置き去りのふたつのリング
マリーベルは、夕飯をなんとか食べきったものの、部屋に残されていたドーナツはアーシェとティアナに「あげる」と渡してきた。
「あの栄養剤もあってただでさえお腹がふくれているし。冷めてておいしくないかもだけど」
油紙に包まれたドーナツはちょうど二つ入っていた。本当はルシアと仲直りして二人で食べるつもりで買ってきたのだろう。プレーンなリング状のドーナツにはたっぷりの粉砂糖がまぶされていて、ルシアはこれが好きだったのだ。
あとで詳しく聞かせてもらう、などと言っていたわりに、マリーベルは口数も少なく、ティアナを問い詰めることはなかった。部屋のあちこちを片付けて回るアーシェたちをぼうっとした様子で眺めた後、「疲れた。もう寝るわ」とイメルダにもらった薬を飲んで早々と横になり、そのまま寝息をたてはじめた。
残された二人はイメルダからの着信を待って、そわそわしながら固くなったドーナツをかじった。
消灯時間近くなって、ようやく連絡があった。アーシェたちへの罰は保留、ロレッラは一週間の謹慎処分。詳しいことは明日の朝、クラウディオのところで、とあった。
翌朝、アーシェがティアナと寮を出ようとすると、階段を下りたところで後ろからエルミニアが追いついてきて、両手で同時にアーシェとティアナそれぞれの背中をポンと叩いた。
「おっはよー。なに、二人一緒に。珍しいじゃん」
こんな早起きでもエルミニアは横髪を凝った巻き方に仕上げている。
「おはよう。エルミニアは演習場の見学に?」
「とーぜん。活力の源だもん! アンタたちは?」
寮監室の前を歩くのは少し緊張したが、明るいエルミニアのおかげで自然に通り過ぎることができた。
「研究棟に用があって」
「えー。こんな朝から先生に呼び出しとか……わかった、昨日サボったからでしょ。あとでどこ行ってたのか教えてよね!」
そう言ってエルミニアは元気よく駆け出して行った。
火曜は実習があるので、朝のうちにクラウディオをディルクにしておく必要がある。
これまではアーシェひとりで行っていたが、付き添いがいると判断されたのだ。はじめはキースが迎えに行くと言っていたのだが、ティアナが自分が早起きすると手を挙げてくれた。寮内でも一人にならない方がいいだろうからと。
ティアナに頼んでよかった。エルミニアの楽しみをひとつ奪うところだった――と、アーシェは思った。
十月ともなると早朝の空気は肌寒い。アーシェはティアナと手をつなぎ、煉瓦道を歩いた。心細さを分け合うように寄り添って。
「ルシア先輩のこと、このままマリーベル先輩に黙っている?」
顔を上向けて囁く。
「そうね……せめてもう少し何かわかるまでは……。心配ごとを増やすだけになってしまうものね」
ティアナも小声で返してきた。
胸の奥で、なにかが引っかかるような気がした。不安が渦を巻いている。それにマリーベルを引き込むのは、よくない。そう思うのだけれど。
(この悩みを共有したい? それは違う。だけど……先輩にも手をつないでもらいたい。そんな勝手な気持ちなのかしら)
自分の心が上手く飲み込めなくて、アーシェはそんな風に考えた。
研究棟の五階、南側の突き当たりの部屋の前に立ち、ドアをノックする。
「はいよ」
ヘルムートの声がした。
「おはようございます」
アーシェが答えると、ドアが開いた。招き入れられて、二人、研究室に足を踏み入れる。見回してみたが、イメルダはいなかった。
「先生は……」
「ああ。仕事を優先してもらった。オレが話すよ」
ヘルムートがそう言った。
クラウディオもすでに事情を聞いているのだろう。厳しい表情でうなずいた。
ドアの近くで立ち止まっていたティアナは、しばし声を失っていたが、瞬きを繰り返した後ではっとしたように口を動かした。
「――あっ! あの、その。はじめまして……!」
その視線の先には、クラウディオがいた。
