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SAVE  作者: タカシ
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第2章 転落と救済

 ぼくは恥ずかしくなって目を逸らし、本棚の方を見た。話題を変えないと耐えられない。

「すごい量の本だね」

 そう言うと、今神は「知識は武器になる」とそっけなく応えた。元の雰囲気に戻っている。

「“知っている”というだけでどれだけ世の中をうまく生きていけるか、気づいていない人間が多すぎるんだ」

 なんかイヤミな言い方だなぁ、と感じたけど、すぐ、そうだ、と思った。せっかくだから、最近考え始めたもう一つのことも訊いてみよう。

「ねえ、今神。勉強をする意味ってさ、何なのかな?」

「へえ」今神が、少し目を見開いた。「土井が大変なことになっているのに、よくのんきに授業なんかできるなと思ったのか」

 図星だった。

「お前、人の心が読めるわけ?」

「何か深い思考をしている時、日常のありふれたものを見つめ直すのは割と自然なことなんだ。で、お前のことだから、そんなことに疑問を持つのはガキだよな、とか思ってるんじゃないか?」

「まあ、そうだけど」

「ガキなんかじゃないさ。重大な議題じゃないか。じゃあ今度は、勉強をする意味についてとことん考えてみろよ」

「はあ?」思わず頓狂な声を出す。

「ほとんどの人が気づいていないが、学校の勉強なんてほとんど無意味なんだ。きちんと考えてみれば、それがよく分かる。いいか、想像力の次に大切なのは思考力だよ。人間なら、もっと考えなければ駄目なんだ。よく考えてみろよ」


 なんなんだよ、一体! 帰り道、ぼくはまたしても今神のせいで混乱していた。土井のことを想像したあとは、勉強について考えろだって? あいつはぼくをどうしたいんだ?

 週明け、教室に入ると、タツヤの席でタツヤとユウの二人が雑談しているのが目に入った。近づくと、やっぱりタツヤが「お前、この前どうしたんだよ」と訊いてきた。

「ごめんごめん、具合悪くて吐きそうになってさ」

 笑って答えると、二人とも「なんだよー」と安心したように言った。二人の雑談に混じり、少しだけホッとする。今神と話すより、百倍楽だ。

 一時間目、木坂先生が黒板に書く数式をノートに写しながら、数学って何のために勉強するんだろう、と考えた。今神の言う通りにするのは尺だったけど、真面目に受ける気にもなれなかったからだ。

 思えば、勉強をする意味なんてもう何年も考えていなかった。中学の半ばぐらいまでは「こんな勉強して何の役に立つわけ?」なんて友達と言ってたこともあったけど、今は、なんだろう、「とにかくやるものだ」と思ってしまっている。

 改めて考えてみると、ぼくは何で勉強してるんだっけ?

 一つは、良い大学に行くためだよな。良い大学に行って良い会社に入れってお母さんがうるさいからだ。ぼくだってまぁ、そうできたらいいなとは思う。学歴でチヤホヤされてみたいし、貧乏な暮らしなんてしたくない。ただ、そのための努力が面倒くさすぎて、だけど全く勉強しないのは社会的にアウトだと知っているしお母さんも怖いから、そこそこ勉強しているって感じか。

 ていうか、良い大学に行けば本当に良い会社に行けるんだろうか。そもそも、良い会社に入れれば本当に幸せになれるんだろうか?

 思わず苦笑した。陳腐だ。こんなアンチテーゼ、あまりにもありふれてる。今時、良い会社に入ったら絶対に幸せになれるだなんて、そんな極端なことを言う人はまずいない。お母さんは大学に行くことは幸せになる為の必要条件という言い方しかしてないし、先生たちは、勉強は大学に行くためだけではなく、人生の役にも立つというような言い方をする人が多い気がする。

 でも。黒板に書かれた二次方程式を見つめながら、やっぱり思ってしまう。勉強って、学歴以外には具体的にどんな役に立つんだろう?

 それに、ネットやテレビでよく「学歴社会は終わった」なんて見聞きするけど、実際どうなんだろう。ていうか、そもそもぼくはどんな会社に入るつもりなんだろう?

