい」
「え?」
「名前はそなたがつけるがいい。表向きは余がつけたことにするが。今ここで考えよ」
「いいのですか?!」
「よいと言っている。戻るまでに決めよ」
少年はタマゴを抱えたまま歩き出した。
「殿下、ありがとうございます!」
「もう触れるなよ。迎えに見られるとまずい」
「わかりました。じゃあ最後に一度だけ……」
名残惜しそうに小さな頭をひと撫でして、少女は言った。
「この子はディルク。ディルクにいたします」




