実験のはじまり
名の刻まれた金時計の蓋を開いて見せながら、アーシェはチョーカーをつけることになった経緯をかいつまんでキースに説明した。
「四分の一も……おまえは、そんな大事なことを……」
キースは額を抑えている。
「ごめんなさい。先輩方にもお話を聞いてもらって、安心して……つい……」
当然報告すべきことを怠ってしまった。タイミングが悪かったと言えばそうだが、その後にいくらでも機会があったのに。
「いや……。いや、そうか」
キースは口ごもって、それから、ようやく怒りをおさめてくれた。
「おまえが信頼して相談できる相手をここで得られたなら、喜ぶべきことだ。いい友人ができてよかった」
「はい。本当に。……でも、心配かけてごめんなさい」
「構わん。気をつけてくれ」
二人の話が終わったのを見計らってか、ヘルムートが声をかけてきた。
「アーシェちゃん、こっちこっち」
「はい」
「ほいっ」
近づいてきたアーシェにヘルムートが手を差し出す。
そういえばヘルムートはどちらの手首にも金時計をしていない。銀のバングルが右腕にはまっているだけだ。
「タッチしてみて」
「ええ……? あ、はい」
アーシェは意図を了解して手を上げ、ヘルムートのごつごつした手に向けてゆっくりと近づけようとした。深呼吸して。せめてもう少しくらいは。
無理。
アーシェはあと三十センチほどのところで手を抱えてうずくまった。
「ううー!」
鳥肌。動悸。めまい。色々なものにいっぺんにおそわれて吐きそうだ。
「え、オレこんだけ? キースはもっと近かったよね?」
ヘルムートが嘆いているが、これでもかなり頑張った方なのである。褒めてほしいくらいだ。
「年季が違うのでな」
「に、兄さまは兄さまなので……」
アーシェは震えながら補足した。
「心の距離! 命の恩人なのに!」
「……これはなんの寸劇だ?」
クラウディオが冷えた声で言った。
「だから、こういうこと! おまえが変なんだよ」
「僕は何もしていない」
「そりゃあわかってる」
「はあ……」
アーシェはばくばくと音を立てている心臓をなだめながらふらりと立ち上がった。
「私も冗談でこうしているのではありません。本当に、生まれつき、こうなのです」
アーシェはクラウディオを見た。
「なのに、どうして、あなただけが……」
「本当に僕だけか?」
「はい」
「言い切るんじゃない。聞いたところ、男に近づかないようにして過ごしてきたんだろう? 実際にそうやって試した者はいったいどれくらいいた。百人か、二百人か?」
アーシェは黙った。
(父さま、おじいさま、執事長と、庭師、それから、たぶんそのほかの使用人、それに伯父さま、治療しに来た魔術師、あとは……)
確かに、それほど多くはない。百どころか五十もない。
「男のすべてが駄目だと思い込んでいただけで、他にも条件があるのでは?」
「条件というと……」
「それは自分で考えてほしいが。あるはずだ。僕にあてはまらず、君の身内にあてはまっていた、たまたまの条件が。そうとしか考えられないな」
「つまりできるだけ貴殿に特徴の似た男性を並べてアーシェに近づけさせればわかると? 道理ではあるが……」
「オレとキースにあっておまえにないもの? んー」
ヘルムートが首をひねる。
「あるだろう。たとえばだが、僕は天属性だ」
「あっ……」
なるほど。
「それとは限らないが、目に見えない違いがなにかあるのだろう。君が気づいていなかっただけだ」
アーシェはキースと顔を見合わせた。確かに、キースも地だったというし、天は珍しいのだから、今までのみんな、地だったと言われれば、そうかもしれない。
「前提条件が違うとわかったのならサンプルを増やせ。手当たり次第に試せば僕以外にも近づける男が見つかるだろう、その共通する部分を探ればおのずと判るはずだ。本当の条件が」
翌日の教室。授業前、アーシェは視線の先のブレーズににらまれた。
「なんだ? オマエはティアナの子分だろ? アイツと相性が悪くても、組んでなんかやらないぞ」
こちらから願い下げだ。別に話しかけるつもりはない。ブレーズの席まであと三歩、二歩。
一目でそれとわかる青いローブの先生たちを除けば、アーシェの知っている身近な天属性の男性といえばクラスメイトのブレーズしかいない。名前も知らないレアな青ローブ先生よりは、まだブレーズのほうが自然に近づけるというものだ。
ブレーズは十六くらいといったところだろうか。確実に範囲内の見た目だ。
(まずは私の中の先入観を排して……平常心で……)
クラウディオとぶつかったあの時も、直前まで男性がいることを認識してはいなかった。
駄目と思い込まずにまずはやってみる。
「なんの用だよ、オマエみたいなやつがオレに」
ブレーズが勢いよく椅子を立って体を近づけてきた。想定しなかった動きに、アーシェはびくっと体を凍らせ、そのまま後ろに転んだ。反射的に支えようとしてくれたのか、ブレーズの手がアーシェの手を掴んだ――が、抜けた。
