第4章 人生のテーマ
翌朝、予想通り学校は大騒ぎになっていた。廊下の壁、職員室の扉、教室の椅子や机など、ありとあらゆるものがズタズタに切り裂かれていたからだ。
終業式で体育館に集まった生徒たちに向かって、校長先生は「もう我慢の限界です!」と怒りの形相で叫んだ。「やった者は今すぐ、ここで名乗り出なさい!!」
動悸がし、体温が上がっていく。行くのか。不安と緊張に押しつぶされそうだった。でももう、やるって決めたんだ。
歯を食いしばり、列から二歩、横に出た。
「ぼくがやりました」
何百もの息を飲む音が聞こえ、体育館中の目という目がぼくに向く。
「なんでだ! 佐部!」
怒鳴る校長先生の目を恐る恐る見ながら、ぼくは答えた。
「学校の全てに嫌気が差したからです」
意外と大きな声を出せた。怒りと覚悟が緊張を上回っているんだろう。
前に歩いて行き、振り返る。
「ここにいる人たちに、いくつか言いたいことがあります」
そして、三年の担任団の方を見た。
「まず三年の担任団の方々に言いたいのですが、昨日、先生方は吉村を一方的に責め続けましたよね。確かに吉村は悪いことをしたけど、あいつの苦しみに気づいてやれなかった先生方にも反省すべきところはあるんじゃないですか? 意味の分からない勉強を強いられる子供の苦しみも分かってくださいよ。なんで誰も、吉村の立場に立ってやれないんですか?」
六人の先生はそれぞれ様々な表情をしたけど、何か反論する人はいなかった。ぼくは今度は、その内の一人に焦点を絞った。
「そして、鈴木先生」
突然白羽の矢が立った鈴木先生は、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。体育館中の人が一斉に鈴木先生を見る。
「鈴木先生、どうして、土井さんが明らかにクラスで孤独な思いをしているのに何もしなかったんですか? 五月から続いている不登校を『土井の心の準備ができるまで待つ』と言ってずっと放置していますが、一体いつまで待つんでしょう。それに、カッター事件が起きる前だって土井は不登校気味でしたが、その際だってたぶん何のアプローチもしていませんよね。何故ですか?」
鈴木先生は一瞬呆然としたけど、覚悟を決めたのかすぐに毅然とした顔になり、「土井が、俺を頼らなかったからだ」と答えた。
「俺は生徒にいつも『何か困っていたら相談してくれよ』と言っているから、それでも相談しないということは、自分でなんとかしたいのかと思っていた。不登校に関しても同じだ。本人が行きたくないと思って行かないのだから、その意志を尊重したいと思った。別に学校が全てじゃないし、休みたいときは休めばいいと思っている。それを無理矢理連れてくるのは、エゴだと思ったからだ」
「両方、的外れだと思います」ぼくは即座に言い返した。「相談しなかったら、手を差し伸べなくていいんですか? 本当は相談したいのに内気なだけかもしれないし、先生の方から気づいてくれるのを待っていたかもしれないじゃないですか。そういう複雑な心理が分からないんですか?」
鈴木先生は何か言い返そうとしたけど、気にせず一気に畳み掛ける。
「不登校に関してだって、もちろん本人の意志を汲むことは大事ですが、限度があるでしょう。ぼくが今まで小中で関わって来た先生はみんなそうだった。クラスに不登校の生徒がいても、『本人が行きたくないって言っているから』と言って、卒業までずっと放っておいた!」
ぼくの声はどんどん大きくなっていった。
「でも、そんなの間違ってる。たとえば、三歳児が歯を磨きたくないと主張するからと言って、本人の言う通りにさせたらどうなりますか? 虫歯になるでしょう。高校生だって結局、不安の対処方法も将来の道筋もほとんど分からない子供なんだから、不安を取り除いたりした上で学校に来るようにさせるのが、教師の務めなんじゃないんですか? 小中でその教師に『意志を尊重された』生徒達は、学校にすら行けずにどうやって今幸せになれていると言うんでしょうか? 学校に行けなかったら結局将来困ることを先生方も本当は分かってる筈なのに、『本人が行きたくないと言ってるから』と言って放置するなんて、そんなのは、大義名分で逃げているだけですよ。そんなのは言い訳で、本当は、どうすれば良いか分からなかっただけじゃないですか?」
鈴木先生はしばらく眉間に皺を寄せ黙ってから、重い口を開いた。
「じゃあ、佐部はどうすれば良かったと思うんだ。土井に学校を楽しんでもらうには、何をすれば良かった」
「……それは、まだ分かりません」
「だったら、同じくそれが分からなかった俺を責めるのは筋が違うだろう」
「でも、鈴木先生は教師じゃないですか」
ぼくの言葉に、鈴木先生の表情がサッと変わる。
「教師なんだから、考えて分からなかったら勉強すればいいじゃないですか。いつも僕たちに勉強しろって口うるさく言ってるくせに、自分は教師としての役割を全うに果たすための知識を得ることを、どうして放棄するんですか!」
鈴木先生は、ガーンと頭を打たれたような絶望的な顔をした。何も言わないことを確かめ、ぼくは続けた。
「土井がどうしてカッターナイフを持っていたのか。たぶんあいつは、リストカットをしていたんだと思うんです」
昨日、カッターナイフを実際に持ってみてやっと気がついたのだ。保健室で会った時、上だけ長袖だったのは手首の傷を隠す為だったんだろう。それに、あいつは年中ブレザーを着ていて、どんなに暑い日も半袖の格好になることはなかった。
「リストカットは、自分の苦しみを誰かに分かってもらいたくてやるものだそうです。なのに誰もが、土井を見て見ぬフリをした。そしてあの日、自分の苦しみを気づいてもらいたくて使っていたカッターナイフが見つかり、皮肉にも犯人だと疑われた。その瞬間、希望が打ち砕かれ、人に自分を分かってもらうことを諦めたから、罪を認めたんだと思うんです」
ぼくはフラフラする足に力を込め、最後の力を振り絞った。
「吉村のSOSも、土井のSOSも、誰にも届かなかった。SOSって何の略か、知っていますか? Save Our Soulsです。『私達の魂を助けて』と、二人は言っていたんですよ」
鉛のような足を動かし、出口に向かって歩いて行く。ぼくを止める人は、誰もいなかった。
体育館を出た瞬間、終わった、と思った。ぼくの高校生活が、今、完全に終わった。
教室に行き、自分の鞄を持つ。下に降りて校門を出ようとすると、背中に声をかけられた。
「名演説だったよ」
振り返ると、今神がポケットに手を入れて立っていた。ぼくの側まで来て、不敵な笑みを浮かべる。
「特に教師に対しての批判は最高だった」今神はどういうわけか少しだけ、興奮しているように見えた。声にも僅かに高揚感を感じる。「だが、お前は大事なことに気がついていない。教師が生徒の気持ちを理解できないのは、単に生徒の立場に立てていないからだろうか? 自分とは全く違う生き物である子供の気持ちが、想像できないからだろうか?」
そうじゃないのか? 虚ろな目で見ると、今神はわずかに唇の端を吊り上げて言った。
「そうじゃない。大人だって、昔は子供だったんだ」
限界まで疲れていたのに、ハッと目が覚めた。胸がざわめく。
「お前が教師達にぶつけた気持ちは、子供時代は大抵誰でも大人に対して感じるものなんだ。自分が悩んでいることに気づいて欲しい、勉強の意味に始まる無数の分からないことを教えて欲しい、悪いことをした時に頭ごなしに叱らずにまずは自分の煩悶とした思いを聞いて欲しい……。この学校の教師達も、きっと子供時代は少なからずそうだった筈だ。それは、『金八先生』が流行したという事実が証明している」
今神は流暢に続けた。
「俺たちの親や教師の世代が共感したから、あのドラマは流行した筈なんだ。自分たちが抱えているリアルな悩みと、それに全力で向き合ってくれる理想の先生に、たぶんみんな、共感したと思うんだ」
この前見てみた、『金八先生』の第一シリーズの第一話を思い出す。
家出をしてしまう男子生徒が金八先生に書き残した手紙に、こんなことが書いてあった。
──ぼくには分からない。なぜ中学生が学校に来なくてはいけないのか、なぜ学校にはテストがあるのか、なぜぼくの偏差値が夫婦喧嘩の原因になるのか、ぼくには分かりません。
そして、金八先生はその子を徹夜で探し出したあと、クラスのみんなにこう言った。
──いいか、ラ行五段活用がなんだ! 高校入試がなんだ! 俺は可愛いお前達の人生がそんなことで決められてたまるかと思っています。いいですか、高校入試だけが人生じゃないぞ。それよりももっと大事なことは、人間として他人の苦しみを分かるということ、感じるということです!
今神の言う通りだ。ぼくはあのドラマに心から共感した。男子生徒の気持ちは痛いほど分かったし、こんなことを言ってくれる先生がいたらどんなにいいだろう、と、そう強く思ったんだ。
今神の言葉は止まらない。
「だが何故、金八先生の様な教師は現実にいないのだろう? それどころか、金八先生が批判した教師に、自らがなっているのは何故だろうか?」
何故だろう。全く、分からなかった。
今神は静かに言った。
「忘れてしまうからだよ」
ゴオッと突風が吹いた。道ばたの葉っぱやゴミが舞う中、ぼくはまばたきもせずその場に突っ立ち、ただ今神の顔を見つめた。
今神の目は、やはり吸い込まれそうなぐらい暗かった。
「大人になってしまったら、子供の時に持っていた疑問や不満は無くなるんだ。自立しているから悩みや不安には自分で対処しなければならないし、勉強をする必要はないし、非行に走ることも普通はできない。そして逆に、子供の悩みに気づく余裕はないし、勉強をしてもらわなければ困るし、問題を起こされたら対処に追われる。悩みや立場が変わってしまえば、何年も前に自分が感じていたことなんて、どうでもよくなるし、忘れてしまうんだよ」
完全に、盲点だった。教師も親も、ぼくたち子供とは完全に違う生き物だから分かり合えないのだと思っていた。でも、どんな大人にも子供時代があり、ぼくたちと同じように大人へ不満を持っていたにも関わらずあの様になってしまったのなら、だったら、ぼくも……。
「お前もそうなるよ」今神が心を読んだ様に言った。「年を経て、スーツを着て会社に行って疲弊した日々を送れば、さっき吐き出した大人への不満なんかほとんど忘れる。そしていつか、自分の子供に言うんだ。『ぐだぐだ悩んでないで、いいから勉強しなさい』ってな」
「じゃ、じゃあ」ぼくはカラカラになった口をようやく開いた。無表情の今神を見つめる。「どうすればいいんだよ。どうやったら、金八先生になれるんだよ」
「さあな」今神はそっけなく言った。何か続くかと思ったけど、黙っている。
「さあなって?」
「だから、分からないよ。どうしようもないだろ。この世の摂理なんだから」
摂理ってなんだよ。そんな言葉を使ったら、どうすることもできないじゃないか。
今神の無表情を見つめながら、ぼくはフツフツと怒りが沸き上がってくるのを感じた。
「あのさ、お前は何なんだよ」
眉間に思い切り皺を寄せ、言った。
「お前はいつも、全ての真実を知っているかのように世の中のことを語るけど、お前自体はどうなんだよ。お前は何をして、どんな大人になるんだよ」
え、と今神が戸惑いの表情を見せる。完全に不意打ちだったようで、これまでの超然とした雰囲気が崩れていた。
ぼくはいま初めて、自分が長い間今神に不満を持っていたことを知った。いままでずっと、今神の理路整然とした話を聞きながらどこかで違和感を感じていて、でも気づかないようにしていたんだ。
でも、いざ気づいてしまえば、目の前のいつも無表情をしている男が、憎たらしく思えて仕方なくなった。
