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アーシェは大人になれない  作者: 相生瞳
第五章
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岐路




 雨の中、煉瓦道をひとりで歩きながら、アーシェは近づく研究棟の五階の窓を見上げた。


 自分の気持ちに自信が持てなくなっている。

 クラウディオといると胸がときめく。いたたまれないような、恥ずかしいような、むずがゆい心地にさせられる。自分をよく見せたくて、から回って、笑顔ひとつで幸せになる。

 そういうのを、恋という。


 アーシェはこれまで、恋愛ものの小説をさけて読書をしてきたが、どんなジャンルの読み物でも、そのような描写は割と付き物であって。本心では嫌いではなかったし、登場人物の恋の行方を気にしながら冒険ものを読む、なんてことはよくあった。

 だから、恋がどういうものかくらい、経験していなくても知っているつもりだったけれど。


 これが恋なのだと思ったのだけれど。

 今でも、そう思うのだけど。だって、雨にけぶるあの窓から、彼が姿を見せないかしらと期待してしまうし。


 だけど、と、アーシェは唇を引き結んで考える。



(どうして好きになったんだっけ……)



 尊敬できる人だと思った。頭がよくて、他人のためにその力を使える人。

 それとは別に、はじめから、なぜか親しみを感じていた。

 一緒にいるとほっとすると思った。


 また会いたい、もっと知りたいと思った。

 それの、どこまでが自分の気持ちで、どこからが――



 記憶をさぐり始めるとまた怖くなって、アーシェは傘の柄を握りしめた。





 研究棟に着いたアーシェは、ピンクの傘を閉じて螺旋階段を上った。

 突然の訪問にもかかわらず、フルヴィアは読んでいたレポートを横に置いてアーシェの相談に応じてくれた。


 フルヴィアの研究室は、よく片付いている。備品なのだろう、どの部屋にもある大きなデスクの上には、花瓶があり、いつもきれいな花が生けられている。

 水晶玉はそことはまた別のテーブルの上だ。レースのクロスがかけられた丸テーブルで、対面で座れるようになっている。暗示の痕をほどくようになってから、アーシェがフルヴィアの指導を受ける場所はいつもここだった。


「ダメだわ。どこにもない」

 目を覚ましたアーシェに、フルヴィアは言った。

 アーシェの話を聞いて、フルヴィアは「すぐに診察しましょう」とアーシェを水晶玉の前に座らせたのだった。そこから、意識を失って、何分が経ったのか。フルヴィアは申し訳なさそうに眉根を寄せていた。

「塔さえ見つかれば打てる手もあるのに。私の力不足ね」

 まだよく頭の回っていないアーシェは、小さく首を振った。

「あの、なにが……」


「あなたの中に別の塔を探していたの。でも、ないわ。少なくとも枝分かれはしていない」

 フルヴィアは水晶玉を撫でながら言った。塔というのは、フルヴィアが人格に見立てているイメージだ。

「あなたの症状は、多重人格が参考になると思ったの。一人の中に別の人格がある状態ね。聞いたことはある?」

 アーシェはうなずいた。

「二重人格者のお話なら、読んだことがあります」

「物語にはよく使われるわね。私も実際何人か治療にあたったことが。ただ、そちらの場合は結局、本人の人格が複数あるだけなのだけど……あなたの場合は違う人生を辿った本当の別人だというところが難しいのよね」


 フルヴィアは椅子を立ち、歩きながら話した。

「人格の分裂は、一人の中に塔が複数ある状態なの。途中から分かれたり、根元から別のものが建っていることも。それと同じように、あなたの中に見つけられないかと思ったのだけど……。隠れているのか、存在しないのか……」

 フルヴィアが壁際の本棚の前で足を止める。細い指がつと本の列をなぞり、一冊を抜き出した。

「多重人格はね、記憶が別々に積み上げられていくから、塔が分かれるの。お互いの情報は参照できないし、体を使うのはどちらかだけ。同時に出てくることは普通ないのよ」

 それなら、アーシェの状態は多重人格とは違う。少なくとも情報が引き出せている。

 彼女は戻ってきて、手にした本をアーシェの前に置いた。そしてまた、反対側の壁の、別の本棚に近づいていく。

「治療は、別の人格と対話して親身に訴えを聞いてあげることからはじめるの。原因は強いショックや積み重なったストレスだけど……これもあなたには当てはまらないかしら。ああ、でも過去の彼女には当てはまっているかもしれないわね?」


 アーシェは水晶玉の前に座ったまま、フルヴィアの話を聞いていた。

 エルネスティーネは、怯え、悲しんでいる。それは確かだ。

「最近、思い出せる知識も増えていて……。彼女の存在が大きくなっている。そんな感じがするんです。あの、私が今、暗示の痕をほどいていることとは、関係ないのでしょうか」

