紅茶にミルク
螺旋階段を下りながら、アーシェは恋心を自覚した日のことを思い出していた。
あの時もこうして、手すりにすがるようにして、うつむきながら歩いていた。
当たり前に近くで話せて、普通の子みたいに触れ合うことができて、ドキドキして。
優しくしてもらって、こんな自分でももしかして――と、抱きかけていた夢が砕かれて。
恥ずかしくて消えてしまいたいような気持ちだった。
今は過去の自分を、冷めた心で皮肉に眺めている。
まるで正反対だ。
消えたくない。それを思いながら震える足を進めている。
静かな研究棟の中で、重い扉の開く音がした。もうじき一階に着くという時だった。
足早に近づいてきた靴音が止まった。
「アーシェ」
階段の下で、アーシェを見上げながらキースが呼んだ。
「――兄さま?」
先に帰ったはずなのに。
「ルシアから魔術信が。おまえが具合を悪くして部屋に戻ってくるはずが、遅いと。心当たりはないかと」
アーシェの疑問を読み取ってか、息を切らしたキースが早口にそう言った。
クラウディオが気にしてルシアに連絡してくれたのだろう。なんだか申し訳なかった。
「ごめんなさい。少し休んでいたから……もう平気よ」
あと三段ほどというところで足を止めると、ちょうどキースと目線が同じになった。
「そうは見えないな。顔色が悪い」
睨むような視線に肩をすくめて、アーシェは階段を最後まで下りた。
キースが隣にいる。
そのことにほっとしたせいか、手すりを離れたからか。少しふらついた。
差し出されかけた手のひらが、こぶしを作る。
「……俺が来ても意味はなかったな。手を貸すこともできないとは。誰か――」
魔術信を取り出そうとしたキースを、アーシェは遮った。
「いいの。兄さまが一緒にいて。話したいことがあるの」
中庭のベンチより、食堂のテラス席の方が近い。
そんな理由で、寮から離れる方に向かった。午後のお茶の時間を過ぎ、しかも土曜とあっては商業街の飲食店を利用する生徒の方が多く、テラス席はほとんど埋まっていなかった。
飲み物を注文して戻ってきたキースに、座って待っていたアーシェは報告する。
「ルシア先輩に連絡したわ。お茶して帰りますって」
アーシェの魔術信にも、ルシアから「今どこ? 大丈夫?」というメッセージが届いていた。気がつかずに、心配させてしまった。あとでちゃんと謝らなければ。
アーシェの頼んだミルクティーを、キースがアーシェの前に置いた。湯気のあがる紅茶と、小さなミルクポットのセットだ。
「……それで、何かあったのか」
キースはアーシェの向かいに座り、話をうながした。
近くの席は空いているが、アーシェは念のため遠耳の鐘を鳴らし、ハンカチにくるんでティーカップの横に並べた。
「私……この前から少し、おかしいの。思っていないことを言ったり、勝手に体が動いたり……」
キースのカップからはコーヒーの香りがしていた。表情を険しくしたキースは、少し間をおいてから口を開いた。
「それは、誰かに操られているというような?」
「感覚としては……本当に自然で、はじめは気のせいかと。考え事をしていて、いつの間にかお茶を飲み終わっていたり、急いでいて鍵をかけたどうかわからなかったけどちゃんと閉まっていたというような……あるでしょう。知らないうちに自分がした。そんな感じなの。だけど私じゃない。私のはずない……そういうことが重なって」
アーシェはミルクポットを傾けた。
鮮やかな紅茶の色が、ミルクで煙っていく。
「食堂で言っていたな。杭がどうとか」
「そう、それなのよ」
キースも違和感を覚えていたのだろうか。
「俺はまた、彼女の知識を拾ったものかと。それで様子がおかしかったのか」
「あの時、あんなこと話すつもりなんてなかったの。杭……知っているような気もするけど、はっきりしないわ……」
スプーンで混ぜると、ティーカップの中は完全に透明感をなくした。紅茶の色も、ミルクの色も、残っていない。
アーシェの体を勝手に動かしているのは、エルネスティーネに違いない。他には考えられない。
けれどなぜ、今になって。
彼女を知ってしまったから?
