4.『私は椿を殺し、仙台に帰ろうと思った』
二○二二年十一月二十日。
私は万年筆を握ったまま、どうしても結論を出せずにいた。
行き詰まってから既に三日が経っている。原稿を仕上げたのち、暫く寝かせてから推敲するスタイルの私にとって、最早猶予はなかった。
「随分悩んでるみたいだけど、大丈夫?」
頭を抱える私を見かねたらしく、椿が尋ねた。顔を上げれば、定位置となった安楽椅子に浅く腰掛け、退屈そうに足をぶらつかせている。
「あまり大丈夫とは言えないな」
「何をそんなに悩んでいるの? 今までスラスラと書いていたじゃん。プロットだってもう決まってるんでしょ」
「結論がどうしても出せない」
私が答えれば、「結論?」と椿は鸚鵡返しに問うた。
「あなたのメモ帳見たけど、起承転結――発端、事件、葛藤、結末はしっかり書いてたじゃん。あ、もしかして文字オーバー? 仲達君、衒学的というかいつも書き過ぎる癖あるもんね」
今時そんなのウケないよ、と椿は昔を思い出すように笑った。
誰のせいで悩んでると思ってやがる、とは口が裂けても言えなかった。
「俺のことはいいんだよ。というか他人の創作ノートを勝手に見るなよ」
「ごめんごめん。それで、何が気になってるのさ。あと数枚でしょ。それで終わり。上手くいけば、あれだけ戻りたかった故郷に戻れるかもしれないよ?」
「そうは言うがなあ」
「死んだ彼女さんとの約束を果たしたかったんじゃないの? 仲達君はその為だけに生きてるようなものでしょ。君から創作をとったら何も残らない。ただのくたびれたおじさんだよ」
「それは全くもってその通りだが――酷いな。俺はまだ二十代だぜ」
「私から見ればおじさんだって。あの頃の輝いてた仲達君はどこに行ったの?」
椿は私を睨み付ける。彼女の激励は、私を心遣った故のものと知りながらも、きいた口を叩くその態度が癪に障った。
「死んだよ」
ゆえに、突き放すような口振りになってしまった。
「え?」
「君の言うあの頃が何を指しているのかは知らないが――多分、そいつは死んだよ。愛した女を喪って、平然としていられるほどそいつは強くなかったんだ。今ここにいるのは、思い出だけで生きながらえている恥知らずの抜け殻だよ」
私が返答に椿は俯いてしまった。前髪に遮られ、彼女の表情は窺えない。
「仲達君。書かなきゃ、駄目だよ」
絞り出すように椿は言った。
「断言してもいい。ここで諦めたら、あなたは一生後悔する」
「そんなことは承知している。だが、どうしてもペンが動かない」
万年筆のニブを原稿用紙に当てれば、勝手に動いてくれると期待していたが、一向に手が動く気配はなかった。青黒の純正インクが滲みを拡げるばかりであり、もう少しで穴が空きそうですらあった。インクが乾く前にキャップを閉め、万年筆を仕舞えば、眼を怒らせた椿が「ちょっと」と抗議する。
「書くのを止めた訳じゃない。インク詰まりを防ぐためだよ。それよりも、君はそれでいいのか?」
唐突な問いに、椿は怪訝そうに首を傾げる。
「何の話?」
「私がこいつを完結させてもだよ」
「別にいいよ。だって、私はそのためにいるんだもの」
いつかも聞いた台詞であった。
「嘘を吐かないでくれ。君の本心は違うだろ」
椿はすぐには答えなかった。
僅かな逡巡を見せたのち。
「じゃあ、なに。仲達君は、私に遠慮しているから書けずにいるってこと? それ、責任転嫁ってやつじゃないの」
と言った。
「それは――そうだな。だが、私がこれを書き上げてしまえば、君は」
「身勝手だね、仲達君は」
遮るように椿は言った。
「それじゃあ聞くけど、私が『消えたくない』って言ったら君は満足? 『書くのを止めてずっと一緒にいて欲しい』って言ったら、その通りにしてくれる?」
「それは――」
どうだろうか。
「私を創ったのは君でしょ? もう一度、小説とか戯曲の世界に戻りたかったのか、それとも単に寂しさを紛らわすためなのかは分からないけど――好きにすればいいじゃん。創造主は、被造物を好きに扱っていいんだよ。大丈夫。別に、どんな酷いことをされても私はあなたを嫌いにならない。憎みもしない。――ううん。私は君が好き。愛している。多分、曄夏さんよりもずっと。良心の呵責を感じることなんてないんだよ」
人形遊びなんてそんなものでしょ――と結んだのち、椿は私を見てなぜか嬉しそうに笑った。
「そりゃ、本音を言えばいつまでも君といたい。私は君の創り出した都合の良い幻影にしか過ぎない。でも、私は君が好き。君だって、家族も恋人も喪って、仕事も故郷も捨てて、虚しくて悲しくて、どうしようもなくなったから私が見えるようになったんでしょ。それなら――もう、いいんじゃない?」
「それは、どういう意味だ」
「嘘でも幻でも、私達にとってはそれが真実だってこと。独りじゃ生きていけないから他の誰かを頼った。君の場合はそれが私だっただけのこと。ただ、それだけ。そうやって、ほんの少しでも幸せに生きようとすることの何が悪いの? うまく言えないかもしれないけど――自然なことじゃないのかなあ」
