魔術具の杖
朝、食堂から女子寮に戻った後は授業の準備をして、鞄を肩にさげて各々の教室に向かう。アーシェはいつもティアナと一緒だ。半年後、ティアナが救護師コースに分かれるまではそれを続けられるはずである。
「あ、アーシェとティアナだ。おっはよー」
「おはよう」
教室で出迎えてくれた元気な声はエルミニア、低めの声はラトカ。ふたりとは、演習場で声をかけられて以来少しずつ話すようになり、今では仲良しだ。エルミニアはキースの大ファン。ラトカはあの日純粋にエルミニアの付き合いで来ていたが、どちらかといえばヘルムート派、とのことだ。
エルミニアは十四歳。明るくていつもテンションの高い子だ。おしゃれにも意識が高く、きれいに髪をまとめている。そのエルミニアとたまたま同日にファルネーゼ入りし、入国管理局で知り合って親しくなったというラトカは、十二歳だがエルミニアよりわずかに背が高い。ハスキーな声と短めの髪で、ボーイッシュな印象だ。
「おはようございます。おふたりとも今日は早いですね」
「おはよう。計算の宿題、終わりました?」
「それが……」
エルミニアは計算が苦手で、アーシェがいつも教えていた。ラトカは、計算はできるが教え方が下手、と言っていつも逃げている。面倒なだけかもしれないが。
「最後だけ! 最後だけなんだけど! お願い!」
魔力波の計算は、魔術師の必須技能といえる。しかしこれが、なかなか難しいのだ。
(私にとっては、そうでもないけど……)
しかしそれも、例によって「はじめから」できたことのうちのひとつだった。三歳のうちから八歳のキースに算術を教えていたほどだ。要するにアーシェ自身が努力して身につけた教養ではない。
エルミニアの宿題を添削しているうち、教室に人が増えてきた。
周囲の話題は、もうすぐ完成するそれぞれの魔力波の全体像についてが多かった。対が見つかるかどうか、みんなそわそわしているのだ。
「ティアナはいいね。絶対見つかるでしょ」
「どうでしょうか……」
「性格の相性もあるし、慎重に選んだ方がいいよ。お試し期間のうちにじっくり見極めないとね」
「対かぁ。アタシはキース様とがいいなー」
ティアナとラトカの会話に、なんとか宿題を仕上げたエルミニアが入っていく。
「キース兄さまは地なので……」
地属性のエルミニアとは対になりようがない。
「わーかってるって。夢だよ夢ぇー」
「だいたい、属性付与の人はあまり複数魔術の練習ってしないしね」
ラトカが言った。
「そうなのですか?」
「うん。武具に属性を付与するのは、どっちかというと魔術具の扱いに近いかな。もちろん対でやれば魔力の節約になるのは同じだけど、守られながら後方で発動できる魔術師と違って、あの人たちは前線でしょ? わざわざ対と一緒に付与魔術をやるなんて余裕はあまりないから、単独で使うのが普通なんだよ」
なるほど。
「だからまあ、ここぞという時の必殺技みたいに使う人が多いんだ。魔力温存でね。常時付与なんてしたら、あっという間に枯れちゃうってわけ」
「バチバチーっと? かーっこいいよね! キース様はどの魔術を選ぶのかな、炎の槍かな、雷の槍かな~」
妄想してうっとりしているエルミニアに、ティアナが笑って「聞いておきましょうか?」などと言っている。
「だから逆に、対が重視されない属性付与コースで天属性が出るとモメることが多いんだよね……実践科への引き抜きに応じるの応じないので……まあ滅多にないんだけど」
「それは……確かに大変そうですね。キース兄さまは地でよかったです。本当に、こちらとはずいぶん違うんですね」
「まあね。確か、五十年くらい前に新設されたコースだったと思う。属性付与コースではローブはもらえないし、ほんとにこっちとは別物だよ」
ラトカは両親や兄姉、祖父母、その他の親戚までファルネーゼに通っていたそうで、知っていることが非常に多く、アーシェも勉強になるのだった。
「君か。そういえば今日だったな」
扉を開けて、クラウディオはそう言った。ずいぶん疲れた顔をしていた。普段に輪をかけて。
「あら。またお邪魔してしまいましたか?」
「いや……考え事をしていただけだ。どうぞ」
アーシェは招き入れられて部屋に入った。カーテンが閉めっぱなしで暗い。
「もう放課後とは気づかなかった」
呟きながら、クラウディオがカーテンを開ける。とたんに夏の日差しが部屋にあふれた。
「いい天気だ」
「はい。汗をかきました」
建物の中は空調がきいているが、外を歩く間はファルネーゼでも暑いのだ。
「なにか冷たいものでも?」
「いえ、お構いなく」
アーシェはいつものソファに座った。ローテーブルの上は、今日は何も置いていない。
「なにか悪い報せでもありましたか?」
「そうだな……この前書いた意見書が無駄になった」
「金時計の? それは、残念ですね」
「まあ。そうなるだろうと思ってはいた。……明確な売りが少なすぎたな。次は必ず通す」
クラウディオは前向きに言ったが、実際はかなり落ち込んでいるのだろう。ローテーブルに杖を立てかけ、アーシェの隣に腰を下ろしたものの、心ここにあらずといった感じだ。
アーシェは考えて、考えて、口を開いた。
「私の同室の先輩が、今度ちょこっと魔術信を作るんです」
「ちょこっと……?」
「卒業研究の課題だそうなのでまだ内緒のお話なんですけど。簡略化した魔術信のようなものを、コンパクトな魔術具にしたいと」
ルシアは秘密に、と言っていたが、クラウディオなら誰かに漏らすようなこともないだろう。他に彼が興味を示しそうな話題を思いつかなかった。
「魔術信を簡略化、か。面白そうだな」
実際、クラウディオは心ひかれたようだ。
(ルシア先輩、ごめんなさい。ありがとうございます!)