「『土井の苦しみを誰も想像しなかった』、『物語に影響力は無い』、『大人は子供時代の想いを忘れている』。そうやってあらゆる人や世の中を批判してるお前は、何か立派なことをしてるのかよ。土井に声をかけたのか? 少しでも世の中を良くするための行動をしたのか? 何もしてないだろ? お前はいつも、ただ想像しているだけ、ただ考えてるだけ。それだったら、誰も救えないし何も変えられないじゃないか」
今神の表情が固まり、目を泳がせる。それでもぼくの腹の虫は収まらなかった。徹底的に傷つけてやりたかった。
「お前がぼくに近づいて来た理由を当ててやろうか? 寂しかったんだろ。頭の中には素晴らしい考えが山ほどあるのに、それを話す相手がいなかったから、お前の話が響きそうなぼくを引き入れてみただけだろ。ふざけんな。高いところで見物してないで、地面に降りてきて戦えよ。世の中に不満があるなら、考えてることがあるなら、声に出して訴えろよ」
うつむき黙る今神に、ぼくはトドメをさした。
「お前は頭がいいさ。だけど、それだけだよ」
今神に背を向け、校門を出て行く。呼び止められることを期待したけど、あの暗い声が聞こえてくることはなかった。
家に帰った途端、ぼくは全速力で二階に駆け上がって自分のベッドに突っ伏した。
ついに、一人ぼっちになった。タツヤ、ユウ、愛田、鈴木先生、そして今神。全ての人との関係を自ら断ち切ってしまった。味方でいてくれるだろう木坂先生はまだ意識不明で入院中だし、吉村はたぶんひきこもっている。完膚なきまでに、一人になってしまった。
夕方、仕事から帰って来たお母さんが留守番電話を聞いてすぐに部屋に上がってきた。ぼくがやったことについて怒鳴り散らしたけど、何の感情も湧いてこなかった。
もう、全部やめよう。
心の中でぼくはそう呟いて、携帯の電源を切った。
それから、ぼくのひきこもり生活が始まった。食事は扉の前に置いてもらい、トイレに一階に降りる以外はずっと自室に閉じこもるという、絵に描いたようなひきこもりだ。
ベッドに横になり天井を見つめながら、この数ヶ月のことをグルグルと頭で巡らせる。あまりにも多くのことがありすぎた。
高藤さんへの告白、土井の涙、殺されたキンタ、体育祭、今神の家、三者面談、木坂先生との話、駅での高藤さんの会話、愛田主役の演劇、久保くん、放浪した渋谷、ベトナム戦争の動画、タツヤとユウとの喧嘩、愛田への文句、途上国の貧しい子供達、先生達に怒られた吉村、メチャクチャにした学校、体育館での演説。
本当に、本当に色々なことがあった。人生で一番混乱続きの四ヶ月だったことは間違いない。
あまりにもずっと眺めていたから、天井に愛着を感じるようになっていた。ただの白いコンクリートなのに、そのブツブツをよく見ると何かの模様に思えなくもない。
土井や久保君も、こうやって天井を眺めているんだろうか。こうやってただ横になり、気が遠くなるほど、味気ない天井を眺め続ける日々を過ごしているんだろうか。
そんな日々は一週間もすればさすがに限界が来て、回想をするのにも飽きたぼくは、何かをすることにした。とすればやはり、ゲームしかない。久しくやっていなかったあのノベルゲームに手を出した。
それからは毎日とにかくゲーム漬けだった。寝食以外はゲームしかやらないというのは廃人以外の何者でもなかったけど、その自分を客観的に見さえしなければそれは楽しかった。ゲームの中ではいくらでも過去に戻れたし、度を過ぎる不幸だって一つもない。ここが自分の居場所だと思った。
だけど、どんなにゲームの世界に入り込んでも、やはり現実のことを完全に忘れることは不可能だった。トイレに行く時やベッドに横になっている時、ぼくは幾度となくふと我に返り、底なしの絶望に向き合わされなければならなかった。
ひきこもり始めて十日目ぐらいだろうか、ついに発狂し、自分の部屋の壁を殴った。一発目はダメだったけど、二発目で穴が空いた。壁って意外に薄いのか。そう分かったぼくは、連続して三つもの穴を開けた。何の為にするのかも分からなかったけど、とにかくそうせずにはいられなかった。右手がめちゃくちゃ痛くなり、見てみると、五箇所くらい擦り剥けて血が出ていた。
とっさに、テレビで見たあのインドの子供を思い出した。あの子の、その先が欠損している血まみれの手首を。きゅっと胸が締め付けられた。
「途上国の人たちよりぼくたちの方が幸せなんて、勝手に決めつけないでくださいよ」
遠山さんの言い方に腹が立ってそう言ったけど、どうなんだろうと思った。ぼくたちが幸せだとは決められないけど、あの講演会の写真に出てきた人たちは不幸だと決めつけられる気がした。右手を切り落とされて物乞いをしていく人生なんて幸せな筈がないじゃないか、と。
自分の右手を見つめた。右手が無いって、どういうことだよ。どうやって生きていくんだよ。想像もできなかった。右手はどうして、あの子にはないのに、ぼくには当たり前にあるんだろう。自分なんかにあったって、ゲーム機のボタンを押すことと壁を殴ることしかできないのに。あの子に右手がない事というより、ぼくに右手が当たり前にある事が恨めしかった。許せなかった。こんな右手、無くなってしまえばいいんだ。
ぼくはまた、壁に向かって右腕を思い切り振った。
そのまま何日も経過した。壁に空く穴が増えた。生活リズムが崩れて夜型になった。夜中トイレに行こうと一階に降りると、お母さんのすすり泣く声が聞こえてきたことが何度かあった。流石に申し訳ない気持ちになったけど、どうしようもなかった。
気の遠くなる様な時間を過ごし、ある日ふとパソコンに表示されている日付を見ると、八月三十一日だった。明日から学校が始まるけど、当然行く気はない。まあ、戻りたくても戻れないけど。
時計を見る。ちょうど昼の十二時になろうとしていた。そろそろ寝るか、と思った時、部屋がノックされた。「隆介」とお母さんのか細い声が聞こえる。
「お友達が来てるんだけど」
は? ぼくは耳を疑った。友達?
「誰?」
「愛田さん」
マジかよ。あんだけボロクソに言ったのに、来たのか。信じられなかった。
お母さんがおそるおそる尋ねる。
「上がってもらっていい?」
流石に、わざわざ家を訪ねてきた人を追い返す度胸はなかった。
「まあ、この部屋には入れないけど、前までなら」
少しして、「隆介?」と愛田の声が聞こえた。階段を上がる足音は一人分しか聞こえなかったから、お母さんは下にいるんだろう。
「何しに来たんだよ」ぶっきらぼうに訊いた。
「隆介がずっとひきこもってるって聞いて駆けつけたの。隆介、そんなことしてたって良くないよ。一緒に外に出よう」
「は? 今更なんなんだよ」吐き捨てる様に言う。「体育館であんな姿晒したら、学校がなくたって、ぼくがひどい状態になってることぐらい分かるだろ? もう夏休みが終わるって時に、何のこのこ来てんだよ」
「それは、ごめんなさい。隆介の言う通り、きっと辛い思いをしてるって思ったんだけど、どうしても今日まで訪ねられなかったの。ウズベキスタンに行ってたから」
「ウズベキスタン!?」
思わず声がひっくり返った。
「三浦先生のあの動画を見て、私、世界を変えたいって言ったでしょ。しばらくは世界の色んな国のことを勉強してたんだけど、やっぱり実際に行ってみないと本当のところは分からないと思ったの。探してたら、高校生なら無料で一ヶ月間ホームステイをさせてもらえるツアーがあって。迷わず参加して、さっき帰ってきたの」
絶句した。愛田の行動力がズバ抜けているのは知っていたけど、まさかここまでだったとは。ていうかウズベキスタンってどこだよ。
「一枚だけ向こうで現像した写真があるの。見て!」
ドアの下の隙間から写真が一枚滑り込んでくる。拾い上げて見てみると、現地の子供達と一緒になって笑い合っている愛田の写真だった。
それを見ながら、ぼくは奇妙な思いに駆られた。感心と、もう一つ、暗い感情が渦巻く。この感情をなんというか分からなかったけど、写真に映っている愛田の笑顔を見ていると、無性にムカムカしてきた。
「お前さ、行動力は凄いけど、こんなことしてる場合なのかよ」
感じたまま口を開き、自分の言った言葉に自分でハッとした。そうか、いま分かった。どうしてぼくが昔から、途上国支援が嫌いなのか。
「こんな遠くの国に行かなくたって、お前の目と鼻の先に困ってる人がいたじゃないか。ぼくだけじゃない、土井とか、吉村とかさ。同じクラスの人たちが困ってるのに、それを全部無視して、なんでこんな遠くの人たちを助けに行くわけ? 縁もゆかりもない、顔も名前も知らない人たちより、まずはぼくたちを助けるべきなんじゃないの?」
言いながら、そうだったんだと心の中で強く頷く。途上国支援を見てなぜかムカムカするのは、そんなことをしている場合じゃないと思うからだ。日本にも困っている人がたくさんいるのに、「遠くにはもっと大変な人がいるから」と言って身近な人々を見捨てる残酷さを感じるからだ。
愛田は泣きそうな声で答えた。
「それは、本当にごめんなさい。私、隆介が体育館であの話をするまで、周りで困っている人がいるなんて誰にも気づかなかったの。土井さんの孤独も吉村君の悩みも、隆介の葛藤も。隆介が荒れてたのは受験勉強とかのせいだと思ってたけど、違ったんだね。土井さんの孤独を想像して、みんなの無関心に怒ってたんだよね。それなのに無神経な言動ばっかりして、本当にごめん」
耳を疑った。愛田が、ぼくの気持ちを理解し共感している? そんなこと、今まで一度だってなかった。こんなの、今神がサンバを踊りだすぐらいあり得ないことだ。
「土井さんのことも、気づいてあげたらよかった。そしたら、話しかけてあげられたのに。ずっと辛かったのに、私、何も見えてなかった。みんなの辛さに気づいた時にはもうツアーに行くことが決まってて。本当に、ごめんなさい」
「お前、何かあった?」訊かずにいられなかった。
「え?」
「いや、こんなに人の気持ちが分かる人じゃなかっただろ」
「だって、隆介が言ったから。『相手の立場に立って、人の気持ちを考えろ!』って」
「え?」
「だから、相手の立場に立って人の気持ちを考えるようにしたの。そしたら、色々と気がついたんだ」
「そ、それだけ?」
「それだけって?」
ぼくは言葉を失った。
愛田はどうやら、ぼくのあの時の一言でこんなに成長したらしい。今まで「人の気持ちを考える」という方向にベクトルが向いてなかっただけで、そのことを意識すればこんなにも変わるのかよ。想像力とか思考力って先天的なものだと思ってたけど、意識で身につけることができるのか。
でも思い返してみれば、ぼくがまさにそうだったじゃないか。想像力も思考力も全然無かったのに、今神にしつこく言われて、いつの間にか変わっていた。
愛田が声のトーンを上げる。
「ねえ、一緒に学校行こう?」
「無理だよ、もう。あんなことして、誰がぼくを迎え入れてくれるんだよ」
「それなら大丈夫!」
「そんな精神論じゃ」
「そうじゃなくて、本当にみんな、隆介に怒ってないの」愛田ははっきりと言った。「あの終業式のあと教室に戻ってから、みんなシーンとしてた。自分の机や椅子の切られてた箇所見てるのに、文句言う人はほとんどいなかったんだよ。それだけ隆介の言葉が響いて、重く受け止めてたんだと思う」
正直、それは意外だった。あんなにメチャクチャやったのに。
「それで、鈴木先生が来た時、みんな息を飲んだの。全然生気のない顔をしてたから。あんな先生の顔、初めて見た。教壇に立って鈴木先生はこう言ったの。『みんな、良かったら佐部に連絡してあげてくれ』って。メールとか電話とか来てない?」
そうだったのか。携帯を手に取って見つめる。本当なのか? みんな、本当にぼくを温かく迎え入れてくれるのか……?
