尋問
水を一口含ませた後で、細目の男は再びパンを手にして言った。
「なあフリッツ。ヘルムートが先月入国管理局の係官に接触してなにか調べていただろう?」
うまく飲み切れなかった水滴が唇の端からこぼれ、ゆるく顎を伝って落ちた。
ヘルムートは気をつけたと言っていたが、ばれている。
しかしそれを聞いてくるということは、調べられては困ることがあるのではないか。入国管理局での不正は、今回のことが起こる前からあったのか。
「先、月……? 帰国されていたはずだが……」
クラウディオは心当たりがない風を装ったが、内心では憤りを感じていた。
こんなことが以前から行われていたのだとすれば、説明がついてしまう。
単純な行方不明ではなく、わざわざ自主退学を装う理由。生徒が度々失踪すれば問題になるが、退学ならばそれほど騒がれることもない。
そしてもうひとつ、ジャンナとロレッラの杜撰なやり口。注意力の足りていないその原因が、慣れだとすれば――
おそらく、いなくなった生徒はルシアだけではない。
いつから、なんのために。
「なんだ、知らないのか」
男は指でパンをもてあそびながらつまらなそうにぼやく。
「ンなことより先週の大公邸だ。ヘルムートの目的は何だ?」
気の短い方が割り込んできた。
二人は揃ってヘルムートを呼び捨てにしている。ヘルムートの立場を知らぬはずもないが、見下しているのだ。
「あの方は……、平和を望んでいる」
「理想じゃない。具体的な話だ」
彼らはヘルムートと一緒にいた「友人」がフリッツだと思っているのだろう。まあ、合ってはいるが。しかし顔は見られていない。自信がある。どちらの「設定」で話を進めるべきか。
考えながら、疑問にも思う。あの日、ヘルムートはクラウディオのために動いただけだ。一体、彼らはヘルムートの目的が何だと思って警戒しているのだ。単に怪しい動きだから調べているだけか、それとも後ろ暗いところがあるのか。図書館跡、大公邸、あるいはその周辺に。知られてはいけないことがあるからこそ、キースを強引に連行してまで調べようとしたのだ。それは何だ。
情報が足りない。ひとまず、フリッツには少し正気に戻ってもらう。
「だが……、ここはどこだ? 俺は一体……痛いな。腕を、ほどいてくれないか」
隣に立った灰色の髪の男が苛々と舌打ちした。硬そうなその短い髪は上を向いて跳ねている。毛を逆立てたハリネズミのように。
「あー。めんどくせェ」
「やっぱり換気はよくなかったかな。追加してみようか」
細目が立ち上がり、手にしていたパンをぽいと口に入れて手をはたいた。
これでいい。どうせ自分には魔法薬は効かない。せいぜい効果を強めて、マスク越しにじわじわとその毒を吸えばいい。話が長引くほどこちらには有利だ。交替をされるとあまり意味はないが、それでもヘルムートが来るまでの時間稼ぎになれば。
「待て。これは不当じゃないか。俺は古着屋を見て回っていただけだ……、何の問題がある?」
クラウディオは顔をあげて抗議した。
細目が部屋の隅の小さなテーブルにある薬瓶を取り上げているのが見え、横から衝撃がきた。口の悪いハリネズミがまた椅子を蹴りつけたのだ。
「とぼけられると思ってんのか? 容疑は行政区への侵入と執行隊に対する妨害魔術の行使だ」
「……何の話だ」
クラウディオはハリネズミを睨んだ。
「先週の火曜、ヘルムートが実験棟の階段を上がっていった後、屋上に向かった青ローブのオレンジ頭がいたって証言がある」
薬瓶と匙を手にして、細目がゆっくりと香炉に近づく。
「その男はディルクと名乗っているそうだが、書類はでたらめだ。そうだろう、フリッツ」
浮遊魔術の実技テストは続いている。すでに合格をもらった生徒たちはまだうまくできない者にコツを教えたり、自主練したりと、思い思いに時間を過ごしていた。
ペルラが苦戦している子に付きっきりになって教えはじめたので、ティアナは少し離れて物思いに沈んでいた。もちろん、ブレーズに言われたことを考えていたのである。
「ね、ティアナ」
そこへ声をかけてきたのはリューディア。ティアナたちのクラスメイトであるバシリオの対だ。栗色のさらりとしたロングヘアが美しく、いつも明るく周りをはげましている三回生。外見は似ていないのに、ティアナは彼女にどこか故郷の姉と通じるものを感じ、一方的に淡い好意を抱いていた。
「はい。何でしょうか?」
「あのね。ちょっと聞いたんだけど、ルシアさんがあなたと同室だって。彼女が突然退学したって、本当?」
リューディアはティアナに息がかかるほどに近づき、声を小さくした。
「え、ええ。そうですけど」
ティアナは戸惑いながら答えた。
「突然ごめんね。気になって。実は私、彼女の対魔術の試験にはいつも呼ばれて組んでたのよ。だから」
「ああ……、そうだったんですね」
リューディアは天属性だ。評価試験の際は様々なクラスに出張して相性のよい生徒の対を務めているのだろう。
もちろん、それと同じ役目をこれからティアナもこなしていかなければならないのだが。
「ルシアさん、なにか悩みでもあったの? 成績はとても良かったはずだと思うんだけど」
これは、例の噂を広めるよい機会なのでは。ティアナはひそかに意気込んだ。
「それが、特には。卒業研究も順調で」
「もしよかったら後で詳しく聞かせてもらえない? 私はね――」
ちょうどその時、少しばかり高く浮かび上がっていたラトカがすとんと降りてきて言った。
「今なんか、エルミニアが奇声をあげてなかった?」
「えっ?」
ティアナはリューディアとの会話に夢中で、気づいていなかった。
「確かに、女の子が誰か呼んだような」
ラトカと手を繋いだまま、ルカーシュが講堂の方を向いて同意する。
「いや、確かにエルミニアの声だったと思う。助けてー、みたいな……。アーシェが倒れでもしたのかな」
ラトカの言葉を聞いて、ティアナは蒼白になった。
「わ、私様子を見てきます!」
話し込んでいる場合ではなかった。ペルラや先生に一言断りを入れることすら忘れて、救護院目指して駆け出す。
アーシェの身に何かあったら。自分が一緒に行くべきだった。いや、何ができたかもわからないが。胸が悲鳴をあげる。慣れない全力疾走できりきりと痛む。
じき食堂の裏を抜けるというところで、ティアナは建物の影から出てきた長身の男に正面からぶつかりそうになった。
「っ! すみませ」
勢いを留めるようにティアナの両肩をつかんだのはキースだった。
「ティアナか! アーシェは」
目を合わせた後、ティアナの背の方に視線を移して言い募る彼は、広場へ向かおうとしていたようだ。ティアナは首を横に振った。
「あ、アーシェは搬送室に向かったんです。エルミニアが一緒のはずなんですけど」
「逆か……!」
キースは即座に方向転換してあっという間に先へ行ってしまった。ティアナは幾許かの安堵を胸にその背を追った。