 トン、と軽く肩を叩かれた。顔をあげ、木坂先生の仕業だと分かる。そのまま黙って横を通り過ぎていく木坂先生の優しさに感謝しながら、慌てて黒板の数式をノートに写した。


 こんな具合にぼくはしばしば考え事をするようになり、これまでよりさらに授業に身が入らなくなった。少し前までだったら多少こうなっても大した弊害はなかっただろうけど、問題なのは、今ぼくは受験生で、しかもちょうど中間テスト期間に突入したことだった。一学期の中間テストは毎年、体育祭の直後に行なわれるのだ。

 「一学期の今ここで結果を出せるかどうかが受験の成否に直接関わってきます」とどの先生も口を酸っぱくして言い、指導に力を入れていた。その上、成績が返されたあとは三者面談をやるらしい。だからみんな、ピリピリとまではいかないけど、表面上は気楽に見せながらきちんと勉強に取り組んでいるように見えた。

 そんな中でぼくは「勉強をする意味とは何だろうか?」などと考え始めたのだから始末が悪かった。余計なことを考えずに集中しなきゃとは思うんだけど、一旦疑問に思ってしまうと、何も考えないで勉強に取り組むのは逆に難しかった。

 結局、全く答えが出ないまま中間テスト本番を迎えた。考えれば考えるほど勉強をする意味が分からなくなっていったぼくは過去最低点をたたき出し、順位を見てさらに愕然とした。

 これまでは学年二百人中六十位ぐらいを推移していたのに、なんと一気に百六十位になってしまったのだ。手応え的にはせいぜい百位ぐらいかと思ってたけど、たぶん、みんながいつも以上に頑張ったせいだろう。やっぱりなんだかんだ言って、みんな受験を意識しているんだ。


 そんなわけで、週明けの月曜日に行なわれた三者面談は地獄と化した。テストの結果を聞くなりお母さんは想像以上に驚き、怒鳴った。覚悟していたとは言え、相当キツい。とてもじゃないけど顔を上げられなかった。

 お母さんのキンキン声をやり過ごすため、窓を打ち付ける雨音に意識を集中した。今日から梅雨入りで、これからじめじめとした日が続くらしい。

「ちょっと、なんとか言いなさいよ!」

 お母さんが叫ぶ。迷っていたけど、もう言ってしまえ、と思った。

「あのさ、どうして勉強ってしなきゃいけないの?」

「は?」

 信じられないという様子で聞き返す。

「お願いだからそんな子供っぽいこと言わないでちょうだい。あんた今、受験生なのよ!」

「まあまあ、お母さん」

 鈴木先生が間に入った。

「受験生だからこそそういうことに悩むのは、よくある話ですよ。教えてやろうじゃないですか」

 鈴木先生がぼくを見る。

「なあ佐部、勉強はした方がいいぞ」

 ぼくは信じられない思いで鈴木先生を見つめ返した。どうしてぼくがまだ何も言っていないのに、そんなことが言えるんだろう。

 そんなぼくの当惑をよそに、鈴木先生は笑顔で続けた。

「勉強をすると、視野が広がるんだよ。世の中をよく知れるし、選択肢も広がってくる。学歴が全てではないけど、良い学歴の方がより多くのものを選べるというのも事実なんだ」

「そうよ、隆介。今頑張らないと後で後悔するんだから」

「それとか、たとえば数学をやりたくないって思って今数学を放棄したら、将来何かの資格をとりたいと思った時に断念しなきゃいけなくなってしまうかもしれない」

 鈴木先生とお母さんを交互に見る。ちょっと待ってくれよ。まず、ぼくがどうして勉強に意味がないと思っているかを聞いてくれよ。そんなのはもう聞いたことあるって。

「そんなの、必要になった時に勉強すればいいじゃないですか」

 かすれ声で反論すると、鈴木先生がにっこりした。

「大人になったらね、そうたくさん勉強する時間なんて取れないんだよ。俺だって勉強したいけど、忙しくて全然時間がない。だから、お前達を見てると羨ましいよ。好きなだけ勉強できるんだから。しかも、塾に行きたいと言えば親が喜んでお金を出してくれる。それって、実はすごい贅沢なことなんだぞ?」