「だから、隆介」愛田が切迫した様子で言う。「ここから出よう? そして、一緒に学校に行こう?」
携帯の電源を入れようとして──やめた。
「嫌だ」
「何で? みんなはもう」
「そうじゃない。みんなは関係ないんだ。仮にみんながぼくを受け入れてくれるとしても、僕はもう、ここから出たくないんだ」
「どうして?」
「だって」絞り出すように言う。「外の世界は、残酷じゃないか」
動悸がし、手が震え始めた。
「ここから一歩外に出れば、そこは地獄の世界だろ。不幸な事件や辛い目に遭っている人で溢れてる。数え切れないほど多くの人が、SOSを発してる。『魂を助けて』って、どんなに耳を塞いでも、道を歩くだけでその叫び声が聞こえるんだ。ぼくはもう充分すぎるほど、それを聴いて傷ついた。心の血が止まらないんだ」
泣きそうになるのを、ぐっと堪える。
「だからもう、この部屋にずっと籠っていたい。ここにいれば退屈だしお母さんも泣いてるけど、不幸なんてせいぜいそれぐらいだろ。もっと辛い叫びを聴かない限り、これ以上傷つかずに済む。だから、これがぼくの幸せなんだよ。ずっとここに居たいんだ」
半年前に見た、不登校・ひきこもり特集を思い出す。
──色んな生き方があるのに、何が何でも生身で人と関わる人生じゃなきゃダメっていう価値観を押し付けるのは、エゴだと思うなあ。
その通りだ。だから愛田、もう帰れ。
「嘘よ!」愛田が叫んだ。「嘘つき! そんなんでいいわけないじゃない!」
「なんでだよ? あの途上国カメラマンの講演会でぼくが言ったことを聞いてなかったのか? 幸せの基準は人それぞれだって、ぼくは言ったんだ」
「そうだよ。その通りだと私も思う。だけど、外に出ることは、どんな人にも当てはまる、幸せの絶対的な基準だと思うの」
愛田の声が優しくなった。扉一枚隔てた部屋の外から、静かにぼくに語りかける。
「外の世界には確かに、嫌なことや辛いことがたくさんある。でもそれ以上に、素晴らしいものもいっぱいあるんだよ。ウズベキスタンに行って、私はそれを強く思ったの。耳を塞ぎたくなるような悲しい話を嫌と言うほど聴いたけど、目を見張るようなキラキラした笑顔も数え切れないくらい見たよ。ゾッとするような悪いことをする人がいることも知ったけど、同時に、悪に立ち向かう愛や勇気があることも分かったよ」
愛田の澄んだ声が、ぼくの脳裏にその情景を思い浮かべさせる。
「それだけじゃない。外の世界に出たら、もしかしたら最高に気の合う親友に出会えるかもしれない。世界中を見て回って、多様な人や、文化や、歴史に触れられるかもしれない。素敵な異性に出会って、一生を共に生きていけるかもしれない。部屋に閉じこもってたら、そんな風に素晴らしいものを見聞きしたり、素敵な体験をしたりできる可能性がないじゃない。だから、外の世界に出なくちゃ、人は幸せになれないんだよ」
いつの間にか、息を止めて聴き入っていた。振り返り、自分の部屋を見渡す。カーテンは閉められ薄暗く、床にはゴミが散らばっていた。確かに、と思った。確かに、これで幸せになれるわけがない。
でも。
それでも、ここで首を縦に振るわけにはいかなかった。
「うるさいな」ぼくは低く唸った。
「ぼくが説教してくれって頼んだのかよ。ここから連れ出してくれって泣いたのかよ。お前がなんて言おうと、ぼくは辛くなんかない! お前にSOSなんか出してないんだ。お節介焼くなよ!」
「SOSなら、出してるじゃない」愛田は、はっきりとした口調で言った。
「は? いつ?」
「二階に上がる途中の階段の壁に、穴がいっぱい空いてた! 『助けて』って、魂の叫びがあったじゃない!」
ハッとする。言い返す言葉が見つからない。
「本当は辛くて辛くて仕方ないのに、それでもここまで言ってる私に助けを請わないのは、弱いところを見せたくないからでしょう?」
そうだ。ここでこいつの言うことを聞いたら、ぼくは、「自分は助けてもらわなければ生きてはいけない弱い人間です」と認めることになる。それだけは、絶対にあってはならなかった。
「でもね、気づいてないなら教えてあげるけど、あんた、もうとっくに弱いところ見せてるのよ! こんなに長い間引きこもってる時点で、充分弱くて惨めな姿晒してるのよ! なのに、なんでそれを認められないの? そんな小さいプライド捨てなさいよ!」
愛田の言葉が、焼ける様な熱量を纏ってグサグサと心に刺さる。
「悔しかったら、自分の弱さも不遇も全部認めて、こんな狭い部屋からとっとと出てみなさいよ! それで、私を見返しなさい! 私や他の人の助けになって、借りなんて返せばいいじゃない。辛かったら、ペラペラのプライドなんて捨てて、言えばいいのよ! たった一言、『助けて』って!!」
視界が開けた。いつの間にか、何重にもあった壁が次々と無くなっているのに気がつく。だけど、あと一枚だけ残っていた。最も分厚い壁が、もう一枚。
「でも……勇気が、ない」
ぽつりと言った。感情が込み上げ、今にも泣き出してしまいそうだ。
「そんな恥ずかしい台詞を言う勇気もないし、何より、外の世界に踏み出て行く勇気がないんだ。誰かのSOSを聞いてもっと心が壊れてしまわない自信はないし、そもそもクラスに無事復帰できるかだって危ういじゃないか。もしうまく復帰できたって、受験勉強とか仕事とか、そういった大変なことをこなしていく力もぼくには無いかもしれない。それなのに、外の世界に出る勇気なんて出ないよ。勇気っていうのは要するに、心の力だろ。人によって量が決まってるんだ。お前みたいに、困難や新しいことに怖れずに挑戦できる心の力なんて、ぼくにはないんだよ」
「私だって、怖いよ」愛田は少しだけ笑って言った。
「え?」
「隆介にはどう見えてるか分からないけど、私だって、勇気を出す時はいつも自分の心と葛藤してるんだよ? 今回のウズベキスタンだって、すごく怖かった。向こうで食べ物が合わなくて体壊したり、誰かに襲われたりしたらどうしようって。だから、行きたくないって思ったよ。だけどね、私は、選んだの」
一瞬言葉を切ってから、続ける。言葉の一つひとつが、確かな輪郭を持ってぼくの心にぶつかってゆく。
「ウズベキスタンに行かない未来と行く未来を頭の中で並べて、どっちがいいかって考えたんだ。そしたら、安全だけど何も得られない『行かない未来』より、危険だけど何かが得られる可能性のある『行く未来』がいいって思った。だから、行く方を選んだの。それだけだよ」
それだけ、って。
「そしたら、本当に行けちゃった。大変なこともあったけど、なんとかなった。私ね、思うんだ。勇気は始めから備わってる心の力なんかじゃなくって、選択に過ぎないんじゃないかって。どれだけ怖くても難しそうでも関係ない。自分が『こうするんだ!』って選びさえすれば、あとは大抵なんとかなるもんだから!」
勇気は、選択に過ぎない──。
全く新しい発想だったけど、確かに納得できる部分があった。遠山さんの講演会で手を上げたことも、学校中をカッターナイフでメチャクチャにした挙げ句に体育館の壇上で演説を繰り広げたことも、普通のぼくだったら勇気がなくて絶対にできない筈だった。だけどそれでもできたのは、怒りが激しすぎて、「とにかくやる」と、その行動をすることを「選んだ」からだ。壇上でしゃべることなんかできないと思ったけど、やってみたら意外とできた。
愛田が今度は明るい口調になる。
「心の力なんていらないから、先の不安とか恐怖とか全部忘れて、選んで。安全だけど希望の無いこの部屋に閉じ籠もり続ける未来と、危険はあるけど素晴らしい可能性もある外の世界に行く未来を。もし前者を選ぶなら、何もしなくていい。だけど後者を選ぶなら、一言言うの。『助けて』って」
すう、と息を吸って、愛田は言った。
「自分が選びたい方を選べばいいよ。あなたは、どっちを選ぶ?」
どちらを、選ぶか──。
そんなこと、考えたこともなかった。振り絞る心の力なんて残ってない。自分や、世の中や、未来を信じることもできない。だけど、できることなら行きたい未来はあった。焦がれる世界があった。その可能性を選ぶだけなら、ぼくにも──。
歯を食いしばり、下を向いた。視界に映る足元がぼやけてきたけど、唇を噛んでぐっと堪える。でも我慢できなくて、涙が一滴、汚い靴下に落ちた。
心の中の張りつめていた何かが、ポキンと折れる。涙で歪む自分の靴下を見ながら、震える声を絞り出した。
「……助けて」
ホッとしたように息を吐く音が聞こえる。少し間があったあと、愛田は言った。これまで聞いた中で、一番優しい声だった。
「任せて」
ぼくがまずやったことは、風呂に入り、念入りに体を洗うことだった。とにかくそうしないと、人に、特に異性に会うなんてとてもじゃないとできないほど酷い状態だったのだ。歯磨きをし、髭も剃る。だいぶ痩せたし顔色もまだ悪いけど、だいぶサッパリした。
リビングに戻ると、愛田の隣りにお母さんが立っていた。ぼくの姿を見て泣き崩れる。どれだけの心労をかけてきたかが分かって、ぼくは改めて申し訳ない気持ちになった。
「今までごめんなさい」と謝ってから、申し訳ないけど席を外してもらった。もう少し愛田と二人きりで話さなければならない。
「で、ぼくを助けるって、どうするつもりなんだよ」
なんだか無性に恥ずかしくて、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。
愛田はキッパリと言った。
「土井さんの家に行こう」
ドキン、と心臓が跳ねる。
「私、考えたんだけど、隆介がこうなったそもそものきっかけは、土井さんでしょ。だったらやっぱり、土井さんを助けないことには立ち直るのは難しいと思うの。本人のもとに行って、学校に来てもらうようにしよう。それが一番だと思う」
やっぱり、そう言うと思った。正直、ぼくもそうするのが最も良いと分かっていた。でも。
「でもまず住所が分からないし、行ったところで何ができるんだと思って。何か作戦でもあるの?」
「もちろん! 住所は鈴木先生に聞いたし、部屋の前で今みたいに素直な思いをぶつければ、きっと心を動かしてくれるよ!」
満面の笑顔を見て、ため息をつきそうになった。住所を聞いたのは凄いけど、あとは作戦なんてないみたいなもんじゃないか。
だけど、その方法でぼく自身がたった今、救われたばかりだ。一人では踏ん切りがつかなかったけど、やるしかない、か。
一ヶ月半ぶりに外に出た。生憎の曇り空だけど、それでも風が気持ち良かった。
駅に着き、電車に乗る。二人で並んで席に座ると、ぼくはまた悲しい気持ちになった。灯りかけていた心の火が、早速消えそうになる。
「ねえ」と愛田がぼくに呼びかけた。
「何?」
「私ね、本当は、ツアーに行くのやめようと思ったの。幼なじみの隆介がたぶん人生で一番辛い時なんだから、キャンセルすることでかかるホームステイ先への迷惑と天秤にかけてる場合じゃないって。だけど結局行くことにしたのはね、向こうへの迷惑を考慮したのとは別に、もう一つ大きな理由があるんだ」
「理由?」
「まだ答えを出してなかったから。『人生に何が残るのか』っていう問いの答えを。それなのに、まだ隆介には会えないって思ったの」
ドキン、と心臓が跳ねた。まさにぼくも今、それを考えていたからだ。
電車で愛田の隣りに座ると悲しい気持ちになるのは何故か? それは、喪失感を覚えるからだ。中学の時、愛田と毎日こうして一緒に帰っていたのに、高校になってその日々が失われた悲しさを、思い出してしまうからだ。時間が経てばあれだけずっと一緒にいた仲間と離れてしまうなら、人生には何が残るんだろう。
愛田が言った。
「ずっと向こうで考えてたんだけど、ついに分かったの。だから、私の答えを言うね」
「うん」ごくりと唾を飲む。
「人生にはね、“願い”が残るんだよ」
願い。頭の中で三文字の言葉が響く。
「人との思い出って、つまり願いなんじゃないかな? 時間が経って会えなくなっても、大変だった時に励ましてくれた部員の願いや、間違った時に叱ってくれた先生の願いは、今も私の中にちゃんと残ってる」
愛田は微かに笑った。
「演劇だって、そうだよ。演劇に限らず、小説とか映画とか、漫画とかアニメとかもそうだと思うけど……物語は、願いを伝えてるんじゃないかな」
物語は、願いを伝えている──。
「私も演じてる時はいつもそうなんだ。脚本に込められた願いを、どうやったらお客さんに届けられるか、台詞の言い方や表情を一生懸命考えてる。でもいくら頑張っても、その願いが届かない人がいるんだよね。届かないっていうか、捨てちゃうの。『所詮フィクションだろ』って、物語を現実と分けちゃって、願いを心に残しておかない人がいる」