「私もそう思って、試作品の完成を楽しみにしているんです。この前の土曜に、工房街でたくさん部品を買ってきて。昨日から組み立てているんですよ」
重かった、小遣いを使い果たしたと笑っていたルシアの顔を思い浮かべつつ、アーシェは話した。
「ふうん。見てみたいな」
「ええ。私、試作品をテストする係を任されているので! 楽しみにしていてください」
クラウディオに見せれば改善のポイントなども指摘してくれるかもしれないし、ルシアにはそれで許してもらおう。
そう思っていると、クラウディオがふいにアーシェの頭を撫でてきた。いつかの乱暴なやりようとは違って、そっと。
「あの……?」
「気を遣わせたな。ありがとう」
「え、いえ。そんな」
なにか、お見通しだったようだ。アーシェは恥ずかしくなって、頬に手を当てた。
「君にはずいぶん助けてもらっているのに、僕はあまり役に立っていないな」
「えっ。そんなことはありませんよ?」
「いや。イメルダは色々なアプローチを試みているというのに、僕は結局なんの手がかりも示してない」
クラウディオは難しそうに考え込んだ。
「僕にしかあてはまっていない条件か……」
その時、ローテーブルに立てかけられていた杖が、少しずつバランスを崩したのか床に転がった。
クラウディオが立とうとしたので、アーシェは「私が」と制して、それを拾った。
持ってみると、意外とずっしりとした杖だった。持ち手は金属製で、鳥の頭のような飾りがついていて、長い棒の部分は目盛りのように均等に浅い彫り目の筋が刻まれている。
「この杖を私が初めて見た時――あのはぐれ飛竜から救っていただいた時ですけど。私は、昔話によくある魔法使いの杖のようなものを魔術師は本当に持っているんだな、って思ったんです。まさか、実際について使うための杖とは」
「ああ。まあ一応、それも魔術具ではある」
「へえ……。そうなのですね」
アーシェは手にした杖をまじまじと見た。
「その頭の部分から火が出るんだ」
「えっ!」
アーシェはちょうど顔に近づけていた鳥の頭をあわてて遠ざけた。
クラウディオはふっと笑ったようだった。
「あっ、もしかして冗談でしたか?」
「いや、本当だぞ。そう簡単には燃えないから安心してくれ」
そうは言われても手にしていたいものではない。アーシェはこの危ない杖をクラウディオに手渡した。
「護身用になればと思ってね。いざという時に身を守れるように……といっても大した威力ではないし、使う機会もこれまでなかった」
クラウディオは鳥の頭をこするようにした。愛着のある杖なのだろうか。
「そうか……どうして気がつかなかったんだろう」
「なにがです?」
「君が触れられない他の男たちと違っている、僕にだけあてはまる条件のことだ。実は……もう君には話してしまっていいだろう。僕は魔力波に瑕があってね」
「魔力波に、キズ、ですか?」
なにか不吉な響きに、アーシェは背が寒くなった。
「そうだ。簡単に言うと、魔力の通りが悪いんだ。簡単な魔術さえひとりでは発動させるのが難しい。それで、こんなものを持ってるんだ」
クラウディオは杖を軽く動かしてみせた。
「一番やっかいなのが、救護師の術もろくに通さないことでね。この足も……そうでなければ治してみせるのに、とイメルダが悔しがっていたな」
腕のいい救護師の多いファルネーゼでは、若くして杖をついているような人間は確かに他に見かけない。
「そんな……そうだったんですね」
魔術師なのに、魔術が使えない。
それがどれだけ大変なことなのか、アーシェには想像するのも難しかった。
「条件としてはありそうだろう? 魔力を通しにくい体。魔力波に瑕のある男なら病院に問い合わせれば幾人か連絡がつくだろう。さすがに天属性を兼ねている者を探すのは難しいだろうが、とりあえず魔力波の影響がないか判別することはできる。試してみる価値がありそうだ」
クラウディオは自分の思いつきに満足したようにうなずいていたが、アーシェはこの発見を喜ぶことはできなかった。
なんでもないことのように言うが、彼はずっと苦労してきたはずだ。
「私……、ごめんなさい。クラウディオ様は色々大変なのに、お忙しいことを知っていたのに、この前も用もないのに押しかけたりして……」
すっかり受け入れてもらったような、友人のような気持ちでいた自分が恥ずかしかった。何も知らないのに。
「いや、なにもそんな……気にしないでくれ。僕はもうこの体のことは諦めている。それに君だって、大変なのは同じだろう。よくやっているよ」
クラウディオは優しい声でそう言って、とんとんとアーシェの肩を叩いた。
やっぱり、子ども扱いだ。
でも、なぜかやめてほしいとは思えなかった。それで、黙ってされるがままになっていた。




