取引
雲が広がってきたのか、小さな窓からの明かりが薄くなりはじめた。
「ケルステンの諜報員なら、何かこう、特殊な訓練を受けているんじゃないか。魔法薬にも耐性があるのかもしれない……さっきまでの話も、どこまでが本当かわからないぞ」
「ならやっぱよォ」
ハリネズミの靴先が横倒しになった椅子の背を突いた。尋問中の被疑者に暴行を加えることは執行隊法に違反しているが、指摘したところで意味はないだろう。
「こういう手合いは痛めつけても無駄だ。もっと確実な――来てくださったかな?」
キツネが板のきしむ音に反応した。ハリネズミは舌打ちした。
「これからだってのに」
転がされているクラウディオは扉とは正反対を向いている。その開く音だけを聞いた。
キツネとハリネズミが敬礼した。
「状況はどうだ」
エドガルド・ゼフィレッリだ。記憶にある声と一致した。
やっと来たか。遅いじゃないか。
思いながらクラウディオは薄く笑みを浮かべる。想起されたその記憶はどれも悪いものではなかった。
「金時計の蓋の刻印は削り取られていますが、フリッツと名乗りました。どうやらケルステンの反戦派です」
「なかなか肝心のことに口を割りません。煙に巻くような調子で」
ハリネズミも口調をあらためて真面目ぶっている。
「精神魔術が効かなかったと報告を受けているが」
「そうです。この魔法薬も部分的には効いているようなのですが……是非とも閣下のお力で」
「ふむ」
クラウディオの眼前によく手入れされた革靴が現れた。視線をあげて久方ぶりの顔を見てやろうとしたが、視界が悪い。太陽の光が弱まっている上、部屋には煙が立ち込めている。
「そう睨むな」
エドガルドは屈み、椅子の背に手をかけた。彼が片手を軽く動かしただけで、椅子はコトンという小さな音と共にクラウディオごと元通りに立った。空間制御を使ったのだろう。
温情か、力の誇示か。おそらくどちらでもない。距離が近い方が話しやすく、反応を伺える。そういう実利を優先する男だ。
「閣下。そのようなこと、我々が!」
「騒ぐな。このくらいは大したことではない」
エドガルドはクラウディオの肩に左手を置いた。その手首に金時計。
近づくことでようやく見えたのは、表情のわかりづらい平たい顔だった。鼻が低く、唇は薄く、眉が細い。何も変わっていない。
「ファルネーゼ評議会議長の権限において命ずる。今からは質問に正しく答えろ。虚言を弄することは許さない」
ファルネーゼへの従属を強制する金時計の力は、二通り。ファルネーゼのルールを逸脱する行動に対して自動的に発生する警告――これは装着者に対して直接苦痛を与える。うっかり外で魔術の使用法を口にしたくらいなら軽く痺れるくらいで済むが、例えばファルネーゼを覆う結界を破壊しようとしたなら動けなくなるほどの衝撃に見舞われるだろう。
もうひとつは権力者からの言葉による強制。
これは本来、緊急時の保険としての機能だ。第一種の権限を持つ者の金時計に付与されるこの命令権は、その内容がファルネーゼを利するものである時にのみ発動する。
「さて。君は名を偽り学院に入り込んだ。目的は何だ? フリッツというのが本当の名か?」
ただし、その効果の範囲は同様の権限を付与されていない金時計を装着している者に限られる。つまり第一種同士では使えないのだ。唯一、大公だけは全ての金時計に対しての命令権を持っているが。
ジーノ・ファルネーゼ゠レイニードの金時計は第一種の権限をはじめから備えている。後天性波形異常により廃太子となっても、公子の身分をなくしたわけではない。特権はまだ残っていた――とはいえ、クラウディオ自身はこれを行使したことは一度もなかった。己にその資格は残っていない、つまりファルネーゼのために生きていないという自覚があったからだ。
