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5 森の中

「どうなってるんだ……」


 一度通ったばかりの道である。いくら、日暮れ時とはいっても、迷うはずのないところだった。木立の中とはいえ、十二夜の月明かりがぼんやりと辺りを照らしてくれている。夜目のきく弥吉には十分な明るさだ。

 だが、歩けども、歩けども、つい先ほどたやすくたどり着いた、いちごの藪がある空き地にたどり着けないのだ。


 弥吉は困惑して立ち止まり、木の幹に手をついた。


 もともと、必要なシノブシダを採ったら、すぐに帰るつもりでいたのだ。飲み水すら持ってこなかった。

 そうこうしているうちに、日はとっぷりと暮れている。弥吉も、途方にくれてしまった。

 黄昏時に、普段とは逆の方向から空き地を目指そうとして、道を見失ってしまったものか。


(このまま迷ってしまったら、帰れないかもしれない)


 村の住人でも、何年も木の実・山菜採りやたきぎ拾いに通っている慣れたはずの森や山で、時折、帰り道を見失ったものか、大地に飲み込まれたように姿を消す者がいた。そのまま見つからぬ者も多いが、何年も経ってから、思いがけない崖下や(ほら)などで、着物の切れ端や亡骸などが見つかることがある。そんな時、わずかな着物のかけらであっても、それを手がかりにどこの誰かすぐわかるように、弥吉の村では、日頃から家ごとに決まった色の組み合わせで織られた縞木綿を着る申し合わせがあるくらいなのだ。


 一瞬弱気になりかけたが、弥吉の心に、ふと、姉の顔が浮かんだ。


(姉上はさぞや心配しているに違いない)


 不安で仕方がないだろう。そう思うと、こんなところで諦めて立ち止まってはおられぬ、という気持ちがどうにか湧いてきた。


(どうも、勝手がおかしい。狐狸に化かされておるのやもしれぬ)


 ぐるぐると同じところを回ってしまっているのかもしれない。そうだとすると、このまま歩き続けていてもらちが明かない。

 手をついていた木の枝ぶりをよく観察する。頑丈そうな木は、弥吉一人の体重ならたやすく支えてくれそうだった。


 木に登り、辺りの景色や星を見て方角を見極めようと、枝に手を掛けた瞬間だった。


「おい、そこの小坊主」


 低く太い声に呼びかけられて、弥吉の心臓はどきりと跳ねた。しゅうしゅうと息の漏れるような、不気味な声だった。


「こんなところで、何をしている」


 年のころはしかとはわからぬものの、大人の男の声だ。若々しさに通じる無尽蔵の精がみなぎる一方で、有無を言わさぬ老爺のような威厳。姫様の誰何(すいか)とは比べ物にならないくらい威圧的で、弥吉の身を縮み上がらせるような力の気配がそこにはあった。


 振り返るのも、さりとて背を向けたままでいるのも怖い。弥吉はとっさにひざをかがめて目を伏せ、礼をしながら振り返った。


「わたくしでございますか」


 勇気を振り絞って声を出す。


 弥吉の視界に入るのは、裸足にわら草履をひっかけた男の足からすねのあたりと、ひざの少し下までたくしあげてくくった袴だけだった。その足は尋常ではない大きさで、草鞋とて特別に作らせねば、かかとが丸ごとはみ出してしまうだろうほどだった。黒ずみ引き締まった皮膚には太い骨と力強い腱の影がくっきりと見え、細かい傷の治った跡や草履だこが無数にあった。その様子は、男が普段から荒れた野山をものともせず駆け歩いていることを容易に想像させた。

 くくり袴は着古され、折り目の山がすれて色褪せてはいたが、織り目の整った上質な生地の裾のあたりに、鱗紋という細かい三角形が連続した模様が染め抜かれていた。月明かりで(しか)とは見えぬが、染めは藍だろう。質実剛健といった代物だ。


「おまえの他に誰がいる。この盗人め。ははあ」


 男は身を乗り出し、弥吉の腰に結び付けたかごをのぞきこんだようだった。


「そのかごの中身。椀貸沼のシノブシダが狙いであったか」


「こ、これは……」


 沼のところで出会った姫様にいちごと交換にいただいたものだ、と、喉のところまで出かけた言葉を、弥吉は飲みこんだ。


(この圧倒的な気配。もしかして、この人物も、隠れ里の民なのではあるまいか)