 違う。そんなこと言われたら、お金を稼いでないぼくたち子供は何も言えなくなっちゃうじゃないか。ぼくたちがいかに恵まれてるかなんて言われても困る。ぼくが聞きたいのは、そんなことじゃ絶対にない。

 でもなんていったら良いか分からなくて、ぼくは別の思いを口にした。

「でも、何になりたいかが分からないんです」

「分からないなら、なおさら勉強しないと。大学に入って色々なことを勉強すれば、やりたいことだってきっと見つかるよ」

 これは、なるほどと思った。鈴木先生が続ける。

「それに、勉強は実は生活の色々なところで役に立ってるんだぞ」

 きた。一番知りたいところだ。

「たとえば俺は今、どうやったら佐部に勉強する意味について理解してもらえるかなと考えながら話しているけど、これは国語力だろ。それだけじゃないぞ。論理を組み立てる力は数学で養ったし、さっき言った、勉強をすれば選択肢が増えるっていうのは社会科の知識だ。だからなんだかんだ言って、学校で習っているものは全部役に立つんだよ。勉強って、立派な大人になるためにするんだと俺は思うんだ」

 黙って鈴木先生を見つめた。そう言われてみれば、そうだ。日常生活に役立っているのに、ぼくが気づかなかっただけか。

 表情を見てぼくが納得したのだと分かったのか、鈴木先生は「じゃ、これからの話をしましょうか」と明るく言って話題を変えた。


 帰り、途中で電車を降りてお母さんとは別れ、今神の家に向かった。あいつ、何が「勉強なんて無意味だ」だよ。文句言ってやる。

 残念ながら、今神は留守だった。しまった、なんでこの可能性を考えなかったんだ。帰るのもいやだしここで待とうか、雨だし嫌だな、と思っていると、階段を登る足音が聞こえた。振り向くと、作業着を来た今神が立っていた。傘も差さず、ずぶ濡れで泥だらけだった。

「どうした」今神が若干、不意を突かれた顔で訊く。

「いや、ちょっとね。ていうかなんだよ、その格好」

「工事現場のアルバイト。ヘルプで二時間だけだけどな」

「マジで?」

 ぐしょぐしょの作業着をまじまじと見つめる。こいつ、学校ではクールな姿しか見せないのに、裏でこんな泥臭い努力をしているのか。

「まあ、入れよ」

 促されるまま部屋に入り、あまりの本の多さに改めてぎょっとした。なかなか慣れない光景だ。

 一瞬でシャワーを浴び、黒のスウェットに着替えて出て来た今神を見ながら、僅かに尊敬の念が生まれるのが分かった。ぼくは労働なんて経験したことがない。ユウも飲食店でアルバイトしていた時期があったらしいけど、働いてる姿なんて見たことなかったし、何より、こいつとは動機が全然違う。たぶん今神は、生きる為に働いてるんだ。 

「どうして工事現場なの?」とストレートに疑問をぶつけた。「今神だったら、塾講師とか、もっと楽な仕事できそうなのに」

「塾講師も経験したことはある。他にも居酒屋とかティッシュ配りとか、色々だ。もちろん金を稼ぐこともあるが、色々な世界を知っておきたいというのも俺の働く目的だからな」

 今神はまた洗面台に寄りかかった姿勢で淡々と答えてから、「で、何で訪ねに来たんだ?」と訊いた。

 三者面談のことを話すと、今神はフンと鼻を鳴らした。

「本当に頭が悪いな、あの担任」

「え?」

 驚くぼくに、「少し長くなるがいいか?」と尋ねる。最初からそのつもりだったんだろと思いながら「うん」と答えると、今神は指を一本立てた。

「まず第一に、『高い学歴を持つと選択肢が広がる』という主張についてだが、具体的にどう広がるのかお前は誰かから教わったことがあるか?」

「うーん」そう言われると、どうなんだろう。「パッと思い出せないけど、あんまり教わってないかも」

「そうだろう。学歴が重要『らしい』ということはなんとなく知っていても、実際どのように役立つのか具体的にイメージができなければ、努力が続かないのは無理のないことだと思わないか?」

