はじめての暗示
恒例の木曜日、イメルダの診察の日だった。いつもの部屋にはイメルダとカトリン、そして知らない赤いフードの人物がいた。
「あなたには馴染みがないでしょうから紹介しますね。フルヴィア先生です」
アーシェはフルヴィアと挨拶をかわした。フルヴィアは精神魔術が専門だという。ウェーブのかかった青い髪をフードからのぞかせた、赤いルージュが印象的な女性だ。
「精神魔術は難易度が高いので、三回生から選択で選べるようになるんですよ」
カトリンが補足してくれた。なるほど、見かけないわけである。
「それで、今日はどうしてフルヴィア先生も?」
「あなたの男体拒否症について、少し検証をしたいと思いまして」
イメルダが言った。
「根本的に治すためというより、判別のために催眠暗示を行います。あなたが男性からの影響を受ける時、あなたの意識か、それとも別の何か――成人男性の体に特有の成分とかね? それに反応しているのか。そのあたりを調べようということです」
「あくまで短時間です。長期にわたる暗示は頭痛などを引き起こしますから」
フルヴィアも付け加えた。強力すぎる暗示は呪いの一種だ。それはアーシェも知っている。
「今からあなたに、男性を男性に見えなくする術をかけます。それで、実際に接触してみて、どうなるかをテストするんですって。面白そうでしょう」
フルヴィアはくすくすと笑った。
「なるほど……」
カトリンがテーブルに水晶玉を用意した。フルヴィアは椅子に腰かけ、アーシェにもその向かいに座るよう指示した。
「本人の意思に反する暗示は精神を蝕みます。ちゃんと心の底から同意していますか?」
「はい、先生方を信頼しています」
「よろしい。さ、お二方は出てくださいね」
イメルダとカトリンがカーテンを閉め、あかりを消して部屋を出た。水晶だけがゆらめく光を宿している。
「フルヴィア先生はおひとりで魔術を使われるのですか?」
アーシェが訊ねると、フルヴィアはああ、と小さく言って、微笑んだ。
「この水晶玉が補助してくれるので、暗示にはそれほど魔力を消費しないんですよ。それに元々、精神魔術は単独で使うことが多いんです」
そういうものなのか。
「あなたも、よい対が見つからなかったら、こちらのコースも検討してみて。……では始めましょう。これをのぞきこんで」
言われたとおりに水晶をのぞきこむと、まるで吸い込まれていくような心地がした。
耳に届く呪文が、まるで昔から知っている歌のように感じられる。
自分自身が、どんどん小さくなっていく。かと思うと広がっていく。音が遠ざかり、近づいていく。さざなみのような、ざわめきのような。
「はい、戻って」
ぱん、と手を叩く音がして、アーシェははっと顔をあげた。いつの間にかフルヴィアは椅子を立ち、カーテンを開けていた。
酔ったような、午睡から醒めたような、ぼやけた感覚がある。
「どうぞ、先生」
フルヴィアがドアを開けてイメルダたちを呼んだ。振り返ると、イメルダとカトリンと、もう一人、小さな男の子が部屋に入ってきた。
五歳くらいの、メガネをかけた賢そうな子だ。赤いローブを着ている。
「まあ、どなた?」
学院ではこのくらいの子どもはほとんど見かけない。研究生や先生方の子がたまに付いてきていることがあるが、この子はローブ姿だ。しかしさすがにこの年で卒業というのはありえないのでは?