図書室での、ユウの冷笑的な顔を思い出した。
──だって、フィクションじゃん。フィクションっていうのは、現実から逃げてその瞬間を楽しむための物だろ。実際に影響を受けるなんて馬鹿馬鹿しいよ。
愛田が声に力を込める。
「でもそれって、すごく悲しいことだと思うんだ。だってそんな風にしちゃったら、意味がないじゃない。私たちが、歯を食いしばって物語を創る意味が。捨てさえしなければ、物語は強い原動力になるのに」
そう言ってから、「辞めちゃった三人は」と、少しだけ顔を陰らせた。
「程塚君の願いを自分の中に残そうとしなかったか、残したけど現実に負けちゃったか、どっちかだよ。すごく悔しいけど、現実ってめちゃくちゃ厳しいもん。困ってる時にヒーローは現れないし、人の心はなかなか動かない。脚本なんて都合良すぎて笑っちゃうぐらい、上手くいかない。だけどそれでも、物語が届けた願いで、現実が変わる場合もあるんだよ。もちろん現実に負けちゃう時もあると思うけど、勝てる時も絶対あるよ! それをみんな信じてるから、世の中にはこれだけたくさんの物語があるんでしょ?」
愛田がぼくの目を真っ直ぐに見る。
「だから、人と関わっても、物語を創っても、結局何も残らないなんてことはないんだよ。隆介は言ったよね。『人生はセーブできない』って。それは、セーブしたいと思うものが違うからだよ。人との繋がりでも希望でもなくて」
ひと呼吸置いてから、にっこりと笑った。
「願いをセーブするんだよ」
思わず、言葉を失った。願いか──。そんなこと、考えもしなかった。
自分の心の中を見つめてみる。演劇部のみんなの願いは、残っているだろうか。
程塚とは色んなバカ話をして何度も大笑いしたな。須藤さんとは大げんかしたけど、仲直りした後はそれまでよりずっと仲良くなったんだよな。代田先生には何度も真剣に怒られたけど、おかげで成長できたんだよな。
こみあげてくるものがあった。温かい何かがじんわりと胸の中に広がり、凍てついた氷を溶かしていく。
うん、そうだ、残っている。離れ離れになっても、連絡が取れなくなっても、みんなの願いは、確かにぼくの中に残っている。
程塚の脚本だって、そうだ。他の部員はどうだったか知らないけど、少なくともぼくは、中学生の間は、あの脚本に込められた願いを本気で受けとめ、みんなで団結しようと希望に燃えていた。現実の壁にぶち当たってひねくれるまでは確かに、あの物語の願いはぼくに届いていた。
「愛田、このことずっと考えてたわけ?」
涙ぐみそうになるのを堪えながら訊くと、愛田がクスッと笑った。
「だって、『教えてくれよ』ってあんなに強く言われたら、答えを出さないわけにいかないじゃない」
「そっか。ありがとう」
その時、ぴんときた。この考えは、あの今神の言ったことにも当てはめることができるんじゃないだろうか。
――忘れてしまうからだよ。
今神は言った。大人も昔は子供だったのに子供のことが理解できなくなるのは、時が経つと昔の疑問や怒りを忘れてしまうからだと。
その、子供時代の疑問や怒りというのは──“願い”と言い換えられないだろうか? 教えてほしい、変わって欲しい、叶えたい。そうやって、ぼくたち子供は強く願っている。
だけど、そういった願いをどれだけ持っていても、大人になったら忘れてしまうらしい。それは摂理だと今神は言ったけど、本当だろうか。それは、分からない。大人になってみなければ、分かるものじゃない。
だけど。
「忘れないようにしよう」
――気づくと、口に出して言っていた。そうだ、摂理なんて知るか。そんなもの、関係ないじゃないか。
「え?」愛田が訊き返す。
「人の願いも、物語の願いも、子供の頃に持っていた自分の願いも、忘れないようにしよう。全部は無理でも、ほんの少しでも、自分の中に留めたままにしたいんだ。だってそうじゃなきゃ」
すうっと息を吸って、言った。
「生きてる意味がないじゃないか」
愛田はじっとぼくを見つめてから、にっこりと笑った。
「そうだね。忘れないようにしよう。お互いに」
ちょうど、電車が目的の駅に着いた。
土井を救うのは、覚悟していたよりずっと簡単だった。
まず、迎えてくれた母親から土井の過去を聞いたのだけど、それは非常にありふれたものだった。小学校時代は普通に明るく活発で友達もたくさんいたのに、進んだ中学が、たまたま自分と違う気質の生徒ばかり通うところだった。最初は頑張ったもののグループに入れず、孤立する日々が続き、現在のように暗くなってしまったらしい。
ビックリするほど、ぼくと状況がよく似ていた。ぼくは高校二年のクラスでたまたま気の合う友達に出会えたから大丈夫だったけど、土井は巡り合わせが悪く、不運が重なり現在のようになってしまった。
──人生ってランダムなんだな。
愛田が演じた役のセリフを、また思い出す。あれは、たまたま心の無い人に傷つけられ鬱病になり、その後も不運が重なりどんどん鬱を悪化させてしまった役だった。ほとんど同じじゃないか、と思った。土井がこうなったのはやっぱり、不幸なランダムに過ぎなかった。
それから土井の部屋に案内され、 愛田と二人で土井と話をした。まずは同じクラスにいるのに話しかけないでいたことや保健室で話しかけられたのに逃げてしまったことを謝り、それから土井が事件の犯人である疑いはもう晴れたことを説明した。
しかし、「クラスのみんなと仲良くなれるようにするから学校に行こう」というぼくたちの説得に、土井は応じようとはしなかった。愛田がぼくに言った言葉も土井には響かず、代わりに土井は左の袖を捲った。予想した通りそこには幾筋もの切り傷があり、ぼくも愛田も息を飲んだ。
土井は暗い声で言った。
「誰も、この傷に気づいてくれなかった。だから私はもう何もしたくないの。期待する分だけ、裏切られた時辛いから。このままでいいの」
言葉を失った。愛田でさえ黙っている。土井の場合は、傷ついた年月と回数がぼくの比ではないからだ。どんな言葉も無力に思えた。
しかしその時、突如として突破口が見えた。天から言葉が降ってきたのだ。
──想像してみるんだ。
だよな今神、と思った。ただ落ち込む為なんかじゃない。この時の為に、土井を助けるために、ぼくは人の気持ちを想像してきたんじゃないか。
土井の気持ちを土井の立場に立って想像してみると、答えは簡単に出た。それは単純明快な答えだった。
「友達になろう」
ぼくは言った。
「難しいことはどうでもいいよ。ぼくたち三人、友達になろう。学校で、くだらない話や遊びをたくさんしよう」
誰かと仲良くなるためのサポートをするんじゃない。そんな不確かな手助けではなくて、ぼくたちが友達になってしまえばいい。それは、確実で分かりやすい安心感だから。
土井はしばらくぼくの方を見て目をパチクリさせたあと、くしゃっと顔をゆがめ、頷いた。
「ありがとう」
そう言って、わんわんと泣き出した。ぼくと愛田もぐっと想いがこみあげ、三人でひたすら泣き続けた。
帰りの電車でまた愛田と並んで座りながら、ぼくは複雑な気分だった。
土井の家に行けば、そこでは壮絶な戦いが待っていると思っていた。頑として土井は学校に行く誘いを固辞するだろうし、それを説得するのはほとんど不可能だと思い込んでいた。
でも、「友達になろう」なんていう一言で、あんなにあっさり救えたなんて。こんな簡単な言葉を何年間も誰も言ってあげなかったのだと思うと、考えさせられるものがあった。
だけど、勇気を出して土井の家に行って良かった。本当に、良かった。
「愛田」
そっと呼びかけると、愛田はまだ浮かべていた涙を拭った。
「何?」
「ありがとう。やっと土井を助けることができた。愛田のおかげだよ」
「そんなことないよ。最初に土井さんが辛いって教えてくれたのも、最後に彼女の心を溶かしたのも、隆介の力だから」
妙に照れくさく、黙ってしまう。こんな感覚は初めてだった。
ふいに、愛田がため息をついた。
「やっぱり、世界を変えるのって難しいなぁ」
「え?」
「今回だって隆介がいなかったら土井さん一人助けられなかったかもしれないし。本当、どれだけ長い道のりなんだろう」
まだ本気で目指してるのか、と呆れる。
愛田は真剣な顔だった。
「問題は、まず何をやるかだと思うんだ。困っている人は世界中にいるけど、最初はテーマを絞らないと。まずは、身近な人からだよね」
「テーマ」という単語が、コツンと脳のどこかに当たった。ある日、今神の家で交わした会話の記憶が呼び起こされる。
「そういえば、佐部の生きるテーマは何なんだ?」
今神は出し抜けにそう言った。
「はい?」
「人生のテーマだよ」
「そんなのないよ」
「なんだよ。お前、テーマもないのに生きているのか?」
そんな壮大な質問に高校生が答えられるわけないだろ、と思った。それに、「じゃあ今神はどうなの?」と訊き返したら「お前に言う必要はない」と言われたのも尺だった。
だけど。人生のテーマ、か。
胸が急にざわめき始める。何故か脳裏をよぎったのは、保健室での土井の涙だった。
「あの、今、思ったんだけど」ぼくは、ほとんど考えずに口を開いていた。
「うん」
「ぼくさ……困ってる人を助けられる人になりたい」
愛田がぼくの顔をまじまじと見た。愛田も驚いただろうけど、たぶん自分の方がその何倍も驚いていた。
とてもじゃないけど目を見返すことはできなくて、ぼくは首は下に向けた。
何を言ってるんだ、と思った。でも今言わなければ、この気持ちが無くなってしまう気がした。
「ぼく、自分の力でこんな風に誰かを助けられるなんて思ってもみなかった。今まで将来やりたいことなんてなかったけど、できるなら、そういうことをやってみたい。そりゃ、今日みたいにうまくいくことばかりじゃないだろうけど。土井みたいに、絶望の底で必死にSOSを出してる人がいたら、手を差し伸べてあげたい。そういう生き方がしてみたいんだ」
恥ずかしすぎて死にそうだった。体温がかーっと上がる。
「今ふとそう思っただけなんだけど……変かな?」
慌てて濁すと、愛田はパッと顔を輝かせ、それからなんと両手でぼくの手を握った。
「ううん、すごく良いよ! 私、応援してる!」
こんなに大げさに喜ばなくても。恥ずかしいっつーの。
「じゃあ、私は世界を変えるから、二人で競争だね!」
「いや、世界を変える気はないんだけど」
「いいじゃん、変えちゃえば! お互い頑張ろうね!」
電車が止まる。愛田の最寄り駅だ。
「じゃ、明日学校で!」
愛田ははつらつと言ってから立ち上がり、電車の扉を抜けた。振り返らずに走って行く。
その後ろ姿を見ながら、ふふっと笑みがこぼれる。敵わないな、と思った。
翌日の九月一日の朝、ぼくは不安との壮絶な葛藤を繰り広げた。
本当に、学校に行くのか? 愛田はああ言ったけど、あんなメチャクチャなことをしたぼくをみんなは本当に受け入れてくれるんだろうか。たとえ受け入れてくれたとしても、ぼく自身が耐えられるだろうか。
なんとか家を出たけど、電車に乗っている時も校門をくぐる時も階段を登る時も、ずっと震えていた。
一組の教室の前で深呼吸をしてから、扉を開けて中に入る。まだ早い時間だから中には十人ぐらいしかいなかったけど、一人残らずぼくを見つめてシーンとなった。ああ、消えてしまいたい。
とにかくみんなに謝らなければ、と震えながら教壇に向かって歩き出した時、
パーン!
大きな音とともに、頭に衝撃をくらった。
後ろを振り返ると──タツヤだった。手に丸めたノートを持っている。
「ツカちゃんの真似!」
そう言って、ニッと笑う。
「お前、学校メチャクチャにしてくれやがってよ! もうあんなことすんなよな!」
その笑顔を穴が開くほど見つめながら、ぼくは言いようのない感動を覚えていた。
確かに犯人が学校に来るようになったら「エイジ」のツカちゃんの真似をするって言ってたけど、本当にやるとは。
いるんだな、こんなバカが。あの小説の作者の願いが、タツヤにはきちんと届いていたのか。
ぼくは意を決して教壇の前に立った。カバンを置いて、体を正面に向ける。
「みんな、悪いことをしてしまって、本当にごめん」
ぎりぎり聞こえるか聞こえないかぐらいの音量だったし、首は下を向いていた。誰も何も言わない。少しして、タツヤが場にそぐわない能天気な声で「ま、いんじゃね?」と言った。
「お前が切ったやつは俺たちの机と椅子含めて業者が全部直してくれたから逆に新品になったし、まあ、俺たちにも悪いところあったわけだしさ」
いや、みんなはそんな都合よくみんな許してくれるものか?
