2 紫の瞳
「おい、おまえ。どういうつもりじゃ。早うどかんか!」
わめきちらす声が、遠くから聞こえるような気がする。
(浄土に来たにしては、やけに、荒っぽい調子だ)
弥吉はぼんやりと靄がかかったような頭でそんなことを思う。全身、あちこちがずきずきと痛む。岩にぶつけたせいだろうか。
(死に際が悪いと、浄土でも痛い思いをするんだろうか。ああ、でも、浄土に行く前に、夜明けの王のお裁きを受けるんだ。だったら、ここは、まだ忘れの川岸なんだろうか)
背中の下はごつごつとした石だらけだ。
親よりも先に死ぬ不孝をおかした子どもたちは、親が死ぬまで、浄土にも地獄にも行けない。親の来世の幸せを願って、善行を積むために、忘れの川岸で石を積むという。
(母上と父上はもうあの世だから、私は積まなくていいんだろうか。義理とはいえ、あの親父殿のために積まなくちゃいけないとしたら、気が重い。でも、杏庵先生と姉上のためだったら、積んでもいいかなあ)
姉のまつは、宿場町の大きな寺院に祀られている、山童神様のように美しくて優しいのだ。あの義父から、あんな心ばえも姿も美しい娘が生まれるなんて、前世でどんな立派な善行を積んでいたのか。でも義父の三太郎ときたら、その前世の善行も、今世ですっかり使い果たしてさらに借りまでこさえてしまっただろうから、来世はきっとみじめな暮らしをするにちがいない。
そんな不敬なことを考えていると、腹のあたりにぽかぽかと軽い衝撃を感じた。
「重いのじゃ! 早うどけ!」
おかしい。忘れの川岸だったら、薄墨色のカラスがきて、子どもたちが積んだ石を蹴り崩すという。だが、この声は子ども――それも、女の子だ。弥吉と同じくらいか、少し小さいくらいだろう。悲しみに暮れて石を積んでいる子とは思えない、元気すぎる声だ。
弥吉は、くらくらする頭の中を鎮めるように深く息を吸って吐き、重い瞼を押し上げた。
「ほら、もう目が覚めておるであろう。わかっておるのじゃ。早うどかんか!」
わめき声が、次第に大きくはっきりと聞こえてくる。なにも、声の主が近づいてきたわけではない。自分の頭がようやく冴えてきたせいだと弥吉にもわかった。
脇腹のあたりに、ぽかぽかとまた、軽い衝撃。
そちらに視線をやって、弥吉は驚いた。
「も、申し訳ござりませぬ」
とっさに、謝罪の言葉が口をついて出る。
あろうことか、自分よりも幼い少女を下敷きにしてしまっていたのだ。少女はまだ肩上げのついた童の着物で、黒々と量の多い髪も結わず顎のあたりで切り揃えていたが、その着物は見るからに上質だった。
だが、弥吉の口を敬語がついてでたのは、そんなことを瞬時に見て取ったからではない。
弥吉が見たのは、少女の瞳だった。つい先ほど崖の上で見た、びいどろ風鈴草の花弁に不思議なほどよく似た色の、深い深い、一見黒にも見えるが、光の加減で紫にも見える瞳。こんな色の瞳は見たことがない。それは強い意志の力をたたえて、生まれつき他者を従わせるのに慣れた瞳だった。
弥吉は這うようにして少女の上から身体を引きずり動かした。
「それでよいのじゃ」
少女は、やっと自由になったらしい腕で身体を突っ張って、足を弥吉の身体の下から引き抜いた。
弥吉の全身は、崖から転げ落ちる際、岩に打ちつけたらしく、あちこちがうずくように痛んだ。だが、弥吉はその痛みをぐっとこらえて、少女の前にひざをついた。
「どうか、ご容赦を」
「ふむ」
少女は腕を組んだ。
「お怪我はございませぬか」
「ひざを擦りむいた」
弥吉が尋ねると、くしゃっと顔をゆがめ、口を尖らせて少女が言う。
「手当を致してもかまいませぬか」
「なに、おまえ、医師の息子か」
ぱっと顔を輝かせて、彼女は問い返した。
「いいえ。でも、医の道を志して、見習いの丁稚奉公をしております」
「ならば、許そう。なに、擦りむいたのはお前のせいではないのじゃ。そこで転んで、あまりに痛いので丸まっていたところにお前が落ちてきただけのこと」
だけ、というが、上から人が降ってきて、下敷きになれば痛いだろう。弥吉が問うと、少女は呆れたように片眉をあげた。
「おまえ程度の小童が落ちてきたところで、痛くもかゆくもない。そんなに痩せていては、吹けば飛んでしまうぞ。それより、早く、ひざの手当てをせよ。許すと言ったであろう」
