第3章 絶望
しかし、平和な日々はそう長くは続かないらしい。というか、予想外に早く終わった。
週明けの学年朝会の校長先生の言葉が、新たなる混沌への幕開けとなった。
「皆さんに、悪いお知らせが二つあります。まず一つめですが、木坂先生が倒れました」
ぼくはもちろん、体育館中の人間が息を呑んだ。あの木坂先生が? 嘘でしょ?
校長先生は病名を言ったけど、よく聞き取れなかった。
「全く不運としか言いようがありません。昨日倒れて救急車で病院に運ばれ、今も意識不明で入院中と伺いました。いつ意識が戻るか全く分からない障害だそうですが、みんなで一刻も早い回復を待ちましょう」
ざわざわし始めた生徒に向かって、校長先生は「もうひとつ重大な話があるので静かにしてください」と黙らせた。
どんな内容だろうと木坂先生の意識不明に比べれば重大でもなんでもないだろ、と思ったけど、その話は今の話に匹敵する衝撃をみんなに与えた。
「カッター事件が、また起こりました」
体育館中が騒然となった。今朝、土井は教室にいなかった筈だ。一組の列から、「土井じゃなかったってことかよ」というような声がちらほら聞こえた。
「家庭科室の机が二箇所切られていました。あんな嫌な事件がまた繰り返されると思うと、本当に気が滅入ります。犯人に名乗り出てもらうのが一番良いですが……何か知っている人がいたら、必ず先生方に申告しにきてください」
テンプレの校長先生の言葉は、ほとんど誰も聞いていなかった。
体育館から教室に戻ると、みんな様々な憶測を飛ばした。やや遅れて教室に入って来た鈴木先生は、みんなから質問攻撃を受けなければならなかった。
「先生、どういうことですか? 土井は犯人じゃなかったってことですか?」
「もしかして、不登校の土井が夜にこっそり忍び込んだとか?」
「流石にそりゃねーだろ。どんだけ学校のもの切りたいんだよ」
鈴木先生は明らかに狼狽していた。目を何度か泳がせ、「少なくとも、今回のは土井じゃない」と歯切れ悪く答えた。「数日前に土井の家に連絡を一度取ったんだけど、まだ心身ともに立ち直ってなくて、とても家から出られる健康状態じゃないそうだから。ただ、前回までの犯人が土井じゃなかったとは言い切れないと思う。模倣犯という可能性もあるからな」
ああ、そうか。これで土井の疑いが晴れたと思ったけど、そういう可能性もあるのか。
鈴木先生が苦々しい表情で訊く。
「またこれを訊くのは本当に嫌なんだが、何か知ってる人は教えて欲しい。誰か、いないか?」
みんながキョロキョロする。やっぱり手を挙げる人は誰もいない、と思った時、なんと愛田が手を挙げた。目を真っ赤に泣きはらして泣いている。
「あの、カッター事件のことじゃないんですけど、皆に伝えたいことがあるんですけど、いいですか?」
明らかに今じゃないだろ、どんだけ空気読めないんだよ、とたぶん誰もが思ったけど、木坂先生に関することだと思ったのだろう、鈴木先生は「事件について知ってる人、本当にいないな?」ともう一度訊いて誰も手を挙げないことを確認してから、「じゃあ、愛田、いいぞ」と言った。
愛田が前に出て、涙を流しながら訴える。
「チラシが貼ってあるので知っている人もいると思いますが、ちょうど今日の放課後、体育館で演劇部の校内公演をします。木坂先生が脚本と演出を担当してくださったものです。木坂先生の想いが込められている劇なので、是非来てください!」
みんな真剣な顔で聞いたあと、愛田に温かい拍手を送った。やっぱりみんな優しいな、と思った。
放課後、体育館には六十人近くの人が集まっていた。たぶん他の演劇部員も愛田みたいに各クラスで宣伝したんだろう、木坂先生の人望がどれだけあるかがよく分かった。ぼくは一番後ろの席に座った。
しばらくすると室内が暗くなり、客席が静まり返ったあと、劇が始まった。
最初からいきなり大音量とともにダンスが始まったかと思うと、そのままアップテンポでセリフの掛け合いが始まった。シュールなセリフや動きが飛び交い、会場からくすくすと笑いが漏れる。
ただ、観て行くうちに、ああ、こういうタイプか、とぼくはがっかりした。
中学時代演劇部だったぼくは大会で他校の劇を見る機会があったから知っているのだけど、演劇には大きく分けて二種類ある。分かりやすい劇と分かりにくい劇だ。後者は、起承転結がなく抽象的で、一体何を表現したいのか素人の観客にはさっぱり伝わらない。目の肥えた人が観たらそれは「芸術性があって」高い評価をされるのだけど、ぼくは演劇部だったくせにそういう目を養うことは最後までできず、そういう劇を観ると楽しめないどころか「なんでこんな分かりにくくするわけ?」と腹が立つのだった。
残念ながら、この劇もどうやらそういうタイプらしい。最初は意味が分からないなりに笑える部分もあったけど、後半でシリアスになるとただ意味不明なシーンが続き、しかも暗い展開になってうんざりした。
ただ、一箇所だけハッとするシーンがあった。愛田演じる三十代ぐらいの女性が、鬱病をこじらせて家から出なくなると言うシーンだ。家にひきこもっている土井と重なり、気持ちを入れて観ることができた。
愛田は、というか愛田が演じている女性は、周りに何度か助けを求めようとするもその度に不運や不遇に遭い、取り返しのつかないところまで鬱病を悪化させてしまう。そして、あの時見たようにふとんを背負ったまま立ち上がり、「人生ってランダムなんだな」とつぶやくと、照明がフェードアウトしていった。結局意味不明でがっかりする。
その後もわけが分からないシーンが続き、そろそろ集中力がなくなってきたなと思う頃、やっと劇が終わった。みんな一生懸命拍手していたけど、表情は固かった。
感想用紙に何て書こうか悩んだ。内容はマジで分からなかったし、愛田の演技を褒めるのも恥ずかしい。結局白紙のまま鞄にしまって体育館を出ることにしたけど、ふと他の人の感想が気になった。出口付近に置いてある感想用紙を見てみると、一枚目は「さっぱり分かりませんでした」とだけ書かれてあった。やっぱりと思い次をめくると、今度は「とても難しかったですが、役者さんの演技がとても上手だと思いました」だ。他にもパラパラとめくったけど、見た限りでは内容を褒めているのは一枚しかなく(その感想もやっぱりぼくには意味不明だったけど)、ぼくはなんだか悲しい気持ちになった。
木坂先生──。何が、「演劇で世界を変えたいと思っている」ですか。ほとんど誰にも分かってもらえてないのに、どうやって変えるんですか……?
出口の周りには客を送る為に役者が整列していた。黙って通り過ぎようとしたけど、「隆介」と、やっぱり愛田に声をかけられた。
「ねえ、どうだった?」
「んー。よく分からなかった」
「そっか」愛田はぼくの反応に残念そうに顔を陰らせてから、「あのさ」と続けた。「今週の日曜日、木坂先生のお見舞いに行こうと思うんだけど、隆介も一緒に行こうよ」
「え?」まさかの誘いに、きょとんとする。
「私、木坂先生から聞いたの。隆介と先生が話したって。それで隆介、元気になったんだね!」
「まぁ、そうだけど……」
「じゃあ行くでしょ?」
迷った。正直、ぼくもお見舞いに行くことを考えはした。だけど。
「でもさ、意識不明なら、行ったって意味ないじゃん」
「そんなことないよ。私たちの気持ち、きっと伝わるよ!」
心の中でため息をついた。こういうことを本気で信じるのが愛田なんだ。
「お見舞いにはご家族の方の許可が必要なんだけど、もう電話して許可を頂いてるの。ご家族が同伴している時間なら私たちでも行っていいんだって」
迷ったけど、こうやって誘われても行かないのは恩人への不義理のように感じた。結局、ぼくは行くことにした。
その週、ぼくの心はまたもや不安定になった。金曜になっても木坂先生が意識を取り戻したという報せは入らず、ぼく以外にも何人かそわそわしている人がいた。けどぼくは、今度はこれまでのように大きく崩れはしなかった。
──人の気持ちも、考えてみようよ。
木坂先生のこの言葉を覚えていたからだ。ここでぼくが学校生活をちゃんと送らなくなってしまったら、また鈴木先生や親を心配させてしまうし、木坂先生もきっと悲しむだろうなと思ったからだ。
日曜日、ぼくと愛田は近くの駅で待ち合わせをした。路面電車が来るのを待ちながら、愛田が笑顔で話しかけてくる。ぼくは愛田にもう一年以上もそっけなくしてるし、最近荒れてた時は心配してくれてる愛田にけっこうひどいことを言っていたのに、どうしてこいつは全く変わらずぼくに明るく接するんだろう。理解できなかった。
ちょっと頑なすぎるかな、と思った。そろそろもう少し優しく接してやってもいいんじゃないかと思った時、電車が来た。席ががらがらなので、二人で並んで座る。
その時、急にゾワッと鳥肌が立った。
「昔、よくこうやって一緒に帰ってたね。懐かしいね」
笑顔で言う愛田の横顔をまじまじと見る。昔と全く同じ光景だった。
急に猛烈な悲しさに襲われた。開きかけた心のシャッターが、即座に閉じる。まさかこんなに早く閉じることになるとは……。
病院に到着するまでの三十分弱、健気に話しかけ続ける愛田を、ぼくはずっと無視した。
十階の入院病棟に入って面会希望の旨を伝えると、受付の女の人は少し困った顔をした。
「すみません、ご家族の方が、ちょうどいま昼食に出てしまいまして」
仕方がないのでロビーで待つことになった。突き当たりのベンチに座ろうと、二人で長い廊下を歩く。
廊下を歩きながら、あまり良くないとは思いつつ、病室の方をチラチラと見てしまう。生まれた時から健康そのもので、危ない遊びも避けてきたから事故にも縁がなかったぼくは入院したことがなく、どんなところか単純に興味があった。
どうやら四人で一部屋であるようだ。半分ぐらいの人がカーテンを開けていて、中の様子が見えた。テレビを見ている人、点滴をつないでいる人、看護師に血圧を測ってもらっている人、眠っている人、様々いた。だいたいは大人だけど、稀に小さい子供もいる。
廊下の端にあるベンチに座った。窓ガラスから外の景色がよく見える。高層ビル郡や高速道路、そして青い空が広がっていて、下にはテニスコートでテニスをしている人や公園で遊んでいる子供もいた。
座ってまた愛田の話を一方的に聞いていると、向こうから車いすに乗った高校生ぐらいの男の子がこちらに近づいてきた。腕に点滴も繋いでいる。その姿を見て、まずいな、と思った。こんな重そうな病人と話した経験はなかったから、もし話しかけられたらどう対応していいか分からない。
その子はベンチに座ると、ぼくたちの方を見た。話しかけるなよ、との念も虚しく、その子は口を開いた。
「お見舞いですか?」
「そうです」と愛田が歯を見せて答える。こんな初対面の人によくもまぁそんな百点満点の笑顔をできるな、と感心した。
男の子が言う。
「この病棟、大人ばっかりなんですよ。たまにいる子供は小さすぎるし、同い年の人と話す機会がほとんどなくて。もし良かったら、少し話しててもいいですか?」
冗談じゃない。なんでこんな「ザ・病人」みたいな人と話さなくちゃいけないんだ。だけど離れる口実を考えようとする間もなく、愛田が「はい!」と答えた。「私たちも今ちょうど待たされているところで、暇ですから!」
はいはい、愛田がいる時点で諦めてましたよ、と心の中でため息をつく。
「ありがとうございます。あの、まず年齢訊いてもいいですか?」
「十八歳で、高校三年生です。私が愛田優希で、こっちが佐部隆介」
「あ、同じです! 歳は十七歳だけど、学校に行ってたら高校三年生。久保崇史って言います」
久保君は嬉しそうに笑った。なんとなく、自分と雰囲気が似ているなと感じる。身長が低いし顔つきも幼いから年下だと思っていたけど、同い年なのか。そう思うと同時に暗い気持ちになったけど、表情には出さないように気をつけた。
愛田と久保君のやり取りが続く。
「学校、どうですか? 楽しいですか?」
「はい、楽しいですよ! すごく!!」
「部活とか、何かやってますか?」
「演劇部です! 隆介は今は部活やってないんですけど、中学の時は二人で一緒の演劇部入ってたんですよ!」
「演劇部! いいなあ」
心底羨ましそうな「いいなあ」だった。もしかして、そうなんだろうか。
ぼくの表情を察してか偶然か、久保君は「ぼく、学校行ったことないんですよ」と言った。やっぱり──。ずし、と心に何か重いものがのしかかる。
「生まれつき、けっこう重い病気で。普通に治してもらえば割と大丈夫なんですけど、生後すぐに受けた手術が失敗したらしいんです。それで、時々家に帰る以外はずっと病院から出られなくて」
訊いてもないのに言うなよ、と思う。なんて言っていいか分からない。
「あ、でも病院内学級は楽しいんですけど」と言う久保君の姿を見ながら、必死に頭を回転させる。「それは辛いですね」? 「可哀想ですね」? こんな時、なんて言うのが正解なんだろう。ぼくはただ黙って、しかめ面をするしかなかった。
「あ、すみません。初対面なのにこんな話、リアクションに困りますよね」久保くんがおどけた顔をする。「ただ、外のことをあまり知らないってことを言おうとしただけなんですけど。あの、毎日、何が楽しいですか?」
は? と思った。もっとリアクションに困る質問をするなよ。
久保君は車椅子を窓にくっつくほど近づけ、外の景色を見た。
「この景色を見ると、いつも思うんです。外の世界って、めちゃくちゃ広いんだろうなぁって。歩くことだって、焼き肉を食べることだって、カラオケで歌うことだってできる。めちゃくちゃ楽しいんだろうなって、そう思うんです。だから二人は、毎日どんなことしてるのか知りたいんです」
胸が、締め付けられる思いがした。歩くこととか、カラオケに行くことを、この人は一度も経験したことがないのか。どれも当たり前のことじゃないか。どんな人生だよ。
思わず、口を開いた。
「そんな、いいことばかりでもないですよ。勉強ばっかりだし、友達とはうまくいかないし、親も先生もうざいですし。最近、ムシャクシャしてばっかりですから、ぼく」
半分本心ではあったけど、少しでも慰めになっているかは分からなかった。
「そういうものですかね」と久保君が笑うと、愛田が出し抜けに訊いた。
「あの、久保さんは、どんな病気なんですか?」
バカ、と舌打ちしそうになる。そんなデリケートなこと訊くものじゃないし、訊くとしても「訊いていいのか分からないんですけど」みたいな前置きをしろよ!
