うらなくも 源氏の君という殿方を
(1)
計らわれたは
神か仏か
貴方を見送る
かなしさを
この世で
味わい尽くした私に
貴方を置いて
先に逝く日が
来ようとは
御簾の中から
春秋を愛で
御簾の中から
貴方を追うて
御簾の中から
露の世に泣き
御簾の中しか
知らずに生きた
幼きころ
小さな籠に
罪なき雀を
籠めて遊んだ
罰やもしれぬと
一人言ちたは
幾たびか
されど
よし
人には人の
我には我の
負うて生くべき
かなしみが
万人に
生まれながらに
逃れるすべなく
それぞれあるなら
一生かけて
貴方を恋うた
たまたま
御簾の
囲いの中で
それが
わたしの
負うたかなしみ
それだけのこと
(2)
源氏の君と
いう殿方は
傍目には
何不足ない
栄耀栄華の
申し子だとて
明けても暮れても
知らぬところで
もてはやされて
そしられて
御簾のうちでも
貴方のお噂
耳に入らぬ
日とてなかった
若気の過ち
艶事の咎
この期に及んで
わたしの口から
かばうも責めるも
詮無かろう
貴方は
全き殿方でしたと
佞臣ぶるは
なお笑いぐさ
でもわたしには
嘘偽りなく
貴方が
この世の
すべてだった
庇護者としての
深謀遠慮も
背の君としての
妖しさも
家長としての
重々しさも
為政者としての
辣腕も
貴方の
右に出る方を
幸か不幸か
わたしは知らない
世の賢人を
赤面させる
碩学も
ときとして
顔のぞかせる
その稚気も
貴方に備わる
滋味を挙げたら
尽きることなく
逝くのも惜しい
けれど
何より
わたしには
源氏の君と
いう殿方は
此岸の無常に
のたうち
うめく
神ならぬ身の
ひとりの御仁
--露の命が
寸暇も惜しい--と
--逆さまに
行かぬ月日が
憎いを超えて
いっそ笑止--と
この世に生きる
儚さを
この世に
永遠のない
空しさを
埒もないがと
淋しく笑んで
千回万回
貴方は憾んだ
問わず語りの
その絶望を
きまって
人けのない折に
千回万回
わたしは聞いた
その呻吟を
聞くたびに
烏滸の限りと
身を縮めながら
似た者どうしと
心惹かれた
なんとなれば
わたし自身の
心の内を
覗かれたかと
訝しむほど
貴方が
この世に
抱く本音は
長の歳月
わたしも心に
溜めた澱
ただの一度も
澄みきらぬ澱
この世に
永遠のない虚ろ
その空しさに
耐える術だに
知りたくて
ただひたすらに
御仏の
道をとねだり
私は貴方を
困らせた
それほどに
耐えがたかった
此岸の無常
さればこそ
男と女の
垣を超えて
貴方の素心に
心打たれた
男と女の
垣を超えて
同じ苦患に
悶える朋と
わたしの心は
貴方に惹かれた
さればこそ
どんな貴方も
すべてが貴方
十の歳から
貴方のお傍で
貴方と生きた
わたしにとって
ほかでもない
あの呻吟の主で
あったればこそ
貴方はいつも
信ずるに足る
殿方だった
つくづく
貴方が
慕わしかった
気力もとうに
衰えて
ただ仏門にと
日々願いつつ
それでもなお
ずっと
貴方が
慕わしかった
折にふれては
強情だねと
貴方が笑った
この頑固者は
貴方を恋うて
この世に生きた
源氏の君と
いう殿方を
悔いなく恋うて
この世を生きた
病み伏して
寄り添い合えた
最後の日々は
慮外の果報
ゆるされるなら
最期は
せめて
貴方に抱かれて
笑って逝きたい
それが
うらなくも
貴方を恋うた
頑固な私の
最後の宿志
(3)
あの三瀬川の
川のほとりで
逢えますか
手を引いて
いっしょに
渡ってくれますか
彼の岸へ
もしも
渡ってよいのなら
わたしは
貴方と
渡りたい
無常の二文字に
縁のない
永遠の彼岸を
貴方と見たい
いとしい貴方
また逢えますか
あの三瀬川の
川のほとりで
<完>