伝言
「……わたしのことでごたごたして、言い出せなかったのかしら。本当はゆうべ、さよならって……」
「先輩がそんなに思いつめるほど悩んでいたなんて。昨日一緒にクッキーを焼いた時も、なにも……私、気がつけなくて……」
「ティアナは悪くないわよ。誰か……同じコースの子にでも相談してたのかもね。魔術具のことなんて、わたしは全然わからないし」
ぽつぽつと、マリーベルとティアナが話している。
アーシェは、自分の思い付きを、心の中にとどめていた。
今ここで騒ぎ立てて、本当は出国していないはずだなんて訴えても取り合われないだろう。
さっきやってきた馬車から降りた男。突然「もう出国していた」と言い出した係官。
そして、ルシアから退寮の挨拶をされたという「嘘」を話したジャンナ。彼女は、アーシェたちが飛び出していくのを見ていた。
手を回された、と考えた方がいい。
たぶん、入国管理局の建物の中から、今も観察されている。おとなしく学院へ帰っていくかどうかを。
書類を偽造して、生徒を一人消そうとしている、そんな相手だ。背後に何人いるのかもわからない。味方のいないこんな場所で、下手なことはできない。
騙されたふりをしてやりすごして、そして、安全な場所で二人に打ち明けよう。
それまでに、考えなくては。「敵」の目的が、いったい何なのかを。
ルシアを学院から消して、連れ去って、得られるものが何かあるだろうか。
まっさきに思いつくのはちょこっと魔術信だった。あれの便利さ、有用さは、アーシェも実感している。改良すればもっと色々なことに使えるだろう。しかし、ルシアの研究について知っている人間は、アーシェも信頼する者ばかりだ。
――いや、ルシアの担当教授がいる。確か、フェルモという名だった。
「先輩! 大丈夫ですか?」
張りつめたティアナの声に、アーシェははっとして顔をあげた。マリーベルがしゃがみこんで頭を抱えている。
「……ごめん。ちょっと、……くらくらして……」
マリーベルは途切れ途切れに話した。緊張と興奮が通り過ぎて、彼女を支えていた細い糸が切れたようだった。
「だ、誰か呼んできましょうか、救護術の心得のある人を」
ティアナがマリーベルを支えながら言った。
「いいわ。……ちょっと休めば、治るから」
そう答えながらも、マリーベルの顔色は悪かった。
アーシェはちらりと入国管理局の方を見た。あそこの人間は、信用できない。
だが、具合の悪い友人がいれば、頼るのが自然だろうか。迷っているうちに、岩がこすれるような異音が耳に届いた。
プレヒトの鳴き声だ。ヘルムートが戻ってきたのだ。
アーシェはほっとして、地に舞い降りたプレヒトの元へひとり走った。ヘルムートは被っていた兜を外して言った。
「アーシェちゃん。ルシアはどこも来てねーって――どうした? あの子」
ティアナに膝枕されて休んでいるマリーベルが見えたのだろう。
「マリーベル先輩は、疲れがたまっているんだと思います。この二日ほど寝ていないようで。ショックを受けていて……」
ヘルムートは信用できる。心強い味方だ。
しかし、これ以上彼がここで目立つのはよくないだろう。先日のこともある。
「実はさっき、係官の人が来て、ルシア先輩はもう出国していたと。見落としがあったみたいなんです」
「マジで? あー……んじゃ今からアリンガムの国境まで飛んで……けど生徒は出国できないから」
ヘルムートはそれでもルシアを追いかける方法を考えようとしてくれたが、アーシェは遮った。
「もういいんです、ヘルムート様。ありがとうございました」
「けど」
「私たちは馬車で戻ります。もうそんなに急いでも仕方ないし、授業にも間に合わないので。マリーベル先輩を休ませてあげないと」
ヘルムートは腕を組んで、アーシェの顔をじっと見おろした。
「……ほんとにそれでいいのか?」
「はい。ヘルムート様には先に戻って、キース兄さまに今日は行けなくなったと伝えてほしいんです」
アーシェは声を小さくして付け加えた。
「実は今日、いつもの場所に呼び出されていて、放課後研究棟の前で待ち合わせをしていて。なので……」
クラウディオのことは、マリーベルには話していない。距離はあるが、念のためだ。
言外に彼にも伝えてほしいと含ませると、ヘルムートはうなずいてくれた。
「了解。言っとくわ」
「よろしくお願いします」
飛び立つヘルムートを見送って、アーシェはティアナとマリーベルの元へ駆け戻った。
アーシェが遅い。
研究棟の正面口のわきに立ち、キースは金時計を開けて時間を確認した。何度見たところで時が早く進むわけでも、彼女が現れるわけでもないが。
授業が長引いているのだろうか。やはり気が重くなってしまったのだろうか。だが、約束を破るような従妹ではない。
ようやく思いついてルシアの魔術信を取り出したが、着信が来ている様子はない。なにか送ってみるべきかと考えていると、耳をつくような甲高い声で呼びかけられた。
「あーっ、キース様!」
キースは即座に魔術信を鞄に戻した。
近づいてきたのはアーシェの友人だ。エルミニアとラトカ。エルミニアは見るたびに髪型が違っていて、顔だけを見ると誰だったかと思うことがある。だが声が特徴的なのと、隣にいるラトカのおかげでエルミニアだとわかる。今日のエルミニアは左右に分けた髪を編み込み、リボンでまとめていた。
「こんなところで何してるんですか? 先生に質問ですか? 一緒に行きましょうか?」
「いや、俺は……」
次々と問いを投げかけてくるエルミニアの横で、ラトカが「あ」と気づいたように言った。
「もしかして、アーシェがいないから探してるんですか?」
キースは息をのんだ。
「どういうことだ」
「そうそう! あの子、ティアナと一緒に午後の授業をサボってぇ。コズマ先生が心配してアタシたち寮まで様子を見に行かされたんですけど、誰もいなくって」
エルミニアは両手を握り合わせ、くねくねと体を揺らし、唇をとがらせながら言った。
その横のラトカは腰に片手をあててまっすぐ立っている。亜麻色の髪は短く、手足はすらりとして飾り気がない。対照的な印象の二人だが、不思議と馬が合うらしい。
「珍しいよね、あの子ら真面目なのに。商業街にでも行ったのかな?」
「一緒にランチしたときは何も言ってなかったのになー。誘ってくれればいーのに」
「でもまあ、二人ともちょっと悩み事ありそうな感じだったよね」
「そーだっけ?」
「え、気のせいかな……」
キースは歯噛みした。学院内で白昼堂々連れ去られるようなことは想定していなかった。まだ情報は漏れていないだろうと油断していた。
アーシェが無断で授業を休むなど、通常では考えられない。
「それで、二人ともまだ見つかっていないのか」
「あー、えっと、授業のあと、コズマ先生が探しに行くって……今頃お説教かも」
「心配なんですかぁ? アタシ、もう一度寮を見てきましょうか」
頼む、と言いかけた時、背中から肩を叩かれた。
「よ、キース」
「はわわ、ヘルムート様!」
振り向くと、ヘルムートが立っていた。走ってきたようだが、息も切らしていない。
「ヘルムート殿。アーシェが」
キースの台詞をヘルムートは早口で遮った。
「アーシェちゃんから伝言。今日は行けねーってさ。あいつにも言っといてくれ。じゃ!」
「……なんだ。アーシェってば、ヘルムート様と一緒にいたの?」
「えー! やっぱサボりじゃん!」
駆け出して行ってしまったヘルムートの背を、キースは一拍遅れて追いかけた。