久保君は、少し考えるような顔をしてぼくたち二人を交互に見た後、「秘密です」と言った。「訊いてもらったのは嬉しいですけど、あんまり人に言いたくない病気なので」
「すみません」愛田の代わりに謝る。
「いえいえ」そう言った後、久保君は「でも」と言った。「でもどうして、病気で苦しまなきゃいけないんでしょうね」
「え」
「病気って、理由はないじゃないですか。たとえば、いじめとか、友達との喧嘩とか、リストラとか、そういった不幸って、大抵は理由がある。その原因が自分になくたって、たとえば加害者の生い立ちに問題があったとか、そういう会社を選んでしまったとか、少なからず『ああ、それが悪かったのか』っていう理由があるじゃないですか。でも、病気は違う。何の原因もきっかけもなく、突然できる。ぼくなんて、生まれつきですよ。何も悪いことなんてやりようがないのに。選ばれた、とでも考えればいいんですかね」
そんなこと言われても、と思った。可哀想だとは思うけど、病気で生まれちゃったんだから仕方ないじゃないか。
「それに、この病気で生まれたって、元気に日常生活を過ごしている人はたくさんいるんです。あの腕のない医者に当たりさえしなければ、ぼくだって、普通に学校に行けていたんですよ」
そこで初めて久保君の声が震えた。泣きそうになっているのが分かった。
「ぼくが一体、何をしたって言うんだろう」
「だから何よ」
突然、愛田が言った。ぼくも久保君も信じられない思いで愛田の顔を見る。
「学校に行けないことが何よ。それくらいで人生諦めるんじゃないわよ」
「それくらい?」
久保君が訊き返す。先ほどと打って変わって、急に目が鋭くなり、声も冷たくなった。
「それくらいよ。たかが病気くらいで、世界一自分が可哀想だと思ったら大間違いよ」
こいつは──。一体どんな神経をしてたらそんなことが言えるんだ? 元気づけてるつもりか知らないけど、傷つけていることが分からないのか?
久保君を見ると、案の定、顔をひどくゆがませていた。そして即座に車いすを回転させる。
「ごめん!」ぼくは慌てて弁解した。「こいつ、バカなんだ。ぼくはそんな風には思わないよ!」
久保君は完全に無視した。車いすでそのまま走り去ってしまう。ぼくは止めることができなかった。
「お前、なんであんなことが言えるわけ!?」
激怒すると、愛田は困惑しつつも強気で反発した。
「だって、病気を理由に人生を諦めてほしくなかったから!」
「だからって、その病気でどれだけ苦しんでいるかも知らないであんなこと言ったら傷つくに決まってんだろ!」
そう言おうと思ったけど、やめた。こんなこと、どうせ言っても分からない。今までの付き合いでもう充分知っている、こいつはそういう奴なんだ。ぼくは舌打ちだけして、思い切りそっぽを向いた。
その時ちょうど、先ほど受付で話した看護師さんが来た。
「木坂さんのご家族が戻られました」
ICUに行く間に、学校で木坂先生に救われた話をしたら、木坂先生の奥さんはとても嬉しそうに聴いてくれた。
愛田が久保君について木坂先生の奥さんに話すと、奥さんは少し悲しそうな顔をした。
「あの子、昨日廊下でおいおい泣いててね。あまりにも泣くものだから看護師さんに訊いてみたら、来週一時帰宅できる筈だったのが、何かの数値が下がって駄目になっちゃったらしいの。家に帰れるの三年ぶりだったみたいよ。だから、参っちゃったんでしょうね」
ゾッとした。三年もこんなところから出られないなんて。気が遠くなる。
ICUの前に着いた。 扉の前で、マスクをつけて消毒をする。奥さんが扉を開けると、ベッドに横になっている木坂先生が目に入った。チューブを何本も繋ぎ、目を閉じている。こんな状態の人を、生で初めて見た。
「先生!」
愛田が真っ先に駆け寄り、木坂先生の手を握る。
「何日で目を覚ますか、全然分からないらしいのよ」木坂先生の奥さんが言った。
「明日かもしれないし、十年後かもしれないし、もし覚ましても後遺症が残るかもしれないって。もうこれ以上何もできないから、後は運を天に任せるだけらしいの」
そんなドラマみたいな状況、本当にあるのかよ。木坂先生の寝顔を見ながら、ぼくは木坂先生と話したときの事を思い出した。あんなキラキラした目をした人が、まぶたを閉じて何日も横たわっているなんて。
それから、あの演劇を思い出す。先生、あれ、分かりにくすぎましたよ。一体何を伝えたかったんですか。印象的だったシーンは一つだけで──
その瞬間、雷に打たれたような衝撃がぼくの体を貫いた。硬直し、動けなくなる。頭の中に、一本のまっすぐな線がピンと通ったかのような感覚に陥った。
──人生ってランダムなんだな。
舞台で愛田が言ったあの台詞が、頭の中でこだまする。観た時はさっぱり意味が分からなかったけど、突如として今、あの台詞の意味が完全に分かった気がした。
そうか、そういうことだったのか。──全部、そうじゃないか。固い表情で目をつぶっている木坂先生を見つめる。それから土井を思い出し、そして。
──選ばれた、とでも言えばいいんですかね。
先ほどの、久保君の言葉を思い出した。
これまで病気のことなんてほとんど考えたことなかったけど、確かにその通りだ。久保君が重病なのは、彼が何か悪いことをしたからじゃない。逆に、ぼくが健康なのは何か良い行いをしたからかと言えば、そんなことも当然ない。
じゃあ──ぼくと久保君の境界線は、一体どこにあるんだろう?
