1.恐山にて出会った少女
二十七歳の時、婚約者が死んだ。急逝であった。現実世界に耐えられなくなった私は、第二の故郷・仙台を捨て、新天地である横浜に移り住むことにした。この物語は、東北のある文学賞に公募しようとしたものを加筆修正したものである。またこの話は作者の妄想から基づく虚構であることを断っておく。登場する地域、人物、団体その他名称に一致があったとしても、それは創作上の偶然である。
私が死別した婚約者と再会したのは、二十七歳の秋、九月二十五日のことであった。
場所は恐山の駐車場である。
菩提寺の参拝を済ませ、愛車のもとに戻ってくれば、どういう訳か助手席に女が座っていたのだ。
施錠を忘れていたという疑念はなかった。勝手に他人の車に乗るなとも思わなかった。一目で死んだ婚約者だと――私が未だに愛している女性だと悟ってしまったのだ。
リモコンでロックを解除してから運転席に乗り込む。表面上は平静を取り繕っていたが、内心は恐慌に陥っていた。
ようやく彼女に相見えたことに対する歓喜と、迂闊に話して臍を曲げらでもすれば、もう二度と会えぬかもしれないという危惧ばかりがあり、私はどうしても隣の女を直視することができなかった。ただただハンドルを両手で握り、真正面を睨んでいた。
ダッシュボードのデジタル時計を見れば、時刻は午後二時を回ったところであった。昼下がりの陽光が駐車場の砂利道を照らし、やけに眩しく感じられた。
遠方に停められた観光バスから肌の白い外国人がぞろぞろと降りてくる。皆一様に神妙な面持ちで正門に向かうことから察するに、文化の東西関係なしに、異界に死者を求めるのは人類に共通した普遍的な感情なのかもしれない。あるいは、ただ単にバスの長旅で疲弊しているだけなのか――。
「ちょっと。無視しないでよ」
ついに助手席の女が口を開いた。
「いや、なに。何を言ったらいいのかわからなくて。久しぶり。会えて本当に嬉しいよ」
「何を言ってるの。あなたとは初対面だけど?」
拒絶を含んだ怪訝そうな声であった。
意を決して左を向けば――そこには確かにかつての婚約者がいた。だが、私の知る頃より多少体躯を縮めた少女という外見である。
その癖、顔の輪郭や血色のよい頬、肩口までの短い黒髪は生前そのままである。服装だって、この間の公演で着ていた野暮ったいセーラー服であるから訳が分からない。
「冗談はやめてくれ。曄夏、君は私に会いに来てくれたんじゃないのか」
「あー。残念だけど人違いよ」
何かを察したように少女は首を横に振った。
「は? 人違い?」
「うん。私、ヨーカって人じゃないし」
「それなら、君はどうしてここに」
「ヒッチハイクをお願いしに来たの。あなた、余所者でしょ。車のナンバー仙台だったし、言葉だってキレイな標準語。それに」
少女の姿をした婚約者は、ちらりと後部座席に視線をやった。
「後ろには荷物がいっぱいだもの。段ボールばかり。今から引っ越しでもするんでしょ。それなら私も連れて行ってよ」
「簡単に言うなよ。どこに行きたいんだ」
近場ならできないこともない、と言えば、目的地なんてないよ、と婚約者は答えた。
「あなたと一緒にいられるならどこにでも。どうせあなた独身でしょ? それならいいじゃん。私の面倒を見るくらい簡単でしょ」
「確かに私は独身になってしまったが、どうして分かったんだ」
「強いて言うなら――見た目?」
悪びれもせずに少女は言い、愉快そうに笑った。やはり婚約者と瓜二つの表情である。ルームミラーを見れば、隈取りされた目をした、老け顔の男が眉根を寄せている。
「大方深い事情があるのだろうが、それなら警察にでも相談した方が早いよ。そこは君が座っていい席じゃない。降りてくれ」
「お願い。私も連れて行って。迷惑はかけないから」
「もう十分かかってる。君にはまだ分からないだろうが良識ある社会人は女子高生とは関わらないものだ。社会通念的にアウトだよ」
「社会って。もうそんなのどうでもいいよ」
少女は億劫そうにシートの背凭れに上体を預ける。
「私にとってもあなたにとっても、社会なんてもう必要のないもの。違う?」
私の心情を見透かしたが如し台詞であり、思わず返答に詰まってしまった。彼女の言うことは紛れもない事実あったので。
この春、私は婚約者を喪った。
仔細は伏せるが急逝であった。
以来、私は生きる意義を失った。
主任に昇格して、花形部署に異動したばかりの仕事も、業務が手につかなくなり、出社すらできなくなって退職してしまった。食事や睡眠、思考が苦痛となり、結果首を吊ってみたものの縊痕が残るだけの徒労に終わってしまった。唯一の趣味でもあり、彼女との出会いの契機でもあった劇団活動も同様である。私はもう演劇には関わらない。あれだけ熱量をもっていた役者への追求も、失せてしまった。
