10 綾目姫
「じいや、そこまでじゃ」
鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
(姫様!)
弥吉は、背の高い茅の間から、背伸びをして声のする方を見やった。
夕刻、沼のほとりで出会った、肩までの童髪の少女がそこにいた。
黒の籠目格子に、茜色と淡い緑で地を染めた着物。
ヤマカガシの色と同じだ、と、弥吉は気がついた。
巨大な、黒地に赤い斑点の散ったうわばみを前に、涼しい顔で立っている。
「この勝負、じいやの負けじゃ。ただの人間が相手でも、真名も約定も、声に出せば霊力が宿るのじゃ。弥吉を見くびったのがじいやの敗因。いい加減、認めぬか」
「おのれ。さては何もかも、姫様の入れ知恵か。こけにしおって! いくら姫様と言えど、このじいは後見人。成体になるまで、じいに逆らうことは許しませぬ」
「それが、道理の通った、まこと私のことを思って言ってくれる叱責であれば、私も受けよう。だが、博打と酒に身を持ち崩し、道理もなく私の身動きを封じるものであれば、私も諾々と従ったりはせぬ」
「小癪な。このクツナ、姫様より三百年は年長なのですぞ。姫様にいくらご身分があろうと、後見人にかような口の利き方が許されると思いか! 長幼の序をお忘れか!」
「ならば」
姫様は、氷のような冷たい目をして、クツナを見やった。
「私より三百年も年長の後見人らしく、尊敬できる振る舞いをしてくれねば。私とて、なぜ父上が、じいやを私の後見人にしたのかわからぬ。父上の命であればこそ、じいやのもとで一人前になるまで育ててもらうことにしたが、あまりに道理の通らぬことを申せば、私から父上に事の次第を報告し、このままじいやが後見人でよいのか、尋ねねばならぬのう」
皮肉交じりの、余裕のある言葉だった。
「うぬう。小ばかにしおって、この小娘が……!」
ばん、と姫様の周りの空気がはじけるような音がした。弥吉はまるで自分が打たれたかのように歯を食いしばった。
姫様の着物の黒い籠目文様が、その身を絞り上げるように、ぎりぎりと締め付けている。
苦しそうに身をよじったが、姫様は、なおも言葉を続けた。
「よいのか。じいや。私はまだ幼体じゃ。怒りに任せ、かようなことを繰り返しては、私は死ぬぞ。さすれば、姫の後見人一つ満足に務まらぬと、父上がお怒りになるのは必定」
「おのれ!」
「そこまでいかずとも、酒に酔い、里人と博打に興じたと父上が知れば、どうなるかの。それも、申し開きも聞かず、里の、しかも子どもを無理やり己の手慰みに付き合わせたというのは、幾つのご法度を破っておることやら。じいやは、これが初めてではなかろう。父上は同じ失敗を許さないのではないかな。この鎖、緩めたほうが良いのではないか、じいや」
辺りを払うような威厳ある声だった。
大蛇は、がっくりとうなだれた。その身がしゅるしゅると縮んで、大男の姿に戻ってゆく。姫様を絞り上げていた、着物の不思議な力も緩んだようだった。姫様は、埃でも落とすように、ぱたぱたとその着物をはたいた。
「弥吉。迷惑をかけたの」
声をかけられて、弥吉は首を垂れた。
「もったいないお言葉にございます」
「茅の原に逃げ込むとは。考えたの。大方、じいやが口を滑らせたのであろ。ほんにまあ、しようのないやつじゃ。こんな粗忽者でも、私の後見人。一人前になるまでは、顔を立てて共に過ごさねばならぬ」
姫様はため息をついた。
それから、おてんばな仕草で指を一本、顔の前で立てる。この時ばかりは、姫様が、見た目通りの十やそこいらの子どものようだった。かごにいっぱいのいちごを抱えたときと同じく、楽しげだ。
