キース・バルフォア
バルフォア家はアリンガム王国建国時から代々文官を輩出してきた家柄である。
中でも九代目の当主デリックは優秀な男で、国政に長く携わり、最終的に宰相を務めた。そのような背景から、子弟には厳しい教育が施されていた。
キースは十一代目となるユーインの第一子として生まれた。
当時まだユーインは当主となっておらず、王宮の議会補佐官として忙しく働いていた。彼が領地の本邸に戻ってくることはほとんどなく、キースの教育は母であるローラと曽祖父デリックが監督することとなった。
デリックは晩年体を悪くして隠居していたが、頭ははっきりしており、十代目当主のジェラルドよりも本邸で大きい顔をしていた。
キースは言葉の遅い子どもだった。二歳になるまで話し出さず、周囲を大変にやきもきさせた。
しかし成長とともに問題のないことが確認され、少年は予定通りバルフォア家の後継としての教育を受けはじめた。
はじめのうちはうまくいっていた。
おとなしく口数の少ない子どもだったキースは、教師の話をじっと座って聞いていることができた。飽きて途中で走り回るようなタイプではなかったのだ。
だがちゃんと聞いていたからといって、全てをしっかり理解できていたかというと、そうではなかった。決して頭は悪くなかったが、飛びぬけてよくもなかった。
「少し遅れているのではないか? ユーインは四歳の頃にはこれが解けていたぞ」
「この子は言いつけをよく守っています。遊ぶこともせずに頑張っていますから、長い目で見てあげるべきですわ」
厳格なデリックはよくキースを叱ったが、ローラはそのたびに弁護してくれた。
素直でおっとりした少年は、母の期待に応えようと必死になった。
不幸だったのは、教師が匙を投げるほどできないわけでもなく、適当にサボろうとする要領のよさもなかったことだ。少年はひたすらに机にかじりつき続けた。
「達成すべき課題を細かく設定して、毎日できるまでやらせるべきだ」
「あまり詰め込み過ぎてもよくないのでは」
「お前がそうやって甘やかすから進まないのだ。集中が足りていない。こんなもの、本気になればすぐにできるはずだ」
「ちゃんとやっていますとも。この子がどんなに努力しているか、私は見ているので知っています」
「こんな結果で頑張っているだと? ああ、もっと厳しくやれる教師に変えよう」
「もう四度目ですよ。教師を変えすぎるのもよくありません。ちゃんと継続して見てもらった方が」
母は少年に味方してくれたが、いつも曽祖父の意見の方が通った。
年を重ねると、状況はますます悪くなった。
ローラとデリックの対立は深刻になり、キースは寝る間も削って課題に取り組むようになったが、成果はあがらなかった。
「教師の言うことに返事もしないそうじゃないか。やる気があるのか」
「あんな風に怒鳴りつけられて、怯えているだけです。かわいそうに」
「お前は黙っていなさい。私はキースに話しているんだ」
ごめんなさい。がんばります。それだけのことが言えなかった。少年は震えていた。心臓があばれて、言葉がのどに詰まってしまって、口まであがってこなかった。
「言い訳すらできないのか。まったく、どうしてこんな子に育ってしまったんだ」
キースが八歳になった頃、ついにデリックは「これは出来損ないだ」と断じた。
それよりもさらに少年の心を深くえぐったのは、母が次の子を望み、できるだけ領地に帰ってきてほしいとユーインに懇願するのを聞いてしまったことだった。
キースはついに体を壊した。
食事をほとんど受け付けなくなり、頻繁に吐いて、母を心配させた。医者が呼ばれたが、異常はないと診断された。
「怠けているだけだ。勉強したくないのだろう」
デリックは吐き捨てた。
「もうやめさせてください。休ませればいいではありませんか」
それでもキースは勉強を続けようとした。
「キース! 大きくなったな。だが顔色が悪いぞ。ちゃんと食べているか? 肉が嫌いだったな? 魚ならどうだ?」
叔父であるスティーブン・ライトノアが数年ぶりに屋敷を訪れたのはそんな時だった。
「ローラ。キースはどうした? 元気がないようだが」
「それが……、その、勉強が進んでいなくて」
「勉強?」
話を聞いたスティーブンは、すぐさまキースの手を引き、デリックに直接交渉しに行った。
元宰相のデリックに強く物申せる人間はバルフォアにいなかったが、スティーブンはこの年、二十六歳の若さで将軍位を拝命していた。将軍は有事には宰相に匹敵する発言権を持っている――おそらくそれがなかったとしても、この男は堂々とデリックに渡り合っただろうが。
