4 へびいちごと草いちご
姫様に言われた通りの道をたどると、確かに、弥吉にも見慣れたいちご摘みの空き地に行き当たった。普段は、その空き地まで来て用を済ませればそのまま帰るので、空き地の奥が椀貸沼のほとりにまで通じていることを知らなかったのだ。
(しかし、へびいちごとは変な注文だ)
日当たりの良い空き地で、赤い小さな実を摘み取ってはかごに入れながら、弥吉は首をかしげた。
草いちごや木いちごは甘い。そのまま食べてもうまいし、甘蔓の樹液とともに煮詰めれば、極上の菓子になる。とろりとして甘酸っぱく、深紅の色も鮮やかないちごの蜜煮は、煮沸した瓶に詰めれば日持ちもするので、村の貴重な収入源にもなっている。
だが、へびいちごは何をどうしても渋い。鮮やかな朱赤に熟れた実の、見た目はかわいらしいが、弥吉の村では、ままごとをする幼い子どもしか摘むものはいない。
この空き地には、蜜煮作りの材料を集めるため、先日、村の子どもたちが一斉にいちご摘みにやってきたはずだ。当然、うまいいちごはほとんど残っていない。へびいちごでなければ、ざるに一杯集めることは難しかっただろう。
だが、いくら奇妙でも、姫様の注文である。仰せの通りに集める以外の選択肢は、弥吉にはない。彼は黙々と手を動かした。
へびいちごの実は小さい。いくら手つかずでたくさん残っているといっても、ざるを満たすまで摘むのには、傾きかけていた陽が沈みかかるまでの時間を要した。
ようやくざるが小指の先ほどの赤い実でいっぱいになって、腰を伸ばした時だった。弥吉の目に、草いちごの大きな藪が目に入った。村の子どもたちが摘みに来た時にはまだ青く、取らずに残されたのであろう実が、三粒ほど葉のかげで真っ赤に熟れている。
姉も、村の女子どもも、草いちごの新鮮な実はことに喜ぶ。姫様も、へびいちごだけではなく、草いちごも少しつまめば、気が変わっていいかもしれない。弥吉は、そのいっそ黒々と言ったほうがいいほどよく色づいた実を摘んで、へびいちごのざるに加えると、岸辺を回り込んで姫様の待つ沼のほとりへ戻った。
「おお、これじゃこれじゃ。あちらの森にはこんなにたんとあるのか。弥吉に頼んで、よかったのう」
姫様は手をたたいて喜んだ。言われてみれば、この沼のほとりにはほとんどへびいちごが実っていない。弥吉がそういうと、姫様はばつが悪そうに首をちぢめた。
「私が食べてしまったのじゃ。森のいちごは、私は取りに行けぬ。一つ二つでも残っていないかと思ってここまで来たが、こんな交換ができて、幸運であった」
(あの、渋いへびいちごを、一つ残らず?)
へびいちごを食べる習慣をもつ人がいるとは、弥吉は聞いたこともなかった。隠れ里の民は、よほど、好みが弥吉たちの村人とは違うのだろうか。
「おや? この、黒っぽいいちごはなんじゃ?」
嬉しそうに抱えたざるをのぞきこんでいた姫君が、怪訝そうに言う。
(好みがそんなに違うのでは、よけいなことだったかもしれない。差し出がましいことをしたのかも)
そう思ったところで、後の祭りである。弥吉は恐る恐る答えた。
「草いちごでございます。わたくしの村では、へびいちごよりも人気がございます。名残の一枝が残っておりましたので、こちらも少し入れればお口替えになるかと」
だが、弥吉が驚いたことに、姫様は歓声を挙げた。
「草いちごか! こちらの山では、へびいちごしか食べてはならぬとじいやに厳しく禁じられて、私は食べたことがない。私が言うことを聞かねば、じいやは鎖で打つと脅すのじゃ」
弥吉は眉をひそめた。
草いちごを食べさせてもらえないなんて。家に、じいや、と呼ぶ人がいるのだから、やはりこの少女はお姫様かお嬢様ということになるのだろうが、隠れ里のお家のしつけは相当厳しいらしい。
確かに、木いちご草いちごを、村の者がそのまま食べてしまえば、実りは一時の「うまい」で終わってしまう。食べるのは少しにして、商人に売る蜜煮を多く作るよう、弥吉の村でも、厳しく戒められてはいた。だが、まとめて収穫し、蜜煮を作ってしまった後、ぽつぽつと遅れて赤らんでくる名残のいちごを食べるのは、村の子どもたちの、大事な季節の楽しみの一つなのだ。それを食べたことがない、というのは、なかなか極端な話だ。
