はじまり
焼きあがったクッキーを二〇五号室に持ち帰り、冷めてから形のよいものを吟味したルシアは、できあがった三つの布包みをアーシェに渡した。
「じゃあこれ、渡しておいて」
「えっ。お礼なのですから、先輩が直接渡した方がいいのでは」
「だってヘルムート様なんてそうそう遭遇しないし……アーシェなら会うこともあるでしょ。お兄さんに言付けてくれてもいいし」
「せめてクラウディオ様には持って行っては? 会いたいとおっしゃってましたし」
ひと包みを返そうとするアーシェに、ルシアは両手を軽くあげて言った。
「いやいやいや……。また緊張して変なこと喋りそうだし、遠慮しとくわ。お願い!」
「まあ、明日会う予定もあるので、渡すのはいいですけど。それとは別にちゃんと」
アーシェの言葉を遮って、ルシアは手を叩いた。
「ありがと! じゃあさっそく余った分を食べよー」
「でも、もうすぐ夕食ですよ? 食後の方がよいのでは」
ティアナが提案したのももっともで、すでにアーシェたちはあつあつの焼き立てを何枚もつまんだ後なのだ。
「え、もうそんな時間? わ、ほんとだ」
金時計を開いたルシアに、ティアナが言った。
「すみません、私の手際が悪くて……」
「いやー、今日はいっぱい焼いたから。大丈夫、楽しかったでしょ」
「卵も最後にはちゃんと割れるようになったものね?」
「アーシェだって粉を顔につけて……!」
「ふふふ、ティアナも鼻に」
三人でくすくすと笑っていると、ドアが静かに開いた。マリーベルが帰ってきたのだ。
彼女は本を数冊、右腕に抱えていた。図書館に行っていたのだろう。
笑いのさざなみはすっと引いていった。
「……おかえりなさい」
アーシェは一瞬、どんな顔をしていいのかわからなかった。俯いたまま歩いてくるマリーベルに、ルシアが声をかけた。
「あのさ、三人でクッキーを焼いたんだ。よかったら」
「いりません」
マリーベルは短く答えた。
「あ、でも、せっかく二人が初挑戦したし、割と美味しく」
「いらないって言ってるでしょ?!」
アーシェはびくりと身をすくめてしまった。それほど大きな声だった。
「……ごめん」
ルシアはか細く言った。マリーベルはそれから何も話さなかった。部屋の中はしんとしてしまって、空気も冷たくなったように感じた。
いつもなら和やかな食後の時間も、みんな静かに個人でできることをして、ささやかな物音にも緊張して顔をあげるような雰囲気だった。アーシェはフルヴィアに借りた本をめくったが、なにも頭に入らなかった。
これは寝つけないかもしれないと思っていたアーシェだったが、睡眠不足のせいか意識を失うように眠り、夢を見ることもなく朝になった。
目覚めた時には、マリーベルはもう部屋にいなかった。
寝起きの悪いルシアを起こすのはいつもマリーベルだが、今日はアーシェが声をかけた。ルシアはすんなりと身を起こした。
「なんか、ごめんね。余計なことしちゃって」
ルシアはそんな風に言った。お礼というのは口実で、もしかするとあのクッキーは、マリーベルのことを元気づけたくて焼いたのかもしれない――と、アーシェは思った。
もしも、帰る場所を失ったら。
サウスウッドの屋敷がもう無くて、母も弟も無事が確かめられなくて。そんな報せを受け取ったら、自分なら。
具体的に想像しようとしても、心が拒否してしまう。とても耐えられない。
心づもりをしていたとはいえ、取り乱したり泣き出したりしなかったマリーベルは、どんな気持ちでいたのだろう。
マリーベルのことだ。きっと、友人もたくさんいた。町にはお気に入りの喫茶店もあって、一緒に出掛けていたに違いない。幼い頃から慣れ親しんだ風景のすべてが壊されて、そんな時に。
日常の中で楽しく笑っているルームメイトたちを、どんな気持ちで見たのだろう。
