ルシアと古い金時計
「今年入学の君たちはまったく幸運だぞ。ついに完成したこの最新の金時計をはじめから身に着けられるんだから」
入学式の翌日。担任から名の刻まれた金時計が渡されたその時、ルシアの頭の中には「今すぐこれを分解したい」という強烈な欲求があった。もちろん必死で押さえつけはしたが。
話だけは聞いたことがあった。
噂の入ってくるのが遅い田舎暮らしだったが、母が赴任先で聞きつけていたのだ。ファルネーゼでは最近、魔力量を可視化することに成功したらしいと。
父も母もその真偽を疑っていたが、どうやら本当だったようだ。教室内は大騒ぎになっていた。魔術師にとっては生死を分ける魔力残量の問題。それが知らぬ間に解決していたとは。
みんなが興奮して口々に驚きや喜びを表現していたが、ルシアは無言で腕に収まった金時計を鼻先に近づけて観察していた。
外見からは、少し分厚くなっていることとリューズの位置が変わっていることしかわからない。しかし内部ではどれほどの変化があったことか。
実は、ルシアは子どもの頃に金時計を分解したことがあった。その古い金時計は祖父の遺品の一つだった。祖母が大切にしていたそれをバラバラにしたことで、いつもは優しい父に初めて怒鳴られて竦んだ。しかし祖母は「ルシアのすることだもの、おじいちゃんは許してくれるでしょう」とかばってくれ、元に戻せなくなったその金時計をルシアにくれた。
あまりに細かい部品が多く、元がどのように組み合わさっていたかわからない。中にはばらすことのできない用途の不明な塊も入っていた。ルシアはそれらを箱にしまって、ひとつのパーツもなくさないように用心した。ルーペを手にスケッチを取り、繊細な造りにため息をこぼし、パズルをするようにああでもないこうでもないと、合わせていく遊びを飽きずに繰り返した。
結局、入学するまであれを元通りに組み上げることはできなかったが、四年間学んで帰った暁には――と、ルシアはひそかな目標を持っていた。
言われるより先に蓋を開けていた金時計の中の白い時計盤。そこを、指示された通りに撫でさする。
零時からじわじわと水が拡がっていき、ルシアは息をのんだ。
「満量ではない者もいるかもしれないが、これまでそれだけ使ってきたということだ。どうせ家で遊んでいたんだろう? これからは気をつけるんだぞ」
ルシアの水は十一時で止まった。
わりと心当たりのあったルシアは、「そんなものか」と納得していた。それよりこの機構はどうなっているのか、水のように見せているこれは何を使っているのか、どうして別の表示方法を選ばなかったのか、そんなことばかりが頭を占めて、夢中で時計盤を押し込んで跳ね上げ、裏側を確認して親指の先でこすり、まだなにも記録されていない魔力波計の部分に変更のないことを見て取り、時計盤を指で挟んでその薄さに驚嘆していた。
「こらこら、天地の紋様はまだ出ないぞ、気が早い」
担任がルシアの机にトンと指をついて言った。いつの間にか隣に立たれていたことにさえ気づいていなかった。すみません、と肩をすくめ、時計盤を戻す。
耳に入っていなかったが、話は進んでいたようだ。まだ見知らぬクラスメイトが手を挙げる。
「先生、死ぬまで外せないって言いますけど、つまりこれは死んだら外れるんですか?」
「もちろん。そうなったら後はただの時計としてしか機能しなくなる。ああ、知ってる者も多いと思うが、金時計は魔術師の死亡届と一緒に学院に返却することになってるんだ。部品なんかを再利用するんでな。かわりに見舞金が支払われる。状態にもよるが、入学金くらいは戻ってくるから、大きいぞ。覚えておけよ」
そうだったのか、と、驚いた顔を悟られないように顔を俯けた。ではあの金時計は、祖母が「無くした」とかファルネーゼに嘘を吐いてわざわざ手元に残したものだったのだろうか。
(ごめん。本当に特別なものだったんだよね)
ルシアは生涯を共にする己の金時計をそうっと撫でた。帰ったらもう一度ちゃんと謝ろう、きっときれいに戻して返そう、と思いながら。
翌年にその祖母が亡くなったという報せが届くことはまだ知らないまま。
(もしもこの金時計がおじいちゃんの時代にあったなら、あたしはおじいちゃんに会えたのかな)
そんなことを考えていた、最初の授業。
ルシア・ソーンは、アリンガム王国の西端、海に面する小さな町で生まれた。
町の民家のほとんどは海辺に点在し、漁業を生業とする人々が多く暮らしていたが、ルシアの家はそれらを見下ろせる山の中腹に建っていた。
細い山道を登って、毎日のようにお客さんがやってくる。壊れた魔術具を抱えて泣きそうな人。ぐったりした子どもを背負った親。難しい顔をした遠い町の偉い人。
「どうしてふもとで暮らさないの?」
幼いルシアには不思議だった。買い物だってなんだって、町の中の方が便利なのに。