今思えば、訃報の直後は我ながら酷いものだった。毎日十七時を過ぎれば彼女の職場に出向き、通用口で二度と帰らぬ彼女を待ち続けていた。不審者として警察を呼ばれたことは一度や二度ではない。また食事を二人分作る癖がどうしても抜けず、自分で用意したくせに、彼女が作ってくれたと思い込み、義両親になるはずだった方々に「喜んでください、曄夏が生きているんです! 俺の元に帰ってきてくれた!」などと電話口で喚いたこともあった。平静を取り戻したのはごく最近のことである。
私は、己の人生に希望を持つことができなくなってしまった。だが、人生を諦めたものの、糊口を凌ぐには当然労働が必要となる。
私は次の職場に東京を選んだ。特別理由があった訳ではない。自身の経験と職能、年齢と年収を鑑みた結果、ステップアップと読み取れるような職場が東京にあった。それだけの話であり、単なる消去法でしかない。面接は爽やかな好青年を演じることで乗り切った。住居は既に契約を済ませ、あとは手荷物を運ぶ手筈となっていた。横浜市鶴見区にある家賃六万円のワンルームである。
今日、このまま愛車で関東まで走り――二度と東北ないし仙台に戻ることはないだろうと思っていた。
私にとって、東北という地は安寧なる故郷であると同時に、捨てざるを得ぬ痛苦の場所となっていたのだ。
最後の思い出として、異界信仰の残る霊場を訪ったのだ。可能ならば、イタコに口寄でもしてもらうつもりでいたが、流石に時期でなかったらしく、それは叶わなかった。
死人に会えぬことなど重々承知していたはずである。だが、どこかに曄夏がいて、私を待ってくれている――という逃避をどうしても捨てられずにいたのだ。結局、会えず終いで、車に戻ってみれば、生き写しのような娘がいたのだが――。
期待するだけ無駄だ、諦めろ。
そうやって全てを諦めて、死んだように生きて、そう遠くないうちに野垂れ死ぬ――それが、私にしかできぬ供養である。
死者の分まで懸命に生きるなど、綺麗事とも理想論とも言わないが、私には到底できぬことである。
死んだ婚約者と似た少女と出会い、言葉を交わすことができた。それだけで、私には十分過ぎる慰めであろう。
「ねえ、どうしたの?」
「すまん。君が、知り合いに似過ぎていたから、少し動揺しただけだよ」
「ふうん。それがヨーカっていう人なんだ」
「こちらにも、それ相応の事情があるんだ」
言外に、これ以上聞くなという威圧を忍ばせれば、少女は少々沈黙したのち。
「私、椿っていうの。よろしくね」
と言った。
「つばき?」
奇妙な運命を感じた。
これは何の偶然だろうか。
――ねえ、仲達くん――。
――もし子供が生まれたら、ツバキって名前にしたいんだけど、どう思うかな――。
脳裏に、いつか交わした遣り取りが蘇る。
「うん。木ヘンに春って書くツバキ」
ちょっと時代遅れかもしれないけど気に入ってるんだ、と言って少女ははにかんだ。
「おじさんは、何て言うの?」
「仲達だよ」
「ちゅうたつ? ヘンな名前」
「よく言われる」
私は、もう少しだけ椿と名乗ったこの少女と一緒にいたいと思ってしまった。
このまま彼女を乗せていけば私は立派な誘拐犯である。また、高校生らしき彼女の人生に悪影響を与えかねない。
しかしながら、もとより生涯を諦めた身である。
彼女に何をするつもりもないが、たとえ前科者になったところで構わない。理性や道徳よりも、婚約者の面影を逃してなるものかという私情ーー否、執着を優先させることにしたのだ。
「……今から横浜に向かう。それでもよければ来ればいい。もちろん、道中休憩は挟むし、降りたくなったらいつでも降りればいい」
「本当にいいの?」
「頼んだのは君だろ。金も取らないし、逆に欲しいものがあったら買ってやるけど、その代わり話し相手になってくれると嬉しい」
「それくらいなら。でも、横浜町って近いんだね。二三時間でついちゃうじゃん」
「違うよ。神奈川県横浜市の方だよ。ここからだと高速を使っても十時間はかかる。しかも軽だからより疲れる。覚悟はしてくれ」
「私なら絶対に疲れないから大丈夫」
よろしくねおじさん、と椿は笑った。彼女からすれば、私はもう若者ではないらしい。
「……こう見えても私はまだ二十七歳だよ」
「私から見たら立派なおじさんだよ」
「そういう君はいくつなんだい」
「女性に年を聞くのはどうかと思うよ。まあ、生まれたばかりだから年齢なんてないけど」
どうやら、まともに答えるつもりはないらしい。新居に着いたら白髪染めでも買ってもいいかもしれない――と私は考えていた。