答えは簡単だ。
そんなもの、ない。どこにもない。
久保君は、生まれた時から病気のある体だった。たまたま、そう選ばれたんだ。
逆にぼくは、たまたま、健康な体に生まれたに過ぎない。
つまり、人生はランダムなんだ。何もしていないのに、運が悪いだけで不幸な目に遭うことがあり得るものなんだ。久保君が病気の体で生まれたことだけじゃない。木坂先生が倒れたことも、土井が犯人と誤解されひきこもったのも、全部、ランダムなんだ。
逆に、そういった不幸な目に遭わないことも、ランダムに過ぎない。ぼくだって明日意識不明になるかもしれないし、カッター事件の犯人にだってなりそうだった。それに、クラスが違ったりすれば、土井のようにずっと孤独な想いだってしていたかもしれない。
人生は、自分で選べる部分もあるけど、選べない部分だってたくさんある。ただ単に選ばれただけとしか言えない不幸が、たくさんあるんだ。
自分の立っている床が抜け、どこまでも落ちて行くようだった。
どうやって木坂先生の奥さんと別れたのか、記憶にない。気づくと病院の一階の扉を出ていた。敷地内を歩き、門に向かう。
「愛田、先に帰って」
ぼくが出し抜けに言うと、愛田は予想通り「え、どうして?」と訊き返した。「いいから、帰れって」とぶっきらぼうに言う。もう一度訊き返してきたら怒鳴ってやるつもりだったけど、愛田は意外にも「分かった」と頷き、足早に帰って行った。
愛田が見えなくなってから、力なくトボトボと歩いて行く。病院の出口の門にさしかかったとき、ふと立ち止まった。そういえばあの窓からここが見えたよな、と思い、振り返る。
十階辺りに目を凝らすと、一つだけ人影がある窓があった。視力が良いから分かる、久保君だった。こちらに向かって静かに手を振っている。
ぼくはその久保君の姿を見ながら、金縛りにあったように動けなかった。目と口を開けたまま、硬直する。
どれだけそうしていただろうか、ぼくは手を振らないまま体の向きを変え、フラフラしながら門を抜けた。
翌日の学校で、ぼくは一日中、全く心ここにあらずだった。またかよ、と自分でも思う。けど、今回のは前回より遥かに深刻なダメージだった。
──人生ってランダムなんだな。
この言葉が、四六時中何度も何度も、頭の中で蘇った。
そしてもう一つ、久保君が窓の外の景色を見ながら言った言葉も幾度となくフラッシュバックした。
──この景色を見ると、いつも思うんです。外の世界って、めちゃくちゃ広いんだろうなって。
あの窓から見えた景色は、本当に素晴らしかった。青い空の下に広がる、無数の高層ビルや住宅地。下には、テニスコートでテニスしている人や、病院の中庭で追いかけっこをしている子供もいた。
あの病棟の中にずっといる病人は、あの景色をどんな思いで見ているんだろう。点滴に繋がれ、自分が楽しむことのできない外の世界を、どんな気持ちで眺めているんだろう。外を歩く人を、車に乗っている人を、テニスをしている人を、どれだけ恨めしく思っているだろう。
あの時──門の前で振り返り、久保君と窓越しに目を合わせた時──、ぼくはこの世の残酷さを、これ以上ない形で痛烈に突きつけられた気がした。
ガラス一枚を隔てて、二人が全く違う世界に生きていることを知ったのだ。ぼく達は、性別も年齢も、背丈も雰囲気も同じなのに、ぼくはこちら側にいて、久保君はあちら側にいた。彼は密閉された室内で、動かない足に縛られながら、病院の外へ歩いていこうとするぼくを、外の風を楽しむことも、足が動くことを喜ぶこともしないぼくを、見送った。
──想像してみるんだ。
今神の言葉が頭の中で響く。努力しなくたって、久保君の気持ちは嫌というほど想像できた。自分が、どれだけ惨めだっただろう。ぼくのことが、どれだけ羨ましかっただろう。
──でもどうして、病気で苦しまなきゃいけないんでしょうね。
それは、人生がランダムだから? だったら──この世界は、なんて残酷なんだろう。
火曜日も水曜日も、ずっと魂が抜けていた。友達が話しかけてもほとんど反応しなかったし、授業中もただ席に座ってボーッとしているだけだった。鈴木先生が心配そうな顔で一度注意してきたけど、気にしなかった。
──人の気持ちも、考えてみようよ。
木坂先生の言葉は、虚しく響くだけだった。もう、この言葉を胸に頑張る限界値を遥かに超えている。だいたい、そう言った張本人が意識不明なんだ。あんな素晴らしいことを教えてくれた人が、なぜ意識不明なんかにならなきゃいけないんだ? そんな残酷な世界で頑張らなければいけない理由が、ぼくには分からない。
木曜日、学校に向かう電車の中で、ふと、学校をサボッてしまおうか、と思った。ほとんど何の躊躇いもなく、渋谷で電車を降りる。
行く当てもなく、適当に地上を歩いた。無数の人とすれ違う。生真面目そうなサラリーマン、頭の悪そうなギャル、ぶつかったらケンカを吹っかけて来そうなチンピラ、汚いホームレス、選挙演説をしている政治家、殺したいほどのブス、ラブホに入って行くカップル、宗教勧誘をしているおばさん……。
ランダムばっかりだ、と思った。考えてみれば、世の中、ランダムだらけじゃないか。
学校をサボッたらもっと混乱し虚しくなるだけだと分かったぼくは、翌日は真面目に学校に行った。
朝のHRで、今日から期末試験一週間前だと鈴木先生が言った。こんな気分でどうやって勉強すりゃいいんだよ。最悪だ。
HRが終わると、一時間目は世界史なのにみんながぞろぞろと教室を出始めた。一瞬遅れて、そうか、と思い出す。先週の授業で、次回はビデオを見るから視聴覚室に集まるようにと三浦先生が言ってたんだった。三浦先生は「せっかくの世界史をただ教科書で学ぶだけじゃ面白くないだろ」と言って、たまにそうやってビデオを見せてくれる。
重い内容だったらどうしよう、というぼくの不安は的中した。スクリーンに「ベトナム戦争の悲劇」というタイトルが映し出されていたからだ。確かに最近はここら辺がテーマだったけど、マジかよ。
「今日は、戦争の悲惨さがよく分かるビデオを見ます」
みんなが席に座ると、三浦先生はめちゃくちゃ真剣な口調で言った。ギャグばかり言う普段とのギャップに、みんなも即座に会話をやめ、真面目な顔になる。
「かなり残酷な描写もあるから、それが嫌な人は目をつぶっても耳を塞いでもいい。ただ、この世界で本当に起こったことだから、できればきちんと向き合って欲しいと思っています」
空気が張り詰めるのが分かる。ああ、くそ、なんでよりによって今、そんな重いビデオを見せるんだよ。
照明が落ち、動画が始まった。
三浦先生が言ったように、それは本当に凄惨な動画だった。爆弾を空から落としたりするような遠くからの描写だけでなく、血まみれで倒れている兵士や死んだ赤ちゃんを抱きかかえ走る母親などの姿が、その表情とともに克明に写されていた。
ずきん、と、胸に痛みが走るのが分かった。肺のあたりを針で刺されているかのような鋭い感覚に襲われる。
こういう動画を、これまで見たことがないわけじゃなかった。三浦先生の授業でも半年前に第二次世界大戦の動画を見たし、ネットやテレビでだって、戦争の残酷な描写に触れる機会はそれなりにあった。修学旅行で特攻隊の記念館に行ったこともある。だけど、ほとんど胸の痛みを感じたことはなかった。
何故? 人が死ぬ動画や写真を見ても、どうして心が動かなかった?
そんなの、決まってる。関係がないからだ。
別に「もう昔のことだから」ってわけじゃない。戦争が現実にもどこかで起きていることは知っている。だけど、日本にはない。どこか遠くの人たちがいくら死んだって、ぼくには関係がないじゃないか。
「可哀想だな」とは思う。それに、「戦争が無くなればいいのにな」とも。だけど、どうやら戦争っていうのは無くならないらしい。なんで殺し合いなんてやるのかなんてさっぱり理解できないけど、人類は誕生してからずっと戦争を繰り返していて、人間が存在する以上どうしても起こるものだって、色んな人が言っている。
だったら、それを過剰に心配したって意味がないじゃないか。戦争が起こるのは仕方ないし、日本は安全なんだし。だいたい、ぼくは勉強や恋愛で忙しいんだ。そんな遠くの人のことまで憂いている余裕はない。
そう、思っていた。いや、こんなにしっかり言語化はしていなかったけど、今考えると、たぶんこんな風に思っていたんだろう。戦争だけじゃない、貧困とか難民とかサイクロンとかテロとか、色んな問題で途上国の人が辛い目に遭っているのを見ても、同じように感じていた。この前の、右手を切り落とされた子供の写真を見たときも、そうだった。
だけど──。今は、違う。今は、これまでのように割り切った感じ方をすることは、どうもできなかった。それは、
──人生ってランダムなんだな。
もう、この言葉について考えるようになってしまっていたからだ。
戦争で死ぬ人を見ても「関係がない」と思えたのは、「自分はこの人とは違う」と思うことができていたからだ。だけど、人生はランダムだと気づいてしまった。
今また、動画の中でベトナム兵が狙撃されて死亡した。この人がこんな死に方をしたのは、ランダムに過ぎないじゃないか。悪いことをしたせいじゃない。たまたまこの時代のこの国に生まれて、たまたま銃弾が当たってしまったからだ。ぼくがこの人と同じ立場にならなかった保証は、どこにもない。
そうだよ、日本だけじゃないじゃないか。なぜ、土井の苦しみはあんなに想像していたくせに、木坂先生や久保君にはあれほど感情移入したくせに、外国の人のことは関係ないと思ってしまったんだろう。遠く離れたところにいるから? 肌の色や話す言葉が違うために、差別意識なんてなくても、自分や周りの人とは違うと区別していたから?
でも、そんなことないじゃないか。離れてたって、人種が違くたって、ぼくや、タツヤや、ユウや、愛田や、今神や、高藤さんや、鈴木先生や、お母さんと同じ、感情を持った人間じゃないか。夢や、大切な人や、過去がある、一人ひとりの人間じゃないか。ぼくたちと何も違わないじゃないか……。
ふと、周りを見てみた。ほとんどみんな、真剣な表情をしている。何人かは澄ましている様子を気取っていたり、つまらなそうに見たりしている人もいたけど、ほとんどの人は少なからず悲しんでいるように見えた。
顔を上げ、もう一度スクリーンの動画を見る。本当は見たくなかった。目を閉じ、耳を塞いでしまいたい。それでも、見ることが責務のように思えた。
何人もの子供が、おそらく爆撃から逃げるために道路を走っている。まだ十歳にも満たない子供達だ。その中の一人、八歳ぐらいの女の子の姿に、ぼくは目を疑った。裸なのだ。全身に火傷を負ったまま、全裸で泣き叫びながら走っている。
涙が溢れた。心臓がぐちゃぐちゃに押しつぶされ、窒息してしまいそうだ。
こんな小さな女の子が、どうしてこんな目に遭わなければいけないんだ? どうして?