「握手を」
男の子が言うので、アーシェは手を差し出した。が、握ろうとした手が空をつかんだ。
「あら?」
「……位置がズレてます」
「しっかり効いているようね。アーシェさん、手をそのまま」
言われたとおりにすると、手になにか触った感じがした。男の子の手はそこにないのに。男の子の――
その顔をまじまじと見つめて、アーシェはようやく理解した。
「あ! もしかして、ヴィエーロ先生ですか?!」
「はい。倒れませんねぇ、アーシェさん」
「えっ。ヴィエーロ先生、かわいい、とてもかわいいですよ!」
褒められても特に感銘を受けた様子はなく、男の子は淡々と言った。
「どうも。ぼくが手を握ってるのわかります?」
「たぶん……? なにか、触れているのはわかります」
イメルダとフルヴィアが顔を見合わせている。
「サイズが実物とかけ離れるのは少しよくなかったですね」
「女性に見えるようにしたほうがよかったかしら?」
「空気と握手するよりはよい実験結果を得られたかと……」
「アーシェさん、気分はいかが?」
カトリンが聞いてくる。
「なんだかくらくらします……」
男の子が、宙を掴む形にしていた手をひらいて腕をおろす。
「離してみて、どうです?」
同時にアーシェの手にあった感覚も離れていった。
「あ、はい。すっきりしました」
「うーん。ま、微妙なところかな」
メガネのつるに手を当てて考えているようなそぶりは、確かにヴィエーロに似ていた。というか、本人だが。
「イメルダ先生。こんなところで、もういいですか?」
「はい。お忙しいところをどうも」
「ヴィエーロ先生は、アーシェさんの事情を知っている男性教諭ということで、今日はわざわざ来ていただきましたの」
「そうなのですね! ありがとうございます。いつもお世話になっているというのに……」
カトリンの説明に、アーシェは頭を下げた。
「いえ、このくらいは構いませんよ。次のレポートもよろしく」
ヴィエーロ少年は手をあげてさっと出て行った。
イメルダとフルヴィアの検討の結果、詳しい検証は次回に持ち越しということになった。
「今日はここまで。暗示の効果は自然に切れますよ。個人差はありますが、あと一時間といったところね」
「醒めるまでここで休んでいってもいいですよ。どうしますか?」
イメルダにはそう言われたが、アーシェは首を振った。
「いいえ、大丈夫です。私、帰ります!」
こんな面白そうなことはなかなかない。
アーシェはさっそく中庭へと繰り出した。もちろん、探しているのはキースだ。
今日は待ち合わせの日ではないが、放課後にキースを見かけたことのある場所というと他にはないのだった。
(私が記憶しているよりも幼い頃の兄さま……! 是非見てみたい!)
しかし、探せど探せど若草色の髪の少年は見当たらない。
アーシェは疲れて、中庭の真ん中にある大賢者の像の前で立ち止まった。
光魔杖と呼ばれる特殊なステッキを持ったうるわしい女性の姿だ。空いてる方の手は天に向けてのばされ、太陽を支えていたかつての偉業を彷彿とさせる。
この像のモデルはアスティマリンだろうか。それともルピアン。
有名なエピソードを持つ大賢者の名前を思い浮かべていると、背後から声がかかった。
「……オマエなにをボケっと突っ立ってるんだ?」
聞き覚えのない声に振り返ると、やはり五歳くらいの男の子がいた。
「ええと……」
栗色の巻き毛に緑の瞳。誰だろうか? なかなかの美少年だ。
「なんだよ、落とし物でも?」
おそらくアーシェが下を見ていると思ったのだろう。顔を見ていただけなのだが。たぶん知り合いで、栗色の髪の――
「あ! もしかしてブレーズさんですか!」
「まさか、オレの顔も覚えてないのか……」
「いえ、いつもはちゃんとわかりますよ! 実は今、暗示にかかっているのです」
「は?」
「深いわけがありまして……先生に実験していただいているのです。今の私には、ブレーズさんもとてもかわいらしい男の子に見えています」
「は???」
「その証拠に、このように近づいて喋っても平気なのですよ」
ブレーズのいつもの嫌味な雰囲気は消え去り、お目目がぱっちりで実によい。
アーシェはブレーズ少年の顔をのぞいていたつもりだが、たぶんブレーズから見れば腹のあたりに近づいていたかもしれない。
「いや、ワケわかんねーよ!」
ブレーズはのけぞって、怒って去って行ってしまった。
「せっかくお話できる機会だったのに……」
いや、それどころではないのだった。あまりゆっくりしていては時間切れになってしまう。
もう一度中庭をくまなく見てみたが、やはりキースらしき男の子はいない。
放課後、キースは熱心に先生に質問しにいったりしているらしい。これは情報通のマリーベルが教えてくれたことだ。
そういえば魔力波の計算が分かりづらいとか、言っていたっけ。そのくらいならこちらに聞いてくれてもいいのに。
(兄さま、昔から数学が苦手なのよね……)
さすがに、先生方の部屋をひとつひとつ訪問するわけにもいくまい。
念のため演習場にも足を延ばした。たくさんの少年たちが稽古をしていたが、キースは見つからなかった。
こんな時こそルシアのちょこっと魔術信が必要なのだが――まだないものを嘆いても仕方ない。
アーシェは目的を変更することにした。
(場所がわかっている人のところに行けばいいのよ、うん)
研究棟の五階。走ると息が切れるのは学習済みだったので、アーシェは速足で向かった。
「ご機嫌麗しいな? なにかあったか」
扉を開けてくれたクラウディオが、ローブのフードを脱ぎながら言った。
「普通とはこういうことなのかと噛みしめておりまして」
「すまない。意味がよく……」
「今、私の世界には成人男性がひとりもいないのです! すれ違う時に距離に気を使う必要も、角を曲がった出会い頭に警戒する必要も、ないのです! そしてクラウディオ様は予想通りにキュートです! 最高です!」
小さなクラウディオは眉根を寄せて言った。
「……もう少し整理して話してくれないか?」