恐る恐る顔を上げ、ぼくは思わず目を疑った。一部には複雑な顔や敵意を向けている人ももちろんいたけど、だいたいの人がぼくに温かい笑顔を向けていたのだ。
言わなければならない言葉がある筈なのに、胸がいっぱいで言葉が出てこない。
と、その時。みんなの視線が一斉にぼくから外れ、扉の方に向いた。ぼくもそちらを向くと──土井が立っていた。体を縮こませ、うつむいている。
何か声をかけなければ、と咄嗟に頭を回転させるけど、なんて言っていいか分からない。
焦っていると、「土井さん!」と叫ぶ声がした。高藤さんだ。走って土井の手を取り、長崎や橋本たちが集まっているグループへ連れて行く。
「今ね、文化祭で、有志でダンスやろうってみんなで話してたの! 土井さんもやろ!」
土井は唐突な誘いに戸惑ったのか、目をぱちくりさせるだけだった。高藤さんが「ね?」と押す。顔は笑っていたけど、不安を押し殺しているのが伝わってくる。数秒の沈黙が教室に流れ──土井が、首を縦に小さく振った。
「やった!」
高藤さんが喝采を上げた。
気になって周りのみんなの表情を見渡し、ぼくは目を丸くした。ほとんどの人が、温かい眼差しで土井を見つめ、その帰りを心から喜んでいるようだったのだ。
にわかに信じられなかった。確かにこうやってみんなに土井を受け入れて欲しくて体育館であんな訴えをしたわけだけど、まさかこれほど親身になってくれるなんて。
やっぱりみんな、特別に冷たくて土井を無視してたわけじゃなかったんだ。みんな本当は、温かい心を持っていた。
──人って、意外と優しいんだよ。
高藤さんの言う通りだ、と思った。
嬉しいことがさらに二つも起きた。
校長先生が始業式で、木坂先生が目を覚ましたと報せてくれたのだ! 三日前に意識を取り戻して、後遺症もないらしい。まだ入院中だけど、近い内に仕事にも復帰できそうだとのことだった。
もう一つは、ユウと仲直りできたことだった。朝、目が合ってもリアクションがなかったからどうしようと困っていたのだけど、一日の終わりに向こうから話しかけてくれたのだ。
「あの時は色々言い過ぎちまってごめんな」と言われ、ぼくも即座に謝った。
あの時は否定したけど、今冷静に考えてみれば、ユウが厳しく指摘したことは正しかったと認めることができた。確かにぼくはあの頃、周りの人みんなを見下し、恐ろしいほどの思い上がりをしていた。
「隆介、変わったよ」とユウは言った。「なんか、あの時感じてた傲慢さが、今は感じない」
一日ぼくを観察して、そう感じたから許してくれたらしい。本当に丸くなったのか自分ではよく分からなかったけど、あの時よりずっと心が落ち着いていたのは確かだった。
ぼくたちは照れくさくなって、お互いにぎこちなく笑った。
放課後、鈴木先生に呼ばれて生徒指導室に行った。さっきまでの高揚感が一気に消滅し、緊張でいっぱいになる。あんな失礼で酷いことを全校生徒の前で言って、どれだけ傷つけてしまっただろう。
机を挟んで鈴木先生の顔を間近で見ると、ずいぶん歳を取ったように感じた。目尻の皺が明らかに増えている。
先生はなんと、いきなり頭を下げた。
「すまなかった」
ささやくように言う。なんと答えていいか、分からなかった。先生に謝られるなんて変な気分だ。
先生が顔を上げる。
「全部、佐部の言う通りだった。土井と吉村と佐部を辛い目に遭わせてしまったのは、俺の未熟さと怠慢のせいだ」
先生は視線を少し下に向け、「ただ」と言った。
「ただ……俺はもう、限界だ」
ぼくはギョッとした。鈴木先生の表情が、苦悶に満ちあふれたものになったからだ。眉間に皺をよせ、目を細め、口元は微かに震えていた。
「言い訳に聞こえるだろうけど、俺だって精一杯なんだ。授業やHRだけじゃない。部活動の指導、放課後の見回り、保護者との対応、書類の作成。お前は知らないだろうが、本当に大量の仕事に忙殺されてるんだ」
鈴木先生は堰を切ったように語りだした。
「毎日の残業の上、土日も部活の指導で休みなんてほとんどないのに、その分の給料なんて無いに等しい。学校は砂漠だよ。そんな過酷な中でも、俺は俺なりに精一杯やってきたつもりなんだ。授業は伝わりやすいよう工夫したし、生徒の相談にだってできる限り乗ってきた。誰かが悪いことをしたら注意したし、嫌がらせを受けている生徒がいたら味方になってきた。なあ佐部、俺はそんなに悪い教師だったか?」
見つめられ、ぼくは言葉を失った。
「俺は頑張ってきた! なのにその上、想いを口に出せない生徒のサインも受け止めろって? ただ味方になるだけじゃなく、相手が本当に何を望んでいるかを見抜けって? 生徒のことをとことんまで考え、しかも勉学も怠るなって? そんなことできたら、教師は神様だよ。俺たち教師だって人間なんだ。不完全だし、疲れるし、愚痴を言いたくなるし、逃げたくなる、弱い一人の人間なんだよ。万能じゃないんだよ……」
鈴木先生の目から、なんと涙がこぼれた。ぼくという生徒が前にいるにも関わらず、嗚咽する。
ぼくは、底無しの谷に突き落とされた様な気分になった。
こんなに色々あったのに、まだ九月一日は終わらなかった。屋上の扉を開けると、フェンスに手を掛け外を眺めていた今神が振り返った。
「何だよ、呼び出して」
ぶっきらぼうに言う。「屋上で会わないか」とメールで誘われたから来てみたけど、今神がどう来るか全く予測できなかった。この前散々ぼくに罵倒された件について、謝ったりするんだろうか。
今神が口を開く。
「どうして学校に来たのかなと思ってな。終業式であんなことをやったら、普通戻れないだろ。何があったのか、興味がある」
やっぱり謝ったりはしないのか、とがっかりする。
ぼくは、あの時今神に思いを言い捨てたことを後悔していなかった。愛田に助けられ、自身も土井のために勇気を出した今となっては尚更、偉そうな講説を垂れるだけで何も行動しようとしない今神が、ちっぽけで冷たい人間に思えた。
とは言えさすがにあの時の怒りもかなり収まっていたし、何より今神に訊きたいこともあったから、ぼくは愛田が家に訪ねてきたことや一緒に土井の家に行った話をして聞かせた。
今神は神妙な顔で聴いたけど、話し終わっても「そうか」と言っただけで何のコメントもしなかったので、ぼくはさっきの鈴木先生とのやりとりのことも続けて話した。
「なんかぼく、また最悪の気分だよ。今までずっと先生が悪いって決めつけて怒ってきたのに、今神には『子供もいつか大人になる』って言われるし、鈴木先生には『教師だって大変なんだ』って泣かれるし。もう、どう考えていいか分かんない」
唇を噛んでから続ける。
「土井も吉村も犠牲者だけど、二人を追いつめた鈴木先生だって、『普通』の先生じゃん。むしろ普通よりずっといいくらいだ。でも実際悲劇は起きて、それを糾弾したら、今度は鈴木先生が壊れた。じゃあ、一体誰が悪いんだよ? 敵はどこにいるの?」
「なるほど。お前の悩みは尽きないな」
今神はいつもの淡々とした口調で言った。
「鈴木先生の言った通り、教師の過重労働は本当に深刻なんだ。明らかに度を超えている。つまり、システムに問題があるんだ」
「システム?」ぽかんとして訊き返す。
「学校のシステムだよ。たとえば教員を増やして一人あたりの受け持つ生徒の数を少なくするとか、部活動の指導を学校外の専門家に委託するとか、そういったシステムの改変をすれば、教員の負担は減り、学校で起こる問題は激減し得るんだ」
「じゃ、じゃあ」ぼくは急にトーンを上げた。ぱっと希望の光が見える。「悪いのは、システムを作ってる人たちってことか! それって、教育委員会とか政治家とかの偉いやつらだよね。その人たちを辞めさせて誰かが良いシステムを作るようになれば、学校の問題は解決する!」
「半分正解、半分ハズレだ」
「どういうこと?」
「『良いシステムを作れば解決する』というところは正しい。学校に限らず、世の中にある大抵の問題はシステムの不備によって起こるからな。だが、そのシステムを作っている人達さえ変われば、万事解決なのか?」
「違うの?」
「一つ、この世の重要な真理を教えてやろう」
「真理?」
「現実世界に、ヴォルデモートはいない」
「え?」頓狂な声を出す。何故そこで、ハリーポッターの闇の帝王が出てくるんだ。
「J.K.ローリングは、物語の中で愛や正義を説くことで現実世界を平和にしたいと願っていたと言ったな」今神は僅かに目を細めた。「確かにあの物語には現実を良くする為の道徳観やヒントがふんだんに詰まっているが、現実世界には通用しない要素だって当然ある。その最たるものは、この世にはヴォルデモートのような、『この人さえ倒せば全て解決』という存在はいないということなんだ」
久しぶりに難しい話が始まった。頭をフル回転させる。
「何故なら、その人間を倒してもまた別の悪の親玉が生まれるからだ。それもやはりシステムの問題で、善人は権力を持ちにくいし、稀にそれができたとしても、強大な権力を持つ内に腐敗したり暴走したりしてしまう。そういう摂理があるんだよ」
また、摂理だ。だけど、もうそんなものは知らない。ぼくは即座に反論した。
「それでも、みんながみんな、そうなわけじゃないじゃん。権力を握っても、やさしい心を持ち続けられる人だっている筈だよ。そうすれば世の中は良くなるって!」
「金色のガッシュ!!」の、コルルのセリフを思い出す。
──やさしい王様がいてくれたら、こんなつらい戦いは、しなくてよかったのかな?
そうだよね、コルル。やさしい王様さえいれば、世の中は平和になるんだよね。
「有効ではあるが、万能ではない」今神の声は暗かった。
「仮に佐部が日本の首相になり、正義感を持ってシステムを改善しようと奮起するとしよう。そう簡単に事が運ぶだろうか? システムを変えれば救われる人もいるが、同時に損益を被る人も必ず出てくるんだ。この国が民主主義というシステムで動いている以上、議員の賛成がなければ法案は通らないし、国民の票がなければ権力の座から引きずり降ろされる。つまり、システムを決めているのは権力者だが、権力者もまた、もっと大きなシステムの一部になっているんだ。お前がどれだけ偉くなろうが、万事解決なんて夢物語にはならないよ」
その時、ぼくの脳裏に浮かんだのは、三浦先生が見せたあのベトナム戦争のビデオだった。あのビデオでは凄惨な戦場のシーンの他にも、ベトナム戦争を止めようと民衆がデモを起こす場面も映されていた。何十万という人々が一同に集まり、怒りの声を上げたり、平和への歌を歌ったりする様子の熱気たるや、言葉にならないほど凄まじかった。にも関わらず、当時のニクソン大統領は頑として戦争を終わらせなかったのだ。
それを見て、「ニクソン一人さえ倒せれば平和になるのに!」と思ったけど、違うのか? 問題はあの人ではなくて、システムの方なのか? でもそのシステムを変える側ももっと大きなシステムに縛られているなら……。
「じゃ、じゃあ、本当に悪いのは何なんだよ?」
「悪いのは」今神は言葉を一旦切ってから、遠くを見つめて言った。「『現実』ってやつじゃないか?」
うっ、と喉が閉まる。体中の力が抜けていくのを感じた。
土井の家からの帰り道で「人を救う仕事がしたい」と言ってから、ぼくはぼんやりと、そしたらやっぱり教師かな、と思っていた。だけどさっきの鈴木先生の嘆きを見て、問題はもっと別のところにあるのではないかと思ったから、今神の意見を聞こうと思ったのだ。
でも、問題は「現実」そのものなんて。本当に今神の言う通りなら……じゃあぼくは、どうすればいいんだ……。
「だけど」今神が出し抜けに言った。「お前は凄いよ」
「え?」
思わず耳を疑った。今、なんて言ったんだ?
