8 勝負
少し離れたところで手水場をみつけ、用を足した弥吉が小屋に戻ると、クツナは真っ赤な顔で苛立ったように弥吉を手招きした。
「遅かったではないか。怖気づいて逃げたかと思ったぞ」
ろれつが怪しい。
見ると、炉端に、先ほどから燗をつけていた徳利が横倒しに転がっていた。
手持無沙汰のあまり、手酌で残りを飲み干してしまったらしい。
(もはや、引き伸ばすことも逃げることもかなわぬ)
弥吉はひとつ深呼吸をしてから、板敷の床に上がりこんだ。
「どうぞ、お相手をお願いいたします。最初の山札は、わたくしが積みますか。それとも、クツナさまが?」
問いかけると、彼はうるさそうに手を振った。
「おまえがやれ。どうせわしが勝つのじゃ。そのときに、指先手妻で、勝ち札を己の手もとに引き込んだ、と詰られるのでは興がそがれる」
弥吉はうなずいた。
指先手妻、とは初めて聞く言葉だったが、意味はすぐに想像がついた。手妻師は、旅の見世物芸人の一種だ。何も持っていないはずの手のひらや袂から紙吹雪を出したり、水を出したり、手ぬぐいを花に変えたりと、妖術のような技を見せて客を喜ばせる。もっとも、そのほとんどが妖術師ではない。ごく普通の人間なのだが、十分に指先の修練を積んで、あたかも、不思議な技を使ったように見せているのだ。客ももちろんそれは承知で、見世物の中でだけ、熟練の技にひととき騙され、酔いしれる時間を楽しむものである。
見世物として客を楽しませる手妻ではなく、己の都合の良いように札を操作し、不正に勝ちを引き込もうとするのが、クツナの言っている言葉の意味であろう。
賭場で男たちがもめ、殴り合いや、下手をすれば刃傷沙汰におよぶのは、たいていそういういさかいが発端だった。博打に負けた方が、相手がいかさまをしたと言い張るのだ。実際にいかさまが行われた場合もあるだろうし、そうではなく、負けた方がその事実を飲みこむことができずに難癖をつけているのだろうと思われるような場合もあった。いずれにせよ、杏庵先生は、怪我をした男どもの手当をせねばならなくなる。中には命を落とす者もいた。厄介な話であるが、それもまた、賭け狂いの病の、一つのなれの果てなのであろう。
「わたくしも、正々堂々といたします。そこを疑われてはつろうございますから、クツナさまがきちんとお見届けくださいまし」
札を切り交ぜ、山に積みなおす。
緊張で指の先が震え、札を取り落としそうだった。
弥吉は、勝負を前にすくみ、強張った己の心根をどうにか解きほぐしたいと思って、クツナと交互に札を取りながら何気ない調子でしゃべった。
「それにしても、わたくしはこのような札を触るのは初めてでございます。賭け事の札というのも、さすが、大人の遊び。美しいものですね」
「そうであろう」
クツナは低く笑った。
「これは、絵師の葛城南天が、上得意のために、五客をかぎりに作ったもの。以前、博打のかたに、都の米問屋の主から巻き上げたのだ」
「葛城南天……」
弥吉ですら聞いたことがあった。役者絵や景勝絵で、当代一の人気を誇る錦絵師だ。一昨年身まかって以来、彼の遺した作品はうなぎ上りに値をあげ、貴族や武家、大店の主が競って求めているとの評判だ。杏庵先生の養生所に胃の腑の差し込みで世話になった行商の書肆が、治療がひと段落した後の世間話で、うらやましそうに言っていた。
「なるほど、立派なわけでございますね。ところで、この絵には、意味があるのですか。わたくしは無学ですから、蛇が小鳥に強いのはわかりますが、茅のほうがとんとさっぱり」
弥吉が小首をかしげて見せると、クツナは面倒そうに、床に転がった湯呑をつま先で軽くはじいた。ごろりと茶碗が輪を描いて転がる。
「小鳥が茅に強いのは、道理であろう。小鳥は茅を食い荒らす虫を食べるのだから、茅は、己の身体に小鳥が巣を掛けても、文句ひとつ言えずに、雛を守ってやるほかないのだ」
「では、茅が蛇に強いのは?」
「これも道理よ。茅の鋭い葉は、魔よけの剣に通じるのだ。蛇は、己の目や腹を刺し貫かれたくなければ、茅の原に立ち入ることは叶わぬ。だから、小鳥は茅に巣をかけるのだ」
「左様でございましたか。冥土の土産に、いいお話を伺えました」
そんな話をしているうちに、二人は必要な札を取り終えていた。
(やるしかない)
弥吉は、己の前に伏せた五枚の札に手を伸ばした。
札の背を相手に向け、扇のように広げて、胸の前に掲げて持つ。博打も女もたしなみ程度に遊んでいた通人の旦那から、からかわれたときのことを思い出した。
『弥吉は何でも顔に出る。それではいけないよ。手札は胸に近く持って、あけすけに見せびらかしていないか、気を付けるのだ』
旦那は、なじみの妓楼の女が腹を下していたので、朝一番で杏庵先生の往診を頼んだのだ。先生が女を診ている間、面白がって見物に来た同僚の姐さん方が、うぶでかわいいと散々弥吉にちょっかいを出してからかった。慣れぬ世界にどぎまぎ、へどもどしていた弥吉に助け舟を出してくれてから、旦那はそんなことを言ったのだった。
もちろんその場では、賭け事をしていたわけではない。手札の話は物のたとえで、自分の胸に秘めておくべきことが容易く周りからうかがい知れるようでは、世渡りに困るよ、と教えようという、粋な遊び人らしい旦那の言葉選びだった。まさか、こんなところで、弥吉が文字通りにその教えを役立てていようとは、あの旦那も逆立ちしても思うまい。
弥吉の札は、蛇の二、小鳥の一、小鳥の四、小鳥の三、茅の四だった。
(よく混ぜてから積み上げて配ったのに、偏っている)
弥吉の胃の腑はきりきりと痛んだ。
弥吉の手元に、五枚の小鳥のうち、三枚も来ている。ということは、クツナの側には、蛇や茅が多いということだ。弥吉の、蛇の二は、勝ち目が薄い札ということになる。
(これは、早いうちに切ってしまおう)
弥吉は蛇の二を手に取り、床の上に伏せた。おどおどした弥吉の様子に自尊心がくすぐられたのか、クツナはにやにやと笑みを大きくし、己の手札を一枚、床に伏せた。
「よいか。……雷!」
クツナの掛け声とともに、二人は己が出した札を同時に表に返した。
クツナの札は、茅の三。
「茅は蛇に勝つのだ」
言わずもがなのことを得意げに言い、クツナは、二枚の札を引き寄せて、己のひざの前に並べた。
これで、クツナが五点である。
(まだ一局目……!)
