魂の固着
アーシェは生まれついて特異な子であった。男性恐怖症だけではない。はじめに両親が気づいたのはそれだったが、その後も次々と二人を驚かせた。
あーあー、うー、と舌をうまく動かせないでいた時期を脱して、はじめて母がアーシェの発した言葉を聞きとれた時、それは「ミルク」とか「うま」とか「おかあさま」とかではなかった。
「せなかがつめたい。ふくをかえて」
抱き上げた赤子の肌着の背は確かに濡れていた。
ただの偶然でそのように聞こえたのでは、と当然母は疑った。しかしその後もアーシェはつたない発音で、しかしはっきりと文章を伝えてきた。
「おなかがいたい。きょうもうたべない」「ゆめこわい。ねたくない」「ありがと、かあさま」「これちょっとあつい」「そろそろねむい。でもねたくない」「とうさま、さわられるとへん。きらいちがう。みてるだけだいじょぶ」
この子は親の話している内容を分かっている気がする、と感じていたのがそれではっきりした。
これだけならば、特別に賢い、ですんだかもしれない。
けれどアーシェは「賢い」子ではなかった。
教えられた内容をすぐに理解して再現してみせる、というような神童ではなかった。
教えられていない内容をはじめから知っている、という奇異の子だった。
家の者の誰も知らない異国の詩を諳んじ、ペンを握れるようになればガタガタの文字で五か国語を書き分けた。鼻歌は数十年前の流行歌。習っていない歴史の話、先代の大臣の名前、母の言い当てられなかったワインの銘柄を香りだけで答えたこともあった。
こんな不気味な子どもを、よくぞ、魔族の子だと放り出さず、可愛がって育ててくれたものだ。アーシェはしみじみと思う。
「魂の固着は、世間で思われているほど邪悪なものではないですよ。ただ成功例がほとんど報告されていないというだけなので」
「わかっています」
アーシェは自分の中に「なぜか」ある知識を引っ張りだした。
魂の固着。
アーシェはこの言葉もはじめから知っていた。
すべての魂は、死と同時に肉体を離れ、次の新しい命に宿る。肉体を離れた魂はまっさらで、罪も喜びも痛みも愛もすべて、死した肉体に残る。
この摂理に反し、次に生まれた命に、魂の抜け出す前の記憶を残す――これが禁呪「魂の固着」だ。
どこに生まれ直すかは選べないが、これを成功させれば古来から人々の求める「不死」や「復活」、「若返り」に似た現象を得られるとあって、昔は研究もさかんに行われてきた。
だが、この「復活」が忌まれるものとなった。消滅したはずの二匹の魔族がふたたび生を受け、大陸を席巻し、人々を恐怖の底に叩き落した事件から――「生まれる前の記憶を持っている者」すなわち「魔族」という負のイメージが定着してしまったのだ。
さらに「魂の固着」の儀式は、方式は様々なれど、共通していることがある。それは、性質上術を受ける者はまず一度死ななければいけないということだ。魂を固着された者が成長して名乗り出るまで、実験が成功したかどうかもわからない。
そんな不確かで危険な術を研究する者は減っていき、いつしか禁呪となった。
「さらに言えば、「不死」を得たい者がいたとして、自分自身に儀式を行うのは無理です。死にながら術をかけることになってしまうのだから。魔力は生命力そのものと繋がっている。魂の固着には膨大な魔力が必要なのに、死の間際には魔力が全身から抜け出てしまう。この術を自分にかけるのは大賢者でも不可能。つまり、どんなにすぐれた術者でも自分の魂を自分で固着することはできない。それがわかって、研究者はいなくなった。そうでしょう?」
「完敗です。あなたは私よりお詳しい」
ここまで詳細に両親の前で話したことはなかった。成長して自分の置かれた立場を理解するようになるうち、アーシェは「はじめから知っている」ことはできるだけ表に出さないようつとめていたから。
父はむっつりと難しい顔をして腕を組んでいる。娘がぺらぺらと難しい魔術の話をはじめたのを見て引いてしまった? いや、あれは「なんだか複雑でよくわからないから黙っていよう」の顔だ。
「閣下からお話をうかがって、私が思ったのは――お嬢様に術をかけた誰かが必ずいて、その者はたいへん強い魔力を持つ優秀な術者であり、ならばファルネーゼにいる可能性が一番高いということです」
「探したとして……見つかったとしても、術を解けるわけではないのでは? この魂はもう私のものです。過去の記憶だけを切り離すようなことはできないでしょう」
考えたこともなかった。興味がなかった。誰がやったのか、なんて。
「確かにそうですが、不完全とはいえこれほどの大魔術を行ったからには、術者には強い目的があったはずです。そして過去にお嬢様の魂を有していた誰かのことも当然、術者は知っている」