今神はフェンスを握り、外を見つめたまま言った。
「お前は土井の孤独を想像し、みんなの無関心に憤り、ついには自分が壊れ、しかし壊れる前に全ての想いを学校中の全員にぶつけた。その上で、一旦は全てから逃げたのに勇気を出して外の世界に飛び出し、その足で土井の元へ向かい、見事に彼女を救った。本当に救ったんだ。お前は、凄いよ」
ぼくは唖然として今神を見つめた。信じられなかった。あの今神が、こんなことを言うなんて。
ぼくはどう反応していいか分からず、「そ、そうかな」と曖昧に返事をした。「でも、今だって今神に色々教えてもらわなきゃ、何にも分かんないし」
「だから何だよ。分からないなりに、お前はがむしゃらに行動した。それが尊いことなんだ。それに比べて、俺なんか」顔を歪める。「何にもできなかった。いや、単にしなかったんだ。勇気がなかったから。でも……想像力や思考力なんて、行動しなければ何の価値もないんだ!」
フェンスを握る手に力を込める。僅かだけど、針金が曲がる音がした。
「でもさ」ぼくは戸惑いながら言った。「そんなに行動が大事だと思うなら、今神も行動すればいいじゃん。人を助ける仕事に就いて、その頭を誰かのために使えばいいじゃん。今神がその気になれば、相当色んな人を助けられると思うけど」
今神は指に入れていた力を抜き、急に空を見上げた。朝の曇天が嘘であるかのような、澄んだ青空が広がっている。
「こうやって空を眺めていると、俺は思うんだ。この空が続いているところで、色んな不幸があるんだろうなって。いじめられている子供とか、殴られている女性とか、ずっと遠くには、飢えて死ぬ人や、戦争で痛い思いをしている人だっている。だけど、こうしてただ空を眺めている分には、関係ない。俺は安全でいられる。不幸に直面して、傷つかずに済むんだ。だから、誰かをわざわざ助けに行きたいとは、俺は思えない」
脳の中で、パズルのピースがはまった。今、分かった。今神が、土井を助けるといった行動をしない理由。
それは、その長け過ぎている想像力故に、困っている人と関わると相手の痛みを自分ごとの様に感じてしまって辛いからなんだ。優しいからこそ、何もできなかった。
今神が空を見上げるのをやめ、浅くうつむく。
「それに、努力次第でこの世から不幸が一掃できるならまだしも、俺がどれだけ頑張ったところで、世界全体から見れば砂粒みたいな小さな変化しかもたらせないしな。どうしたって、馬鹿馬鹿しく思ってしまう」
ぼくは悲しくなった。確かにそうかもしれないけど、そんなことを言ったら何もできないじゃないか。
言い返そうと思った時、「でも」と今神が言った。「でも、お前の為なら、できるかもしれない」
「え?」思わず訊き返す。「でも今、馬鹿馬鹿しいって」
「『誰か』っていうのが、曖昧だったらな」
「どういうこと?」
「俺もお前と同じだよ。意味とか世界全体とか、漠然としたことを考えたら分からなくなる。だけど、人の為なら……自分がいいなと思えた人の為なら、頑張れるかもしれない。だから、お前がもしも望むなら、俺は人助けをしようと思う」
ぼくはあまりの衝撃に目を丸くし、まじまじと今神を見た。今神は恥ずかしそうに顔を赤らめ、フェンスの外を見ることで絶対にぼくと目を合わせないようにしている。
そうか、そんなことを、言ってくれるのか。温かいものが、じんわりと胸の中に広がっていくのを感じた。
「じゃあ、望むよ。ぼくは今神に、人を助けてほしい」
今神は僅かに首を横に向け、ぼくを横目で見つめた。それから「分かった」と観念したように言った。「俺は、やるよ」
そして──ふっと笑った。
「大切な友達の願いだからな」
初めて見る今神の笑顔は、とても優しかった。
ようやく帰れると思いながら今神と一緒に校門を出た時、後ろから「佐部君!」と声がした。ドキッとして振り返る。
高藤さんだった。カバンを持ち、小走りでこちらにやってくる。
今神が即座に気を利かせ、「じゃあな」と言って先に帰って行った。ぼくは高藤さんのことが好きなことを今神に言ったことがないのに、流石だ。
「ど、どうしたの?」
ドキドキしながら訊く。もしかして、告白とか?
「土井さんのこと、お礼言いたくて!」
高藤さんが少し息を弾ませたまま言った。まぁ流石に告白なわけないよな、と思いながら、ちょっとだけがっかりする。
でも、嬉しいシチュエーションには変わりない。高藤さんと二人きりで話すのは、駅でしゃべったあの時以来だ。
校門の前で向かい合うぼくたち二人をオレンジ色の西日が照らしていて、なんだかすごくいい感じになっていた。
「土井さんから聞いたんだけど、佐部君が土井さんの家に行ったから、今日学校に来てくれたんだね。本当に凄いよ。ありがとう!」
「高藤さんこそ、クラスに溶け込めるようにしてくれてありがとう。ていうか、どうしたの? こんな遅くまで学校いて」もう校舎にはほとんど誰もいない筈だ。
「ダンスの曲が決まったからみんなで練習してたの。土井さんもちゃんと踊ってくれたよ!」笑って言ってから、顔を曇らせる。「それで、みんなが帰ってから学校に戻って、キンタのお墓参りしてたの」
「……そうだったんだ」
なんと反応していいか分からない。正直、キンタのことなんてすっかり忘れていた。
そういえば高藤さんは吉村のことどう思ってるんだろう、と思った時、高藤さんがちょうど「吉村君のことなんだけど」と言った。
「私ね、すごく考えたの。佐部君が体育館で言ったことを踏まえて、いっぱい考えた。でも……やっぱり私は、吉村君を許すことはできない」
険しい顔だった。本気で憤っている。
その時ぼくは初めて、自分の愚かさに気がついた。カッター事件について、ぼくは今までずっと「やった側」の気持ちばかり考えて来たけど、「やられた側」からすれば、たまったもんじゃない。
「相手の立場に立て」という主張をしていながら、ぼくはほとんど、一方的な立場にしか立っていなかったんだ……。
高藤さんが、険しい表情のまま言う。
「いくら事情があったって、辛くたって、あんなこと、絶対にやっちゃいけないと思う。もう、キンタの命は絶対に戻らないんだもん。それに佐部君も、行為自体は、やっぱり酷いと思う」
急に水を向けられ、矢が心臓に刺さった様な感じがした。あまりにも良いこと続きでつい都合良く忘れそうになってたけど、改めて自分のやった罪に向き合わされ、ズシンと心が重くなる。
「うん」と掠れ声で答えると、高藤さんは同じ口調のまま続けた。
「正直、土井さんだってそうだよ。色々恵まれないことはあったんだろうけど、それでも、本当にひきこもっちゃう前になんとかできなかったのかなって思っちゃう。誰かに助けてもらえるまで色んな人に泣きつけば良かったし、転校するっていう手もあった。そういうことができなかったのは、土井さんの弱さも、やっぱりあると思う」
眉間に皺を寄せ、真剣な目で訴え続ける。
「だから、三人ともやっぱり悪いよ。だって、みんなが吉村くんや佐部くんや土井さんみたいにしちゃったらどうなるの? 世の中メチャクチャになっちゃうよ。もっと辛い思いをしたって、耐えてる人も、乗り越えてる人もいるじゃん。周りの人の助けがなかったから壊れちゃうなんて、その弱さを全部許しちゃうのは、やっぱり違うと思う」
高藤さんの言葉を、しっかりと噛み締める。その通りだ。ぼくだって、「佐部も大変だったんだから」と、自分がやったことが許されるなんて思えない。ぼくも吉村も土井も、苦しみを正しく乗り越える方法はあった筈だ。
ぼくは高藤さんの目を真っ直ぐに見て言った。
「そうだね。できれば普段から、そうならない為の訓練はしておくべきだと思う」
頷くかと思いきや、高藤さんは「でも」と声を張った。
「でも、私だって何かあったら、吉村君たちみたいになっちゃうかもしれない。壁を乗り越えられずに壊れて、誰かを傷つけたり、消えたいって考えたりしちゃうかもしれない。絶対そうならない自信は、私には正直ない」
黙って頷く。そうだ、誰だって、そうなる可能性はある。
「それで、もし壊れちゃったら、たぶん、誰かに助けてもらいたいって思うと思う。だけどもしかしたら、『助けて』ってちゃんと言うこともできないかもしれない。そしたらその時は……甘えかもしれないけど、やっぱり、誰かに気づいて欲しい。私のSOSをキャッチして、優しく手を差し伸べて欲しい」
西日に反射して、高藤さんの目に金色の光が宿っている。
「だから私は、誰かがまた吉村君や土井さんみたいになっちゃったら、今度はSOSに気づいてあげられる人になりたい。その苦しみを想像して、勇気を出して、助けられる人になりたい。そう思ったの」
ぼくはもう、言葉が出なかった。黙って、うん、うんと頷く。
これまでで一番、高藤さんが綺麗に見えた。これほどの人を、ぼくは好きになっていたのか。
「それだけ、佐部君に伝えたくて」そう言ってから、にっこりと笑った。「じゃ、またね!」
校門から見て左に歩き出す。感慨深げにその背中を見つめていると、高藤さんが振り返った。
「佐部君!」と元気に叫ぶ。
「今度、一緒にご飯食べに行こーね!!」
「え?」声が裏返る。
「もちろん、二人きりで! ね?」
高藤さんは恥ずかしそうに笑って、すぐに背中を向けた。勢い良く走って行ってしまう。
ぼくはポカンとしたままその場に立ち尽くした。じわじわと意味を理解し、心臓が高鳴る。
「よっしゃあああああああああああああ!!!」
全力で、勝利の雄叫びを上げた。
翌日の土曜日、ぼくは家のベッドで、ほとんど放心状態でこの二日間のことを何度も思い出していた。
四十日間もひきこもって人生にも世の中にも絶望していたのに、良いことがこんなに一度に起こるなんて。この家から出て、土井と友達になり、人生に何が残るのかという答えが見つかり、ぼくも土井も学校に行けてクラスに受け入れられ、タツヤともユウとも仲直りし、木坂先生は復活し、あの今神が変わり、おまけに高藤さんともいい感じになった。
できすぎだ。あり得ない。もしもこれを脚本にしたら「こんなに上手くいくか」と笑われるだろう。
でも、信じられないことが人生には起こるものなんだ。ひきこもっていた時には全く想定できなかったけど、あの時勇気を出して「外の世界」に出ることにして、本当に良かった。
次の日、木坂先生のお見舞いに行くことにした。
病院に向かう道中、ずっとソワソワしていた。また、久保君みたいな人に会ったらどうしよう。耐えられるだろうか。
十階の受付で、木坂先生の病室の場所を尋ねる。昨日電話で聞いた通り、ICUからこの十階に移されていた。
よりにもよって、木坂先生の病室は廊下の一番奥だった。見たところ、進む先に久保君はいない。
病室を決して見ないように歩いて行く。ところが、あともう少しというところで、突然悲鳴が聞こえてきた。目当ての一つ手前の部屋で、小学生ぐらいの男の子が「痛い! やめて!」と叫んでいる。
心音が急に跳ね上がった。根が張ったようにその場に立ちすくむ。くそ、やめてくれ。
気を逸らすために首を横に向けると、四人部屋の病室の中で唯一カーテンを開けている患者と目が合った。
寝たきりの、男性だった。それも、手術後だからとかじゃない、一目見ただけで、もう何年も寝たきりだと分かる人だ。顔の骨格は普通の人と明らかに違い、手も小さく変な形に曲がっていて、さらに喉には太いチューブが挿してある。表情も無く、じっと天井を見つめていた。
がっくりと、膝をつきそうになった。
なんで、こんな辛い人がいるんだよ。酷すぎるじゃないか。
すぐさま、この二日ですっかり舞い上がってしまっていた自分を恥じた。やっぱり、ずっとひきこもっていれば良かった。
愛田が家に来るまで、ぼくは単にひきこもりをやめられなかっただけじゃない。外が怖かったからもちろんそれもあるけど、同時にぼくは、ひきこもり続けなければならないと思っていた。
それは、「自分の右手なんか無くなればいいのに」と同じ発想だった。土井や久保君が外に出られない事と同じくらい、そういう目に遭っている人がいるにも関わらず自分がのうのうと外の世界を生きていた事が、ぼくは辛かったんだ。ぼくが外を歩けるのは幸運なランダムに過ぎないのに、何の苦労も努力もせずその自由を享受できている優位性を、自分に許すことができなかったのだ。
だから、とことんまで落ちてみたかった。一歩も外に出ず、人との繋がりを断ち切り、孤独や不自由の沼に溺れなければならなかった。そうしなければ、土井や久保君と同じになれない。そう思っていた。
手すりを掴んで立ち尽くしたまま、ぼくは微動だにできなかった。とてもじゃないけど、あの悲鳴のある方へなんて近づけない。
ああ、愛田に説得されてつい外に出てしまったけど、やっぱりずっとひきこもっているべきだった。土井が学校に行けたって、木坂先生が目を覚ましたって、学校に行けない人も病気で苦しむ人も、世の中には無数にいるんだから。それにもっと遠くには、戦争や飢えで死んでいる人もいる。ぼくが幸運なのはランダムに過ぎないんだから、そういった不幸なランダムの人々を尻目に、人生を謳歌している場合じゃないじゃないか。
悲鳴を聞きながら、寝たきりの人を見つめながら、思う。どうしてぼくはこちら側で、彼らはあちら側にいるんだろう。誰がこれを決めたんだろう。ぼくも、あちら側に行きたい。そしたらこんな、幸福であることの呵責に苦しまなくて済むのに。