「どうです、一度環境を変えてみるというのは。うちでしばらく預かりますよ」
「とんでもない。ご迷惑でしょう」
「いいえ。二年ぶりに休戦協定が結ばれて、私もしばらく領地で羽を伸ばそうと思っていたのです。ちょうどいい。娘の遊び相手になってもらいます」
「……ただでさえ勉強が遅れているのだがな」
デリックは露骨に顔をしかめたが、スティーブンは鷹揚に笑った。
「いやいや、子どもは健康が一番。勉強は元気になってからすればよろしい」
そう言って、スティーブンは大きな手でキースの頭を撫でた。
「どうも運動が足りていないようだ。体を動かせば腹もすくし食べれば元気になります。私が直々に鍛えますので、お任せください」
こうして、青白い顔の痩せた子どもが、ライトノア家にやってきた。
チェルシーは甥っ子を歓迎し、すぐに彼の部屋を用意させた。
「お祖父様は本当に厳しい方! 私はきらいでした。あの人が毎日家にいるなんて、それは息も詰まるわ。自分の家だと思ってくつろいでね」
チェルシーの後ろには、紫の髪の小さな女の子が隠れていた。
「アーシェ。私のお兄様の息子のキースよ。お兄さんができたと思って仲良くして」
キースが挨拶できずにいると、彼女はぱっと背中を向けて逃げていった。
「キース。どんなに急いでいても、全力で馬を走らせ続ければその馬はもう走れなくなる。手綱を緩めることや休憩が絶対に必要なんだ。人間だって同じだぞ。時々休むことが大事なんだ」
キースの持ち込んだ勉強道具を片付けて鍵をかけ、スティーブンは言った。
「おまえがこれから進む道は一本きりじゃない。好きなこと、やりたいことを見つけよう。叔父さんと一緒に遊んで、楽しくなってるうちに、探すんだ」
スティーブンはキースに色々なことをさせた。キースは、ボールを投げることすらうまくできなかった。バッタには逃げられたし、走ればすぐに息が切れた。それでも、スティーブンのあとを黙ってついていった。キースができないことを、スティーブンは怒ったりしなかったし、いつもにこにこして待っていてくれたからだ。
キースはスープを呑みこめるようになった。
「ナイフも持ったことがないか? こうして、三本の指でしっかり握って、親指と人差し指は力を抜くんだ」
ある時、スティーブンは切ってきた板をキースに渡して削らせた。
「手首は真っすぐ。ゆっくり、ゆっくり。そうだ、うまいぞ」
こわごわとキースが整えた不格好な板は、スティーブンが仕上げてブランコの台になった。二人で庭の木の枝にロープを縛り、小さなブランコが完成した。
「アーシェ。どうだ、乗ってみないか?」
スティーブンの愛する一人娘は、三歳で、屋敷の使用人たちから遠巻きにされていた。魔族の子だと囁かれていたが、ちっともそんな感じはなく、ただのさびしそうな女の子だった。
キースは、彼女の赤ん坊の頃に一度だけ会ったことがあった。ちょっと指を握られただけなのに騒ぎになって、大変だったので覚えている。
離れたところでじっとブランコ作りを見ていたアーシェは、スティーブンの誘いに乗って、おずおずと近寄ってきた。
アーシェは板に両手をついたが、それがぐらっと動いたので、びくりと手を上げて数歩後ずさった。
「怖くないぞ、大丈夫だ。キース、乗せてやってくれ」
スティーブンはアーシェに触れられないのだった。
キースが少し迷ってから手を伸ばすと、アーシェは黙って両手を差し出した。それで、キースはその脇の下に手を入れて、彼女を持ち上げた。
とても、とても重かった。小さな子だと思ったのに。
ブランコまでのほんの二、三歩に、歯を食いしばった。なんとか板の上に彼女をおろした。
「しっかりロープを握ったか?」
アーシェはスティーブンの言葉にこくりと頷いた。それで、キースは手を離した。
アーシェは足を動かしたが、ブランコは止まったままだ。
スティーブンが後ろから二本のロープを軽く引いて、離した。
「わ、わ!」
ブランコが揺れ、アーシェは足をばたつかせて喜んだ。
「もっと!」
アーシェが催促し、スティーブンはキースを見た。
「背中を押してやってくれ。そっとな」
「はい」
キースは叔父の言うとおりに、タイミングを見て従妹の背に触れた。
一度目はすこし緩すぎた。二度目はわずかに力を強めて。
ブランコが揺れて、アーシェが笑った。
「たのしい! もっと!」
「アーシェ。あまり勢いがつきすぎると危ないぞ」
スティーブンも笑った。
「いいの! だいじょうぶなの! にいさま、もっと!」
キースはリクエストに応えて、もう一度彼女の背中を押した。
その日、少な目に用意された夕食を、キースはなんとか残さずに食べきった。