アーシェの中にある知識を持っていた誰か。いつも夢でアーシェに成り代わる誰か。それが誰かは、考えないようにしてきた。夢の内容を思い出そうとするのは、してはいけないことだった。悪夢と現実を切り離すことで、自分はなんとかやってきたのだ。
「その人物のことを調べれば、お嬢様の男性恐怖症の理由もわかり、打開の道が見えてくるのでは? 毎夜夢にうなされるというのも、健康によろしくない。あなたの成長に深刻な影響を与えているように思えます」
アーシェはうつむいた。年齢は十四を数えるものの、外見は三つ四つばかり幼く見られる自分。決して病を得ているわけではないが、手足は細く、胸部はささやかで、とうに始まっているはずの大人の女性への変化がまだない。
「安眠の魔術などは試したことがあるのですが……」
チェルシーが言った。
「うかがっています。しかし大きな成果は得られなかったとも」
「どうだ? アーシェ。ここで思い切って、悪夢の正体に向き合ってみるというのは。魔術の素養はないかもしれないが、最近では生まれ持った魔力容量はそれほど重要視されないそうだ。おまえは賢いからファルネーゼでもやっていけるだろう」
「そうなのですか? すぐに魔力を使い切ってしまうことにはなりませんの?」
父は前向きに勧めてくるが、母は不安が大きいようだ。
「はい。ファルネーゼが魔術の指導を独占するようになって二百年、秘匿が多いため世間の認識はそれほど変わっていませんが、内部では劇的に進歩しています。特にここ十年での変化が目覚ましく――イデッ」
アントニーが不意に顔をしかめ、小さく左手首を振っている。
「はは、少し喋りすぎました。ともかく、詳しくお話はできませんが、修行を積めば誰でも大魔術に挑戦できる時代がすぐそこまで来ている、と私は考えています」
「まあ、それほど」
「あとは多少の運が必要となるのですが……これも外部の人間には話せないことです。ご了承ください」
ファルネーゼの秘密主義は今に始まったことではない。試験に受かり授業料を払えば誰でも入れるが、入ったら過程を終了するまで出国は許されないし、出た後は契約の魔術に縛られ、ファルネーゼの不利になることはできなくなる。
「実践科だけでなく研究科もありますし、魔力容量については心配ありません。使い切って健康に影響を及ぼすことのないよう、しっかり管理されているのでご安心ください。それに、もちろんですが、男子寮と女子寮は分かれていますよ」
「でも……」
チェルシーはまだ懐疑的だった。
「魂の固着は禁呪なのでしょう? その、知識だけではあるけれど、以前の魂の記憶を持ってしまっているアーシェは、色々調べられたり……捕まったり、大賢者府に差し出されたり……」
「そうですね。大賢者府は大げさにしても、魂の固着が実際に行われた例を見るというのは教授陣でも経験がないと思うので……知れば調べられるかもしれません。しかし、明かす必要はないと思います。あくまで一生徒として振る舞うのがよい、と私は考えます」
「それで術者を見つけられますか?」
「禁呪を行ったのですから本人も周囲には秘密にしているはずですし、お嬢様が怪しいと思えば向こうから近づいてくるでしょう。自身の研究成果です。確認したいと思わないはずがない」
沈黙が落ちた。テーブルにはお茶とお菓子が準備されているが、みな話に集中していて手を付けていない。今ごろ冷たく冷めているだろう。
アーシェもお茶どころではなく、考えを巡らせていた。自分は逃げ続けていた。悪夢と、そこにいる魂の記憶と向き合うことを避けてきた。
そろそろ対決すべき時が来たのかもしれない。
その時自分の心は壊れてしまうかもしれない。それでも、このまま目をそらしていては、なにも変えられない。
「やはり危険では! 行かせられません」
「わかりました。ファルネーゼ行き、考えてみます」
母とほぼ同時に口を開いてしまった。
「アーシェ!」
「ごめんなさい、母さま。でも……」
今のままではだめだ。
父は諦めないでいてくれた。高位の魔術師ならなんとかできるかもしれないと、家族の秘密をアントニーに明かし、東部からわざわざ連れてきてくれた。
母は夜な夜な神経質に泣きじゃくる赤子を我慢強く抱き続け、乳母と交代で世話してくれた。不気味な子と放り出さず、愛情深く育ててくれた。
この両親を不幸にするようなことだけはすまい、と決めている。
「他人よ、生まれる前の自分なんて。呪いをかけてくるだけの存在だわ。大嫌い」
アーシェは顔を上げて宣言した。
「だけど今のままじゃどうにもできない。私、自分を変えてみせます! そのための手がかりがあるのなら、ファルネーゼにも行きます!」