いつもどおりの朝のはずだったけど
陽の光を受けてきらきらと眩く輝く黄金の髪。
豊かな実りを象徴するかのような深い翠の瞳。
その少女は立っているだけで周囲の視線を集めていた。貴重な宝石のように。ただあるだけで人々を魅了した。
その場の主役であったはずの少年よりも、輪の中心だった。
少年は王子だった。誕生日だった。その祝いの席で、少年は彼女に衆目を奪われたことを怒るでもなく、ただ歩み寄って言った。
「なるほど美しい。娘、そなたは余の妃となれ。成人の儀に余の隣に立つことを許す」
「殿下。勿体ないお言葉にございます」
少女は膝をつき、震えながら求婚を受けた。
その日から妃教育の日々が始まった。七年に渡って作法や歴史、異国の言語、舞と歌、溜息から指先一つの動きまでを叩き込まれ、国母となるに申し分ない淑女へと成長した。
そうして迎えた王子の成人の儀に、彼女は闇へ落された。
「おまえとの婚約は解消する」
「なぜ、ですか?」
「賢しげな口をきき、余の意を汲まぬからだ」
彼女が立つはずだった王子の隣には、いつからか馴れ馴れしく王子に近づき、親しげに振る舞うようになった女がいた。
ただの友人と思っていた。たとえそうでなかったとしても、愛人を持つことも側妃を立てることも彼の自由だ。
そう考えて見ないふりをしていた。一度として彼女は王子に異を唱えたことなどなかった。それなのに。
「失せよ。余は寛大ゆえ、命までは取らぬ。どこへなりと行くがよい――余にその顔を見せぬところへ、だ」
胸を裂かれるような痛みを感じて、アーシェは悲鳴をあげた。
「は、はぁ、は……」
また、夢だ。幼い時分より繰り返されてきた悪夢。冷や汗が流れ、アーシェの薄い胸を伝っていく。
「お嬢様。お水でございます」
駆けつけた侍女がグラスを差し出す。
異常なほど短く息をしているアーシェを前にして、侍女の目に浮かんでいるのは心配の感情ではなく、労りだった。日常のことなのだ。
「ありがとう……」
震える手でグラスを受け取り、背中をさすられながら、一口、一口、喉の奥に流し込んでいく。
そうしているうちに夢の輪郭はぼやけていった。ただ、ひどい目にあった、と感じるだけ。それで体が楽になっていく。
ほう、と息をつく。ここは、サウスウッドの自分の屋敷。いつもの部屋。侍女の名はメイヤ。季節は冬。昨日の天気は、珍しく雪。夕食にあたたかい鹿肉のシチュー。
(私はアーシェ)
グラスを返し、冷えた手をさする。
「大丈夫ですわね。では、お着替えをお持ちいたします」
さっと一礼してメイヤは出ていった。アーシェは柔らかな絨毯に足をおろし、姿見の前へと歩く。
肩にふれるくらいの長さで切りそろえられた真っ直ぐな紫の髪。冷たい海のような深い青の瞳。
「私はアーシェ」
鏡に映った自分に言い聞かせるように。もう一度。
「私は、アーシェ。他の誰でもない」
アーシェ・ライトノア。十四歳。しかしその年齢より幾分幼く見られる、小柄な少女であった。
「おはようございます姉さま!」
いそいそとアーシェに駆け寄ってきたのは、アーシェと同じ紫の髪の少年だった。
「コリン! おはよう!」
弟のコリンは九歳。ライトノア家の跡取りだ。
コリンはアーシェの目の前で足を止め、こわばった表情で勢いよく両手を広げた。アーシェは笑って同じように両手を広げ、弟を抱きしめた。
とんとん、とお互いの背を撫でる。
「ふふっ、今日も大丈夫でした」
「それはそうよ。キース兄さまでも十二までは平気だったわ」
こうして毎日、朝食の前にハグをするのは、二人の間の儀式のようなものだった。
アーシェは男性恐怖症だ。しかも重度の。
赤子の頃から、泣き虫だった。ことに父が抱こうとすると、火のついたように泣いて暴れて手が付けられなかったらしい――初めての子に抱っこを拒絶された父の落ち込みようについて、母から何度面白おかしく聞かされたことか。
寝起きと男性が泣き出すスイッチとわかってからは、手のかからない子だったと言われるが。ともかく、アーシェは生まれついて男性がダメだった。指でつつかれれば鳥肌が立ち、手を握られれば卒倒するありさまだった。
父のことは嫌いではなく、むしろ愛しているのだが、近づくことは難しい。数年前の父の誕生日に、意を決して、息を止めて、はじめてその頬にキスを贈ったが、そのまま倒れて一日目覚めなかった。「頑張ってくれたのはわかるしとても嬉しかったが、二度としてはいけない」と父に泣いて懇願されたものだ。
男全部がNGではなく、コリンのように子どもが相手なら平気だ。その境界はおそらく十二、三くらいまでだというのが、キースによって実証されている。
キースというのはアーシェとコリンの母方の従兄だ。小さな頃から会うたびに可愛がってくれ、たくさん遊んでくれた。肩車から高い高いからお馬さんごっこ、両手を掴んで持ち上げられぐるぐると回されるような激しい遊びまでしてもらっていたし、どんなに触れていても平気だった。
二人があまりに仲睦まじいので、父は嫉妬してか「キースなら大人になってもアーシェに触れられるのではないか。私も子どもに戻ってアーシェと触れ合いたい」などと言っていた。アーシェ自身も、キースに触れられなくなる日は来ないだろうと思っていた。
しかし、その日は来たのである。
六年前、十三歳になったキースと会った日、いつものように手を触れようとして動悸がした。気のせいだと思おうとした。アーシェの顔色が悪いのを見て、キースは無理をするなと止めようとしたが、平気ですと首を振った。手を握って、大丈夫と思ったが、数秒後に吐いた。今思い出しても顔の赤くなる思い出だ。
そういうわけでアーシェの男性恐怖症は筋金入りなのである。アーシェ自身の意思とは関係なく、体が勝手にそうなっているのだ。
「でも僕、姉さまに背が追いつきそうです」
コリンは悲しそうに眉を下げて言った。
「ずっと小さいままならいいのに……」
「そんなことを言ってはダメよ。みんなコリンの成長を楽しみにしているの。もちろん、私もね」
弟の頭を撫でてやりながら、アーシェも思う。いつまでもこうしてコリンに触れられる自分でいたいと。
父にキスをし、従兄と手をつなげる自分になりたいと。