だけど、またひきこもるわけには流石にいかない。ぼくはどうすればいいんだ。
その時、向こうの病室から人影が現れた。「佐部君!」とぼくを呼ぶ。──木坂先生だった。
木坂先生に案内されるまま悲鳴が聞こえる方とは反対方向に歩き、食堂に着いた。幸い誰もいない。二人とも椅子へと座り、斜めに向き合う形になる。
「わざわざ来てくれて、本当にありがとう。意識不明だった時も来てくれたんでしょう?」
木坂先生は穏やかに言った。かなり痩せたけど、顔色はとても良い。
「先生」
そう言っただけで、ぼくは泣き出しそうになった。木坂先生が無事に意識を覚ましてそこにいるという安心感と、意識不明だったときの不安感と、それから、さっきの悲鳴や窓の景色で呼び起こされた悲しみがごちゃ混ぜになっている。
ぼくは、前回木坂先生と話した日から今日までのことを全て話した。
ぼくの話を木坂先生は凄まじい集中力で聴いた。前に相談した時も一生懸命聴いてくれたけど、今回はまた別の迫力があった。
全て話し終えると、木坂先生は少し間を空けてから、「そっか」とややうつむいたまま静かに言った。「ぼくが書いたセリフで、そこまで思い悩んでくれたんだね」
「先生、ぼくは分かりません」ぼくは泣きそうになるのを堪えながら言った。「どうして人生はランダムなんですか? こんな残酷な世界で、ぼくはどうすればいいんですか? あまりにも悲しすぎて、ぼくは、もう」
言葉に詰まる。胸がつぶれ、息ができなくなりそうだった。
木坂先生が、ゆっくりと顔を上げた。この世の全てを包み込むような温かい眼差しで、ぼくを真っ直ぐに見つめる。そして、静かに言った。
「それでいいんだよ」
優しくも、毅然とした言い方だった。言葉が確かな質量を持ち、空気中に響く。
「くよくよしていていいんだ。それは、一生続くから」
無意識に口を半分開けたまま、木坂先生を呆然と見つめた。スコン、と何かが音を立ててぼくの中に入る。
そうか、と思った。それでいいのか。
ぼくが今、こちら側にいるのは事実だ。将来は分からないけど、今そうであることは、いくら嘆いたところで変わらない。
そして、あちら側は、ある。残酷だろうがなんだろうが、確かに、無数にある。
両方、事実なんだ。だったら、それを認めるしかない。あちら側を直視しつつ、自分はこちら側の人生を、くよくよしながら、それでも前向きに生きるしかない。だって、それしかできないんだから。それでいいんだ。
その瞬間、長い間のしかかっていた重りが、ふっと無くなるのを感じた。胸の風通しが良くなる。
そして、ずっと張りつめていた糸が、プツンと音を立てて切れた。涙がボロボロと溢れる。
病院の食堂で、ぼくは声を上げて泣いた。木坂先生がずっと、優しく背中をさすってくれた。
何分そうしていただろうか。やっと泣き止み、落ち着いた。
驚くほど心が軽い。涙とともに、それまで抱えていたドロドロとした感情が全部綺麗に洗い流されたようだった。
ぼくは、木坂先生にどうしても訊きたいことを訊いた。
「木坂先生は、演劇で世界を変えるっておっしゃいましたね。あれは、本気で言ってるんですか?」
「そうだよ。本気で願ってる」
木坂先生はあっさり言った。迷いや恥ずかしさなど、微塵も感じさせなかった。
「ですが、それは少し冷たくありませんか? 世界なんて目を向けなくても、日本にだって困ってる人はたくさんいるじゃないですか」
「もちろん。だから、日本も含めて、世界全部だよ」
「え?」
「世界中の不幸を無くしたいんだ。具体的に言えば、『健康で文化的な最低限度の生活を恒久的にできない人が一人もいない世界』にしたいと思っている。つまり、世界平和を実現したいんだ」
世界平和。
さっきと比べ物にならないぐらい唖然とした。単に外国の問題を解決するとか、世界中の不幸を減らすぐらいのつもりかと思ってたけど、全て無くすってことなのか。
「正直」ぼくはおそるおそる切り出した。「最初に聞いた時は、本気じゃないと思いました。ただの表現なのかなって。だけど、今なら木坂先生がそう願うのも分かります。ぼくも、世界中の不幸がなくなればいいなって思ったから」
「うん」
「だけど」
言いかけて、口をつぐむ。
「無理じゃないかって?」
木坂先生がぼくの言葉を引き取った。不快な様子はなく、むしろ余裕のようなものを感じた。
「変わって欲しいですよ?」自分の声が切実さを帯びた。「でもそれと、実際に変えられるかどうかは全然別の話じゃないですか。どう考えたって、世界平和なんて夢物語ですよ。ましてやそれを、物語で目指すなんて」
ぼくは今神に聞かされたハリーポッターの話と、金八先生の話と、それから自分の演劇部の話をした。結局、物語ではほとんど何も変わらないのだと。
愛田とのやりとりで、物語は願いを残すものだとぼくは学んだ。愛田の様にその願いを自分の中で忘れないようにして、現実の行動に活かしていくべきだと。
だけどそれは、ぼくがそうするという話で、やっぱり大半の人はユウのように、どんな物語に触れても「所詮フィクションじゃん」で片付けてしまうのではないかと思う。
「だから、物語で人は変わり得ると思いますが、世界は変わらない。そう思うんです」
「知ってるよ」先生はなんと、微笑んだ。
「え?」
「全部知ってる。僕はね、君と同じように若い時、『人生はランダムなんだ』ということに気がついて、世界中の不幸に思いを馳せた時期があったんだ。悲しくてたまらず、絶対に世界を変えてやると決めた。ではどうすればいいかと考えた時、一番重要なことはすぐに分かったんだ」
「一番重要なこと?」
「うん。なんだと思う?」
咄嗟に考える。
「想像力を養うこと? それとか、勉強することとか、ですかね?」
「そうかな? 優しい人はたくさんいる。頭がいい人もたくさんいる。だけど、世界を変えている人は非常に少ない。もっと重要なことがあるんだ」
「なんですか?」
「多くの人を巻き込むことだよ」先生はきっぱりと言った。
「本当に世界を変えようと思ったら、大事になってくるのは、とにかく規模なんだ。世界中の人を巻き込まなくてはならない」
確かに、と思った。どれだけ優しい心を持っていても、超人的に頭が良くても、周りを巻き込めなかったら世界なんて絶対変わらない。
「それで僕が選んだのは小説だった。昔から、物語を作るのと、文章を書くのが得意だったからね。本気で書いたら、見事にデビューができた。あるペンネームだったんだけどね、実は三本もベストセラーになったんだよ」
マジか。そんなすごい先生だったなんて知らなかった。
「どれも現実の社会問題について深く考えさせる内容にしたし、勇気を持って行動することの大切さについて強く説いた。だけど、書けば書くほど、分かってきたことがあるんだ」
木坂先生は一拍置いてから、声のトーンを落とし、ささやくように言った。
「僕が小説を書いても、世界は変わらない」
何を言ってるんだ、と思った。じゃあ、何で演劇で世界を変えるなんて言ったんだ。小説と演劇にそう差はないし、矛盾してるじゃないか。
「理由は、佐部君が言った通りだよ。物語に触れても、ほとんどの人間は変わらないからだ。でもやはり君の言った通り、変わる人もいる。つまり僕はこう思ったんだ。物語そのものは世界を変えられないけど、物語に突き動かされた人間が世界を変えようと思えば、世界は変わるんだって」
先生の言葉に熱がこもる。
「だから僕は、発想を変えた。大勢の人間に届けても無駄なのであれば、誰か一人に届けよう。世界を変える意志と可能性を持った、どこかの誰か、一人」
食堂に、静寂が響く。
先生の熱量に押されぼくは思わず言葉を失ったけど、少し経って、からからになった口を開いた。
「でも、その一人が仮に、先生の作品に触れて本当に世界を変えようと思ったところで、結局意味ないじゃないですか。世界は変えられないでしょう?」
「いや、方法はある」
木坂先生はまた、きっぱりとした口調で言った。
「え? あるんですか?」
「重要なのは、多くの人間を巻き込むことだと言ったよね。ちょっと想像してみて欲しいんだけど、もし、世界中の全てと言わずとも、一割や二割の人間を動かすことができたらどうだろう? それだけの数の人々と自分の考えや理念をある程度共有し、味方となって行動をしてくれたら? それでも、世界は変わらないだろうか?」
「そりゃ、もしそんなことができたら最強ですけど、無理でしょう。もし万が一できたとしても、それは独裁ですよ」
「いや、できる。しかも、独裁にはならずにね。権力を得ず、アメリカの大統領よりも遥かに多くの人間を巻き込み、世界中を激変させる方法を、僕は見つけたんだ」
「何ですか、それは?」
「小説にヒントを書いておいた。だけど、そのタイトルやペンネームはしばらく秘密にしておくよ。簡単に分かっちゃうとつまらないからね。ただ、本当に世界を変えようと思えば、自然とその答えに辿り着くだろうと思うよ」
先生がふふっと笑う。めちゃくちゃ気になったのに、もの凄い肩すかしをくらった気分だ。
「でも、そしたら、木坂先生がその方法を実践すればいいじゃないですか。わざわざその一人を見つけて託すことなんかしなくたって」
「そう思うよね。だけど駄目なんだ。ぼくには、世界を変える資質を満たしていないから」
「世界を変える資質?」
「世界を変えるのに絶対に必要なのは、おそらく四つだけ」木坂先生は指を四本立て、一本ずつ折っていった。
「弱者の気持ちが分かる想像力、最善を導きだす思考力、行動する勇気、多くの人を巻き込むカリスマ性」
まばたきだけするぼくに、先生が続ける。
「僕は最初の三つはある程度自信があるけど、四つ目は残念ながらないと知ってるんだ」
「そんなことないですよ。先生は、魅力的です」
「ありがとう。だけどそれは、君と話す時は一対一だからだ。ぼくは少人数と静かに話すのは好きだけど、大勢の人々を相手に演説をしたり指導したりすることはできない。だから、カリスマ性を含めて四つの資質を満たしている人に託すしかないんだよ。残念ながらね」
思わず黙り込んでしまう。
「それで、届ける人数は少なくていいから物語の願いを最も強く心に響かせたいと考えて、今のスタイルに落ち着いたんだ。演劇は生で衝撃を与えられるし、人間が一番柔軟に変化をする年代は高校生だと思ったから」
「でも、先生」ぼくは歯切れ悪く言った。「あの演劇は、申し訳ないですが、すごく分かりにくかったです。かなり大勢の人が観に来ましたが、感想用紙を見たら、『分からなかった』っていうものばかりでした。『人生ってランダムなんだな』なんてセリフで世界の残酷さに気づいて本気で思い悩んだのなんて、たぶんほとんどいなかったんじゃないかと」
「でも、君は分かった」
木坂先生は初めて、ぼくの言葉を遮った。断固たる強さで遮った。
「君は、分かったんだ」
先生はゆっくりとそう繰り返した。その痩せた体に収まりきれないほどの情熱と意志を秘めた目で、射抜くようにぼくを見つめる。
あまりの迫力に、ぼくはただ、その目を見つめ返すことしかできなかった。
病室の前まで木坂先生を送った。もうあの悲鳴は無くなっていて、ほっとする。
先生がぼくに微笑んだ。
「お見舞いに来てくれて本当にありがとう。今月中には学校に必ず戻るよ。佐部君も元気でね」
先生が病室に入って行くのを見届けてから、ぼくはふーっと長い息を吐いた。なんだか、もの凄い話をした気がする。
木坂先生、ひょっとして、ぼくにその「一人」とやらになって欲しいと思っているのか? いや、ひょっとしてではなくて、あの目は絶対そうだった。
ふん、と鼻で笑う。冗談やめてくれよ。先生が思いついた方法がどんなものか知らないけど、世界平和なんて絶対誰にもできないし、ぼくにはもっと無理だ。何の才能もないし、つい三日前までひきこもって廃人になってたくらいなんだから。
帰ろうとして──ふと、ある箇所に目が留まった。
さっきの食堂とは反対側へと廊下を歩き、突き当たりの窓の前に立つ。
外の景色が、見えた。以前、久保君が眺めた景色だ。
澄んだ青空と、太陽に照らされた町並みを見つめる。無数の建物があり、高速道路がどこまでも続くように伸びていた。
──この景色を見ると、いつも思うんです。外の世界って、めちゃくちゃ広いんだろうなぁって。
久保君をはじめ多くの入院患者が、この景色をただ、眺めることしかできないのか。
でも、と思った。逆にぼくは、この世界を自由に生きることができるのか。眺めることしかできない人もいる外の世界を、自由に。
それなら、と思った。それなら、できないことなんてないんじゃないか? もしかしたら、世界平和だって。可能性はゼロじゃない。
この数ヶ月の、色々な出来事や場面を思い出す。
長所や将来の夢が分からず、提出できなかった自己分析シート。
アニメの中の世界に憧れた夜。
保健室での土井の涙。
物乞いの為に右手を切り落とされた少年。
渋谷にいたホームレス。
ベトナム戦争の戦火から逃げる裸の少女。
先生達から責められる吉村。
友達になろうと言ったら泣いた土井。
壊れてしまった鈴木先生。
病室から聞こえてくる悲鳴と、寝たきりの人。
様々な言葉も、脳内で再生される。
──Save our souls。“私たちの魂を助けて”だ。
──僕は演劇で、世界を変えられると思っている。
──コンクリートの天井が広がっているんです!
