2.仙台短編文学賞のすすめ
椿と生活を共にするようになって、早くも一年が経とうとしていた。存外、彼女との関係は良好そのものであった。
特に取り決めを交わしてなどいないが、互いに余計な詮索を避けていたからだろうか。
故に、私は彼女を殆ど知らずにいた。知っているのは、彼女が自身の名を気に入っていることと、私の周囲をうろつくのを趣味にしていることくらいである。
自宅にいようが職場にいようが、彼女は構いもせずに無邪気に話しかけてくるのだ。有り難いことに、未だ上司や同僚に見咎められずに済んではいるが、発覚するのも時間の問題だろう。
内心、ある日家に刑事が来て、未成年誘拐の容疑者として連行されることすら覚悟していたのだが、今のところは杞憂である。
彼女に対して無関心を貫いていたというのは正確ではない。私は、彼女に気安く接することをしたくなかったのだ。
なぜなら――彼女は似過ぎていたのだ。
椿は、曄夏の生き写しであった。外見もさることながら、それ以上に内面が。
愛嬌ある笑顔も、口許からのぞく小さな八重歯も、猫のように掴み所がない雰囲気も、他人に甘えるのが下手で、すぐに拗ねてしまうところも。
思わず曄夏と呼んでしまった回数は数え切れない。その度に椿は文句を言っていたが、今ではもう何も言わなくなった。何を言っても無駄だと分かったのかもしれない。
最初は、私が勝手に曄夏の影を重ねているだけだと思っていた。否応なく記憶は薄れ、自然に死者の影も消えてしまうものだとも。
それにどれだけ時間を要するのかは分からないが、その頃には椿も私といることに飽いて、ふらりとどこかに消えていくのだろう。私にとっても彼女にとっても、ここでの生活は一時の慰めでしかないのだ。
だが、そうはならなかった。
椿と共有する時間が増えるにつれ、彼女越しに視える曄夏の虚像が存在を主張するようになってしまったのだ。
私にとって、曄夏と出会い、将来を誓った仙台での暮らしは理想そのものであった。
愛した女性がいて、その者と家庭を築くために立場ある職務を全うして、私生活も充実させて――幸福な人生だった。その幸せが永久に続いてくれるものだと信じて疑いもしなかったのだ。
何をするにしても、曄夏との思い出が過って――それが何よりも辛かった。理想と現実の途方もない落差が、私を苦しめるのだ。
もう、今の私には何も残っていない。
仕事への情熱も失せ、貯金も無職時代に使い果たした。趣味の演劇や脚本の創作も面白さを感じなくなった。見た目に気を遣うのも止めた。
それだけじゃない。
今の今まで、私の大部分を形成する数々の記憶が蘇り、強烈な望郷をかき立てるのだ。
私は盛岡で生まれ育った。父と母と、愛猫と過ごした日々は確かに幸せであった。
大学時代、朋輩達と夢を語り合った青森での四年間は今でも輝かしい思い出である。
営業職に就職して、配属先の八戸では、東北特有の排他的な社風に悩み、飲み方も知らぬ酒に逃げてばかりであった。
転職して仙台で暮らすようになってからは、初めて将来を真剣に考え、この街で生きると決めた――。
全てが、切って捨てることのできぬ大切な体験である。
できることなら戻りたかった。だが、私は故郷を捨てたのだ。否、捨てられたのは私の方である。今更戻れるはずもない。
葛藤の内容はどうあれ、際限なき懐古は鮮烈な自己嫌悪と混ざり合い、私の精神を緩慢に、しかし着実に壊していった。
以上の理由により、私は椿との接触を極力避けてはいたのだが――。
「ねえ。最近、なんか冷たくない?」
仕事のない土曜日の夕方。一人用の安楽椅子に座り、文芸誌を眺めていた椿が言った。
「……そうかな」
ノートパソコンから視線を逸らす。
ディスプレイの壁紙は、曄夏と松島に行った際に撮った記念写真であり、一年経った今でも変えられずにいる。
「うん。それに元気もないし。疲れてる?」
「まあ、色々と事情があるんだよ」
曖昧に答えれば、椿は私を横目で睨む。
画面の中で笑っている曄夏とはあまりに温度の異なる瞳であり、形容しがたい不快を感じてしまった。
「話なら聞くよ。悩みでもあるんでしょ」
こちらを気遣うような声色であり、その慈愛に満ちた表情は、なぜか病死した母を想起させた。
「ありがとう。でも、その気持ちだけで十分だよ」
率直なところ、何を言われようとも話すつもりはなかった。
永劫に報われぬ曄夏への追慕も、捨てたはずの故郷への懐古も、理想と現実との乖離も、所詮は自業自得である。全ては私が負うべき責め苦なのだ。その激しく鮮やかな痛苦こそ、私が曄夏を愛していたことの証左であり、供養ともなるのだから。
追憶だけで、私は残り幾許かも知れぬ生涯を削っていくのだと信じていたのだが――。
泣きそうな椿の表情で、決意が揺らいだ。