 姫様は、里の者と話して、取引などしたことが知れれば、厳しく叱責されるのやもしれぬ。弥吉の村では隠れ里のことを詮索することは固く禁じられている。隠れ里の側でも、人里の者と接するのは禁じられているのではないか。じいや、と呼ばれる人物は、姫様が言いつけを破れば、苛烈な仕打ちをするようだった。うかつに弥吉が口を滑らせたことで、折檻でもされてはかわいそうだ。


 そのためらいを、別の意味に受け取ったらしい男は、侮蔑的な響きをにじませた声で言った。


「図星であったか。身の程をわきまえぬ無礼者め。かごごとすべて丸呑みにしてくれるわ。二度とこんな阿呆を企む輩が現れぬよう、首だけ残して、村の前に吐き散らかしてやる」


 弥吉の背筋を、氷のような冷汗が伝う。


 まるで化け物のような言葉だ。相手が並みの追いはぎならば、こちらを脅かすための大言壮語と受け取ることもできよう。だが、弥吉の直感が告げていた。この言葉は、掛値も脅しもない真実だ。

 この男は、弥吉を一呑みにして、まるで果物の種を吐くようにたやすく、弥吉の頭を村の前に吐き捨てることができるのだ。


(こいつは、まことの化け物なのだ)


 心優しい守り神様などではない。弥吉の話を聞いて、悲しそうにうなずいてくれた姫様とは全く違う存在なのだ。


 隠れ里と、その境である椀貸沼の伝説には、ありがたいものも、まがまがしいものも幾つもある。厳格に決まりを示し、それを破ったものに激しい罰が与えらえる物語もまた、古老たちが好んで子どもに話す隠れ里の言い伝えだった。

 いつしか、その物語は、親に仕え、世の中に、ひいては善に仕える道を歩め、という教えを子どもにしみこませるために、恐ろしさを薬味にした物語なのだと受け取られつつあった。実際に何か恐ろしいことが起こるというより、身近な沼をありがたくも恐ろしい存在として実感させることで、大地教(プヴィコ・シクシャ)の教えを子どもを諭すための方便なのだと思うものが増えていた。杏庵先生も、年寄りが弥吉を怯えさせるような話をするたびに、後で、そう補ってくれていた。


 だが、文字通りの恐ろしいものが、ここには、本当にいたのだ。


 とはいえ、弥吉とて、ここで呑まれてしまうわけにはいかなかった。弥吉はどうすることもできず、哀願した。


「どうか、お許しを。このシノブシダがなければ、わたくしの身内は、明日の命をも知れぬ身でございます」


「ほう。身内とな。小生意気なことをぬかす。孝行心か。反吐が出るわ」


 吐き捨てるような調子で男は言った。だが、ふと思いついた、と言った風情で愉快そうに付け足す。


「このシノブシダを持ち帰るのであれば、若い娘を一人、椀貸沼にいけにえに捧げるのだ。いまだ誰にも嫁いでおらぬ乙女を一人と、かご半分のシノブシダの交換だ。それができるなら、見逃してやろう」


 弥吉は真っ青になった。


 村の言い伝えにも、確かにそんな内容のものがあった。

 隠れ里を怒らせたため、生贄を差し出さなければならなくなった話。


 村のものはきっと本気にしないだろう。したとしても、決して自分の娘は差し出さないであろうし、弥吉とて、とてもではないが、厚かましくそんなことを願い出るわけにはいかない。そもそも姉がそんなことにうなずくはずはない。自分が行くといって聞かぬであろう。