──人生ってランダムなんだなって。
──選ばれた、とでも考えればいいんですかね。
──世界を変えることは、できますか?
──J.K.ローリングは、世界の平和を願っていたんだ。
──やさしい王様がいたら、こんなつらい戦いは、しなくて良かったのかな?
──こういう過酷な環境で生きる子供達のことを、どうか忘れないでください。
──外の世界には、素晴らしいものがたくさんあるんだよ。
──俺はもう、限界だ。
──悪いのは、“現実”ってやつじゃないか?
──それでいいんだよ。
──誰か一人に届けよう。世界を変える意志と可能性を持った、どこかの誰か、一人。
──方法はある。
──でも、君は分かった。
ぐるぐるぐるぐると、様々な場面と言葉が胸の中を渦巻く。心臓がドクンドクンと、けたたましく鼓動する。そして、今神のあの言葉を思い出した。
──お前の、人生のテーマは何だ?
やってみようか、と思った。世界平和を、目指してみようか。
人生はランダムだ。不幸が無数にある。そんな残酷な世界で、ぼくは自由に生きられる。それならぼくは、幸福なランダムのぼくは、不幸なランダムを助けるべきじゃないか。
それも、一部の人だけじゃない。世界中の人々を助けるべきなんじゃないか。なぜなら、ランダムというのは全てを含むからだ。ひきこもりも戦争も貧困も、日本もアメリカもインドも、当てはまらないものは一つもないからだ。だから、この言葉にこれだけ悩んだぼくは、世界中の人々を、一人残らず救うべきじゃないか。
いや、と即座に否定する。やっぱり無理だ。ぼくには何の才能もない。
待てよ、と思った。木坂先生の言った、「世界を変える資質」は何だった? 想像力と思考力と、勇気とカリスマ性か。
ぼくは、これをかなり満たしているんじゃないか? 想像力と思考力は今神から、勇気は愛田から学んだ。この数ヶ月で飛躍的に身に付いたじゃないか。
だけど、カリスマ性はないな。
いや、本当にそうだろうか。先生はそれを「大勢の人を巻き込む力」と言った。「大勢の人を相手に演説をしたり」とも。
ぼくは、したじゃないか。あの体育館での演説を。無我夢中だったし拙かったけど、とにかくやった。そして実際、クラスメイトは変わって、土井のことを受け入れた。
それに、ぼくの言葉で愛田も今神も大きく変わった。じゃあ、もしかしてぼくは四つとも?
いや、とまた否定する。だから無理だって。万が一資質を満たしてたって、難しすぎる。
──どれだけ怖くても難しそうでも、関係ないよ。
今度は、愛田の言葉が降ってきた。
──自分が『こうするんだ!』って選びさえすれば、あとは大抵なんとかなるもんだから!
愛田の真っ直ぐな目が脳裏に浮かぶ。
──選びたい方を選べばいいよ。
選びたい方。ぼくの選びたい方は、どっちだろう?
窓の向こうの、どこまでも続く青空を見つめる。
──こうやって空を眺めていると、俺は思うんだ。
今神の声が、こだまする。
──この空が続いているところで、色んな不幸があるんだろうなって。いじめられている子供とか、殴られている女性とか、ずっと遠くには、飢えて死ぬ人や、戦争で痛い思いをしている人だっている。
土井の涙を、青ざめる吉村を、右手のない子供を、戦火から逃げる少女を、思い出す。助けたいと、思う。怖いとも、思う。
──だけど、こうしてただ空を眺めている分には、関係ない。俺は安全でいられる。
今神の観念した顔が、浮かぶ。
──俺は、やるよ。
ざわっと、全身に鳥肌が立った。足の先から頭のてっぺんまでを、何かが貫く。
やろう、と思った。
世界平和を、目指そう。
どこまでできるか分からないけど、それを人生のテーマに選ぼう。
ぼくは静かに、どこまでも広がる青空を見つめていた。
しばらくそうして窓の景色を見ているとと、後ろからカラカラと聞き覚えのある音がした。振り返り、目を丸くする。
「久保君」
ベンチに腰掛け、二人で色んな話をした。ぼくは好きなゲームのことや中学の演劇部の話をしたし、久保君は入院生活のあれこれや、好きな漫画の話をした。やはりぼく達は波長が合うみたいで、二人ともすごく盛り上がった。
ぼくはもう、久保君の姿を見たり入院の話を聞いたりしても、心がつぶれそうになることはなかった。何にも感じなかったわけじゃない。くよくよはしたけど、きちんとくよくよしていた。
久保君は確かに不自由だ。ぼくにある当たり前の大半が、彼にはない。もしもぼくが彼の立場だったら、きっと何度も人生を呪うだろう。
だけど、ぼくはぼくで、久保君は久保君だ。障害があるからって彼をかわいそうと思わない、なんてことはぼくには思えない。どんなに綺麗ごとを言ったって、病院から出られないことが、普通の生活ができない事が、とてつもなく辛いことに変わりはない。だけど、それを認めていくしかない。そういう人生もある中で、ぼくはぼくの人生を歩むのだと、思うしかない。
二時間ぐらい話した後、お別れをした。下に降り、病院の出口の門まで歩く。ぼくはここで、しようと決めていたことがあった。出口の前で立ち止まり、深呼吸をしてから振り返る。
首を斜め上に向け、十階のあたりを見た。案の定、ひとつの窓に人影が見える。こちらに向かって久保君が大きく手を振っていた。
自分の心臓の鼓動を確かめる。とくん、とくん、と、静かに脈打っていた。
うん、大丈夫だ。
手を真っ直ぐ上げ、大きく振る。
何秒かそうした後、ぼくは久保君の姿を目に確かに焼き付けてから、体を反転させた。地面を踏みしめながら、しっかりと歩いていく。
その週、ぼくは順調に学校に行けた。長い間のひきこもりから急に外に出て活動しまくったせいで少し体調を崩したけど、欠席も遅刻も早退もなかった。土井も無事、毎日学校に通った。お互い、きちんと授業を受け、休み時間は友達としゃべり、放課後は文化祭のダンスの練習をする。そんな穏やかで楽しい日々を送った。
土曜日になった。九月九日、ぼくの誕生日だ。十八歳になった。
大人と見なす年齢は十八歳と二十歳の二つあるけど、十八歳で大人かな、とぼくはなんとなく思っている。子供の最後の数ヶ月は、本当に怒濤のようだった。これでようやく、ぼくも大人になれただろうか。
渋谷の待ち合わせ場所に着くと、もうみんな既に集まっていた。タツヤ、ユウ、愛田、高藤さん、それに土井だ。
高藤さんがぼくを見て、にっこりと笑う。
高藤さんとの“食事”は、明日だ。一体どんな風になるのか想像もできない。期待と不安で胸がいっぱいだ。
みんなでボーリング場に向かって歩いていると、明日新しく発売されるノベルゲームの話でタツヤと盛り上がっていたユウが、「今回のやつ、超感動するらしいよ」とぼくに話しかけてきた。「俺は受験勉強であんまやれないからさ、隆介、先に進めてネタバレすんなよ?」
「いや、ぼく、買わないから大丈夫」
そう答えると、ユウが目を丸くした。
「え? お前、そんな受験勉強ハードにやんの?」
「それもあるけど」
嘘だ。考えた結果、ぼくは浪人することに決めた。それであれば残りの高校生活を大切に過ごせるし、勉強もしっかりできてお母さんを安心させてあげられる。人生が終わりかけてたんだ、一年ぐらい遅れたってどうってことない。
「ゲーム、捨てたんだ。本体もソフトも全部」
「はあ!?」
二人が素っ頓狂な声を出した。
「マジで!? なんで?」
「うーん」少しの間、言葉を探す。「もう、いらないかなって思ってさ」
二人とも、さっぱり理解できないという顔をした。
六人でボーリング場に入った。受付に着き、一番前に立っていたぼくが受付表を書く。
ジャンケンで、ぼくと愛田と土井チーム、タツヤとユウと高藤さんチームに別れることと、ぼくのチームが先行になることが決まっていた。タツヤが「俺のチーム名、この前のにしといて!」と言って、早くもシューズを取りに行く。
一番上の行に「SABE」、二番目の行に「TATSUYA」と書いて──ふと手を止めた。自分のチーム名をまじまじと見つめる。ふっと笑みをこぼし、二重線を引いた。
全員がシューズを履き終わりボールも選んでレーンに着くと、画面にスコアボードが表示された。タツヤが「はあ?」と首を傾げる。
「お前、なんでVなわけ?」
スコアボードのぼくのチーム名の欄には、SAVEと表示されていた。
「色んな願いを、込めようと思ってさ」
軽快に言って立ち上がる。愛田がくすくすと笑っていた。
ボール台の前に立ち、自分の右の手のひらを見つめる。血色のいい、健康な右手だ。あの右手のない、インドの少年を思い出す。心がちくりと痛んだけど、落ち着いた痛みだった。
ぼくにある右手が、あの子にはない。あの子にはない右手が、ぼくにはある。それを、認めなければならない。くよくよしながら、自分の持っている武器で闘うしかないんだ。
ボールに指を入れて持ち上げる。ずし、と十三ポンドの重みが右腕全体に伝わってきた。落とさないよう、しっかりと力を入れる。
深呼吸をしてから上を見上げると、ずっと高いところに、固く分厚いコンクリートの天井が広がっていた。
あの、天井を見上げるしかなかった日々を思い出す。何の変哲もない天井の模様を気が遠くなるほど見つめ続け、何もできずただベッドに横たわり、この世に自分は一人ぼっちだと信じていたあの日々を。
そして、想像する。あのコンクリートの天井の向こうには澄んだ青空が広がっていて、その青空が続いたところには無数の不幸がある。この室内にいる限り絶対に無縁の、不幸のランダムが、存在している。
誰かがそれを解決しなければならない。あの分厚いコンクリートの天井をぶち破って、現実と闘わなければならない。そしてぼくは、それをやると決めた。
できるだろうか。自信なんてない。道筋だって検討もつかない。正直、めちゃくちゃ怖い。バカだとも思う。逃げてしまいたい。
だけど、ぼくは選んだ。世界平和を目指す人生を、選んだんだ。
首を前に戻した。歩き、レーンの中央に立ってピンを見つめる。
そうだ、と思った。もしこのピンが全て倒れたら──もしかしたら、あのコンクリートの天井だって、打ち破ることができるかもしれない。バカバカしい考えだっていうのは分かる。だけど少なくとも、ここでストライクすら取れなかったら、とてもじゃないけどできない気がした。
ピンを見据え、構える。ゆっくりと右腕を引き、振ると同時に指を離した。ボールが勢い良く転がる。レーンの中央を捉え真っ直ぐに進み──真ん中のピンに当たった。
パーン! という小気味良い音が鳴り、全てのピンが一斉に弾け飛ぶ。後ろからワッと歓声が上がった。
ぼくは満面の笑みで振り返り、右の拳を天井に向け、力強く突き上げた。