1 びいどろ風鈴草
「あと少し……!」
左手で岩にしがみついて、弥吉は右手をいっぱいに伸ばした。最近、背丈が妙に伸びたせいで、すっかりつんつるてんになってしまった粗末な縞木綿の袖口から、痩せた手がひじちかくまで見えている。
指先に触れた柔らかい感触を、弥吉は必死で掴んだ。岩に必死でしがみついているのは、彼が掴んだシダ植物とて同様である。割れ目に食い込むようにしてがっちり貼りついた根を丁寧に引きはがして、彼はその植物を腰に紐でくくりつけた竹かごに入れた。竹かごはもう、半分ほどまでシダ植物でいっぱいになっていた。あわい緑の香りが立ち上る。
ちらりとかごの中を見た弥吉はうなずいた。
(これだけあれば、三回分に足りるだろう。もう帰らなくては)
今日の夜、明日の朝、夜と飲める量だ。必要以上の量は採らない。それは、師匠である杏庵先生の教えでもあった。
崖の上に戻るため、踏みかえる足場を確かめようと視線を落としたその時だった。先ほど、必死でシダをはがした箇所の斜め下、岩の上で、ほとんど黒に近いような、濃い色の花びらが風に揺れるのが目に入った。
「あの花……」
びいどろ風鈴草、という名前が弥吉の頭をよぎった。
ここよりもずっと北の大地にしか生えないと噂に聞いていた。杏庵先生のところに年に数回立ち寄る薬売りが、商品として持ち歩いていた本草の教科書を、一晩だけ貸してくれた。高価すぎて今の弥吉の稼ぎではとても手が出ない本だ。その本に載っていた、秘中の秘薬となる花だった。
一晩中薬を煎じている囲炉裏のわずかな火をたよりに、美しい花の挿絵を、うっとりして眺めたものだ。
(まさか、こんな近くに生えているわけがない)
だが、もしや、という思いで、弥吉の胸は高鳴った。もしそうでなかったとしても、薬のほかに、見たこともないような美しい花を一輪持って帰れば、熱をだして伏せっている姉はきっと喜ぶだろう。身体が弱くて、焚きつけにするための小枝拾いの森にもなかなか行けない姉は、里に咲かない花を見るとことさらに喜んだ。
弥吉は夢中で足場を探って腕を伸ばし、身体を引きおろして、岩棚を覗き込んだ。
先ほどは真上から見下ろす格好になったため、花の色は光を吸い込むように黒々として見えた。だが、こうして、明るい陽光のもと、間近でみると、ふっくらと丸い釣鐘を伏せたような花は、深く澄んだ紫色をしている。月のない良く晴れた夜の、真夜中の空の色だ。ギザギザと深く切れ込みのはいった葉は、細かい毛が生えているようで白っぽい銀緑色に見え、そのふちだけが、頬紅でも差したかのように、わずかに赤く染まっていた。
見まちがえようがない。
弥吉はやっと十二になったところだったが、杏庵先生が持っている古い本草の教科書を手習い代わりにこつこつと書き写し、暇さえあれば繰り返し読んで、この国に生える薬草と、それに類似した注意すべき別種の草については完全に覚え込んでいた。こんな色で咲く花、こんな美しい葉を持つ植物を、弥吉は他に知らない。
「本当に、びいどろ風鈴草だ……」
その姿の美しさもさることながら、滋養強壮の効果を持ち、万病に効くと名高いその薬草は、諸国を流れ歩き、大量の薬草を仕入れては売りさばく旅の薬売りでも、まだ一度も取り扱ったことがないと言っていた。もし見つかれば、乾燥させたもの一、二輪で、金の小判が何枚も飛び交うような騒ぎになるだろう、と語る、呆れた笑い交じりの声を思い出す。
乾燥させた花びらを水や酒に浸して、その水を取り替えながら一月ほども飲むだけで、軽い病ならたちどころに治り、医者に見放されたような重い病の者も、一年二年と命が伸びることもまれではないのだという。
北の国が豊かな理由の一つが、他の土地では自生せず、栽培も難しいこのびいどろ風鈴草を独占販売しているからなのだ。公方さまも今上帝も、お侍も貴族も、病にかかればただの人である。効果の高い薬は、黙っていても飛ぶように売れる。
びいどろ風鈴草は、その生産される量の少なさと、まれにみる薬効の高さで、南の海で採れる真珠や珊瑚とも引けを取らない値で取引され、通常は大きな貴族や武家のお屋敷に出入りを許された豪商がすべて買い占めていってしまう。杏庵先生や、その元へと巡ってくるような庶民向けの薬売り、ましてや、弥吉のような貧乏人には一生縁のないはずの本草なのだった。
(熱さましのシノブシダに、この花を浸した水を加えて煎じたら、姉上の身体も強くなるだろうか。あの恐ろしい熱も下がってくれるだろうか)
ふらふらと、気づかぬうちに弥吉の手は花に向かって伸びていた。
だが、柔らかい花弁が指先に触れたとき、胸元で、ちゃぽん、と竹筒に入れた酒が揺れる音が聞こえて、弥吉ははっと我に返った。
(ここは椀貸沼の崖。ここにある花は、隠れ里の民のものだ。どうしても、姉上の今日明日飲むシノブシダだけでも分けてくださりませ、というつもりで入ったのに、ここでこの花を手折ったら、私は本当の盗人になってしまう)
熱いやかんにでも触れてしまったような心地で、弥吉は慌てて手をひっこめた。その時だった。
足を掛けていた木の根が、ずるりと動いた。
はっとして足元を見た。太く頑丈そうに見えた木の根が、しゅるしゅると動いている。とっさのことに、逆の足に体重をかけ、弥吉は何とか踏ん張ろうとした。
不気味に動く木の根の、先細りのその先端が、岩場にしがみついているサツキのやぶの中に消えていく。木の根と見えたものが、巨大な蛇の胴であったらしい、と気がついたのはその時だった。
花を見ようと気が急いて、十分に確かめないまま足を掛けてしまっていたのだ。
蛇は眠っていたものやら、弥吉が足を掛けた瞬間にはびくとも動かなかったのだ。いきなり巻きつかれたり、噛みつかれたりしなかったのを、幸いというべきなのかどうか。
動く木の根――蛇に驚き、探って堅牢を確かめるいとまもなく、強く踏ん張ってしまった逆の足の下で、がらり、と岩の崩れる音がした。
慌てて岩を掴んでいた左手に力を込めたが、もう遅い。その指を、岩は無情にもすり抜けていった。
弥吉の身体は、岩の上を転げ、滑り落ちて、崖下へと転落していく。きらきらと光る、椀貸沼の水面が恐ろしい勢いで近づいてくる。
(姉上より先に死ぬなんてなあ)
なすすべもなく落下していく弥吉の脳裏に、そんな思いがよぎった。