 持ち帰っても、持ち帰らなくても、このままでは、姉の命は風前の灯火となってしまう。


「それだけはお許しください。このシノブシダさえ持ち帰って身内に飲ませれば、それでよいのです。沼の主様には、このお神酒をお捧げするつもりでおりました」


 懐から、竹筒を出すと、男はひったくるようにそれを奪った。


「ほう、わしにとな」


「では、あなた様は沼の主様でいらっしゃるのですね」


 この男が身にまとっている空気は、古老が語るまがまがしい伝説を片っ端から集めて鍋で煮だして、どろりとなるまで煮詰めたように濃い、いやなものだった。


 男は、竹筒の栓を抜いて匂いをかいだようだった。


「そうだ。我こそが椀貸沼の主。……ふむ。これはなかなかの上物ではないか。だが、こんなもので、盗みの罪が消えると思ったら大間違いだぞ」


「もちろん、仰せの通りでございます。身内に薬を飲ませたら、必ず、わたくしが沼に参ります」


「おまえが」


 恐ろしくて顔も挙げられないまま、必死で言い募る弥吉の、はるか頭上の方で、男が呆れたように鼻を鳴らす気配が感じられた。


「いくら年若くて細いと言っても、おまえは男だ。食ってもうまくない。おそれおののく若い娘こそ、熟れた桃の実が酒になったようなうまい匂いを放つというのに」


 男は、竹筒から酒を一口あおったようだった。


「うむ。都からの下り物か。鄙では珍しい、良い風味だ」


 そういうと、ぐびぐびと酒を飲み干す気配がする。


「興がのった。おまえはただ食ってもつまらんが、どうだ、一つ、運試しをさせてやろうじゃないか。わしと札賭けをするのだ。もうしばらく、博打をやってはおらん。相手がいなくてはできぬからな。こうも間が空いては腕もなまろうというもの。そろそろ、博打の虫がうずいておったのだ」


 お前は運が良い、と、男は酒臭い息をこぼして笑った。


「おまえが勝てば、シノブシダを持ったまま、生きて帰してやろう。お前が負ければ、シノブシダのかごごと、丸呑みだ。さすれば、身内とやらも病を癒す手段を失くし、村で苦しんで死ぬであろう。おまえは無駄死にだ。その絶望の匂いでなら、男の肉でも、多少はうまく食えそうだからな」


 くつくつ、と、男は酷薄な笑いをこぼした。


「札賭け、でございますか」


 弥吉は当惑した。


 札を使った賭博の遊戯なのだろうが、弥吉は年長の者が話しているのを聞くだけで、実際に賭け事が行われているところを見たこともなければ、札に触れたこともなかった。


 窮した弥吉のおうむ返しの応えに、嘲るような声が降ってくる。


「臆したか。口先では勇ましいことを言うが、所詮、命が惜しいのであろう」


「ご覧の通り、わたくしはまだ子どもです。賭場への出入りは許されません。父も外でのたしなみ程度にはできるかもしれませんが、家ではいたしませんので、わたくしは、札の持ち方さえ存じません。とても、満足のいくようなお相手が務まるとは思えません」


 一息に言ってから、弥吉は、震えをこらえるように奥歯をぎりっとかみしめた。


 恐ろしい。恐ろしくてたまらない。だが、それと同じくらいか、それ以上に、この男の前で惨めに泣き叫んだりするのは弥吉の中にもわずかにある誇りが許さない気がした。


 筋が通らぬ。恐ろしくとも、厳しくとも、筋が通るなら、神様の怒りに触れたのだと諦めもできよう。だが、この男は気まぐれに、弥吉の命をもてあそんでいる。その弥吉の命に、たった今は、まつの命までしっかりと結びついているのだ。


(姉上は幸せにならなくてはいけない方なのだ。こんな化け物に好きなようにされてたまるか)


「なに、今から覚えればよい。おまえはどうやら、ただただ怯えて動けなくなる性質(たち)ではない。このおれにそんな口がきけるとは、どうやら、それなりに気骨もありそうだ。賭博は、知っているか知っていないかだけではない。知識はもちろん必要だが、胆力があるかどうかが物を言うのだ。そんなやつの魂の背骨が折れたときが、一番うまいというもの」


 男は空になった竹筒を投げ捨てた。濃く生い茂る笹藪に、がさっと音を立てて、弥吉の家のわずかな持ち物の一つである竹筒が、あっさりと飲みこまれていく。


「ついてまいれ」


 弥吉が断るという可能性は、彼の考慮の範疇にはないらしい。踵を返すと、全てを確信しきったような傲慢な足取りで、男は歩き始めた。


 弥吉はもう一度奥歯をかみしめた。だが、男についていく以外、彼に選択肢がないのもまた、事実なのだった。


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