私の心に棲まう曄夏を尊重したいと思う以上に、目の前の娘を曇らせたくないと思ってしまった。根拠こそないが、今ここで椿の助力を求めることが、私達にとって必要なことである――という予感がしたのだ。
「どんな悩みでも、誰かに話すことで自分の考えって整理できると思うんだ。きっと、話せば楽になるよ」
「まるで尋問されてるみたいだな」
「こっちは真面目に心配してるんだけど?」
「悪かったよ。ちょっと長くなるが、聞いてくれるか」
「もちろん。だって私は」
そのために生まれたんだから――と椿は呟いた。その発言の意図こそ分からなかったが、私を思っての台詞であろうことは理解した。
私は、椿に全てを打ち明けた。大切な者の死に直面した結果、過去に押し潰され、どうにも立ちゆかなくなってしまったことを。己の生涯に、もう何も見いだせなくなってしまったことを。それでいいと容認ないし諦念を抱いていたはずなのに、今になって苦しくなってしまったことを。
この時だけは、自分より年下の娘に本心を吐露することの羞恥も存在せず、ただただ私を知ってもらいたいという気持ちだけがあった。
椿は、私の懺悔を最後まで聞いてくれた。
「あなたには夢ってある?」
不意に椿が聞いた。
「ないよ。もう、俺には何もなくなった」
曄夏のいない人生において、そんな言葉に何の意味があるのだろうか。
「もう、ってことは、前はあったんだね。じゃあ、趣味ってないの? 何かやりたかったこととか。そういう打ち込めるものがあれば少しは気持ちも軽くなるんじゃないかな」
「趣味か。昔は、演劇とか小説とかが好きだったよ」
「すごいね。小説は分かるけど、演劇?」
意外そうに椿は言った。
「地方の、ほんの小さな劇団にいたんだよ。最初は裏方で、脚本兼小道具担当だったけど、人員不足から役者に引っ張り出されて、いつの間にか役者ばかりやらされていた」
曄夏との出会いも舞台稽古だった。
彼女は、小さな劇団には勿体ないくらいの女優で、ステージに立つ彼女は太陽のように輝いていた。私は一目見ただけで、彼女に魅了されてしまったのだ。
その憧れの女優直々に、役者に勧誘され、当時の私は柄にもなく浮かれてしまった。今思えば、演出家の差し金だったのかもしれないが――まあ、いい。過ぎたことである。
「あなた、俳優になりたかったの?」
「まさか。本職は小道具と脚本だよ。別に演劇じゃなくても、作家とか記者とか、文章に携わる仕事ができればそれでよかった。強いて言うならそれが夢だったよ」
「その夢、今からでも遅くないと思う」
椿は閉じていた文芸誌をまた開くと、立ち上がって私の目の前に置いた。曄夏が好きで、毎週購読していた地元の文芸誌である。
頁には、ある文学賞の公募が載っており、青色の蛍光ペンで強調されていた。
それを見れば――。
「仙台短編文学賞?」
「うん。マークされていたし、これに出すつもりだったんでしょ? 短編だし、今からでも急げば間に合うかもよ」
「生憎、それは去年の雑誌だよ。今でも募集してるとは限らない。そもそもマークした覚えなんて――」
言葉が詰まった。
青色の蛍光ペンは、曄夏がよく使っていたものである。それだけじゃない。マークの傍らには、油性のボールペンで『これならいけるよ。頑張って!』という丸文字が踊っていたのだ。
どう見ても曄夏の筆跡である。
見間違いようがなかった。
――仲達くん。プロの脚本家を目指すなら仙台でもっと有名になろうよ――。
――ほら、この賞なんていいんじゃない。仙台文学だってよ――。
脳裏に、文芸誌をこちらに押しつける曄夏の姿が蘇る。
何だ、この光景は?
私は曄夏とこんな話をしたのか。いや、人間の記憶があてにならぬことは私が一番よく知っているじゃないか。なにせ、現在進行形で幻覚を見ているのだから。
「それで、どうするの? 今年も募集してるか調べてからだけど、もしいけるなら挑戦してみてもいいんじゃない。もし受賞したら、また東北で生きてもいいって思えるようになるんじゃないかなあ」
「それは――どうだろうな」
「あなただって、本当は戻りたいんじゃないの? こんな家族も友達もいない街で、死んだように生きるよりはマシだと思うけど」
椿の口調こそ穏やかであったが、詰責を受けているような錯覚を抱く。それが、自己嫌悪の招く幻であると気付いたのは、椿が安楽椅子に座り直してからだった。
返答の代わりに、机の抽斗から細長い小箱を取り出した。
化粧箱の中には、万年筆が収められている。青い胴軸と、天冠に描かれた二羽の水鳥が特徴の、ドイツ製の筆記具である。付き合って初めての記念日に、曄夏から贈られたものである。
「ね。私に相談して良かったでしょ?」
「ああ。本当にありがとう」
私が謝意を述べれば、椿は得意げに笑う。
文字を書きたいと思ったのは随分久々のことであった。