「そうね」

 フルヴィアは手を止めて、少し考えるようなそぶりをした。

「関係がないとは言い切れないわ。積み重なった暗示が彼女を縛る鎖になっていたかもしれない。でも、そのままにしておいてもよくないし」

 フルヴィアは首をひねり、また本を引き抜いた。


「男体拒否症に関しても、何らかの方法で彼女からの干渉を遮断できないか考えていたのだけど……。具体的には、記憶を消す魔術とか。なくすというよりは思い出せなくするという方が正確かしらね。彼女に関するページを封じてしまおうというわけ。ただこれはとても高度で、失敗が多い魔術なの。記憶は多くのエピソードと関連づいているものだから、ひとつだけ封じたつもりでも、他にもいくつも思い出せなくなってしまったり、記憶の順番が混乱してしまったりするのね」

 早口に説明しながらもう一冊選び取って、フルヴィアは振り向いた。

「もしも彼女の塔が独立して存在するようなら、それごと封じてしまえる。これはチャンスかもと思ったけれど、やっぱりそううまくはいかないみたい。あなたと彼女の距離は予想以上に近いようね。土台に彼女の知識があって動かせないのが痛いわ。明らかにあなたの方が主人格だし、乗っ取られるようなことはない……と言いたいけど、今の段階で保証はできない。彼女の方が長い経験を持っているのだしね。人格が混ざるということはさすがにないと思うけど……たびたび出てこられるのは困りものね。他の原因に心当たりは?」


 これを話してもいいものか、アーシェは口ごもったが、少しでも手がかりが欲しいという気持ちが先に立った。

「……過去の彼女と知り合いだった人と、話したり、とか」

「誰だったかがわかったの? いつの間に」

 フルヴィアは足早にアーシェの元へと歩いた。

「そ、そうなんです。実は。それで……」

「なるほどね。彼女の記憶が刺激されてしまったかもしれないということ……。それを早く言ってちょうだい」

「すみません」

 アーシェは頭を下げた。フルヴィアは手に持った本でアーシェの頭をポンと叩いた。


「これを貸してあげる。どれも多重人格や解離に関する研究が含まれてるわ。難しいかもしれないけどあなたなら大丈夫でしょう。一応参考にしてみて」

 アーシェは三冊の本を受け取った。ずしりと重かった。


「はじめに報告しなかったということは、彼女がどんな人物だったか、私に話す気がないのね?」

「それがまだ……、その、私にも」

「そんな顔をしないで。責めているわけじゃないから」

 鮮やかな赤いルージュの唇を動かして、フルヴィアは言った。


「もし彼女の干渉が今以上に増えてくるようなら、すぐ私のところに来て。暗示の痕の解除については、不安なら中断して様子を見てもいいわ」

「ありがとうございます。そうします……」

「大事なのは、過度に不安にならず、自分をしっかりと持つこと。あなたの塔を揺らがせてはだめよ」





 研究棟の廊下で、アーシェはあたりを見回した。フルヴィアから借りた本を鞄に入れる時、ちょこっと魔術信が点灯していることに気づいたからだ。

 幸いなことに誰もいない。土日の研究棟はたいてい静かなものだが。

 壁際に寄り、念のため自分の背中で隠しながら、アーシェは着信内容をそっと確認した。六号機からだった。


 ――話がある。時間をもらえないか


 クラウディオからの簡潔なメッセージを読み取って、アーシェは魔術信を素早く鞄の中に戻し、もう一度周囲を見た。

 アーシェは動揺していた。そわそわと歩いて、階段の前で立ち止まる。


(……え? なに。今の、見間違いじゃないわよね)


 フルヴィアの研究室は二階にある。ひと月前、フルヴィアの指導の後でそのままこの階段をのぼって彼に会いに行ったことがあった。思いがけず、一緒に食堂に行くことになり、慌てたり緊張したり、でもとても嬉しかった。

 昨日までの自分なら、迷わずに五階へ向かっていたけれど。


 階段の上の方を見上げながら、アーシェは考えた。

 どのみち明後日の朝には会いに行くことになる。実習があるのだから。なのにわざわざ連絡してきたのは、急ぎの用でもあるのだろうか。エルネスティーネのことでなにか思い出したとか。


 アーシェは胸にさげたペンダントを、服の上からきゅっと握った。

 今、ひとりで彼に会うのは、やっぱり少し不安だった。


(……まだ見なかったことにして、あとで考えよう)


 自分をしっかりと持つ。そのために、なにをすればいいのか。

「私は、アーシェ。アーシェ・ライトノア……」

 言い聞かせるように呟いて、アーシェは閉じた傘をつきつつ螺旋階段をおりていった。



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