しかも、こんな幼い、しかも女の子を、鎖で打つなどとは。言葉の脅しにしても、度が過ぎている。
「子どもをぶつようなことはいけないと、わたくしは思います。そんなことを本当になさらないとよいのですが」
思わず言葉が口からこぼれてから、弥吉はしまった、と唇をかんだ。
(姫様のお家のことを、自分のような下々の者がとやかく言うなど、それこそ、差し出がましいにもほどがある)
姫様は何でもないように片眉をひょいとあげた。
「おぬしとて、わかっていよう。いくら身体をぶっても、心まで従えることはできぬもの。大したことではない」
言われて、弥吉は慌てて、袖を引っ張った。短すぎる縞の木綿地が隠してほしいところを隠す役に立たないのに気がついて、腕を身体の後ろに回す。
弥吉自身の腕にも、幾つか、あざがあった。
このところ、三太郎は、素面で帰宅することはまれである。そんな三太郎に、日々の費えにする金が足りぬと相談をしようとするまつを、機嫌が急に悪くなった三太郎が酔いに任せて打ち据えようとすることがあった。
姉上は嫁入りもまだなのに、あざを作られては、まともなご縁もこなくなる。
そう言って庇う弥吉自身が、かわりに叩かれたり、焼けたキセルを押し付けられることが、数度ではあるが、あったのだ。
弥吉が顔を赤らめてうつむいていると、笑みを含んだ声で姫様は言った。
「私を案じてくれたのか。弥吉は正直者じゃ。びいどろ風鈴草も、見つけたのにとらなかったのであろう。立派な心掛けじゃ」
崖の上で、今しがた見たばかりの花のことを言われても、もはや、弥吉はそれを不思議だとは思えなくなっていた。姫様にはきっと、弥吉にははかりしれぬ、神通力があるのだ。
姫様は、餅のように白く、ほっそりした指で、赤黒いいちごをつまんだ。一つぱくりと口に運ぶ。
「甘い! これはうまい! へびいちごの香りや渋みもうまいが、甘いいちごもいいものだのう」
きゃっきゃと身体をゆすって喜ぶ。その子どもらしい仕草でようやく、姫様が見た目と釣り合う年齢に見えて、弥吉の頬も緩んだ。
「草いちごはあと二つもある。三つも摘んでくれたのか。これは、シノブシダだけでは釣り合わぬな」
姫様は、懐から小さな布袋を出し、弥吉にむかってグイッと突き出した。
「弥吉にはこれを授けよう。三枚ある。困ったときに使うのじゃ」
気おされて、弥吉はおずおずと手を伸ばし、受け取った。見ると、古風な織り模様の丸い袋の上端にひもを通した、守り袋のような巾着である。受け取ると、中には何か薄くて固いものが入っているようだった。貝殻のこすれるような音がかすかに聞こえた。
姫様は、少し首をかしげた。
「こういう時は、きちんと名乗らねばならぬな。我が名は綾目」
綾目姫というのか。
高貴の身分の人間は、たとえ通り名といえども、下々の者には名乗らぬのが習いであった。弥吉のほうからは、教えられたからと言って、到底その名で呼びかけることは出来ぬ。
姫様も、それを分かった上で、あえて名乗ったようだった。応えもできず固まっている弥吉ににっこり微笑んだ。
「けがの手当ても、世話になったの」
「恐れ多うございます」
綾目姫はふと上を見上げた。
「おお、もう日が暮れる。じいやが帰ってきてしまう。わたしは帰らねば。弥吉も気を付けるのだぞ」
彼女は座っていた岩からぴょんと飛び降りると、いちごが入ったざるを大事そうに抱え、けがしたひざを庇うようなひょこひょこした身のこなしで、沼の向こうに走っていった。隠れ里は、あちらの方角にあるのだろう。村で、決して入ってはならぬと厳しく戒められている方角だ。
(あれでは速く走れぬだろうに。厳しいじいや様に見つからないといい)
案じながらその背中を見送ってから、弥吉もシノブシダの入った籠を拾って腰に結い直すと、沼のほとりから、村の方角に向かって歩き始めた。
だが、弥吉の長い夜は、まだ始まったばかりだったのである。このときの弥吉はそれに気づくよしもなかった。