 早速、意表を突かれる。言われてみれば、そうかもしれない。

「なぜ大人は具体的な説明をしないのか? それは、学歴が社会でモノを言うという事実は、大人からすれば常識だからだ。子供はそれを実感できていないのに、わざわざ説明するまでもないと思ってしまうんだよ。つまり、子供の目線に立てていないんだ。親の心子知らず、子の心親知らずなんて言うけどな、子供が大人の心を分からないのは仕方ないさ。子供は未熟なんだから。だが、大人は子供の目線に立つ義務があるんだ。社会を全く知らない子供に、大人の世界がどういうルールや常識で回っているのか、噛み砕いて教えなければいけないんだ。そうしないから、子供は学歴が役立つ実感が持てず、必然的に勉強へのモチベーションが上がらない」

 呆気にとられているぼくに、今神は「第二に」と指を二本立てた。

「鈴木先生は綺麗ごとを言ったらしいが、学校で習ったことは学歴以外にはほとんど役に立たないんだ」

「は? お前、知識は武器だとか言ってたじゃないか」

「落とし穴はまさにそこだよ。いいか、俺は学校の勉強はほとんど役に立たないと言っただけで、勉強が役に立たないとは言ってない」

 思わず言葉を失った。そんなこと、考えたこともなかった。

「説得に国語力が必要だって? 今の学校教育での国語の授業なんてただ文章を読むだけで、説得や会話の訓練なんてほとんどしていないじゃないか。現に、鈴木先生にはその力があると思ったか?」

 正直……肯定はできなかった。ぼくはもっとぼくの話を聴いて欲しかったし、ぼくの想いや疑問に一旦は同調してほしかった。最終的には納得してしまったけど、決めつけと否定から入られた最初はもの凄い反発心を覚えた。

 それに、社会だって結局きちんと教えてもらってないし、こうして考えてみると、あの説得はあんまり論理的でもなかった。あれ? 鈴木先生、ひょっとして全然ダメなんじゃないの?

 今神がさらにとうとうと続けた。

「他の教科も同じさ。数学や理科や社会科だって、全くとは言わないが、実生活に役立つ部分は非常に少ないように思うんだ。では、なぜ学校ではそういう勉強を教えているのか? それは、学校の勉強は、『人の能力を測る』という基準を中心に作られているからなんだ」

 必死に頭を回転させながら食らいつく。

「企業が採用活動をするとき、当然ながら優秀な人間を採りたいだろ。そして優秀かどうかを見極める為には、どんな人間にも当てはめられる具体的で普遍的な指標がなければならない。それで偏差値と言う概念が作られたんだ。だから、学校で習う知識や思考力の第一の意義は『数値化できること』であって、『役立つこと』にはみんなほとんど関心がないんだよ」

 そんな。思わず、咄嗟に湧き出た疑問を口にする。

「じゃあ、なんで教師はそれでも『学校の勉強は受験以外でも人生の役に立つ』って言うわけ? 別にぼくたちに勉強させるためにウソを言っているんじゃなくて、たぶん、本心でそう言ってると思うんだけど」

「それはな、『そう思いたいから』だ」

 まるでぼくがこの質問をするのが分かっていたかのように、今神は即答した。

「学校の先生も塾の講師も、毎日膨大な時間と労力をかけて教科を教えている。その一番の目的は大学に入れるためだろうが、昔から『大学に入れればそれでいいのか』という批判は根強いし、自分でもそんな無機質な目標のためだけに頑張っていると思いたくないんだよ。だから、自分が教えている勉強には()()()意味があると思うんだ。だって、懸命に教えている勉強が本当に偏差値のためだけにしか役に立たないなんて思ってしまったら、とてもじゃないがやってられないからな。たぶん、自分を無意識にそう洗脳しているんじゃないか? 世間だってみんな同じことを言っているんだし、思い込むのは簡単だろうよ」

 ぼくはなんだか、悲しくなってきた。それなら、あんまりじゃないか。

「ただ、誤解するなよ。さっきから『ほとんど』意味ないと言っているように、俺は学校教育の全てが無駄だとは思っていない。どんなものからだって人は学べるしな。だが、人類の発展を考えれば、もっと学ぶべきことがあるんじゃないかと俺は思うんだ」