「はあ、は……」
息がつまって、苦しい。背を打ったせいではなく。
「アーシェ!」
ティアナが駆けつけてくる。
「ちょ、オレは別になにも……大げさだぞ!」
焦ったようなブレーズの声が遠ざかる。やっぱり無理だ。
条件は天属性じゃない。そう思いながら、アーシェは意識を手放した。
「あら、もう目を覚ましましたね。顔色もよさそうで、なによりです」
イメルダは初老のおっとりとしたご婦人だ。白いまとめ髪に青いローブ。救護院の搬送室担当で、普通の健康な生徒たちとは接点があまりない。
「こう頻繁では、体にも負担ねぇ。頭を打ったりしても危険だし。なにか対策を考えなければ」
今日は自分から突撃して自爆しましたとは申し上げにくいところだった。
「よろしくお願いします……」
「ふふふ、また会ってしまいましたね?」
ほがらかな声がイメルダのうしろからやってきた。カトリンだ。
彼女はイメルダの助手のようなことをしているらしく、自身の授業のない時はここに詰めていることが多いという。
「カトリン先輩。入学式では、お世話になりました」
「いえいえ、いいんですのよ。今日は回復も早そうで、よかったこと」
「この分なら次の授業には出られそうですか?」
「はい」
では連絡を、とイメルダが席を立つ。かわりに、カトリンがベッドのわきに座った。
「ねえ! お話したいと思っていましたのよ。あなた、ティアナ様と親しいのでしょう。入学式の時、あなたを抱えて飛び込んできた方と一緒にいましたもの」
「えっ、そうだったのですか?」
入学式では、いったん意識を取り戻して、また寝て、とっぷり暮れてから寮に戻るというありさまだったので、なにも聞いていなかった。
「抱えて……というのは」
「若草色の髪で、つり目で、引き締まった体の男の方。銀のベルトをつけてましたから、たぶん属性付与コースの新入生では? くれぐれもよろしくと言いおいて戻られましたけど」
どう考えてもキースだった。係員あたりに運ばれたのだろうと思っていたが。
しかもティアナまでついてきてくれていたとは。あとで二人にお礼を言おう。
「それで、ティアナ様はどうです? うまくやっていらっしゃる?」
「は、はい。とても。天属性で、クラスの皆さんに慕われています」
「まあ!」
カトリンは目を丸くした。その可憐な菫色の右目の下に泣きぼくろがあることに、アーシェははじめて気づいた。
「私は、ティアナとは寮の部屋が同じなので。カトリン先輩は……」
「わたくしは、ティアナ様の姉君であるジゼラ様とお友達なのですわ。それでティアナ様とも少し交流が。そうですか、天属性で……まあ……大変だこと」
アーシェは、あの時の子守唄を思い出していた。
カトリンもティアナと同郷の、ケルステン人なのだ。そしてたぶん、アーシェ自身の以前の魂の持ち主も。
なんだか不思議な縁を感じてしまう。
「あの、ティアナは出身国を隠したいと思っているようなので……ご存知かもしれませんけど」
「ああ、ええ、出自を知られたくないとはおっしゃっていましたね。だからわたくしも、お会いしても話しかけないようにしようと思っていて。でもご様子が気になって。ごめんなさいね」
「いえいえ。私はいいんですけど。そういうことなら、機会があればまたお教えします」
「そう! ありがとう、アーシェさん。お願いしますわ」
家を出てしまったというティアナの姉は、そういえばどこへ行ったのだろう。やはり結婚だろうか。カトリンに訊ねてみたい気もしたが、ティアナの家族のことだから直接彼女から聞いた方がいいだろうと思い直した。
それで、もうひとつ気になったことを聞いてみる。
「あの、誰それが天属性とかそういうのは、こうして軽々しく話してもよかったですか?」
「もちろん。言いふらすようなことでもありませんけど、すぐに皆知ることになるのですもの。波形がすべて見えるようになったら、それを書き出して、属性も添えて全員分掲示するんですのよ」
今、アーシェたち新入生は、魔力波計の読み取り方、書き写し方などを習っているところだった。あれは張りだされるものなのか。これはきれいに書けるようにならなければ、とアーシェは思った。
「誰もが注目している情報ですからね。ふふ。上級生はもちろん、研究生も先生方も、自分と相性のいい子がいないか、見にくるんですのよ」
「先生もですか?」
カトリン先輩は声を低くした。
「そうなのです。先生との相性がよかったりすると、それはもうガッツリとつかまって離してもらえません……。単位は安泰ですが」
「カトリンさん。こちらへいらして」
そこへイメルダの声がかかる。連絡がすんで戻ってきたのだろう。
「はい、ただいま!」
カトリンは笑顔で肩をすくめてみせてからイメルダの方へ行った。なるほど、カトリンはイメルダの対ということか。




