謝罪
「浮遊ならいいが、飛翔は一人で挑戦するなよ」
釘を刺されて、アーシェはこくこくと頷いた。
「そもそも通常、飛翔は二回生になってからだからな。君の安全については、僕はもちろんヘルムートたちも気にかけてくれている。あまり焦らないように」
「……ありがとうございます。でも……」
「なにか気になることが?」
アーシェは自分の体を抱きしめるように、両腕を組んでぎゅっと肘をつかんだ。
「私、もっと強くなりたいです。キース兄さまが連れて行かれた時、私はなにもできなくて……ここに来てから、男性がそばにいる状況にもだいぶ慣れたと思っていたんですけど。知らない男の人が近づいてきて、怖いと思ったらもう震えが止まらなくて。そういう自分が情けなくて……」
「男体拒否症か。確かに、それをなんとかしていかないと、いくら身を守る術を会得したとしても厳しいな。――過去の記憶に原因があるとわかった以上、イメルダが言っていたように、暗示を含めた精神魔術方面からアプローチしていくしかないだろうが」
クラウディオは腰掛けたソファの隣を手のひらで軽く叩いた。座れということだ。
「ここからが本題だ。君に大事な話がある」
アーシェがソファに戻ると、クラウディオはカップの底に残っていたほんの少しのお茶を飲み干し、深刻そうに切り出した。
「もうはっきりしたと思う。君はエルネスティーネで、そうだとすれば、魂の固着を使ったのは間違いなく僕だろう」
クラウディオは俯きがちにそう言った。
「そのことについて謝罪したい。僕は」
「ま、待ってください。そんな、まだ決まったわけでは。他にも――たとえばそう、ラズハット様なら、エルネスティーネの近くにいたかもしれないのでは?」
アーシェは慌てた。クラウディオに頭を下げられるようなことは何もない。
「いや、彼ではありえない。なぜならラズハットは魔術師ではないからだ」
「えっ? でも、前大公の対で……」
「彼は元々属性付与を学びに来た武術家だった。それが天属性で、しかも祖父との相性が非常によいことがわかり、破格の条件を提示されてファルネーゼに残ることになったんだ」
絵が趣味で、ヴィエーロの友人で、武術家? アーシェの中のラズハット像は当初のものからどんどんずれていく。
「ラズハットが魔術を本格的に学ぶ必要はなかった。魔力の調節さえできればそれ以上はすることがないわけだ。祖父の方が魔術を上手く扱えるのは明白だからな。だから彼はファルネーゼを卒業していない。ローブも持ってない。入学して三か月で属性付与を会得し、その後すぐ祖父の政務のサポートをすることになったからだ。祖父がなにか教えていたかもしれないが……ともかく禁呪を扱えるほどの力はない」
属性付与コース生に天属性が出ると揉めることが多い、とラトカが言っていたが、それが大公の対だったとなればその騒ぎはどれほどのものだったか。
「本来、魂の固着は入念な準備期間が必要な儀式魔術だが。おそらくその余裕がなかったんだろう。術が完全でなかったのはこのためで、幼かった僕は冷静な判断力を失っていたとしか考えられない。ともかく、これまで君を苦しめてきたのは僕だということだ」
クラウディオはその黄金の瞳を揺らめかせながら、アーシェを見ていた。
「本当にすまない。君はまっさらに生まれ直すべきだったのに、僕が理をゆがめてしまった」
悪夢も、男体拒否症も、魂に残った記憶がなければ起こらなかった。そうだとしても。
「なにも。クラウディオ様はなにも悪くありません」
アーシェは立ち上がって言った。謝られるなんて、そんなことは望んでいない。
「だって、エルネスティーネが男性を怖がっているのはクラウディオ様のせいじゃないでしょう。悪いのは彼女を怯えさせている誰かで、あなたじゃない。私はそんな風に責任を感じてもらいたくないし、エルネスティーネだって……あなたのことを恨んでなんかいないはず。私があなたに触れられることがきっと、その証拠です」
アーシェはクラウディオの手を握って言い募った。
「はじめから……あなただけが、大丈夫だったのは。エルネスティーネがあなたに心を許しているから。そうに違いないんです」
クラウディオの視線がアーシェの顔と握った手との間を往復した。
「……君は、優しいな」
やがて、彼は気が抜けたようにふっと微笑んだ。
「そんなこと……」
ただ、クラウディオに辛い表情をしていてほしくなかった。
優しさなんかじゃない。自分のためだ。
「ありがとう。彼女も、とても優しい人だったよ」
その言葉はアーシェを打ちのめした。
違う。私はエルネスティーネじゃないのに。
私の中に彼女を見ないで。そんな愛おしそうな目をしないで。やめて。
胸がつぶれて泣きそうな気持ちなのに、右手が動いて彼の頬に触れた。手のひらでそっと、撫でるように。
「アーシェ……?」
「だいじょうぶ。あえてよかった」
唇が紡いだのは、アーシェの気持ちにひとつも沿っていない台詞だった。
クラウディオが不思議そうに瞬きした。アーシェは後ずさった。
「あ……、あの、違います。今のは」
「いや、別に……構わないが」
クラウディオは前髪を引っ張るようにして咳払いした。
「僕も君に会えてよかったよ。とにかく、僕にできるだけのことはさせてくれ。いつでも君の力になる。それで」
うまく言葉が出てこない。
以前にもこんなことがあった。体が勝手に動いて。まるで夢の中のように。
「わ、私……」
考えていないことを口走ったり。
しようと思っていないことをしたり。
どくどくと、胸が嫌な音を立てる。
「どうした? また具合が悪くなったか。震えて」
「そ、うです。気分が。帰って寝ます」
なんとか唇を動かした。このままここにいたら、自分は自分でなくなってしまう。そんな想像に取り付かれて、テーブルの横に置いていたいつもの鞄を急いで肩にかけた。
「アーシェ」
クラウディオは心配そうに声をかけてくれたが、アーシェには笑ってみせる余裕もなかった。
「ごめんなさい。また今度」
逃げるように廊下に出て扉を閉めると、体の力が抜けた。
しばらくそのまま、アーシェはそこにへたり込んでいた。
(……私じゃない。絶対におかしい。いつから……?)
カチカチと歯が鳴った。足先が冷えて、心の底まで凍り付くようだった。




