洗濯日和
よく晴れた空は、結界の中だということを感じさせない透き通った青だ。
初夏の風が心地よい。
女子寮の裏庭で、アーシェは洗濯籠の中から水色のスカートを取りだして広げた。はぐれ飛竜に遭遇したあの日に着ていたもので、後で気づいたのだが裂け目ができていた。
これは捨てるしかないか、と思っていたところ、一昨日ルシアが器用にかがって直してくれた。あっという間のことだったが、間近でよく見ないとわからないくらいに綺麗にできていた。
「別にたいしたことないよー」とルシアは笑っていたが、アーシェから見ればかなりの技能である。
寮では基本的に自分のことは自分でやらなければいけない。アーシェも侍女のいない生活に適応するため、冬から春にかけて色々と練習してきた。
たとえ王族であろうともお付きを連れて入るということはできないらしい。一応、お付きが同時に試験を受けて合格すれば共に入国することは可能だが、同室にしてもらうなどの配慮は受けられない。
キースもアリンガムに従騎士の少年を置いてきている。なんでも彼は今バルフォアの本邸でキースの愛馬の世話を任されているとか。
アーシェはメイヤに教えられ、身支度に掃除や片付け、洗濯などを習得したが、さすがに裁縫までは手が回っていない。
「できない子はできる子に依頼したりとかね、よくあることよ。あとでお菓子なんか持っていくの。お金を払うのは禁止されてるから」
と、マリーベルが教えてくれた。
アーシェはうなずいて、ルシアのためにとびきりおいしいものを用意しようと心に決めたのだった。
アーシェがスカートをロープに吊るして振り返ると、ティアナがもたもたと白いブラウスを絞っている。
アーシェはここでの洗濯は二度目だが、ティアナは初めてだ。品の良いティアナはどう見てもいいところの娘で、アーシェ同様にわか仕込みなのだろうと思われた。
「時間はあるし、ゆっくりやりましょう」
ティアナよりたった二日早く寮に入っただけだが、アーシェはすでにマリーベルとルシアに色々教わっている。先達として道具を借りられる場所に案内し、二人して寮の裏庭にやってきたのだ。
「あ、はいっ。そうですね。ありがとうございます」
学院の女子寮では五百人弱の女生徒たちが生活している。生徒の中にはファルネーゼ内の自宅から通っている者もいるが、大半は寮生だ。
裏庭は洗濯物干しのスポットだが、晴れの日はかなりの量の洗濯物がひるがえる。そのため空間を上方に広く使えるように仕掛けが作られていて、これがなかなか面白い。巨大な鉄製の輪がふたつ、庭の両端にあって、その間にロープが幾本も渡されている。ふたつの輪は連動していて、レバーを回すことで輪も回転する。一本のロープが洗濯物でいっぱいになったら、動かして次のロープを降ろすのだ。洗濯物が行方不明にならないように、自分たちの使ったロープには部屋番号の書かれたリボンを括り付けることも忘れずにしなければいけない。
アーシェがこうしてティアナを洗濯に誘ったのは、彼女がとても萎縮しているからだった。
男性が苦手と言っていたが、年上の女性も同様なのではと思うほど、部屋でおとなしくしている。ことに元気のいいマリーベルと相性が悪いようで、びくびくしているのが見ていられない。
マリーベルもどうしていいかわからない、といった様子で、かまおうとしては空振っている。
「ねえ、ティアナさんはどうして男性が苦手なの? 聞いてもいいかしら?」
見た目が幼いのが幸いしてか、ティアナはアーシェには緊張しないようだった。ここは私の出番だわ、とアーシェはひそかに張り切っている。入学式までにはこの空気をどうにかしたいところだ。
「あ……、はい。あのぅ……。うちは父が厳しくて。よく叱られていて……私の出来が悪いのがいけないのですが、いつ怒鳴られるかと身構えているうちに……」
「まあ」
アーシェは父に怒鳴られた記憶が皆無だった。
世の中にはいろいろな親子がいるものだ。本で読んで知っているつもりだったが、実感はできていなかった。
「いつも姉がかばってくれていたのですが、その姉も家を出まして……私、逃げてきたようなものです」
「そうなの……」
あたたかく迎えてくれる家族を持つ自分になにが言えるだろうか? アーシェは考えこんでしまった。
「ご、ごめんなさい、こんな話をしてしまって」
「いえいえ、私が聞いたんですから。大変だったのね」
そういうことなら、年上の女性に対しての苦手意識というのはなさそうだ。
どちらかというと人間関係を構築すること自体不慣れ、という感じだろうか。それなら、アーシェも似たようなものだ。
