大往生
僕の名は癌です。名前はまだ、ありません。そしてこの先もおそらく、ないでしょう。
僕は今、病室と呼ばれる場所にいます。一体いつ、ここにいたのでしょうか。それは僕自身もよくわかりません。
しかし、一つだけ分かっていることがあります。それはここを訪れる人達が皆、悲しい顔をしているということです。そして、それはどうやら僕と、そして僕の仲間達のせいらしいのです。
僕達が一番嫌いなもの。それは医者と呼ばれる人達です。彼等は手術室と呼ばれる場所で僕、そして僕の仲間達を強引に引きずり出し、そしてその遺体を無残にもゴミ箱に捨ててしまいます。
つい2ヶ月前のことでした。僕と一番仲の良かった癌が、彼等によって殺されてしまいました。僕はとても悲しかったです。
しかしその周りにいた人々は皆、なぜかとても嬉しそうな顔をしていました。どうやら彼等は皆、僕達をいなくなって欲しいと考えているようです。
僕はここがとても居心地がよく、また最近は友達も増えたため、なぜここを出て行かなければいけないのかがよくわかりません。
病室にいる人。そうですね、「彼」とでもいいましょうか。その彼は最近、病院食というものをよく食べます。美味しいかと言われると、残念ながらそうではありません。
とりわけ、以前の彼はやれ、松坂牛だのマグロの大トロだの。そしてビールやワイン、あるいは日本酒といった飲み物を口にしておりましたし、さらには彼がタバコといったものを吸うと、これまたニコチンという素晴らしい香りを堪能することができたのです。
そのため今の食事は何といいますか、何となく「物足りない」のです。私は以前のような食事をとりたいと考えておりますが、どうやら周囲の人間は彼に反対をしているようです。
では、彼は一体どうなのかといいますと、最初は僕と同様、以前のような食事を望んでおりました。しかし最近はどういうわけか、病院食を好むようになりました。
それだけではありません。最初はとても嫌がっていた病院食を、最近は完食する度にとても嬉しそうな顔をするのです。
つい1週間前のことでしょうか。彼は密かに病院の外でタバコを吸いました。彼はそれを美味しいとも不味いとも思わなかったようです。
久々のニコチンに対し、私はそれがとても美味しく感じられました。しかしどうやら彼の感情は「美味しい」ではなく「悲しい」というものだったそうです。
昨日、彼は激しく呼吸をし、とても苦しそうでした。すると病室に「家族」と呼ばれる人達がやってきて、そんな彼を必死で励ましています。
いや、中には「目がうつろだ」といって、半ば諦めている人もいます。どうやら僕達のせいだそうです。
そして彼は今、亡くなりました。病室にいた家族達は、悲しんでいる人達もいます。しかし、昨日悲しんでいた家族達の何人かは逆に、とても嬉しそうな表情をしていました。
いえ、やっぱり嬉しそうではなかったと思います。なぜなら彼等は涙を流してましたから。
彼は95年間生きたそうです。
彼が亡くなる3日前のことだったでしょうか。病室を訪れた家族に対し、彼は言っていました。
「100年生きなきゃ、死ねないよ!」
そして、そんな彼に対し、家族は「退院したら、また何か美味しい物を食べよう」と言っていました。
退院とは、今いる場所から以前いた場所へと戻る事のようです。そして、以前のように美味しい食べ物や飲み物。そしてタバコを吸うことが出来るようです。
残念ながら、そんな彼の望みは叶いませんでした。しかし、彼の家族はそれでもよかったといいます。
彼の家族達は言いました。「大往生だ」と。
95年間生きる。そして僕達のせいで死ぬことを、人は大往生というそうなのです。