悲しみと疑問で、頭が回らない。
その女の子を正面から写したところで動画が静止画、つまり写真になり、「この写真は雑誌に掲載され、世界中の人々に戦争の悲惨さを訴えました」とナレーションが説明した。
もうしばらくして映像が終わると、少しの間を空けてから電気が点けられた。みんな、無言で固まっている。
「これが、戦争の愚かさと悲惨さです」
三浦先生は、重苦しい表情でぼく達に語りかけた。
「でも、戦争は過去のものではありません。現在も世界各地で紛争や内戦が起こり、毎日人が死んでいます。そうした悲劇を少しでも減らす為には、私たち一人一人が、今見た戦争の辛さを忘れないことが大事なんだと思います。知ることが第一歩だと思って、この動画を見せました。どうか一人ひとり、自分の胸の中で考えてみてください」
先生の言葉がみんなに染み入るのを感じた。と、急に「先生」と誰かが立ち上がって叫んだ。みんなが一斉に振り返る。
やっぱり、愛田優希だった。涙でぐしょぐしょに顔を濡らしている。そして、先生を真っ直ぐに見て言った。
「世界を、変えることはできますか?」
視聴覚室に、静寂が響き渡った。動く者も声を上げる者もいない。
は? と思った。 何を言ってるんだ? 木坂先生も似たことを言っていたけど、あれは表現か何かの筈だ。でも愛田の場合は、比喩なんかじゃない、本気だ。正真正銘、文字通り、世界を変えられるかと訊いている。戦争の無い世界にできるかと問いている。
黙ってまばたきをする三浦先生に向かって、愛田は目を真っ赤に泣き腫らしながら、それでもやはり真っ直ぐ先生を見て、もう一度訊いた。
「世界を変えることはできないんですか?」
三浦先生はポカンと口を開け、狼狽していた。しかしその後、一瞬だけ目を逸らし、すぐに笑顔を作ってから、愛田の方を見つめ返して答えた。
「できますよ」
え、と思った。まじまじと三浦先生を見つめる。
「私たち一人一人がそれを望めば、きっと世界は変えられます」
笑顔で、そう言い切った。
信じられなかった。教師がこんな白々しい解答をするなんて。
そりゃ、ぼくだって今の映像には本当に心を揺さぶられた。泣き叫ぶ人や死体を見て心から可哀想だと思ったし、確かに、世界が変わってくれないかなとも思いはした。
でもそんなのは、「空が飛べたらな」とか「過去に戻れたらな」と同じ類いの、叶わぬ願いだと理解した上で思ったことだ。「世界が変わるといいな」とセットで「まあ無理だけど」がついていた。
だって、ニュースを見ていれば簡単に分かるじゃないか。アフリカでは紛争で毎日人が死んでいるし、シリアの難民は増え続ける一方だし、ISとかいう組織がテロまで起こしている。
じゃあ誰も平和を望んでいないかと言えば、そんなことはないことも知っている。どの国の代表も口では平和を謳っているし、国際連合が難民への支援をしているし、テロが起きれば追悼式が開かれ、大勢の人が涙を流す。
そう、平和を望んだり、そのために行動している人はたくさんいる。それでも、世界はちっとも変わっていない。何故か? それはたぶん、そういうものだからだ。どれだけ人々が平和を望んでいたって、世界は変わらない。
そんなことぼくだって知っているのに、世界史の先生である三浦先生が分からない筈ない。なんでそんな嘘をつくわけ? 愛田がかわいそうだから? 愛田を騙せても、他の人は誰も騙されませんよ。
愛田がしゃくりあげた。
「私、何をすればいいでしょうか?」
三浦先生が考えるような顔をする。少ししてから、「勉強することです」と言った。「一生懸命、勉強することです。そうすれば、世界はきっと良くなります」
また、勉強だ。一体、何の勉強をすると言うんだ。学校の勉強か? だから、取り違えてるんだって。
「分かりました!」愛田が必死に叫んだ。「私、もっともっと勉強します! いっぱい勉強して、戦争の無い世の中にします! 絶対に!!」
呆れるしかなかった。なんて単純な馬鹿なんだ。
クラスメイトの顔を見る。動画を見ている時には真剣な表情をしていた人たちも含めて、みんな一様に呆れていた。
放課後、今神の家に行こうか、と思った。木坂先生に救われた後は週に一度だけに控えていたけど、今週は病院でのショックが強すぎてまだ行っていない。
行ってもいいかメールで尋ねると、「十七時半までなら」と返信が来た。今から行ったら三十分ぐらいしか話ができない。ちょうど大雨が降り始めていたし迷ったけど、もうこの色々な思いを誰かに吐き出さなければ耐えられないと思った。
チャイムを押すと、作業着姿の今神が出迎えた。
「え、やっぱりアルバイトなの? 大雨だよ?」
部屋に入りながら訊く。靴下がびしょびしょで、畳を濡らしてしまうのが申し訳なかった。
「仕方ないだろ、シフトなんだから」今神が戸棚の方に向かいながらそっけなく言った。「で、話って何だ?」
「世界なんてさ、変わらないよね」
椅子に腰掛けながら尋ねると、今神は戸棚に伸ばした手を一瞬ピタッと止めた。それからすぐ戸を開け、タオルを取り出す。
「そうだな。変わるわけがない」戸を閉めながら答え、タオルをぼくに手渡した。それから、ぼくの前の椅子に──ぼくの訪問が続くので二週間前に購入したものだ──腰掛ける。
「だよね。でもこの前、木坂先生も似たようなこと言ってたんだ」
「どんな風に?」
「『ぼくは、演劇で世界を変えたいと思っている』って。あのときは比喩とかかと思ったんだけどさ、愛田のあれを聞いちゃうと、もしかしたら本気だったんじゃないかって思わないでもないんだよね」
「木坂先生が本気なのかどうかは知らないが、いずれにしろ無理だな。どんな方法でも世界は変えられないし、まして演劇ではもっと無理だ」
「ぼくもそう思うけど……なんで今神はそう思うの?」
「日本を代表する映画監督の、こんな逸話がある」今神は言いながら少しだけ目を細めた。「ある暴力映画に対してのインタビューで、『あなたの暴力的な映画が世の中に悪影響を与えているとは思わないのですか?』と訊かれた時、その監督はこう答えたそうだ。『世の中には愛の映画が溢れているけど、世界は平和になったかい? もし映画にそんな影響力があるなら、世界中から戦争なんて無くなって愛に溢れている筈だろ?』とね」
なんて話をするんだ。ぐさり、とその監督の言葉が胸に突き刺さる。
今神は容赦なく続けた。
「物語が何かを変えると思っている人は割といる。特に創作者側にはな、自分の物語で世界が良くなると信じている人が少なくないんだ。だが、そんなのはただの希望的観測だよ。学校の勉強と同じさ。『そう思いたいだけ』なんだ。たとえば、ハリーポッターがあるだろ」
うんと頷く。ぼくはその作品を良く知っていた。本も映画も全作見ている。顔を上げて見渡し、今神の本棚に置いてあるハリーポッター全巻を見つめた。
「ハリーポッターでは一貫して、愛や正義の強さについて書かれているよな。他にも、差別や、権力の暴走や、メディアの危険性など、様々なテーマを痛烈に批判したりもしているだろ」
確かに、そうだ。児童書でファンタジーなのに、やたらそういったテーマが書かれていた。
「作者のJ.K.ローリングは、世界の平和を願っていたんだ。貧しい生まれや辛い境遇だった上、小説家としてデビューする前には国際人権NGOで働く経験もしてきた彼女は、世界を良くしたいという熱い思いを持っていた。だから小説家としてデビューした時、戦争の悲惨さや愚かさ、そして愛や正義の強さを作品の中で書くことで、世界を変えようとしていたんだ。慈善団体へ何十億という多額の寄付を継続的にしていることが、彼女の願いが本物であることを証明している」
そこまでかよ、と思った。どっかの孤児団体に寄付したというニュースを一度見たことがあったけど、気まぐれとか、名声欲しさにやっている程度かと思っていた。
「ハリーポッターは、世界的に空前のヒットを記録した。全世界で四億部売れたんだ。で、どうだ? それで世界は変わっただろうか?」
何も言えなかった。そんなの、火を見るより明らかだ。
今神は、悲しい目をしていた。
「作品はとっくに完結したのに、未だに戦争は残っている。差別は蔓延り、国のトップは横暴を奮い、メディアは腐っている。世界で一番ヒットした物語でさえ世界を変えられなかったんだ。さっき言った監督の言葉を俺が知ったのは中学生の時なんだが、ハリーポッターの事を思い出し、残念ながらその通りだなと思った。物語に影響力なんか全く無いんだとな」
ぼくは唇を噛むことしかできなかった。絶望の影が心に落ちる。そこで今神が「だが」と言った。「だが少しして、俺はその監督の言ったことは極論なのではないかと思い直した。何故か分かるか?」
首を横に振ると、今神は「やっぱりバカだな」とでも言いたげな顔をした。
「よく考えてみて、俺はこう思ったんだ。『戦争や差別を全て無くすのは不可能でも、少しは世の中が良くなっているのではないか』とな。ハリーポッターという物語に触れることで、人を愛そうと思ったり差別をしていた自分を恥じたりした人は大勢いる筈で、それによってきっと争いや差別などが少しでも減っているだろうから、全く影響力が無いというのは言い過ぎだ、と思ったんだ」
なるほど。確かにその通りだ。
「だが、また少しして俺は、やはりその監督の言ったことは結果的に正しかったのだと思い知らされることになった。その時は何度もあったが、決定的だったのは──『三年B組 金八先生』を観た時だ。佐部は、あのドラマを観たことはあるか?」
まさかのタイトルに意表を突かれる。
「小学生の時に最終回を観ただけだけど……暑苦しい先生だな、くらいの印象しかなかったかな」
「やはりな。今の世代の子供達にはそういう印象があるだろう」
お前も同世代だろ、というツッコミを心の中だけでして、今神の話の続きに大人しく耳を傾ける。
「だが、あれは本当は非常に複雑にできたドラマなんだ。学校で起こる様々な問題をリアルに取り上げ、それに対し教師や親や学校はどう在るべきか、あらゆる視点から延々と議論がされている。なのに何故、あのドラマで取り上げた問題が、今もありふれているれているのだろう」
ああ、と心が暗くなる。もう、言いたいことが分かってしまった。
「教師は生徒の目線に立たないし、親は子供を理解しない。受験教育も学校のシステムも旧態依然としている。これはあんまりじゃないか? 『金八先生』は、三十二年間、ほとんどずっと高視聴率で放送されたドラマなんだぞ。日本中の人が観たのに、あらゆる世代に届けられたのに、日本は驚くほど変わっていない。僅かには変わっている人や部分もあるだろうが、あれだけのクオリティと流行を鑑みれば、あまりにも結果が小さすぎるだろう。だから俺は確信したんだ。あの映画監督の言ったように、物語に影響力は、全くと言ってよいほど無いのだと」
頷くしかない。もう充分だ。なのに、今神はとどめを刺すように続けた。
「だが創作家は、そういう現実を直視しない。自分の作品が“きっと”世界を変えると思って、作品に打ち込んでいる。だけど、少し顔を上げて現実を見れば、それがいかに幻想であるかなんて簡単に分かるんだ。木坂先生には悪いが、くだらないと言わざるを得ないよ。どんな物語を創っても、世界全体どころかその一部さえ、変えることはできないんだ」
部屋がしんとなる。分かっていたことではあったけど、ここまでダメ押しされては辛かった。
今神は細めていた目を元の大きさに戻した。
「他に、何か訊きたいことや話したいことはあるか?」
「いや、大丈夫」
「そうか。じゃ、行ってくる。早く着くに超したことはないからな」
こんな雨の中大変だなと思いながら立ち上がろうとすると、今神はサッと手をかざして制した。
「帰らなくていい。あと数時間したら雨が止むらしいから、もうしばらくいて漫画でも読んでろよ」
「え? なんでよ。ぼく、何か盗るかもしれないじゃん。アルバイトで稼いだお金を引出しに入れるの見てるし」
「いや、お前は信用できる。鍵は玄関に掛けてあるから」
抑揚なく言って玄関の方へ向かう今神の背中を見ながら、不思議な気持ちになった。無情に見える今神が、ぼくを信頼してくれているのか。「ありがとう」と言ったけど、小声になってしまった。
「帰りはかなり遅くなるから、雨が止んだら適当に帰れよ。鍵はポストの中に入れておいてくれ」
そう言って、今神が素早く家を出る。
ガランとした部屋に一人残され、ふうと息を吐いた。
さて、何の漫画を読もうか。左の部屋に入りじっくり本棚を眺めてみると、なんとなく目についたものがあった。「金色のガッシュ!!」だ。
千年に一度行われる「魔界の王を決める戦い」に参加するため、魔界にいる百人の魔物の子が人間界に降りてきてバトルを繰り広げるという少年漫画だ。
ぼくが小学三年生の時に完結した昔の作品だけど、中学生の時に漫画喫茶で全巻を一気読みしたことがある。弱くて泣き虫だった主人公ガッシュが仲間と協力して戦いを勝ち進み、見事に王になる過程は本当に熱く、感動の連続だった。
そういえば、と思い、一巻から五巻までを手に取る。確か最初の方だったよな。一巻の後ろの方からパラパラとページをめくって行くと、二巻の最後に目当ての話があった。
コルルという魔物の話を、久しぶりに読み返す。コルルは、人形や花と戯れるのが大好きなごく普通の魔物の女の子だ。けれど、誰が仕組んだのか分からない「魔界の王を決める戦い」では必ず全員が戦わなければならず、戦う意志のないコルルには凶暴な人格が植え付けられていた。
コルルはあるきっかけで凶暴化し、周りの人を襲って傷つけてしまう。ガッシュも攻撃されるが、元々のやさしい人格のコルルと一緒に遊んだことのあるガッシュは絶対に反撃をしない。やがてコルルは元の人格に戻るのだけど、すぐに自分がやってしまったことを悔やみ、泣きながらガッシュにこう言うのだ。
「やさしい王様がいてくれたら……こんなつらい戦いは、しなくてよかったのかな……?」
ガッシュは涙を流しながらうなずき、この戦いに必ず勝ち残って「やさしい王様」になると決意する。その後ガッシュはどんな強敵に出会っても一切ブレないこの思いを胸に戦って行くという、そのきっかけとなる話だった。
いつの間にか、涙を流して読んでいた。ここは誰もが感動するシーンだし中学生の時も普通に泣いたのだけど、今日はことさら心に響くものがあった。コルルが、まさにあのベトナム戦争の裸の少女と重なったからだ。
──やさしい王様がいてくれたら、こんなつらい戦いはしなくて良かったのかな?