「お姉さまが優しい方で、よかったわね」
「はい。とても……。姉は立派です。私も少しは人の役に立つことができればと……それで、才能もないのに、救護師になりたいなんて考えて」
「あら。こうしてここに来ているだけで、ティアナさんも立派だと私は思うわ。ちゃんと行動しているじゃない」
「そんな。私は」
「才能は必須ではないって、私にここを勧めてくれた魔術師の方が言っていたわ。実は私も自信はないの。ティアナさんは、魔術を使ったことってあります?」
ファルネーゼは、魔術の指導を独占している。
とはいえ、ルシアのような魔術師の子は、親に基本的なことを教わってから入学したりするようだ。いずれファルネーゼに入って本格的に学ぶ場合に限って、そのようなことも許されているとか。
「いいえ。私はまったく……。アーシェさんは?」
「私も初心者です。初級だけですね」
「私も、初級だけは頭に入れておくようにと入学案内にあったので、急いで勉強しました」
ティアナがうなずいて言った。
一般に手に入る、魔術の使い方を記した唯一の本が「初級本」だ。
魔力は生まれつき誰もが持っているので、その使い方の基礎は、いざという時のためにも習得しておくべし――昔はそういう考え方だったらしく、この初級は子どものうちに誰もが習うこと、と決められていた。
初級はかつて「十級」と呼ばれ、大賢者府の発行した教本が大量に出回っていた。九級、八級と段階的に難しくなっていき、それに伴い部数も減る。しかし三級までは望む者が誰でも手にできるよう、図書館などには必ず置かれていた。
しかし現代ではそういう決まりはない。便利な魔術具もたくさん流通しているし、一般人はあえて魔術を扱う必要はないとされている。古い十級以外の教本は破棄されあるいは隠された。
実際には、魔術を誰もが自由に習うことにストップがかけられたのは、魔術革命によって魔術師を志す者が一気に増え、大きな事故が相次いだことが原因だ。
アーシェはそれを「はじめから」知っていたが、これは常識ではない。魔術革命のことすら、母や使用人たちは知らなかった。部隊で魔術師と頻繁にかかわる父がうっすらと知っていたくらいだ。
このように普通なら得ているはずのない過去の知識を、アーシェはなぜか豊富に持っている。どれが常識でどれがそうでないか、判別するのに幼い頃は本当に苦労した。
アーシェの趣味というか、習慣は読書だった。普通の子が勉強したり遊んだりして学ぶべきことが、アーシェにはなにもなかった。友もいなかった。とにかく暇だったので、子どもの頃から父の書斎の本を手当たり次第に読んでいた。
父はまったく読書家ではなかったが、祖父や曽祖父の遺してくれた本があったのだ。アーシェは娯楽としては未知の物語を好んだが、実用書の類にも片っ端から目を通した。そして、そこからアリンガムでの常識を覚えていったのだ。
初級本の内容は古い時代から変わっていない。基礎の基礎で、魔術というよりはその前段階の、魔法の使い方についてのはじめの一歩。魔力とはそもそも何なのか、という概念の話から入り、実践的には「魔力を体の中でどのように動かすか、どうやって外に放つか」という、感覚のつかみ方が主な内容だ。最終的には小物を手を触れずに動かすところまでできればクリアとなっている。
「それで……できましたか?」
ティアナがブラウスを干しながら訊ねた。
「それが……びくともしなくて……」
アーシェは悪戦苦闘の練習を思い出しながら肩をすくめた。
「私もです。ちっとも動きませんでした」
「難しいわよね? 昔は子どもが全員できたなんて信じられないわ」
「えっ、そうなのですか?」
これはまたやってしまった。アーシェはあわてて誤魔化した。
「そ、そうみたい。本で読んだことがあって。昼夜期くらいの前のことよ」
「まあ……。アーシェさんはとても物知りなのですね」
「本の虫なの。あまり外に出たことがなくて……恥ずかしいけど」
「いえ。私も、世間知らずは同じです」
ティアナはうっすらと微笑んだ。
「よかったら一緒に練習しませんか?」
「します! 是非!」
そこからは洗濯物を干し終わるまで、初級の話で盛り上がった。少しは打ち解けられたようでほっとする。
部屋に戻る前に、アーシェは付け足した。
「マリーベル先輩はとてもいい人よ。私、いろいろ助けてもらっているわ」
「はい。私、わかります。わかっているんです。……少しずつ、慣れたいと思っているので……あの、頑張ります」
ティアナがそう言ってくれたので、アーシェはほっとした。




