或る少年の記憶 1
少年の母は病を患っていた。心の病であった。
なにかとても悲しいことがあって、それ以来、ふつうでなくなってしまったのだそうだ。少年が母のそばに行くと、笑顔で迎えて抱きしめてくれることもあれば、罵倒して追い出せとさわぐこともあった。
ずっと泣いている時もあれば、ただ窓の外を見ているだけの時もあった。なにもないのにくすくす笑っている時もあった。母の機嫌を損ねると大変で、でもなにが気に障るのかはまったく予想がつかなかった。
母に呼び出されて緊張して向かうと、呼んでないと言われたり、その逆に、遅いと叱られることもあった。母は手がかかる。でも、優しい時は優しい母だった。ずっと抱きしめて離してくれないこともあった。ごめんね、ごめんね、と泣きながら頭を撫でてくれることもあった。
「だいじょうぶです、ははうえ。ぼくはははうえがすきです」
そう言うとますます強く抱きしめてくれるのだった。
母は不安定だったが、少年は困っていなかった。家には召使いがたくさんいて、母が暴れれば気づいた者が飛んできて取り押さえてくれるし、必要なものはなんでも与えられていた。
少年は、母は好きだったが、父が苦手だった。
父はいつも忙しく、少年に愛情をもっていなかった。勉強を頑張ると「よくやった」とだけ言い、進んでいないと知ると激しく叱責した。
父は母に冷たく、たまに帰ってきても会おうとしなかった。母のことを「あの女」と他人のように呼ばわった。
父は少年が勉強することを望んでいたが、その成績がすこぶる良いことを家庭教師が褒めると「ふん。天才だと? 馬鹿馬鹿しい。思い上がるなよ」と舌打ちした。
だから少年は勉強に打ち込んだ。教師に持ってくる課題を増やしてほしいと頼み、さらに教師を増やし、ひたすら学び続けた。
父はますます不機嫌になり、しかし勉強をやめろとは言わなかった。
「坊ちゃまは素晴らしい。もはや教えることはありません」
「そんなはずはない。まだわからないことがたくさんある」
「それでは……」
少年は大きな図書館へいざなわれた。屋敷から少し離れていたが、子どもの足でも通える距離だった。
「もうこれらの本が、あなた様には理解できるはずです。入館許可が取れました。これからいつでも、いくらでも、お読みいただけます。ただしこの中でだけですよ」
少年は没頭した。本はどれも難しく、しかし面白かった。わからなかったことがどんどんはっきりしていき、そしてわかるたびにわからないことが何倍にも増えていくのだった。
図書館の司書が新しい教師となって彼のそばにつき、あれこれ教えてくれた。少年は一年かかって読みたいと思った本を全部読み、次の一年で興味のなかった本も全部読み、さらに「ちょっと気持ち悪いからやめとこう」と思っていた本にも手をつけはじめた。
少年は八歳になっていた。
その頃にはもう、父は少年の勉強の成果を聞くことをしなくなっていた。勝手にしろとだけ吐き捨て、少年の顔を見もしなかった。
少年はもちろん勝手にした。赤いローブの司書は少年の味方だった。
「大公さまはしょせん、臨時にお役目を務めておられるだけ。真の主は次代の大公となられるジーノ様です。この図書館もいずれすべてあなた様のものになります。ですから、今日はこれをお渡しいたしましょう」
渡された古めかしい鍵は、魔法の光を放っていた。
「閉鎖書庫には、もっとたくさんの本があります。忘れられた過去の知識が眠る場所です。私でも入ることはできませんが、この鍵は必ずあなた様を主と認めるでしょう。この鍵と書庫のことは、内密に。特に、大公さまにお見せしてはなりませんよ」
少年がそれまで突き当たりだと思い込んでいた二つの本棚のあいだの壁。その先にまだ通路があった。一歩踏み込むとその横手に下りの階段があり、降りていくと古めかしい扉が待っていた。
果たして、扉は開かれた。
ひみつの鍵につけられた鎖をネックレスのように首にかけて、少年は胸を躍らせながら閉鎖書庫へと足を踏み入れた。キイ、ときしんだ音をたてて閉まった扉の鍵穴が、勝手にかちりと回ってふたたび道を閉ざした。
近頃は、面白い本に出会えていなかった。だから本当に楽しみだった。書庫は、司書の手が入っていないせいか実に雑然としており、本は分類もばらばら、ある場所では積み上げられ、ある場所では雪崩れていた。紙をまとめただけの束もあった。
「ぼくが片付けた方がいいのかな……」
呟くと、本棚の向こうから声がした。
「あら? お客さま?」
女性の声だった。歌うような、初夏の風に揺れる鈴のような、さわやかに澄んだ声。
少年はぎょっとした。自分一人だと思い込んでいたので。
「まあ、かわいらしい。どなた?」
現れたのは、母よりも少し若いくらいの美しい人だった。真っ白いワンピースからのぞく手足は折れそうに細く、顔色は青白く、今にも倒れそうな風情である。
ふわりと広がった金の髪が、母に似ていると思った。
「あ、あの、ぼくはジーノ。あなたは」
「あら! ジーノ! 本当に?」
突然、彼女は目を輝かせて少年に近づいた。
「まあまあまあ、大きくなって。そうなの、もうそんなに経ったのねぇ。いくつ?」
「は、八歳……」
「そう! 立派ねぇ。あのね、ふふふ。私はね、あなたのおばあさま! エルネスティーネよ」
この人は何を言っているのだろう? 少年はぽかんと彼女の笑顔を見上げていた。
どう見ても祖母という年ではないし、そもそも少年の祖母はどちらもとうに亡くなっているというのに。