冷静になろうと、弥吉は深く息を吐いて、それから吸った。
次の札を選ばねばならぬ。
(ここに小鳥が多いということは、自分しか知らぬこと。どの札がどこに多いのか、悟られぬ方がいいだろう。一枚しか持っていない茅を早々に出してしまえば、それが相手に大きな手がかりを与えてしまうことにもなりかねない)
弥吉は、手もとの札を一枚抜き取って伏せた。
クツナも無造作に自分の札を伏せる。
掛け声で開いた札は、弥吉が小鳥の一、クツナが茅の二だった。小鳥の勝ちだ。
弥吉は、先ほどのクツナの真似をして、二枚の札を己の膝の前に取り込んだ。
クツナが五点、弥吉が三点。
一息つく暇もなく、クツナは次の札を伏せた。口の端が不機嫌そうに下がっている。
(このお方は、例え、一番の勝負の中の一局であっても、負けるのが口惜しくてならぬと見える)
弥吉も慌てて、手札から一枚伏せた。考える時間などない。先ほど考えた、残りの札を悟らせぬよう、なるべくばらけさせる、という考えから、小鳥を選ぶのが精一杯だった。
「雷!」
表に返した札は、クツナが小鳥の五、弥吉が小鳥の四。あいこである。
「同じ絵なら、得点の高いほうがとるのだ」
気を取り直したように、嬉し気にクツナが二枚の札をさらう。
これで、クツナが九点を加え、十四点。三局目を終えて、弥吉の三点とは、大きく差がついてしまった。
弥吉はうろたえた。一局で九点取られたのは大きい。一局に取れる最大の点数は、龍神が出せた場合の十二点だが、弥吉の手元には、龍神も五点札もない。十一点もの差が出来てしまった以上、残りの二局ともに勝たねば、弥吉の負けは決まってしまう。
心臓が早鐘のように打っていた。
(ここまで出た札は、茅が一枚、蛇が一枚。小鳥が三枚)
弥吉の手札には、小鳥の三と茅の四が残っていた。小鳥がすでに三枚開かれて、弥吉の手もとに一枚ということは、もう、小鳥は一枚しか残っていない。クツナの手元にはやはり、茅と蛇が多いことになる。となると、茅の四は、かなり強い札と言えた。
(最後にまで、望みを残さねば)
弥吉は、とっさに、茅を残し、小鳥を選んで伏せた。
札が表に返って驚いた。
弥吉の札は、小鳥の三。クツナの札は、小鳥の二だったのだ。
弥吉に五点が加わり、八点となった。クツナの十四点にだいぶ近づいた。
何と、最後の局を前に、小鳥は五枚すべて出尽くしてしまったのだ。
残りの手札は茅の四。蛇なら間違いなく勝てる絵柄である。茅同士でも分がいい札だ。
弥吉の気分は、わずかに上向いた。
だが、最後に残った手札を伏せたとき、弥吉は、クツナの顔に浮かんだ奇妙な表情を見た。
愉悦に酔ったような、楽し気な色。
(勝ちを確信している……?)
弥吉の手札は決して弱くない。なのに、なぜだ。
クツナが無造作に投げ出した札は、何の特徴もない、暗い赤の背をしていた。つまり、龍神ではないはずなのに。
たった今伏せた、己の手札の上から手をどけられぬまま、弥吉の視線は、無造作に積まれた、今回の局では用いない伏せ札の上を無意識にさまよった。
角が山からはみ出している札があった。
その角に、わずかに覗いている、札の下地の白い色。
その瞬間に弥吉は全てを悟った。
(伏せ札に龍神がある。それを、クツナさまもご存じなのだ!)
クツナの札なのだから、龍神に目印があることなど先刻承知だったのだ。伏せ札の中に龍神がある以上、弥吉が伏せた札が龍神ではない、ということが彼にはわかっている。
そのうえで勝ちを確信できる、ということは、クツナの札は決まっている。
弥吉が己の手をどけ、札を表に返した瞬間、全ては終わるのだ。
弥吉は、絶望に、ぎゅっと目をつぶった。
2022.3.8 誤字修正しました(誤字報告を下さった読み手様、ありがとうございました!)