あの少女が、そう言っているように思った。確かに、そうかもしれない。心の優しい人が国を統治していれば、あんな悲惨なことは起こらないだろう。
“やさしい王様”か──。ぞわっと鳥肌が立つのを感じる。なんてバカな夢だろう。こんなにバカで、素晴らしい夢が他にあるだろうか。これを、大人が描いたんだよな。J.K.ローリングのように、この作品で世界を平和にしたいと思ったのかもしれない。
毎日テレビに出ている、今のアメリカ大統領の顔を思い出した。政治のことは全然詳しく知らないけど、悪い評判ばかり聞く。難民を見捨てたり、人種差別的な発言をしたり、核弾頭を増やしたり、やりたい放題だ。少なくとも、優しくない事は確かだと思った。
──どんな物語を創っても、世界全体どころかその一部さえ、変えることはできないんだ。
今神の暗い声が、頭の中で虚しく響いた。
心がひどく荒んだせいで、ぼくの日常はものすごい勢いで崩壊していった。家では親に反抗し、学校でも授業中は放心状態、休み時間は友達を避けた。
荒み方の種類としては、土井や勉強のことで悩んでいたときと似ていると思う。つまり、みんなのことが理解できないのだ。そして、そのレベルはあの時の比じゃなかった。
あのベトナム戦争の動画を見た後、教室に戻ると、みんないつも通りのくだらない会話をして笑っていた。あんな凄惨なものを見た直後にどうしてそんなにすぐ日常に戻れるのか、さっぱり意味が分からなかった。高藤さんの「みんなも本当は悲しんでるよ」とかいう言葉をあの時はうっかり信じてしまったけど、やっぱりそんな風には思えなくなってきた。どいつもこいつも、想像力がなくて他人の痛みを自分の痛みのように思えないから平気なんだ。土井のことだって、もし誰か本当に気にしているなら何かすればいいじゃないか。やっぱり、あいつのことは誰も考えちゃいないんだ。
それに、期末試験前でほとんど誰もが勉強に熱心になっているにも関わらず、やっぱり勉強する意味もまた分からなくなった。外国では爆弾が飛び交って毎日人が死んでいるのに、温室でくだらない勉強してる場合か? 三浦先生、何が「勉強すれば世界は変えられる」だよ。こんな無機質な勉強と戦争を無くすことがどう結びつくわけ? ていうか、クラスのみんなもよくのうのうと勉強できるな。この勉強が何の役に立つかってちょっとは疑問に思わないのか? もっと自分の頭で考えろよ。
怒りはまだまだあった。鈴木先生は「土井の心の準備が整うまで」とか言ってたけど、いつまで待つつもりなんだ? ただ逃げ口上としてそう言っているだけだろ。
お母さんは頭ごなしにぼくを叱るだけじゃなくて、ちょっとはぼくの気持ちを聞いてみたらどうなんだ? ぼくが親だったら絶対にそうする。
カッター事件の犯人は誰なんだ? 再発してからまた二件も起きてるけど、とっとと自首をしろよ。そもそも土井が学校に来れなくなったのはお前のせいなんだぞ。ストレスでやむなくだったらアレだけど、もし遊び半分だったら絶対許さない。
テレビで歯切れの悪い討論してるばっかりしてる政治家は、一体いつ日本を良くするんだ? 街で募金を呼びかける人たちはもう少しマシな宣伝ができないのか? 高藤さんはいつぼくを好きになってセックスしてくれるんだ? 木坂先生はぼくがこんな大変な時にいつまで寝ているつもりなんだ? ぼくの体はどうして思い通りに動いてしまうんだ?
今にも胸の辺りが燃えてしまうのではないかと思うほど、ぼくはやり場のない怒りと疑問を一人で抱えていた。四六時中イライラし、怒鳴り散らしたい衝動に駆られたり、かと思えば急に泣き出しそうになったりした。何もかもが分からなかった。
「なあ、隆介」
帰りのHRが終わっていつも通り一目散に帰ろうとすると、ユウがぼくの席に来て呼びかけた。斜め後ろにタツヤも引き連れ、二人して真剣な表情でぼくを見る。二人と最後に話したのはいつだったっけ?
ユウがぼくの机の淵を軽く掴んだ。
「お前さ、いい加減にしろよ」
「何が?」
イライラを露骨に出し、そっけなく訊いた。めちゃくちゃ感じ悪いヤツだな、と自分で思った。
「何がじゃねえよ」ユウが訴えるように言った。眉間にしわをよせる。「何があったか知らないけど、最近ずっと辛そうじゃねえか。隆介が自分から言わないなら俺たちも余計な詮索はしないでおこうと思ってこれまで敢えてそっとしておいたけど、お前、どんどん悪くなる一方じゃん。いい加減、辛いことあったら俺たちに話してくれよ」
「そうだよ」とタツヤも調子を合わせる。「ユウだけだったらつまんねーよ。やっぱ三人いなきゃ」
不意打ちだった。キョトンとして二人を見つめる。ここ数日の感じの悪さに文句を言ってくるのかと思ったけど、どうしてそんなことを言ってくれるんだろう。急に、さっきの自分の返答が恥ずかしくなる。暗闇ばかりの心に、久しぶりに一筋の光が差し込んだような気がした。
だけど、やっぱり話すことはできないな、と思った。ぼくの悩みは、二人が想像しているものよりもずっと複雑で難しいものだからだ。土井の孤独や勉強の意味や、久保くんのこと、人生はランダムだとかいう話なんかしても、二人には到底理解できないだろう。
それに、仮に理解できたらできたで、二人にぼくと同じ様な辛い思いをさせることになる。二人がやっぱり友達だと今改めて思ったからこそ、そんな重荷は背負わせたくはなかった。
ぼくは薄く笑った。
「ごめん。でも、いいよ。二人の迷惑になるだけだし」
そう言って立ち上がろうとすると、ユウがぼくの机をバン! と思い切り叩いた。目をカッと見開き、ぼくを正面から睨む。怖いけど、それだけじゃない。その目には思いやりの光が宿っていた。
「なんだよ、迷惑って。こっちの気持ちも少しは考えろよ。友達がずっと、一人で悩んで、日に日に荒れてくんだぞ。そんなの見てる方も辛いじゃねえか。もうとっくに迷惑かけてんだから、俺たちに話せってば」
「そうだよ」とタツヤがおどけた口調で乗っかる。「漫画でもよく言われてるだろ。友達は助け合おうってさ」
「でも」
「でもじゃねえって」ユウが唾を飛ばした。「じゃあ逆にさ、俺が何か困っててお前に相談したらさ、それをお前は、迷惑だって思うのかよ」
ハッとした。そんなこと、思うわけない。逆に、自分を信用して頼ってくれたことを、嬉しいと思うと思う。なのにどうして、自分が困っている時は迷惑になると思ってしまっていたんだろう。
悩んでいる人も辛いけど、その友達をただ見ることしかできない立場っていうのも辛いんだ。そんなこと、考えたこともなかった。
心の氷が急速に溶けていくのを感じ、ぼくは自然と微笑んだ。
「ありがとう」
教室には他の人もいたので、屋上の方に行っていつもの階段に並んで腰掛けた。
二人にこれまでのことを順番に話して聞かせた。土井のことからあのベトナム戦争の少女のことまでを話すにはかなりの時間が必要で、十五分ぐらい延々と語らなければならなかった。
二人の反応はそれぞれ予想外のものだった。タツヤは途中から集中力を無くし、全然違うところを見たり手をもじもじさせたりし始め、せっかく気持ちを打ち明けているのになんだよ、とぼくを不快にさせた。ユウはずっと真剣に聴いてくれていたけど、表情がだんだん暗くなっていった。重い話だからそれだけ感情移入してくれているのかと思ったけど、悲しんでいるというより怒っているように見え、ぼくは気が気じゃなかった。
「ていう感じ。長くなってごめん」
二人はなんと言うだろうか、と緊張する。もし変なことを言われたら傷つくな。そう思っていると、タツヤが言った。
「ほんと、なげえよ」
え。
耳を疑った。口調は軽かったけど、イライラした表情で続ける。
「せいぜい五分ぐらいかなと思ったら、延々と続くんだもんよ。俺、そんな長い話聴けないんだよなー。後半なんか難しかったし、よく分かんなかったわ」
絶句した。お前は、何を聞いていたんだ? 想像力とか戦争のことについて真面目に話したんだぞ? どうしてそんな適当なリアクションができるんだ?
「ゆ、ユウは?」
タツヤを見限ってユウに振ると、ユウはさっきから組んでいた腕を解かずに、しかめ面のまま言った。
「長いっつうか、いや、長くはあったんだけど、そんなことはどうでもよくてさ。なんか、そんな風に思ってたんだって思って、がっかりした」
「え?」
またもや、別の意味で耳を疑った。がっかり? 何で?