「自然?」
畢竟、私のしていることは現実逃避であり、一時の慰めでしかない。それを自然なものと一般化するのは詭弁に過ぎるのではないか。
「己の拠り所を失って、何かに縋ろうとするのはごく普通なことだよ。多分、世間一般的には、それが宗教とかになるんだろうけどね。ほら、そう考えれば何もおかしくなんてない。それに、思想や宗教を否定するほど君はもう若くないでしょ」
「それはそうだが――」
「煮え切らない態度だね。私の何が不満なの。それなりの仕事をして、それなりの年収を貰って、気が向いたら執筆をしたり、演劇を見に行ったりして――その隣に、ずっと私がいるんだよ。それも、幸せのひとつの形じゃないかなあ」
諭すような言葉であった。説得は続く。
「まあ確かに、好きな人と結婚して、いつか子供をつくって、その家族と将来を分かち合うような――君がかつて夢見た幸せには到底叶わないけれど、それは所詮理想でしかないんだよ。理想にはどんなに頑張ったって追いつけやしないんだもの。恋人を喪った君なら尚更。それなら、身の丈に合った幸せの方がよっぽど大切だと私は思う」
そこで椿は私を見て、切なそうに微笑む。
甘い響きであった。その言葉は、じわり、じわりと私の裡に染み入って、私を確実に蝕んでいく。
だが、私は人間社会がそう甘いものではないことを既に知っている。そもそも、現実から目を背けたまま、のうのうと生きていられるほど暢気な性分をしていないのだ。
確かに、椿と共に生きるのも悪くはないが、己の自罰的な性格が災いして、そう遠くないうちに私達の関係は間違いなく破綻するだろう。
それに――。
脳裏に、曄夏の顔が過る。
棺桶に横たわる死人の面ではない。生前の眩しい笑顔である。
曄夏は、今の私を見てどう思うだろう。残されたそう多くない生涯は、天国にいる彼女に胸を張って会えるよう懸命に生きるべきではないか。
もう、現実と向き合う時間がきてしまったのだ。
少なくとも、文学賞への挑戦という彼女と交わした約束だけは果たさなくてはならない。
彼女と生きた地で、彼女を思いながら生きていく――。
これが、今の私にできる最大限の供養であり、その一歩として私は手元の原稿を完結させなくてはならないのだ。
万年筆を手に取り、ただ一節。
『私は椿を殺し、仙台に帰ろうと思った』
とでも書けばいいのだ。
だが――。
私の都合で創り出した椿を、また私の都合で殺してしまうのは、あまりにも残酷である。
何より、同じ顔をした女と二度も死に別れるのは、私が耐えられそうにもなかった。彼女の云う通り、私は椿の存在を恃みにしていた――否、信奉すらしていたのだ。
椿を生かそうにも殺そうにも、結局私は無事ではいられない。
曄夏を喪ったあの日から、私は幸せになどなれなかったのだ。それにも気付かず、私は全てを捨て、椿という仮想の存在を創り出し、今の今まで無様な悪足掻きをしていたのだ。
そう思うと――笑ってしまった。
己が滑稽で仕方なかった。
私は一体どれだけ悩んでいたのか。
「随分拗らせているんだね。馬鹿みたい」
椿が言った。慰めるようでもあり、蔑むようでもあり、意識が現実に引き戻される。
「椿。助けてくれ。私はもう、自分がどうすべきかわからなくなってしまった」
「そんなに深刻に考える必要なんてないよ」
「頼む。そんな簡単に言わないでくれ」
「簡単でしょ、実際。首でも絞めれば、私は簡単に消えるよ? でも勘違いはしないで。私だって好き好んで死にたくはない。だけど、君のことを思うなら、やっぱり私は消えるべきだよ。ほら、さっさ済ませて原稿に取りかからないと。締め切りやばいんでしょ?」
ほら、早く早く――と、さも当然であるかのように椿は私を急かす。
「悩まずにやりなよ。何があっても、君のこと許すから」
「椿、許してくれ」
私は立ち上がった。脚が、震えていた。
「大丈夫だよ、仲達君。大丈夫だから」
安楽椅子に腰掛ける椿の前に立ち、その細い首に手をかけた。
両手に力を込めれば、椿は少し苦しそうにしたのち、何も言わなくなった。
泣きも笑いもしていない。首に赤黒い蝶の如し痣があるだけの、ただただ無表情の死人となってしまったのだ。
特筆すべきことは何もない。私は、現実に生きることを思い出したのだ。夢に浸り続けられるほど、私の過去は軽くないことを思い出したのだ。
ただ、それだけのことである。
しかし、いつまで経っても椿は消えなかった。
背凭れに脱力したまま、半開きの眼で私を凝然と見詰めていた。
私は、机に戻り、原稿を完結させた。
やはり、椿は消えてくれなかった。
死体が消えないのはホラーだと思います。
それがたとえ自己精霊だとしても。現実世界だったら尚更のこと。
ここまで読んでいただきありがとうございました。