3.文学は喪失した者達のために
仙台短編文学に応募すると決めてから、そして結果によってはあの懐かしき仙台に戻ってもいいと肚を決めてからの執筆は順調であった。募集要項によれば、『東北ないし仙台との関わりがあれば可』『ジャンル不問』とのことであり、多少時代遅れの純文学ないし硬派なスタイルの私でも勝負できるのが有り難いことであった。
ひとつ懸念を挙げるとすれば、過去の受賞作が、あの震災を主題としたものばかりであることである。『震災のときの子どもたちが成長して文学的な言葉を持ったときに、はじめて被災地から文学が立ち上がってくるのではないか』という審査員・佐伯氏の言葉はもっともである。また、震災がそのものが強烈な題材であるゆえ、奇を衒わない限りは誰もが手をつけて然るべきものだろう。なにせ、震災は日本人ないし東北に暮らす者達の価値観を大いに揺さぶったのだから。
私自身、震災以降、どうにも人生へのスタンスが変わってしまったように思う。
具体的に述べれば、人間は遅かれ早かれ死ぬものであり、どれほど大切な物品でも壊れるのは一瞬であるということを悟ってしまったのだ。容易に理解できる素養をもってしまったのだ(もっとも、それが実体験として降りかかったのは曄夏の死からであったが)。
とはいえども、私は直接的な被災者ではない。当時私は盛岡にいて、高校卒業を控えた十八歳の少年であった。実家でひとり、愛猫を膝に乗せながらテレビゲームに勤しんでいたのを覚えている。
屋外に出たのは揺れが大きくなってからであった。左腕に猫を抱え、右手には兄貴が飼っていたハムスターのカゴを持ちながら「いつまで揺れているんだろう」とか「ゲームのセーブをしていなかったなあ」とか「他人から見れば滑稽だよなこの光景」なんて実に暢気なことを考えていた。
多少の恐怖こそあれど、あれだけ悲惨な被害になるとは夢にも思わなかったのだ。
そんな被災者とはほど遠い私ですら、先述のように影響を受けたのだ。沿岸に住むような――もっと言えば、大切な者を喪い、今でもその幻影を振り切れずにいるような方々にとっては、震災は至上命題になり得て当然なのだ。そんな者達のために本賞が存在するのだろう。彼あるいは彼女にとっての文学とは、彼らが喪った数多のものたちへの弔いの場なのだろう。
そんな尊い場に、私のような望郷を拗らせ、自我を保てなくなった狂人が応募するなど場違いにもほどがあるのではないだろうか。感情のまま書き殴った散文など、文学たり得ないのではないか。彼らの神聖な弔いを穢す行為でしかないのではないか――などという畏れを抱いたのだ。応募規定を満たすことと、実際に応募することは別である。
だが、それでも私は立ち止まるわけにはいかなかった。
曄夏と過ごした日々が、死別してからの痛苦が、数々の絶望が、私の背を押すのだ。
何より、椿の期待に応えたかった。
曄夏が、私のために提案してくれた賞でもある。
加速度的に執筆は進んだが――大きな壁に直面してしまった。
私は、どうしても話を纏めることができなくなってしまった。
結論に迷った――否、どちらを取っても困難な二者択一を迫られることになってしまったのだ。