ユウは言葉を選ぶようにゆっくりと話した。
「土井のことは驚いたよ。土井、そんな風に悩んでたんだなって分かったし、俺も何かしてやりゃ良かったなって思った。だけど黙って聞いてりゃ、みんなは無関心って決めつけてさ。あと、勉強の意味について誰も考えてないとか。病気の人の話とかは俺も気の毒になったけど、冒頭の隆介の傲慢さの印象が強すぎて、それどころじゃなかったよ」
「え? ちょっと、傲慢って」うまく言葉にならない。何をどう聴いたらそうなるんだ。
「だから、お前は、俺たちが可哀想な土井の気持ちをちっとも想像できない冷酷な人間だと思ってるんだろ? でもさ、俺たちはお前と違ってあいつの涙なんて見なかったし、犯人だと思ってたんだから仕方ないじゃん。ていうか、犯人じゃなかったら、犯人なのかって鈴木先生に訊かれた時、なんであいつ認めたんだよ」
「それは」思わず口ごもる。間髪入れずにユウが続けた。
「それ見たから、俺たちは疑いもしなかったんだろ。なのに人でなしみたいに思うなよ」
「じゃあ、事件が起こる前は?」ぼくは反論した。「あいつ、よく不登校になる時期あっただろ。一番長いときは一ヶ月も学校に来なかった。あのときは犯人とか関係なかったのに、なんで心配しなかったんだよ」
「それは」今度はユウが口ごもる。
「関係なかったからでしょ。それと、めんどくさかった。ぼく自身がそうだったからよく分かるよ。だけど、ぼくは自分のその冷たさに気がついて反省してる。でも、みんなはいつまでも能天気だから、嫌だなって思ってるんだ」
ユウは少しバツの悪そうな顔をしてから、すぐにムッとした表情になった。
「じゃあ、それは俺たちが悪かったよ。確かに冷たかった。でもそれにしたって、隆介は自分が偉いと思い過ぎだよ。お前はさ、俺たちがみんな、土井の気持ちが想像できなくて、勉強もわけもわからずやってるバカだって思ってるんだろ。そんで自分は、周りにいる他の誰よりも、感性が鋭くて、繊細で、感受性が豊かで、こんな現代では生きていき辛いとか、どうせそんな風に思ってるんだろ?」
「そんなこと誰も言ってねえだろ!」プチンと何かが切れ、反射的に怒鳴った。
「言ってなくても思ってんだよ!」ユウがぼくに負けない迫力で言い返す。「少なくとも、こっちにはそう伝わったんだよ。何が、みんな勉強する意味が分かってないだよ。確かにお前ほど深くは考えてないけどさ、結局やらなきゃしょうがないじゃん。お前は色々理屈こねて勉強を放棄してるだけじゃないの? たとえ考えが足らなくたって、受験勉強してる俺や、授業を真面目に受けてるタツヤの方がマシだと思うよ。だって、努力してるんだから」
すう、と一瞬だけ息継ぎをしてさらに続ける。
「それに、俺たちにだって悩みや葛藤は人並みにあるんだぜ? 勉強が辛かったり親がウザかったり、将来が不安だったりさ。それでもみんなそういう辛さ隠して、嫌いな人もいっぱいいるけど笑顔ふりまいて、日常を一生懸命生きてるんじゃん。日常を送るのって、簡単なようでけっこう大変なんだよ。お前からしたら平凡でくだらなく見えるかもしれないけどな、俺たちだって必死に毎日を頑張ってるんだって」
それからユウは、ぼくから視線を外してタツヤを見た。「お前はそういうこと、思わなかったか?」
いつの間にかユウの表情に似てきていたタツヤが、「いや、俺バカだからそんな難しいこと考えてなかったけど」と頭を掻く。「でも、聞いてる内になんか嫌だなーとは感じてたんだよね。だから途中から聞く気なくしたってのもあるんだけど。だけど、ユウが今言ったこと聞いて、あぁ確かにそういうことだわって思ったかも」
ぼくは愕然とした。なんだよ、ふざけんなよ。ぼくはただ、辛い境遇の人のことを一生懸命想像したり、世界のことを本気で憂いていただけなのに。
タツヤはぼくを励ますように笑った。
「まぁ、隆介、あれだよ。お前が変になっちゃったのは、今神のせいなんだよな」
は? と思った。
「今神がお前に変なこと色々吹き込んだからだよ、絶対。あいつ、頭おかしーもん」
「いや、今神は悪くないって。あいつは本当は……」
「俺さ、あいつ嫌いなんだよな。いっつも教室の隅っこで偉そうに本読んで、それこそ俺たちを見下しているような目してさ。頭はめちゃくちゃいいけど、ただお高く止まってるだけじゃん」
言い返そうとして、一瞬言葉に詰まる。その隙にタツヤは止めをさした。
「だからさ、今神となんてもう縁切れって。あいつ、一人じゃ暇だから、扱いやすそうな隆介をムダに悩ませて遊んでんだよ、絶対」
今度こそブチ切れた。思いっきり舌打ちをする。
「なんなんだよ、お前ら。お前らが訊くからこっちは勇気出して思いを打ち明けたのにさ、ふざけんなよ」
「はあ?」今度はタツヤもキレた。「なんだよ、こっちだって長い話聞いてやって、アドバイスまでしてやったのにさぁ。その言い方はねーだろ」
「あのな」とユウがさらに畳み掛ける。「俺たちだって、お前が、親とうまくいってないとか勉強が辛いとかいうことで悩んでたんだったら、気持ち受け止めたり励ましたりしようと思ってたんだよ。こんな話だと思わねーからさ、普通。こんなに見下されてたら、文句も言いたくなるだろ」
「見下してないって!」
「だからお前の考えは聞いてないっつってんだろ! こっちが見下されてると感じたら、お前は見下してんだよ。無意識だとしてもな」一瞬だけ間を開けてから、吐き捨てるように続ける。「お前、何様なんだよ」
ユウはしばらく黙ってぼくを睨みつけてから、もう行こうぜ、とタツヤに言って立ち上がった。恐ろしく冷たい響きだった。無言で階段を降りて行く。
タツヤはユウの行く先とぼくを戸惑うように交互に見てから、ぼくの方を見て言った。
「隆介、なんかコエーよ」
立ち上がり、ユウを追いかけてすぐに見えなくなる。
ぼくはただ一人、埃まみれの階段に取り残された。
悲劇は連続で起こるらしい。翌日、齋藤先生の英語の時間のことだった。
昨日の出来事にあまりにも腹を立て過ぎてさらに授業を受ける気になれず、教科書を閉じて「授業聞いてません」ポーズをしていたぼくは、当然ながら齋藤先生に注意された。
「佐部くん、英語やる気あるの?」
「ないです」睨みながら即答した。
「それなら、この教室にいる必要はありません。出て行きなさい」
数秒、互いににらみ合う。クラスメイトが、半分は囃し立て、もう半分は固唾を飲んで見守った。
もうヤケだ。何もかもどうでも良かった。
「分かりました」
ぼくは言って、教室を飛び出した。
廊下を歩いて、階段を降りる。少し後悔した。こんな注目を浴びるのは苦手なのに、流石にやりすぎた……。
どこに行こうか、と考えていると、ダンダンダンと足音が聞こえた。一組の方からもの凄い勢いでこちらに近づいてくる。齋藤先生か? と思うが否や、人影が現れた。
愛田だった。まさかと思う時は、いつもこいつだ。
愛田は肩で息をしながら、ぼくをキッとにらみつけて叫んだ。
「教室に戻りなさい!」
先生か、お前は。
「うるせえな」と答えようとして、ふと、この際思い切り傷つけてやろうという気になった。
「お前さ……どうしてぼくがお前のことをずっと嫌ってるか、教えてやろうか」
低い声で言うと、愛田は一瞬ひるんだような顔をしてから、「ええ、教えてちょうだい」と強気で答えた。
「お前が、人の気持ちを考えてないからだよ」
やっと言えた。ずっと言いたかったことを。
「人のために何かしようとしてるのは分かるけどさ、逆効果ばっかりなんだって。なんでかって、いつも自分の気持ちから出発してるからだよ。『自分はこうしてあげたい』ってだけで『相手がどうして欲しいか』を考えていないから、善意の押し付けになって、相手にむしろ迷惑を与えてる」
愛田が目を丸くしている。ぼくは容赦なく続けた。
「いつもだよ。お前はいつもそうだった。退部したあと、最後に出演した舞台のアンケートを送られた谷岡はもっと惨めな気持ちになったんじゃないか? 久保君は、自分がずっと苦しんできた病気を『そんなこと』呼ばわりされたら、どう思うだろう? 普通、人はそうやって考えるんだよ。なんでお前は想像力を働かせられないんだよ」
ぼくは今までの愛田への不満を全てぶつけるように、思い切り睨んで叫んだ。
「お前の無神経さが、ぼくはずっと、吐き気がするほど嫌いだったんだ。相手の立場に立って、人の気持ちを考えろ!!」
愛田はショックを受けたように、「何よ」と言った。「そんなこと、もっと早く言いなさいよ!」
「え?」予想外の返答だった。
「それ、いつから思ってたのよ!」
「……中一の秋には、もううんざりしてた」
「だったら、なんでその時言わないのよ! 言ってくれなきゃ分かんないじゃない!」
ぼくは一瞬、ぽかんとした。でもすぐに反撃に出る。
「はあ? 分かんないわけないだろ? 明らかにみんなお前を嫌ってたじゃん」
「嫌われてるのは分かってたよ!」
愛田は強い口調で言って、急に弱気になった。
「だけど、何がいけないのかずっと分かんなかった。どうしてみんなずっと私を避けるのか、私は何を直せばいいのか、ずっと分からなかったの。ねえ、私が何も感じないとでも思ってたの? 嫌われて辛くないわけないじゃん。どれだけ長い間苦しんで来たと思う? 『この言い方がムカついたんだけど』とか『そういうとこ直せよ』とか、言ってくれたら良かったじゃない! そしたら私だって直せたかもしれないのに!」
意外すぎる言葉に、急にバツが悪くなった。確かに、何回かでも言えば良かったかもしれない。「どうせ言っても変わらないだろ」と思って諦めてたし、面倒だったり余計に嫌われたくなかったりもしたから、「うるさいな」と言ったり無視したりするだけで、愛田の言ったようなことはしてこなかった。
反省して、だけどすぐに、待てよ、と思った。
「でもそれだったら、愛田だって言えば良かったじゃん。『どこが嫌なのか教えてほしい』って。それだって、言わなきゃ、言って欲しいか分かんないじゃん」
今度は、愛田がぽかんとする番だった。
「確かにそうね。どうして、今まで言わなかったんだろう」
視線を泳がせ、考える様な顔をする。でも、答えが見つからないようだった。愛田は少しして顔を上げ、毅然とした表情をした。
「それは、謝るわ。私が悪かった。ごめんなさい。じゃあ、これからは私も言うようにするから、隆介も何か気がついたことがあったら言ってね」
素直に謝られたせいで、思わず狼狽する。
うんと答える代わりに、ぼくは「じゃあ、早速もう一つ言わせてもらうけど」と言った。脈が速くなる。「何?」と訊く愛田から目を逸らし、深呼吸をしてから、言った。
「お前さ、どうして高校一年のとき、ぼくとほとんど話さなかったわけ?」
ああ、くそ。なんでこんな話をするんだよ。どうしたんだ、自分。
でも、一度話し始めてしまったら、堰を切ったように言葉が出て来た。
「中学の時は、ぼくはお前とそこそこ仲良くしてただろ。度々ウザいなぁと思うことはあっても、お前の熱さや優しさが、まあ……そこまで嫌いじゃなかったから。だけど高校生になって、学校は同じなのにクラスが別々だったせいで、ビックリするぐらい関わらなくなった。学校で話せなくなるのはある程度仕方ないけど、メールも何も無しだっただろ」