「知っての通りだ」
クラウディオは短く答えた。
「王弟殿下のお目当ては? 祖国の息のかかった者を内部に招いて、ファルネーゼを転覆させようとでもいうのか」
「……そんなことをして何の得がある」
「だろうとも。やはりあの男、ファルネーゼ内部のことには関心がないとみえる。本命はケルステンだろう――嗚呼、やはりイヴェッタ様の亡くなられたあの時、連れ戻すべきだった。あれにはファルネーゼに魔力を、全てを捧げようという気概がない。ここで育てねばならなかったのだ!」
エドガルドは大仰に嘆いた。
エドガルドの父はかつてドゥイリオの対だった。ラズハットより前の筆頭補佐官として務めていたのだ。そうして若くして亡くなったと聞いている。彼からすれば、ヘルムートが魔術の道を選ばず大公位を蹴ったことは信じがたい裏切りなのだろう。
キツネが窓辺に寄って外の様子をうかがっている。ハリネズミは苛々と靴先を鳴らしながら椅子の脇に立っているだけだ。
昂りかけた気をしずめるように大きな息をゆっくりと吐き出したエドガルドは、再び話しはじめた。
「ケルステンからの商人にまぎれて頻繁に彼と情報のやり取りをしている君のような活動員がいることは把握しているよ。あの男、第二の要と言われる祭殿とも最近連絡を取り合っているな。教官の仕事も休んで各地に飛んで、忙しいことだ」
彼は俯いたままの虜囚の耳元に顔を近づけ、声色を和らげる。
「無論、我々とてヴェンツェル王のやりようは目に余ると感じている。ユルヴィルにまで手を出したのはやりすぎだ。そちらの国内では押し切れるという楽観論のみが流布しているようだが、実際はそうではない。君たちが危機感を覚え、ファルネーゼに力を借りた彼に起ってほしいと思う気持ちもわかるつもりだよ」
よく調べているし、それほど外れてもいない。ヘルムート自身の意思はともかく、それこそがケルステン反戦派の願っていることなのだろう。
オレを巻き込まないでくれよな、と文句を言いながらも、彼らを邪険にできないヘルムートの姿が思い出される。ヘルムートは己を無責任で身勝手な性格だと考えているようだが、実際は逆で、いつも他人のために動いているのだ。
「……それで?」
「条件によってはケルステンへの牽制を評議会に諮ってもいいということだ。姫君にはいたずらに人心を惑わせるような行動は慎んでいただくようお伝えしていただければ」
クラウディオは顔をあげた。
「なるほど、なんのことかよくわからないな」
「……難しいことを言ったかな?」
「ファルネーゼは大賢者府ではない。他国の争いには干渉しない。これは大原則だ」
「例外はある。何事にも。そのための言い訳を作ることが君たちの仕事になるということだ。望む王を戴けるのだぞ」
「ヘルムートをケルステンの王に? 本当にあいつがそれを希望すると思うなら、直接交渉してみてはどうだ。邪魔だから出て行けと」
エドガルドは口をつぐみ、訝しげにクラウディオを見た。
「一度例外を作ればそこから綻びが生じる。いずれファルネーゼの足元に亀裂を入れるだろう。確かにケルステンはやりすぎているが、国家間の争いの域は出ていない。少なくとも今はまだ静観すべきだ」
「おまえは……誰だ? 名乗れ」
「第一、今のファルネーゼにそんな余力があるか? 議会の承認が得られるとは思えないな」
エドガルドは自らの金時計に目を走らせた。命令権が機能していないことにようやく思い至ったか。
「オイひょっとしてこの金時計、模造品か? 重罪だぞ」
ハリネズミが椅子の後ろで括られたクラウディオの右手を掴んだ。
「よせ」
エドガルドが咎めた。
「おまえ、いや、あなたは……」
「君ならすぐに気づいてくれるかと思ったんだが、当てが外れたな。まあ、声変わりしてから会うのは初めてだったか。久しぶりだ、エドガルド」