昼休み、アーシェは食堂でのランチの後、いったん女子寮に戻った。四回生のルシアはもう部屋にいるかもしれないから。
これからのことを、話したかった。
同じことを考えていたのだろう。ティアナもついてきて、二人で二〇五号室に入った。
ルシアはいなかった。妙な違和感があった。
「あら……?」
ティアナも部屋を見回して、呟いた。
どこかちぐはぐな感じがしていた。違う部屋に間違って入ったような。
アーシェは部屋の奥まで進んで、カーテンを開けた。
いつもごちゃごちゃしている一番端のルシアの机の上が、きれいになっている。片付けた? いや、なにもない。
「変ね」
違和感の正体はすぐに知れた。ルシアの私物が、どこにも見当たらないのだ。
ベッドわきに置かれていた工具や部品のたくさん入った箱も。
壁にかけられていた上着も。
「え、どうして……」
ティアナが不安そうに言葉をこぼす。と、ドアが開いた。ルシアの姿を期待したが、そこにはマリーベルがいた。
「……なんであなたたちがいるの? 先輩は?」
マリーベルは少しばつが悪そうに言った。手に持っている油紙の包みからいい匂いがしていた。ルシアがよく注文する、食堂のドーナツの香り。
「それが、ルシア先輩の荷物がなくて……」
「は?」
マリーベルは忙しく視線をめぐらし、包みをベッドの間のローテーブルに置き、ルシアの机の前に移動して引き出しを上から順に開けた。
すべて、空だった。
部屋の入口近くまで戻ったマリーベルは、姿見の横のロッカーに手をかけた。部屋では唯一鍵の掛けられるロッカーで、貴重品などを入れる場所だ。
ルシアのロッカーはあっさりと開いた。鍵は掛かっていなかった。
アーシェも背伸びをしてうしろからのぞきこんだが、その中身もまた、なにもなかった。
「部屋を移ったってこと……?」
マリーベルの呟きに、ティアナが「そんな」と声をあげた。
部屋替えは、よほどのことがないと許可はされないらしいが、騒音や仲違いを理由に、年に数件はあると聞く。
「昨日の今日で……。もう! 早すぎるでしょ!」
マリーベルはいらいらと髪をかき回し、部屋を飛び出した。アーシェとティアナもその後を追った。二人が階段を降りると、マリーベルが一階の寮監室の扉をせわしなくノックしているところだった。
「二〇五号室のマリーベルです。同室のルシア先輩は」
扉が開き、姿を現した寮監のジャンナが煩わしそうに言った。
「ルシアさんなら退学しましたよ」
「は?」
追いついたアーシェとティアナにもその予想外の言葉は届いていた。
「そんな、急に」
マリーベルが青ざめているのを見てか、ジャンナは少し言葉を和らげた。
「なにも聞いていないのですか? 同室のあなたがたに挨拶もなしに? まあ……」
「そんなはずは。あの、なにかの間違いでは」
ティアナが声を震わせながら言った。
「……私も事情までは聞いていませんが。あなたがたくらいの年齢なら、誰にも言えない悩みのひとつやふたつ、抱えているものでしょう」
アーシェは忙しく頭を働かせた。
ルシアとは、一緒に朝食を済ませてから寮に戻り、授業の準備をして、ティアナとアーシェは先に部屋を出た。いつも通りだったはずだ。マリーベルがいなかったこと以外は。
「あの、彼女は何時にここを出ましたか?」
荷物をすべてまとめてきれいに掃除して出て行くのは、それほど簡単ではないだろう。
「さあ……、お世話になりましたと、あれは何時くらいだったかしら。今ごろは入国管理局で出国の手続きでもしているのでは?」
マリーベルはぱっと身をひるがえして寮の入口へ向かった。アーシェもそれを追った。背後からジャンナの声がした。
「ちょっと! さすがに追いつきませんよ」