「だって、うちは昔からずっとここに住んでいるからなぁ」
父はそんな風に答えた。それが当たり前だという感じだった。
同じことを祖母に訊ねると、別の答えが返ってきた。
「魔術師はねぇ、人から少し距離を置くくらいがちょうどいいんだよ」
「なんで?」
「そうさねぇ。やっぱり、怖がられないようにだね」
ルシアは首を傾げた。
家を訪ねてくる人々には、父や祖母を怖がっている様子はない。彼らはむしろ慕われ崇められている。お客さんはみんな、ありがとう、ありがとうと何度も繰り返し、たくさんのお礼の品物やお金を置いて帰っていくのに。
そのうちにルシアは自分で理由を見つけた。
――たぶん、町の中にいたら、混雑するからかな。
山を登ってくるのは少し大変だ。岬の灯台や冷凍倉庫に異常があると、父は呼ばれてふもとに降りていく。魔術師はふわっと飛んでいけるのですぐだ。でも普通の人はそうはいかない。曲がりくねった道をよいしょ、よいしょと歩いてこなければいけない。もしもルシアの家が町の真ん中にあったら、お腹を壊した人、魚の骨がのどに刺さった人、調子の悪い船の原動機をちょっと見てほしい人なんかがひっきりなしにやってきて、大変なことになるだろう。たどり着くのが面倒だから、ここには本当に困ってどうしようもない人しか来ない。不便なくらいでちょうどいいのだ。
ルシアは家族が好きだったし、鄙びた一軒家のことも気に入っていた。
ピカピカのまるい夕陽が水平線に沈む時、海に橙色の長い路ができる。窓辺からそれを眺めるのが好きだった。二階のルシアの部屋は海側にあって、窓からは気持ちのいい風が吹き込んでくる。時には屋根の上に降りて座っていることもあった。鳥も猫も遊びに来て、一緒に海を見た。
小さなルシアには人間の友だちがいなかった。同じくらいの年頃の子と日常に接するということがなかったからだ。
しかし、退屈はしなかった。寂しいとも思わなかった。
祖母を手伝って家事をし、空いた時間には父の工房へ入り浸る。そういう日々に満足していた。
母はといえば、物心ついた頃からほとんど家にいなかった。
救護師の資格を取り損ねた。難しくて途中でやめてしまった――という母は、けれど怪我を治すのは器用にやってのける。魔法薬を調合するのも得意だった。それで重宝されて、国境の方に呼びつけられて仕事をしていた。要するに戦場から戻った兵士たちの回復役をしていたのだ。
家にはルシアと父と祖母とそして、寝たきりの曽祖母が暮らしていた。
祖父はルシアの生まれるほんの少し前に亡くなっていた。はじめての孫が生まれることを楽しみにしていた彼の名はルシアン。その名をもらって、ルシアはルシアになったのだという。
魔力の残り少なくなった魔術師は自ら命を絶つべき、というのは、少し古い考え方だが、地方では根強く残っている。
魔力枯れを起こして発狂した魔術師が起こす凄惨な事件は、様々な物語に取り上げられる定番のエピソードだ。現実には、数はそれほど多くないものの、歴史上で人々の記憶に残る大きな事故がいくつかあったことは事実である。
魔力が枯れても、魔術師はまだ魔術が使える。それゆえに危険だった。矛盾しているようだが、魔力のなくなった魔術師は己の生命力を魔力に変換してしまうのだ。ごくわずかな時間しか持たないまさに命がけの行為だが、精神の安定しない末期の者が周囲を巻き込んで暴走すればどうなるか、説明するまでもない。だからこそ魔力行使を封じるための魔術具は開発された。
しかし、それもまだ一般的ではない。ファルネーゼ内でのみ扱われる、高価で希少なものだ。
魔術師は人々に奉仕する。魔術師を隣人として迎えることは有益である。それを示すためにどれだけ魔術師たちが尽力しても、一度誰かがことを起こしてしまえば、信頼はまたゼロに戻る。
したがって、魔力枯れの兆候を感じると、魔術師たちはまず人里離れることを考えるのだ。髪が薄くなる、頭がふらふらする、それくらいなら年齢のせい、病のせいかもと思いつつもやはり警戒する。
ルシアンが終わりを意識したのは、爪が頻繁に割れだしたのがきっかけだった。
ちょうどルシアの母の腹がふくらみはじめた頃だった。
孫の顔を見るまでは、と、ルシアンは仕事を減らし、魔力を節約するようになった。
そんな折に不意の嵐がやってきた。
沖でたくさんの船が沈みかけた。
ルシアンは先の長い息子夫婦が大きな魔力を使うのを許さなかった。妻が止めるのも聞かずに一人で飛び出して大勢を救い、町の英雄になった。
戻ってきた彼の爪はすべて剥がれ落ち、手の震えが止まらなくなっていた。ルシアンは笑いながら家族に告げた。
「せっかくなら派手に全部使い切りたかったが、残っちまった。まだまともに頭が働くうちに終わらせないといかん。腹の子になんかあったらコトだからな。後は頼む」
そうして、彼は死を選んだ。魔術師にはよくある話。