「私と会ったことは内密にしておくれ。これだけの騒ぎを起こしたのが父上に見つかっては、じいやも叱られるが、私も無事では済まぬ。父上は短気なのじゃ。私の一族はどうも血の気が多くていかん」
しれっと澄ましかえって言う。だが、じいやに灸をすえる、と言った時の姫様の人の悪い笑い声を思い出して、弥吉は不敬と知りながら、頬を緩めてしまった。姫様だって、十分、血の気が多い性質であろう。
「うろこは三枚あったはずじゃ。一枚は札賭けに、一枚は濁流に。もう一枚残っておるであろう」
弥吉は懐を押さえた。確かに、貝殻のような感触が、まだ守り袋の中に残っている。
「それは、私からの詫びじゃ。母上から賜ったものだから、弥吉が預かっておいておくれ。姉御を大事にな」
それから、姫様は東の空を見やった。
「おお、これはいかん。夜が明けてしまう。弥吉、今度こそ、気をつけて帰るのだぞ」
つられて弥吉も空を見上げた。明け初めてきた空は、青みがかった深い紫色に染まっている。日の光が入って、きらきらと一番明るく見えたときの、姫様の瞳の色のようだ、と思って振り返ると、二人の姿はもうどこにもなかった。
◇
今度は迷わず、弥吉は家に帰り着いた。家の中を伺うと、まつは案じてずっと起きていたのだろうが、疲れ果ててしまったのか、炉端にしいたむしろの上で横になって寝ていた。
弥吉の喉はからからだった。勝負の前に、手のひらに一すくい水を飲んだだけだったのだ。家に入る前に、一杯、水を飲みたい。
家の横手にある井戸に釣瓶を入れて、引き上げようとかがんだ時だった。
「あっ」
懐に入れていた守り袋の口が緩んでいたらしい。あたりを淡く照らし始めた朝陽の中で、透き通った深い紫の、貝殻のようなかけらが落ちた。慌てて伸ばした弥吉の指先をすり抜けて、水底へと沈んでいく。
覗き込むと、水の濁りを防ぐために敷いてある、白い玉砂利の上に、きらりと光るものが見えた。
「どうしよう」
弥吉はうろたえたが、どう手を伸ばしても届くところではない。
(考えてみれば、持ち歩いていればすりに取られるかもしれぬし、家に置いておけば、空き巣に狙われたり、ネズミにかじられたりすることもあるやもしれぬ。井戸の底は、かえって、一番安心なのかもしれぬ)
弥吉は自分を納得させた。
そう思うよりほかなかった、というのが、実際のところである。
だが、姫様のお守りは、びいどろ風鈴草にも負けぬ霊薬であった、ということが、数か月後、弥吉にはわかってきた。
まつの病が癒え、次第に身体が強くなってきたのだ。
周囲には、姉が信心深く、毎日、山童神様にお祈りしていたご利益だ、と説明している。
だが、弥吉だけが、知っている。
まつは毎日、家の井戸の水を飲んでいる。つまり、不思議なうろこを浸した水を飲んでいるということだ。あれだけ霊験あらたかなうろこなのだ。今まで手を尽くしても一進一退だった病状がよくなってきたのが、そのおかげだ、と考えれば、つじつまが合う。
騒ぎの詫びにうろこを預けよう、姉御を大事に、と言ってくれた姫様の言葉の真意は、そこにあったのだろう。
もしかしたら、井戸に弥吉がうろこを落としてしまうことさえ、お見通しだったのかもしれない。
三太郎が酔って帰ってくるのはその後も変わらなかったが、家で水を一杯飲めば気が落ち着き、まつや弥吉に怒鳴り散らすことも減った。まつの薬代がほとんどかからなくなってきたことで、姉弟の暮らし向きも、少し良くなった。
朝、水を汲むたびに弥吉は井戸の底を透かし見る。よく見ると、きらっと光るものが見える。
いつか、このうろこを姫様にお返しせねばならない。
そう思うと、弥吉の心はいつもなんとなく温かくなる。
それまでは大事に、姉と、この家と、井戸を守るつもりである。