「僕か? 授業で会っているだろう」
クラウディオは、前髪をピンでとめて青いローブをまとい、変装の準備が済んでいる。ディルクとは髪と瞳の色、あとはまだ眼鏡をかけていないくらいの違いしかない。
しかし、不思議な輝きを放つ黄金の瞳は、ディルクとはまた違った鮮烈な印象を人に与える。闇色の髪と相まって、まるで夜空に映る満月のように美しい。
「そうなのですが、こうしてお会いするのは……それに、ちゃんとしたご挨拶もまだで」
ティアナはスカートの裾をつまんで膝を曲げ、頭を軽くさげた。
「ティアナ・アンナ・ドラフトゥータ・ランメルツと申します。叔父が大変お世話になっております」
「……ジーノ・ファルネーゼ゠レイニードだ。世話をされているのはこちらの方だが。よろしく」
クラウディオは胸の中心によせた両の手のひらを上下に重ねて、円をつくるようにふくらませた。ファルネーゼ流の正式な挨拶だ。
アーシェは意外に感じた。てっきりクラウディオと名乗るものだと思っていた。
ティアナが王女として振る舞ったので、それに応えただけなのかもしれないが。彼は大公家とは距離を置き、関係のないものとして生きたいと願っているのだろうと、そう思いこんでいたから。
「さて、急いで情報交換といこうか。ヘルムート」
クラウディオはすぐヘルムートに向き直った。
「へいへい。あー、まず昨日オレとイメルダで教務課に行って、動けるようになったロレッラと教務課の主任とで話したんだ。ロレッラの言い分としては、オレが生徒を複数乗せて飛行するのを見た、危ないのではないかという通報があり、注意しようと思った――てな感じだったかな。はじめのうちは自分はミスをしていない、ちゃんと拘束をかけた、あの生徒は変な力を持っていると主張してたが、襲いかかってきたわけでもない生徒に対して一時間も動けないような拘束をかけるのはやりすぎで懲罰の対象になるとイメルダに匂わされてからは、とっさの罪悪感からコントロールをあやまったかもしれないと意見をひるがえしてた。まあ、腹の中ではまだ疑ってるんだろうが」
「当然だな。魔術師なら自分が放った魔力の方向を必ず認識している。彼女自身をごまかすことはできない」
クラウディオがアーシェを手招く。
「念のため、水晶を確認させてくれ」
「あ、はい!」
アーシェは首元の鎖に手をかけ、ペンダントを引っ張り出した。外して渡そうと思っていたのだが、それより早くアーシェの正面に来たクラウディオが屈んで、アーシェの首にかかったままの水晶をつまんだ。
「うん、大した衝撃は受けていないな。魔石の消耗もほとんどないようだ。このままで問題ないだろう」
水晶を顔に近づけ、くるりと裏返しつつ、クラウディオは言った。アーシェは呼吸を止めていた。息がかかりそうな距離だったからだ。
「――で、話の続きだが。ルシアの退学届を受理したのもロレッラだった。退学の希望はいったん差し止めて相談を受けることになっているはずだが、彼女はしなかった」
クラウディオはペンダントから手を離して姿勢を戻した。
「主任からそれを指摘されて、ロレッラは例外に当てはまると思ったと返答したそうだ。急を要する場合、本人の意志が固い場合は受理してもよいことになっている、と。どうしても帰りたいとルシアが願っていた、と主張したわけだ」
「そんでオレは言ったんだよ。ルシアって、頑固で気の強そうな子だもんな、てさ。ロレッラはええその通り、とすまして答えやがった。もうその場で殴るとこだったぜ。イメルダに背中をつねられたけどよ」
「それでは……」
クラウディオはうなずいた。
「ルシアと会ってそういう印象を持つ人間はまずいないだろう。ロレッラはルシアと話したことはなく、退学届も勝手に書いて判を押したと考えられる。君が想像したとおり、ルシアは彼女の意思と関係なく、退学したことにさせられたんだ」
 