言いながら、ダサいことを言っている自分が恥ずかしくて堪らなかった。穴があったら入ってしまいたい。
その気持ちとは裏腹に、ぼくの口は動き続けた。
「ぼくは、中学の演劇部が大好きだった……。性格も考え方も全然違う人たちが、ぶつかったりすれ違ったりしながらも劇っていうひとつの目標のもとに力を合わせて努力するのが楽しかったし、そんな仲間と一緒に青春をしているのが、すげー誇らしかったんだ。色々な衝突もあったけど、辞めなかった人たちは最後ビックリするぐらい仲良くまとまって、感動的な卒業公演をしたじゃん。あの時ぼくは、この繋がりが一生続くと思ったんだ。たとえ進む道がバラバラでも、ぼくたちは一生繋がってられるって」
愛田は、真剣な表情でぼくをじっと見ていた。
「だけどそうじゃなかった。高校がバラバラになった人たちとは、全く会わなくなった。メールだって全然なし。同じ高校に進んだ愛田さえ、クラスが違っただけで他の人たちと同じだった。ぼくはそれが悲しかったんだ。しかもぼくは……一年生のとき、クラスに馴染めていなかったんだ」
一番言いづらいことを告白した。思わず表情がゆがむ。
「気の合う人が何故かクラスにいなくてさ。最初はなんとなく付き合ってた友達もいたけどすぐに離れちゃって、いつの間にか一人になってたんだ。毎日一人で帰ってたし、休み時間は一人でご飯を食べる所を見られたくなくて、何も食べずにずっと図書室に篭ってた」
だからぼくは、図書室を熟知しているのだ。だからこそぼくは、土井が去年の四月から五月にかけて図書室に通っていたことを知っていた。
「そんな孤独な日々の中で、ぼくは思ったんだ。人生には何が残るんだろうって。人とどんなに絆を深めたって、時間とともにバラバラになって交流もなくなってしまうなら、残るのは思い出しかない。でも、思い出なんて所詮、過去のものじゃん。今、人と一緒にいなきゃ、思い出なんて虚しいだけの過去の遺物なんだよ」
だからぼくは、高校で何事にも消極的になったんだ。部活は入らなかったし、文化祭も体育祭も、打ち込むだけ馬鹿馬鹿しいと思った。それなら、意味の無い思い出のために汗水垂らすより、最初から思い出なんか作ろうとせず、その瞬間を楽しむ生き方をした方がずっと有意義だと思った。
だから、ゲームにひたすら打ち込んだ。ゲームはその瞬間を楽しむだけのもので、何も残らないと思ったからだ。ただ、奇しくもぼくは、思い出を作っていくゲームを見つけてしまった。
「ぼくさ、ノベルゲームってのにハマッてるんだ。中学一年から主人公の人生を進めていくゲームなんだけど、データをセーブすれば、好きな時代に戻れるんだ。たとえば三十歳になったとしても中学二年の時のデータをセーブしていればその時代に戻れて、その時の仲間と青春を送り直すことができる。それってすごいと思わない? どれだけ時が経っても、絶対に無くならない人との繋がりがあるんだ。でも、人生はセーブできない。時間が経てば過去に戻ることはできないから、過去の人との繋がりは何も残らない」
だからぼくは、あの薄型ゲーム機の中に思い出を作り出すことに情熱を捧げていた。
「それに、残らないって言えば、演劇だってそうだよ。地区大会も、卒業公演も、あんなにいいものをやったのに、一体何が残った?」
ぼくの同期には唯一脚本を書ける程塚という男がいたのだけど、そいつが天才だった。プロなんじゃないかと思うぐらい感動的な脚本を書けるのだ。
地区大会で、程塚は、ぼくたちの等身大の演劇部の姿を書いた。ぼくは佐部隆介役で愛田は愛田優希役、という風に、それぞれありのままの自分を演じた。
内容は、その時まさに起こっていた部内衝突をテーマにしたものだった。部長である愛田の猪突猛進な部活運営に反発する部員の姿や、都大会を目指したい派と目指したくない派の対立、さらにはこんがらがった恋愛模様まで、ほとんどリアルに書いた。そしてその中で、これでもかという程みんなが喧嘩して、でも最後にはそれを全部乗り越えて互いの個性を認め合い、団結するというストーリーだった。
ぼくはその脚本が好きだった。どんなに対立が起きても最後には仲良くなってハッピーエンドになるのが青春だよな、と思っていたからだ。だって、漫画でもドラマでも映画でも、ほとんどそうなるようになっているから。
その脚本はみんなもけっこう気に入ってたみたいで、事実、バラバラになりかけた部員が奇跡的にまとまって地区大会の上演は大成功し、見事、都大会に進出した。ぼくはその時初めて、奇跡ってあるんだなと思った。
ところが、その奇跡はもろくも崩れ去ってしまう。都大会が終わった後、立て続けに部員が三人も辞めてしまったのだ。理由はみんな、部員同士の確執にやっぱり耐えられない、というものだった。一番仲良くしていた男子部員をぼくは懸命に引き止めたけど、彼は苦い顔をしてこう言った。
「もう、無理だよ」
その時ぼくは、あの脚本には何の意味もなかったんだと知ったのだ。結局、フィクションの中がいくらハッピーエンドだからって、現実はうまくいかない。対立した人と仲直りなんてめでたしはなく、普通にバッドエンドになってしまう。
けど、それでも程塚はめげなかった。卒業公演で再び等身大の部員の姿の脚本を書いて、「俺たちはこれからもずっと仲間だ」と、絆を再確認し強固にする物語を書いたのだ。結果は大成功、残った部員は本当に団結し、最高に感動的な卒業公演をしてみせた。
ところが、その卒業公演をしたぼくたちが、高校に入ったら、会うどころか連絡すら全然取らなくなってしまったのだ。一年に一回は会ってバカ騒ぎしたけど、それだけだった。みんなはそれで楽しかったみたいだけど、ぼくにはその年に一回限りのバカ騒ぎは、三年間も培ってきた絆に見合うものとは到底思えなかった。
「あれだけの希望に満ちあふれた地区大会や卒業公演をやってさ、それでぼくたちに何が残った? ただ威勢のいいこと言って、それで終わりじゃないか。希望なんて何も残らなかった! 他にも色んな劇をやったよね。社会派の劇をやってお客さんに何か伝えようとしたこともあったけどさ、お客さんだって何も残らないよ。だって、演じてるぼくたち自身が何も残してないんだから」
もうフラフラだ。ぼくは、最後の力を振り絞って言った。
「ねえ、愛田、教えてよ。あんなに絆を培ってきた仲間とバラバラになっちゃうなら、どうしてぼくたちは一生懸命思い出を作ってたの? どれだけ希望を書いた物語に触れても現実に残るものが何もないなら、何の為にぼくたちは演劇をやってたの?」
愛田は悲しい顔でぼくを見つめ、しばらくしてから、「ごめんなさい」と言った。珍しく、目を泳がせる。「今は正直、分からない。だから、考えさせて。絶対、考えるから」
愛田のことだからまたどんな威勢のいいことを言うのかと思ったけど、結局逃げるのか。ぼくは「あっそ」と吐き捨てるように言って、階段を降りて行った。
タツヤともユウとも愛田とも一言も口をきかないまま日が経ち、期末試験の日が近づいていった。
どの教科の先生も熱心に指導したけど、みんな若干苛立っているように見えた。受験生であるぼくたちの成績を上げるプレッシャーがあるのに加え、カッター事件がまた連続して三件も起こったからだろう。昨日なんて職員室のいくつもの机に傷がつけられ、先生達の犯人へのヘイト感情はこれ以上ないぐらいに高まっていた。
七月十九日水曜日、期末試験最終日にして、終業式前日。最後の科目が終わると、みんなが歓声を上げた。今回のテストは相当頑張ったんだろう。吉村なんか、寝不足がたたっていたのかすぐに保健室に向かったぐらいだった。
鈴木先生の指示通り、みんなで体育館に向かった。中間試験や期末試験の最終日は、講演会みたいなものが行われることが多い。これまでは交通安全や麻薬の危険さなどについて専門家の人が話しに来たけど、生徒たちは大抵ギャグのネタとして笑い飛ばすか、そうでなければつまらなくて寝るかのどちらかだった。
体育館に着いたぼくは仰天した。なんと、あの“途上国カメラマン”の遠山さんが来ていたのだ。
嘘だろ、と心の中で嘆く。どうしてこんなことばかり起こるんだ。戦争の次は貧困かよ。もうこれ以上、ぼくの心を破壊するのはやめてくれよ。
始まった講演会は、予想通りとても重いものだった。
何十と言う写真をスクリーンに映し出しながら、遠山さんがマイクでそれぞれの写真の背景やその国が抱えている問題について説明していく。陣地取りの戦いに負けて頭から血を流し地面に横たわるストリートチルドレン、貧しすぎるために親から安価で売りに出される女の子、ゴミ山に住む子供たち……。恐れていた通り、写真を見る度にぼくの心はかきむしられそうに痛んだ。
遠山さんはまた、あの時テレビで見た、右手が切り落とされた少年の写真を映した。体育館全体に、重い空気が流れる。女子の中には、目をつぶっている人もいた。
遠山さんはテレビで言ったのと同じ説明をしたあと、こう言った。
「世界にはこれだけの過酷な状況下で、それでも逞しく生きている子供達がいるんです。それに比べて君達は、両親がいて、安全な家があって、学校に通って勉強ができますよね。君たちがどれだけ幸せか、どうか分かってください」
突然、カチンときた。背筋がぞわっとする。こいつ……今なんて言った?
「では最後に、子供達の笑顔を見せます」
そう言って遠山さんは、自分が子供達と触れ合っている写真を見せた。どれも笑顔の子供達に囲われて幸せそうだ。
「みんな、ぼくを見ると笑って駆け寄るんですよ。そのみんなの笑顔が本当にキラキラしててね、ああ、この子達を不幸と決めつけていたのは間違いだったんだなって気づかされたんです」
違う、と思った。日本人なんて珍しいから、楽しそうに駆け寄るのは当たり前じゃないか。それに、こういう人ってしょっちゅう「子供達の笑顔」って言うけど、なんで子供限定なわけ? それに、笑顔だったら幸せだとは限らないじゃないか。
周りを見ると、一部の人はダルそうな顔をしているものの、ほとんどの人が真剣に聴いていた。だけどぼくだけは、ものすごい勢いで怒りの感情が芽生えてくるのを感じていた。
「私は嬉しくなって、子供たちに訊いたんです。『あなたの夢は何ですか?』って。そしたらね、『お医者さんになりたい!』とか『学校の先生になりたい!』とか、みんなパッと笑顔で答えるんですよ。それで、『いつか学校に通って一生懸命勉強したい』って、ワクワクしながら言うんです。今日、ぼくはみんなに最初に『将来の夢がある人、どれぐらいいますか?』って訊いたけど、ほんの数人しか手を挙げなかったよね。私は、もっとみんなに夢を持ってもらいたいんです。こんなに貧しい子供達でさえ、素晴らしい夢を持っているんだから」
違う。そんな学校にも行ってない子供達になんて残酷な質問してんだ、そんなのなれるわけないだろ。ムダに夢を見せるな。勝手に感動するな。そして、ぼくたちを馬鹿にするな。
「君たちも嫌なこととかあるかもしれないけど、この途上国の子達に比べれば遥かに幸せなんだと言うことを理解する義務が、君たちにはあるんです」
その瞬間、ぼくの何かがブチッと音を立ててキレた。遠山さんを思い切り睨みつけ、ワナワナと体を奮わせる。違う、違う、違う!!
