ヘルムートの憂鬱
入学式の九日前のことだった。研究棟から滅多に出てこないクラウディオが、久しぶりにプレヒトに会いたいと言った。ヘルムートはクラウディオを背負って実験棟の階段を上った。いつかの日のように。
クラウディオは巣の上で空を見上げて、飛竜が来た、と呟いた。そんなまさか、とヘルムートは笑った。
「いや、結界に阻まれて西に飛んで行った。飛び方がおかしい。抑えた方がいい。プレヒトを出してくれ」
ファルネーゼの結界は、空の上にも張られている。だが、クラウディオはそれを越える術を知っている。難なくプレヒトを大空に羽ばたかせた。
あの時、ヘルムートとクラウディオが、キースとアーシェというもう一組の従兄妹と出会ったのは、果たして偶然だったのか。なにかの運命か。
(どうにも引っかかる。あの不器用野郎、なにを隠してるんだ?)
十六年前に死んだ女のことを聞いてきた数日後、キースはもう一度やってきて前言を翻した。
「先日の件だが、忘れてくれ。アーシェもクラウディオに助けてもらいたいと言っている」
こちらはそれなりに気にしてどうしたものかと考えていたというのに、一人でさっぱりした顔をしていた。
「無理を言ってすまなかった。事情についてだが、いずれ話したいと思っている。これからも指導、よろしく頼む」
キースは箱詰めされた胡桃をヘルムートに差し出し、言いたいことだけ言って去った。
「……なーんだよそりゃァ!」
手のかかる弟がもう一人増えたような気分だった。クラウディオに「もうアーシェを部屋に呼ぶのはやめた方がいいかもしれない」などと言い出す前でよかった。
クラウディオはアーシェを気に入ったようだった。先日など彼女を部屋に呼ぶのに様々な菓子を用意させたほどだ。もちろん商業街に買い出しに行ったのはヘルムートである。
(気が合うだろうと思ったんだよな。いつまでも引きこもって人と関わらないままじゃ、あいつも腐っちまう)
幼さに見合わぬ賢さをもっていると思ったアーシェは、実は十五歳だという。クラウディオに聞かされて、ヘルムートも驚いた。あのなりで成人間近とは。
育たない体、男体拒否、悪夢――たぶんピースが足りていない。まだなにかある。それをキースは隠している。
一度クラウディオに話してみるか、と思っていたが、それどころではない報せがもたらされた。
「……もう一度言ってくれ」
「却下だとよ。あの金時計は使えない」
「なぜだ! 完璧にできていただろう!」
クラウディオは予想通り憤慨して立ち上がり、ヘルムートに食ってかかった。
「怒るなって。オレが判断したわけじゃないんだ」
金時計は現代の魔術師にとって必須の魔力波計を備えているだけではない。ファルネーゼの秘密を保持するための魔術も仕込まれている。
ファルネーゼで学んだことを詳細に伝えることを禁じる。ファルネーゼに敵対することを禁じる。等々、魔術師を縛るための制約が編みこまれているのだ。
それゆえに金時計の設計の変更はファルネーゼの評議会を通す必要がある。
今回クラウディオの提出した新しい金時計は、その魔術師の制約の部分には変更を加えていない。前回同様、問題なく通るはずだった。
「……理由は?」
「あー。そこまで過剰に制限する必要はない。魔力の浪費は魔術師の責任である。伝統ある紋様を排するのは美しくない。あと……」
「ふざけるなよ……!」
ヘルムートは箇条書きを読み上げただけである。
「オレもそー思うわ。誰だよこんな仕事してんのは」
「……誰だ?」
「どーかねぇ。潰したかったヤツがいるとしか思えないが。星の魔術師がこれ以上でしゃばるのを望まないとか?」
クラウディオは難しい顔をして黙ってしまった。
星の魔術師クラウディオは、南大陸からの留学生ということになっている。いわば余所者だ。
かといってジーノが作ったものとして提出すれば、騒ぎになるのは目に見えている。魔力波に瑕を負い、回復の見込みがないと廃嫡されたジーノは、もはやいない者として扱われていた。
魔力容量の可視化を実現させた時もそうだった。まだ大公位を狙っているとか、噂されるのをジーノは嫌った。ジーノではない誰かのものとして発表したいと考えた。
ヘルムートがクラウディオという名をつけた。ジーノが周囲の目を気にせず自由に研究を行えるよう、イメルダが藍色のローブを持ってきて研究棟の隅の部屋を与えた。イメルダは、クラウディオの正体を知っている数少ない協力者だ。以前ジーノの家庭教師をしていたという。
そうして学院の内部でひそかに、六年かけて金時計の中に魔力容量を表示する仕組みを作り上げた。
クラウディオは天才だった。魔術を自由に扱うことができなくなってなお、研究者として誰より優秀だった。
今のクラウディオは魔術を放つことが難しい。体の魔力の通りが悪い。複雑な術を編めるのに、それを発動させるにはサポートが必要だった。たとえば、はぐれ飛竜を焼いたあの日は、ヘルムートとたまたま波長が合っていた。それで、ヘルムートがかわりに撃つことができたのだ。運が良かった。ヘルムートたちにも、救われたキースたちにも。
「お偉いさんからしたらメンツとかいろいろあんだろうよ」
「そういう……そういう問題じゃない。制限装置は多くの若い魔術師を救うはずだ。これから大きな戦になる。大魔術を連発させられれば、魔術師はあっという間に命を削られる……!」
「落ち着け、クラウディオ」
クラウディオを座らせて、ヘルムートはため息をついた。
魔力枯れのこととなると、いつもこうだ。
「オレが顔を出してこようか? 一応、参加権はあるんだ。評議会で誰が反対に回ったのかくらいは調べられる」
「だが……」
「まずは次の策を練ろうぜ。おまえは、そうだな、とりあえず意見書でも作れ。どういう理由で制限装置が必要なのか、バカにもわかるようにまとめてやれよ」
「それはいいが、ヘルムート、君はあんなに評議会入りを拒否してたじゃないか」
「……あー、まあ。けど見学するくらいなら」
「すぐに捕まって逃げられなくなるぞ。やる気があるなら金時計をつけろと言われるだろう」
「そこはまあ、なんとか誤魔化すさ。それに調べたいこともある」
「調べたいこと?」
――十六年前、他に誰か、死んだ者がいなかったか。
「……ちょっとな。とにかく、なんとかしてやるからまずは意見書を準備してくれ。持って行って黙らせてやる」




