或る少年の記憶 2
次はもう会えないんじゃないかと思っていた。夢だったのかもしれないと感じていた。
だって彼女はあまりにもきれいで、儚くて、消え入りそうだったから。話していてもまるで現実感がなかったから。
けれどエルネスティーネは変わらずそこにいた。
少年が閉鎖書庫に行くたびに、笑顔で迎えてくれた。
「私に会ったことは、誰にも言わない方がいいと思うわ」
少年はひみつを守った。図書館に司書以外誰もいない時にだけ鍵を使ったし、彼女のことは司書にも話さなかった。
少年の毎日はとても楽しくなった。勉強が楽しい。食事が楽しい。眠るのが楽しい。明日が来るのが待ちきれない。
父がいらいらしていても、もう気にならなかった。どうでもよかった。
母がもっと愛おしくなった。かわいそうなははうえ、ぼくがちちうえから守ってあげる。
そして、エルネスティーネが好きだった。ぼくだけのひみつのエルネスティーネ。
名前しか知らない、ふしぎな人。
エルネスティーネは、本の探し方を教えてくれた。
ごちゃごちゃの閉鎖書庫で、少年が読みたい本の場所を、魔法のようにすっと指し示してくれるのだ。
エルネスティーネの膝の上にのせられて、本を読んでいる時間が、なによりも好きだった。
遠い遠い異国の、はるかな昔の伝説。昼と夜がばらばらだった頃の、冒険の物語。
もっとずっと古代の、光の子が黄昏をこえていくおはなし。
魔族たちの戦争の記録。混沌を生き延びた大賢者の、悲しい恋のおわり。
太陽のつくりかた。
魔王の妃の好きだったもの。
はざまに生まれた奇跡の子の運命。
夜の生き物たちの序列。
竜を封じた勇者と巫女の戦い。
生まれ変わった魔公がその花嫁と永遠の氷の中に封じられるまで。
ほろびた獣人の、その最後の一人について。
どれもこれも、面白かった。その内容について、エルネスティーネといつまでもいつまでも語らっていたかった。
悲恋のお話でおこっていたエルネスティーネ。
魔族のお話をこわがったエルネスティーネ。
私は竜に乗ったことがあるのよと得意げに言ったエルネスティーネ。
次はどんなお話で、どんな顔をみせてくれるだろう。できれば笑ってほしいのだけど。
少年はいつもそんな気持ちで本を選んだ。
エルネスティーネは歌もじょうずだった。少年が知らない歌を、いくつもいくつも知っていて、とびきりの声で歌ってくれた。
世界でいちばんきれいな声で鳴く鳥よりも、どんな楽器よりも、きっと美しいその歌声を、目を閉じてきくのが好きだった。
ある時は踊ってくれた。ゆったりした踊りも、激しい踊りも、ぜんぶが息を忘れるくらいにすてきだった。
でも、その激しい踊りはエルネスティーネをつかれさせた。
「ちょっと調子に乗っちゃった。ジーノが見ていてくれるのがうれしくて」
彼女はそう言いながら肩で息をしていた。抱きしめた彼女はほっそりしていて、母を思わせた。
「ごめんなさい。少し休んだら、だいじょうぶ」
上気した頬に見惚れた。
金の髪をなでると、彼女は心地よさそうにまぶたをおろした。そのまつげが長くて、金の髪の手触りはさらさらしていて、少年はむずむずとくすぐったい気持ちになったのだった。
いつか。
いつか大人になったら、ぼくがここからきみを出してあげる。
ははうえをしあわせにする。そしてエルネスティーネと、ずっと一緒にいたい。
ぼくが大人になるまで待っていてくれるかな?
せめて、もう少し背が伸びて、エルネスティーネと肩を並べられるようになったら。
そうしたら言うんだ。ぼくのおよめさんになってくださいって。
ある時ふと、少年は思い出した。エルネスティーネが最初に言っていたことを。
――私はね、あなたのおばあさま。
そんなはずはないので、冗談だと思って忘れていたけれど。
どうしてエルネスティーネはあんなことを言ったんだろう?
あの閉鎖書庫はとても不思議な場所だから、もしかして、死んだ人に会えたりするのだろうか。
でもエルネスティーネがほんとうにぼくのおばあさまだったら困る。だって、それじゃぼくとけっこんできないもの。
その時、少年は母の部屋にいたので。
その時たまたま、ごきげんのよかった母の部屋にいたので。
「ねえ、ははうえ。ぼくのおばあさまの名前、エルネスティーネではなかったよね……?」
なんとなく、聞いてみた。ほとんどひとりごとのつもりだった。
母は返事をしないことも多いので。
自分だけの世界にいることが多いので。
それなのに、母は、ゆらりとたちあがった。
「エルネスティーネ! エルネスティーネ、おまえ、その名をどこで聞いたの!」
突然怒り出して、火がついたようにふるえていた。
「あの女、許せない、私のジーノにまで! ああ、おまえ、あいつに会っていないだろうね? まだ生きている? 今すぐ殺して! あなた!」
叩きつけるような声だった。今までに見たことのない激昂だった。
「は、ははうえ」
なんとか落ち着かせようと取りすがると、突然、母の両手が首元にのびてきた。
「よくも、よくも!」
苦しい、ははうえ。どうして。言葉が握りつぶされていく。視界が赤くぼやけていく。
ジーノの意識は、それきり途切れた。