それからすぐ、質問コーナーに入った。衝動的に手を上げるとすぐに指され、ぼくは言った。
「なんでそんなこと決めつけるんですか?」
全員が、ぼくの方を向いた。明らかに喧嘩を売った態度に、生徒も先生も遠山さんも、みんなが目を丸くしてぼくの方を見る。
自分の衝動を咄嗟に後悔した。やばい、何をやってるんだ。こんなに注目を浴びてどうする。
けど、こうなってしまったらもう、言うしかない。ぼくはゆっくりと立ち上がった。緊張して足も喉もガタガタと震える。遠山さんだけを真っ直ぐに見て、他の人たちを視界に入れないようにした。
「ぼくたちが幸せなんて、どうして言えるんですか? 幸せの基準なんて、人それぞれじゃないですか。途上国の人がどれだけ辛くたって、ぼくたちが辛くないことにはならないじゃないですか」
こんな状況でこれほどスラスラ言葉が出て来たことに驚いた。緊張よりも、怒りが遥かに勝っていたからかもしれない。
「お、おい、佐部」鈴木先生が慌てて止めようとする。だけど遠山さんはにっこり笑って「いや、いいんですよ。答えましょう」と鈴木先生を制した。そして、笑顔のままぼくに向き直る。
「だけど君は、少なくとも学校に行けているわけでしょう? 親御さんに養ってもらってもいる」
「心は?」ぼくは声を張り上げた。「心はどうなるんです? 環境がどんなに恵まれているからって、心を軽視していいんですか? 学校が楽しくなかったら? 親が自分のことを全然分かってくれていなかったらどうなんですか?」
遠山さんが言葉に窮したのを見て、ぼくは一気に畳み掛けた。
「だいたい、勉強ができているだけで幸せって言うけど、ぼくたちは勉強をどうしてするのかも分かってないんです。今やっている勉強がどう役に立つのかも、将来どういう人生が待っているのかも分からない。今は息苦しいし、将来には漠然とした不安がある。夢がないのは、ぼくたち子供のせいじゃない!」
遠山さんはもう、口をパクパクしているだけだった。
「あなたはちっぽけって思うかもしれないけど、ぼくたちだって、そういうことで日々精一杯悩んでるし、闘ってるんですよ」
言いながら、ぼくはもしかしてユウと似てることを言ってるんじゃないか、と思った。観点や中身が違うだけで、ぼくの今の感情は、ユウがあの時感じたものなのか……?
分からない。もう、どうでも良かった。遠山さんを睨みつける。
「なのに、ただ表面だけ見てぼくたちは幸せだってもし本気で思うなら……あなたは、馬鹿だ」
「佐部!」
鈴木先生が怒鳴った。憤怒の形相でぼくに近づいてくる。ぼくは走って体育館を飛び出した。
まさかの校内鬼ごっこを繰り広げた。ぼくの方が速いけど、鈴木先生も四十二歳にしては俊敏で、二十メートルくらい後ろをしぶとくついてくる。
二階に駆け上がり、渡り廊下を渡って教室棟に入った。廊下を走ると、視聴覚室が見えた。教室と違ってガラス窓がなく中が見えないのは好都合だと思い、扉を開ける。さっと見た感じでは誰もいなかった。素早く入り、音を立てないようにゆっくりと扉を閉める。息を殺して外の様子を伺うと、鈴木先生の足音がまんまと通り過ぎ、遠ざかって行くのが分かった。
ほっと一息をついてから、休もうと席の方を向き──目を疑った。スクリーンの前に、吉村が立っていたのだ。蒼白な顔でぼくを見ている。
「吉村? 保健室で休んでるんじゃ」
訊いてから、ハッとした。吉村の横にあるスクリーンに、大きくバツ印の切り傷がついていたからだ。カッター事件で、そんな案件はまだ発表されていなかった。
まさかと思い吉村の手元を見ると、後ろで手を組んでいる。その表情と合わせて、全てが分かった。
「吉村だったのか」
「お願い、誰にも言わないで!」
必死に訴える吉村を見ながら、ぼくは自分の予想が当たったことに驚いていた。まさか本当に、大人しいガリ勉が犯人だっていうベタベタなパターンだったなんて。
「やっぱり、受験勉強のストレス?」
ズバリ訊くと、しばらく間を開けた後、吉村は泣きそうな顔で頷いた。
「俺、親がめちゃくちゃ厳しくて、小学生の頃からずっと塾に通わせられてるんだ……。国立に入らないと絶対ダメだって。でも、もう限界だよ。遊ぶの我慢してこんな必死に勉強して、その先に何が待ってるかも、ぼくは分からないのに……。ずっと暗いトンネルを走ってる感じでさ、もう、何かを傷つけでもしないとおかしくなりそうなんだ」
ぼくは全身の力が抜けて行くのを感じた。ああ、くそ。やっぱり、ぼくが怒っていた通りだったじゃないか。こういう犠牲者はやっぱりいるんだって。
「キンタまでのも全部、吉村が?」
訊くと、吉村はこくりと頷いた。
「なんで、キンタを?」
「それは」吉村が目を泳がせた。「俺……高藤のこと好きだったんだ。だけど、その、佐部が告白する所をたまたま聞いちゃってさ。あいつ、他の男が好きだって言ってただろ」
膝を打ちそうになった。確かにあの告白の時タイミング悪く吉村が通りかかったけど、そのまま階段を降りて行ったから、その後のやりとりは聞かれなかったと思った。でも実は、立ち止まっていたのか。
そしてすぐにハッとした。その翌日、今神の机が切られていたじゃないか。あの時間まで学校に残っていたのは、犯行を行なうためだったのか。今神を選んだのはたぶん、涼しい顔で誰よりもいい成績を取るあいつに嫉妬したからだろうと思った。
吉村が続ける。
「まあ、俺のことを好きなわけないってことなんて分かってたんだけど、はっきり聞いちゃうとどうしようもなくってさ。ガキだし最低だと思うんだけど、あいつの心をめちゃくちゃにしてやりたかったんだ。だから、あいつの大切なキンタを殺した」
高藤さんの涙を思い出したけど、吉村のことをどう思えばいいのか分からない。許すことも、憎むこともできない気がした。
「これは?」スクリーンを指して訊くと、吉村は「三浦先生のあの動画」と、予想していた答えを言った。
「あれ見せられて、もっとムシャクシャが強くなってさ。あんな辛いの見たら、誰だって悲しくなって何かしたいって思うじゃんか。でも、三浦先生は愛田に対して『勉強すれば世界はきっと変わる』なんて、抽象的な綺麗ごとしか言わなかった。ぼくは、世界なんて変えなくてもいいからさ、少しでもああいう人の力になる為に、今のぼくたちにできることを具体的に現実的に聞きたかったんだ。でも三浦先生は、残酷な動画だけ見せて、そんなことは何も教えなかった。じゃあ何で見せたんだよ? ただ悲しくなってそれで終わりじゃないか」
思わず唇を噛む。吉村が今言ったことは、ぼくもまさに考えていたことだった。
あの動画を見て本当に心が動いたなら、できる行動はいくつかあるだろう。たとえば戦争地域から逃れて来た難民に物資を至急するNPO法人に寄付をしてみるとか、戦争に関する本を読んでみるとか。でも、三浦先生はそうしたことをしなさいと言わなかった。それは、そもそもそういう発想がなかったからかもしれないし、もしくは、ぼくたち一人ひとりに行動を委ねたかったからかもしれない。後者はたぶん、「何を感じるか、どうするかは自分次第であって、他人から強制されるものじゃない」という信念である筈だ。
だけど、その信念はちょっと間違っているんじゃないかと思う。だって、あれだけ心を痛めたぼくでさえ、そうしたことはしなかったんだから。
何故か? それは、もうこれ以上心を痛めたくなかったというのもあるけど、一番の理由はたぶん──そういう習慣がないからだ。寄付なんてほとんどしたことがないからまず億劫だし、仮にしたいと思ってもどこにどうやってすればいいのか分からない。本だって、どんな本を読めばいいのか分からない。心を痛めはするけど、結局何の行動もしない。
先生は「知ることが第一歩です」と言ったけど、それはまあ、そうだろう。だけど問題は、二歩目がないことだ。みんな、一歩目で終わってしまう。ほとんどの人が心を痛め、「できれば何かしたい」と思うのに、次の行動へのとっかかりが見えないから、一歩目で終わってしまうんだ。情けないけど、それが、これまでの受動的な学校教育を受けてきたぼくたちの現実の姿だと思う。だから、「知ることが第一歩」と言って知らせるだけというのは、実際には、ほとんど何もしていないのと同じなんじゃないか。
じゃあ、三浦先生はぼくたちに「この団体に寄付しなさい。この本を読みなさい」と指示すれば良かったんだろうか? でも、それはそれで、「そういう利他的な行動って強制させるもんじゃなくない?」という疑問が出てしまうだろう。
言っても言わなくても問題が起きる。じゃあどうすればいい? その折衷案は──たぶん、「提示」することなんじゃないだろうか?
「指示」ではなく「提示」なら、強制にはならず、二歩目へのとっかかりも与えられる。具体的な行動に取りかかりやすくなる。何も問題はない筈だ。
三浦先生はそれをしなかったから、ぼくも吉村もいたずらに悩み苦しませただけにしてしまった。
これだけのことをほとんど一瞬で考えてから、ぼくは自分の思考力に自分で驚いていた。今の思考の仕方、ちょっと今神みたいだったんじゃないか? ぼくはこんなに筋道立てて考えられる人じゃなかったのに、一体どうしたんだ?
まあ、そんなことは今どうでもいい。今考えたことを吉村に話すのは難しそうだったから、ぼくは話を変えた。
「これから、どうするんだよ」
「え?」吉村が目を丸くする。「お前、マジで告げ口しないの?」
「だって、今の話聞いたら吉村も色々事情があったって分かったし。やったことを許すわけじゃないけど、責めることもぼくにはできないよ」
吉村はしばらく呆然としてから、顔をくしゃっとゆがめた。
「……ありがとう」
その時、廊下から、タッタッとこっちに向かってくる足音が聞こえた。しまったと思うが否や、パッと扉が開けられる。鈴木先生だった。
「佐部、やっと見つけたぞ。……おい、なんで吉村もいるんだ? お前達……」
言いながらこちらに近づき、蒼白な顔で立ち止まる。さっきのぼくと同じように、スクリーンを凝視した。そして再びぼくたちをまじまじと見る。吉村は青い顔をしていたし、ぼくも動揺を全く隠せていなかった。鈴木先生はぼくと吉村の手元にチラリと視線をやったあと大股で素早く歩き、吉村の前に立った。無言で力づくで、吉村の後ろに回した手をほどく。カッターナイフが出て来た。
バチン!
鈴木先生が思い切り吉村をはたいた。吉村は反抗する様子もなく黙っている。
「お前だったのか!」
鈴木先生が叫んだ。顔を真っ赤にし、目にあっという間に涙が浮かぶ。
「家庭科室の椅子も職員室の机も……もしかして、キンタまでの事件も、全部お前だったのか?」
吉村は観念したように、小さい声で「はい」と言った。
鈴木先生は聞きたくなかったというように、両目を固くつむった。
吉村を問いつめる会はすぐに行なわれた。生徒指導室に学年の担任の先生がぎゅうぎゅう詰めになって吉村を囲む。ぼくはこっそりと扉の前に座って聞き耳を立てた。吉村の行く末を見届けないわけにはいかなかった。
先生達の猛攻は凄まじかった。大声が扉の外にがんがん聞こえてくる。
「お前は自分が何をしているのか分かっているのか!」と権田先生が怒鳴り、「被害者の気持ちが分かる?」と齋藤先生がなじり、「俺は信じてたんだぞ」と三浦先生が失望し、「謝りなさい!」と鈴木先生が叱咤した。吉村は終始泣きながら、「ごめんなさい」と「申し訳ありません」を繰り返す。
「どうしてこんなことをやったんだ!」という権田先生の言葉に、吉村が小声で「勉強が、辛かったんです」と答えると、バーンと机を叩く音がした。
「そんなの、理由になるか!」権田先生の怒号が倍の大きさになる。「勉強なんてみんな辛いんだ! だからって誰もカッターナイフなんか持って来てないだろうが!」
ぼくの胸中は、たぶん吉村と同じくらい、いや、たぶんそれ以上にかき乱されていた。ふつふつと煮えたぎるものが、自分の胸の中に生まれているのが分かった。体が熱く、息は荒い。今にも爆発してしまいそうだった。
その晩、ぼくはカッターナイフを手に取った。