弥吉は思わず頬を赤くした。最近ようやく背が伸び始めたとは言え、同じ年ごろの子どもに比べれば細くきゃしゃな体つきは、弥吉のひそかな悩みの種だったのだ。近所のかみさんたちに、亡くなった母に瓜二つで、まるで女の子のようだとからかい交じりによくほめられた顔だちもあいまって、その見た目のせいで弥吉は軽くみられることも多かった。実際、腕力では少し年下の子にすらかなわぬのだから、仕方のない面もあるのだが。
そんな恥ずかしさを押し隠すように、弥吉は口早に言った。
「では、失礼して、手を掛けさせていただきます」
弥吉は背負っていた風呂敷包みの中から、いつも持ち歩いている洗い布と清潔な油紙、杏庵先生秘伝の、けがに効く軟膏をとりだした。傷口に土の気や金物の気が入るのを防ぐ効果のある薬草を粉にして、蜜ろうに混ぜたものだ。
辺りを見回すと、沼に流れ込む清水の小川が見えた。弥吉は洗い布を清水に浸して立ち戻ると、岩に腰掛けて待っていた少女の足元にひざをついて、すり傷の程度を調べた。
砂と小石を濡らした布でそっと払い、深い傷がないのを見て取ってほっとする。擦り傷は切り傷より治りが遅い。土の気が入ってしまい熱を出すことも少なくない。だが、この様子なら、杏庵先生の軟膏をぬった油紙で押さえ、布で巻いておけば、数日中には傷口もふさがり、二週間もすれば、けがなどなかったかのように綺麗に治るだろう。
油紙を傷口の大きさに切って、軟膏を塗ってから貼りつける。その上から、油紙が剥がれ落ちないように、別の乾いた長い洗い布をくるくると巻きつけ、端を結んだ。
「手際がいいな」
「光栄でございます」
「かたじけない。しかし、おぬしは、こんなところで何をしておったのじゃ」
おまえ、よりは少し丁寧な呼びかけになった。手当の効果を認めてもらえたらしい。だが、その質問は、弥吉の痛いところを的確につくものだった。
少女は弥吉の荷物に視線を走らせた。
「医師の見習いと申したな。そのかごに入っているのは、シノブシダか」
はいともいいえとも答えられず、弥吉はうつむいた。
禁じられたことをしてしまっているのは、自分でもわかっていたのだ。
少女の着物の裾が目に入る。全体がきっぱりとした黒い大きな籠目格子模様で、格子の窓の部分はツユクサの葉のような淡い緑色だった。その緑色が、裾から身頃を上がっていくにつれ、次第に茜色に変わっていく。大胆な色柄だったが、思い切りがよくて上品だった。子どもの着物には使いそうにない色の取り合わせが、きりっとした顔だちのこの少女にはよく似合う。
肩のあたりまで知らず知らず視線を上げていたのに、そこで気がついた。
苛立ったように、少女が重ねて問う。
「シノブシダを採りに来たのか、と聞いておるのじゃ」
「……はい」
「ここが、椀貸沼の崖と知ってのことか。許しなく立ち入って、本草を集めることは禁じられた土地じゃ」
薬湯や軟膏の材料にする、薬効のある植物を本草と呼ぶ。医薬に携わるものなら当たり前に使う言葉だったが、こうして、童姿の少女が口にするのは少々奇妙ではあった。だが、その奇妙さを不思議と納得させてしまう威厳が彼女にはあった。
もしかすると、隠れ里の娘なのだろうか。
弥吉の村の入会地は、この椀貸沼の崖の上までと決まっていた。
古くからの言い伝えで、椀貸沼の先には、隠れ里があるという。そこには、どの村とも関わりを持たない高貴な民が住んでいる。彼らを敬い、祈りを捧げていれば、村は栄え、平穏が約束される。だが、隠れ里のことを村の外で言いふらしたり、隠れ里の境界線を粗末にして、里の民を怒らせてしまえば、村は滅びるのだという。
弥吉も、ほかの子どもたちも、厳しく村の古老に言い聞かされて育った。村の守り神のようなものなのだ。
この近くの村は、それぞれにこうした守り神をもっている。国全体に広まっている信仰、夜明けの王と夕暮れの女王や、山童神といった多くの神々をまつり、たくさんの信者と大きな寺院をもつ大地教とは全く違い、こうした村ごとの慣習は、それぞれの土地だけに伝わるものだった。村の人々は、大地教の神と村の神、両方を大事に生活してきたのだ。
「返事をせよ」
のどが固まってしまったように立ち尽くす弥吉に、苛立った声で、少女は言った。
弥吉は嘘は得意ではない。そもそも、隠れ里の民が、もし本当に、村一つの栄枯を左右できる程の神通力を持つのなら、弥吉のつまらない虚言など、すぐに見破ってしまうだろう。こうして見つかってしまった以上、見苦しい言い逃れはできなかった。
読んでくださってありがとうございます!
カードゲーム・ボードゲーム企画らしいところは、もう少し先になります……。
今しばし、お付き合いいただければ幸いです。
2パートずつ、5日間連続更新の予定です。