眠れない夜のあと
三人ともが落ち着かない心地でマリーベルの帰りを待ったが、戻ってきたマリーベルは喜んでも悲しんでもいなかった。ただ小さく「ただいま」とだけ言った。
「だ、誰からだった? ご両親?」
ルシアが真っ先に聞いたが、マリーベルは短く首を横に振った。
おそらくそうだろうとは思った。両親から連絡があったなら、マリーベルはもっと感情を動かしているはずだ。
「先月私と一緒に管理棟へ行った時の、お友だちからの返信ですか?」
アーシェの台詞にも、マリーベルは頷かなかった。ぽすんとベッドに腰掛けて、手にしていた封筒をテーブルに置く。
「家族と連絡取れなくなってから、あちこち、思いつく限りの知り合いに出してて……少しでもなにかわかればと思って。手帳を持ってきてたから、連絡先のわかる人、片っ端から。これは二か月くらい前に出したやつの返事。子どもの頃お世話になってた人で、今は遠くの村に住んでて……」
どこかぼんやりしながら、途切れ途切れにマリーベルは話した。
「長いこと会ってなかったし、わたしがファルネーゼに入学したことも伝えてなかったから、驚かれたけど。丁寧に教えてくれたわ。うちの町はもうないって」
ティアナの喉が音を立てるのを、アーシェは聞いた。
「手紙が来なくなった頃からそうだろうなってわかってたの。だから大丈夫。ハッキリした分、心の整理ができるわ」
マリーベルの表情は硬かったが、榛色の瞳だけが爛々と輝いていた。
「ごめんね。一人で考えたいから、しばらく話しかけないで」
そう言ってマリーベルは二段ベッドの梯子を上っていった。
明くる日の朝、アーシェはティアナを誘い出した。なるべく人目につかない場所をと考えて、授業の合間にキースに魔術信を送った時のように第一講堂の裏を選んだ。
とはいえ、人気のないところを選びたがる人間というのはいるもので、こんな学園の敷地の端っこの、紙くずが転がっているような場所でも、先客がいることはある。例えば、二人きりになりたいカップルだとか。ここで出くわしたことはないが、アーシェは図書館の二階の窓からなにげなく外を見た時、裏の林でべったりくっついている男女を目撃してしまったことがある。すぐに目をそらしたが、あれはなかなか気まずいものだ。
アーシェはそっとのぞいてから、ティアナの手を引いて講堂裏へ足を踏み入れた。朝食後すぐだったためか、幸いなことに無人だった。
ふたりは、まるでベンチのように長く平らな岩の上に腰掛けた。表面は磨かれたようにつるつるで、ひんやりしている。おあつらえ向きのこの岩は、きっと過去に誰かが用意したのだろう。恋人との逢瀬のために、魔術で運んで――アーシェにそんな想像をさせるほど、座り心地は上々だった。
「ごめんなさい。心配してくれたのよね」
ティアナはまずそう言った。
「ゆうべ、泣きそうな顔していたもの」
「私にはそんな資格はないから……それだけはしないようにって堪えたわ。でも」
ティアナは疲れた目をしていた。眠れなかったのだろう。夜中、幾度もティアナの身じろぎする気配を感じた。
「アーシェこそ、なにか悩んでいるんじゃない? 昨日から少し……」
「お見通しね」
アーシェは肩をすくめた。ティアナが起きていることに気づいていたアーシェももちろん、同じような夜を過ごしていたのだから。
「実はそうなの。とても絶望的な気持ちだったんだけど……先輩の抱えている悲しみに比べたら、そばで支えてくれる人のいる私は幸せ者なんだって思ったり……。でもやっぱり不安になって、怖くて眠れなくて」
朝食の席で、マリーベルはすっかり普段通りに振る舞っていた。話題も、教師の誰それがもうすぐ休職するらしい、といったうわさ話で、昨日のことには触れないでほしいという意志を感じた。
実際、誰にもどうにもできないのだ。帰る家を失ったマリーベルが、どういう道を選ぶのか――それはもう決まっているのだろう。
「踏み込んでほしくないと先輩が思っているならそっとしておいた方がいいって思っているけど、それって冷たいのかしら。私は人付き合いの経験が浅くて、自信がないわ」
「そう、ね。私は、自分ならどうしてほしいかをまず考えるけれど、相手が同じように感じるとは限らないものね」
「私、先輩に相談に乗ってもらったことがあるの。私は悩んでるなんて、言ってなかったのに、気付いてくれて……嬉しかったし、力になりたいけど。でも、できることなんて思いつかなくて。それに……今は、自分のことでいっぱいで」
「それで。アーシェになにがあったかは聞いてもいいの?」
ティアナの真剣なまなざしに、アーシェはうなずいた。
鞄から取り出した遠耳の鐘は、決して聞かれてはいけない話をするのだという合図だ。
指ではじくと、コーン、という耳の奥に響くような不思議な音が広がる。
「ティアナにはいつか話さなきゃって思ってたわ。私の秘密を……。あのね、ごめんなさい。私、ティアナの秘密を、もう知ってしまっているの」
アーシェは覚悟を決めて話しはじめた。
「あなたがケルステンの王女だということも、王女として生まれた人間がなにを望まれるかも」
ティアナはルビー色の瞳をこぼれ落ちそうなほどに見開いた。
「だから、というわけじゃないけど。秘密を知っている人にしか話せないことって、あるでしょう。私は私の不安をティアナに聞いてもらいたいし、ティアナにも抱えている気持ちを見せてもらえたらって思うわ。だって、一番の友だちだから」
「アーシェ……」
ティアナは俯いた。小さなしずくがこぼれ落ちる。
「あの、本当にごめんなさいね! ヘルムート様から聞いてしまって。私がもう知っているって思っていたみたいで……。別の話の流れだったから、ヘルムート様を責めないで。聞かなかったことにしてくれって言われていたの」
「そう……、そうだったのね。私……ごめんなさい。言えなくて。なにもできなくて」
「謝ることなんてないわ。少なくとも、私には」
アーシェはティアナの頭を抱えるようにして撫でた。