暗示の痕をほどいたから?
クラウディオに近づいたから?
「先週、研究室で倒れる前もそうだったの。私、馴れ馴れしくクラウディオ様の頭を撫でたりして。変だったでしょう」
「あれが」
キースは意外そうに目を見開いた。
「そうか……。思ったより、なんというか。しっかり動くのだな」
「色々思い返してみたのだけど、入学式の日の真夜中、私は部屋を出て行こうとしてみんなに止められて、大変だったって。それは記憶になくて、だから寝ぼけていたようなものと思っていたけど……でも最近は、私の意識があるのに、私の意思とは違うことを、エルネスティーネが」
そこまで言って、アーシェは気づいた。
これは今に始まったことではない。
「だけど、同じね」
額に手を当てているキースの方に、右手を差し出してみた。
「私はずっと、兄さまに触れたいと思っていたのに、できなくて。それと変わらないわ。彼女はいつだって、私の体を勝手にしてきた」
助けてくれた人と握手をすることもできず。
何の悪意もなく触れてきた人を前に倒れたり。
いつもいつも、そうだった。アーシェの気持ちを無視して、父に触れさせなかった。悲しい顔をさせた。
キースが額から手を離して、アーシェに差し伸べた。
アーシェは手のひらをその上にかざした。ほんの少しおろせば、触れられるのに。
指先が小さく震えるのを止められない。
それに抵抗しようとすると、息が乱れ、胸が締め付けられた。
キースが手を引っこめた。アーシェはようやく大きく息を吸い込んだ。苦しくて涙がにじんだ。
握りしめた手のひらを、目の前でひらく。
「兄さま。私、どうしよう……」
立ち上がったキースが、心配してくれているのがわかる。
「エルネスティーネが私の代わりに話したり、考えたりして。どんどんそれが増えていったら。いつの間にか、私が私じゃなくなって、そうしたら私は……!」
きっと、違うものになる。
混ざってしまったら、もう――
「大丈夫だ」
キースはテーブルをまわり、アーシェの傍に来た。
「おまえは言っていただろう。中庭で倒れたあの日に。俺が名を呼んだから戻ってこられたと」
過去を思い出そうとして、暗闇に落ちたあの日。キースから手紙をもらった日だ。
「おまえがおまえでなくなれば、俺はわかる。その時は何度でも呼ぶ。俺がおまえを呼び戻してやる。必ず」
アーシェは顔をあげた。キースはテーブルに手を置き、片膝をついて、アーシェの目をのぞきこむようにしてきっぱりと言った。
「だから、おまえは大丈夫だ」
キースの深い青の瞳に、小さなアーシェが映っていた。
「ありがとう……兄さま。信じてる……」
すがりつきたいのに、アーシェはただ、そう答えることしかできなかった。
ともかく専門家に相談してみるといいだろう、と言われ、アーシェは明日にもフルヴィアの研究室を訪問することに決めた。
付き添おうかとキースは言ってくれたが、大丈夫と断って、女子寮の前で別れた。
寮の部屋で食べることが定められている夕食は、点呼を兼ねている。部屋のメンバーが全員揃っていることを確認しながら、配膳のメイドが食事を運び入れるのだ。
土曜はもうひとつ、配膳係の仕事がある。
「今日は、マリーベルさんに来てます」
それは生徒に手紙が届いているのを知らせることだ。
アーシェが同室になって以来、はじめてマリーベルの名が呼ばれた。
マリーベルは息を呑み、青ざめ、かつかつと食事を口に運んだ。最後に水を飲み干し、立ち上がる。
「わたしの分のデザートは好きに食べて」
それだけを言い置いて彼女は駆け出ていった。




