目撃しそびれた笑顔
アーシェがひととおりさきほどの検証について説明すると、ソファにちょこんと座ったクラウディオは溜息をついた。ほっぺはつやつや、肩にかかるサラサラの黒髪も相まって女の子と見紛うほどだ。
「それでどうして僕のところへ来たんだ。僕には元々近づけるんだから、比較する意味がないだろう」
「それはそうなのですが、もうヴィエーロ先生に実験していただいたので大丈夫です。私はただ、かわいいクラウディオ様を見に来ただけなので」
「君は……なにか、そういう趣味なのか?」
身を乗り出したアーシェから、ジト目の美少女が体を傾けて距離をとる。
「あら。女の子でも男の子でも、小さな子はかわいいでしょう?」
「君のなりでそういう発言をされてもな……」
(あきれたような口調も、とがらせた唇も、たいへんかわいらしいので満点です!)
「……いつまでじろじろ見ているんだ」
「すみません、お茶をいれても?」
「……頼もうか」
「はい!」
クラウディオの部屋に来てこうしてお茶くみをするのも三回目だ。
ローテーブルの上には、相変わらず細かく書き込まれた図面が広げられている。その他にも、コンパスに小さな部品やらネジやら、よくわからないものが箱に入れて置かれていた。
「そういえば、クラウディオ様の部屋には本がないですね」
ヴィエーロの部屋の机が本で埋もれていたのを思い出しながら、アーシェは言った。
「ああ。ファルネーゼの本はもうほとんど読んだからな。教授陣が新しい論文を出せば、目を通すが」
「ほとんど……? クラウディオ様は読書がお好きですか? 私もです!」
寮の隣にあるファルネーゼの図書館はさすがに充実していて、アーシェは今、冒険もののシリーズの本に夢中になっている。途中の巻が借りられっぱなしで、返却を待っているところだ。
アーシェは物語が好きだった。本の中でなら、どこにでも行けるから。悲しい話でも怖い話でも、かまわなかった。もちろん一番は面白い話だ。
父の書斎の本を読みつくした後も、あちこちの伝手を頼って借りてきてもらい、片っ端から読みまくった。特に気に入った本は買ってもらい、大事なアーシェ・コレクションとして部屋に並べてある。
唯一読まないのが、恋愛ものだ。物語の中にアクセントとして入っているくらいはかまわないが、それがメインとなると手を出さなかった。
なぜといって、素敵なヒロインが幸せになるたび、自分にはこんな将来はないのだと感じて虚しくなったから。
無論そんな本は父の書斎にはなかった。まだ幼かったアーシェが読んだのは、母の部屋の棚の上にあった流行の本だった。
――本があるじゃない! 母さま、取って!
これは大人向けだから、と母は渋ったが、これならと選んで三冊渡してくれた。書斎の古い本とは違い、今風の物語にわくわくしながら読んだが、しだいにもやもやが胸を覆っていって、放り出した。今風だからこそ、のめりこめないことに気づいてしまった。
――つまらない。私こういうの好きじゃないわ。
あの時、うまく興味のなさそうな顔ができていただろうか。そう、ごめんね、とこたえた母が頭を撫でてくれたのを覚えている。母は何も悪くなかったのに。
「読書というようなものじゃないが、魔術書はすべて頭に入ってる」
しんみりしたアーシェの追想を吹き飛ばすようなことを、かわいらしい女の子の声でクラウディオが言った。
「お、覚えているということですか? 内容を全部?」
「まあ。一度読んだら忘れないんだ」
そういう人間がいると本で読んだことはあるが、実在するとは。
「え、便利……でもないですね。私、何年も前に読んだお気に入りの本を、久しぶりに読むのって好きなんです。忘れているところがあってまた楽しめるので」
アーシェは水を入れたケトルを加熱器にかけた。
「いえでも、好きなシーンを完璧に頭に入れていつでも思い出せる……? それはいいかもしれません。ああ~だめ、いやなシーンは覚えたくないです。選びたいですやっぱり!」
笑い声がした。え、嘘。アーシェは急いで振り返ったが、つんとすました顔しか拝めなかった。
初めて笑ったのでは? 聞き間違い?
いや、笑ったということにしておこう。アーシェはなんだか嬉しくなりながらティーセットを並べた。
小さなクラウディオが、かがんでテーブルの下の缶を取りだしている。やった。この前のチョコレートだ。
それにしても本当にかわいい。アーシェは怒られないようちらちらとクラウディオを観察しながら、ふと考えた。
子ども時代のクラウディオは、ちゃんと子どもらしく遊んでいただろうか?
ひょっとしてこのくらいの頃から研究していたりして。さすがにそれは。でも、そうだ、母親がずっと病気だったのなら、心は張りつめていたかもしれない。
いったい、いつ頃亡くなったのだろう。
「――クラウディオ様は父親似ですか、母親似ですか?」
アーシェは思い出した。思い出してしまった。重要な自分の用事を。
それで、話を切り替えた。
「ん?」
「私は赤ん坊の頃父似と言われておりましたが、成長するにつれ母の方だねと言われることが多くなりまして。クラウディオ様は?」
自然に、それとなく、親の話を。
「……最悪なんだが、父親似だよ。この黒い髪も」
「お父様とは、仲が悪くていらっしゃる?」
アーシェは、演技に自信はない。さとられぬようクラウディオの方を見ず、お茶の缶を開けながら言った。
「もう何年も顔も見てない。あちらも僕のことなど気にもしていないさ」
つまり絶縁状態、と。
「ご兄弟は?」
「いない」
「では、父ひとり、子ひとりなのでは」
「……血のつながりなんて何の意味もないさ。君にとっては違うだろうが」
小さな子からそんな言葉が転がりだすので、アーシェはなんだか寂しくなってしまった。中身は違うとわかっているのだが。
「でも、ヘルムート様とは、血がつながっているのですよね?」
「ああ……そんなことも言ったな。憶えてたのか」
「違うのですか?」
「いや、合っている」
お湯の沸く音がして、アーシェは加熱器を止めに向かった。
「そうだな……今は、彼だけが僕の家族といえるかもな」
それはたぶんひとりごとのようなものだったけれど、アーシェの背中に届いた。
振り向くと、目が合って、クラウディオはきまり悪そうに髪をいじった。
「ヘルムートには言うなよ」
丁度その時、扉が叩かれた。
「あら、噂をすれば……」
「絶対だからな!」
強く念を押して、クラウディオは杖を手に取り鍵を開けに行く。おーい、と男の子の声がするが、クラウディオにはヘルムートの声に聞こえているのだろう。
クラウディオが扉を開ける様子は、手の位置と取っ手の位置がズレており、アーシェの目には魔術で動かされているかのように見えた。
「あれ、アーシェちゃん? 今日来る日じゃなかったよね」
「いいところに。君も変な目で見られるといい」
「ヘルムート様! まあ、やんちゃな男の子を想像しましたが、意外とりりしく……まあまあ!」
「……コレ、どうしちゃったの?」
「フルヴィアの暗示にかかってるらしい……」
アーシェはまたしても今日の検証について説明することになった。