「じゃあ、どんな勉強なら満足なわけ?」

 今神が本棚の方を見るので、ぼくも同じようにする。

「色々あるが……たとえば、この本を見てみろよ」

 今神が一冊の本を取り出してぼくに手渡した。「会話力」というタイトルだ。目次を見てみると、「誰もが一生使い続ける力、会話力」「まず、話を聴け」「否定するのは肯定してから」「話はできるだけ短く」「前置きの重要さ」などとある。

「その本の方がよっぽど勉強になると思わないか?」

 確かに……。どれも当たり前のことのようだけど、できてない人がたくさんいることを、ぼくは経験的に知っている。

「何か、他に反論はあるか?」

 今神が訊いた。必死に頭を働かせて抜け穴を探し、一つ思いつく。

「でも、よく言われるのが、学校の勉強はただの入り口で、それで興味を持ってもらってあとは自分で勉強するようにっての、あるじゃん」

「なるほど。で、お前は何か自分で勉強したか?」

 う、と言葉に詰まった。全くとは言わないけど、自分から興味を持って何かを勉強したことなんてほとんどない。

「日本の学校教育では受動的に学ぶ姿勢ばかり教えているからな、当然のことなんだ。お前の言ったように『学校教育は入り口にすぎない』と言う教師は割合いるが、自分の授業を見返してみろと思うよ」

 さっきからずっと暗い表情の今神を見ながら、ふと気づいた。この表情は、齋藤先生に「どうしてあなたの無益な授業を受けなければならないんですか?」と訊いた時のものと同じだ。

「学校で教えている科目の中には突き詰めれば素晴らしい叡智を得られるものもあるが、ほとんどの人がそのごく表層しか学べていない。例えるなら、店を開いてクリームパンを出しているのに、表面の皮の部分だけ食べさせて終わりなんだ。『ほら、クリームパンという食べ物を教えてやったぞ。これで興味を持ったらあとは自分で奥まで食べろよ』と──。だが、表皮しか食べていない状態ではそのパンの本当の美味しさは分からない。そのうえ自分で食べる訓練も受けていないから、そのクリームパンを奥まで食べ進めることはほとんどない。つまり、学習面において教師の責務は二つあると思う。一つ、クリームパンを少しだけ食べさせて満足するのではなく、中身まできちんと強制的に食べさせること。学習指導要領の関係でそれが無理なら、せめてクリームの美味しさを伝えること。二つ、自分で食べ物を食べる能動的な姿勢を身につけさせること。その姿勢さえあれば、クリームパン以外にも無数の食べ物を食べることができるからな」

 ぼくはアホみたいに口を半開きにして固まっていた。もう、呆然とするしかない。なんなんだ、こいつは!

 数秒してから、ぼくはやっと口を開いた。

「お前、頭いいとは思ってたけど、正直ここまでとは思わなかったわ」

 今神は少しも嬉しそうにせず、むしろつまらなそうな顔をした。

「今言ったことの中には難しいことなんて何もない。先入観を捨て、常識にとらわれずに自分の頭でしっかり考えれば、これぐらいのことは簡単に分かる筈なんだ」

「それは、お前の頭がいいからそう思うだけだろ」

「違う」今神はきっぱりと否定してから、またぼくの目をまっすぐに見た。そして、あの訴えるような、質量のある声で言った。

「みんな、頭を使って考えていないんだ。考えることなんて誰にでもできるのに、放棄している。それで騙されたり損したり、時には……人を不幸にさせている。だから人は、考えなければ駄目なんだ」

 なぜそこで「人を不幸にさせている」なんて壮大な話になるんだ。そう思いながら、ぼくは今神の静かな迫力に気圧され、ただ黙って今神を見つめ返すことしかできなかった。

 少ししてから、今神はふっと力を抜いた。

「少し、話し過ぎたな」

「本当だよ」思わず本音を言う。「だからさ、お前、なんでぼくに色んな話するの? ぼくにどうなって欲しいわけ?」

 今神は少しだけぼくを見つめてから、目を逸らした。

「ただの暇つぶしだよ。馬鹿とは話したくないが、俺もそろそろ流石に退屈だからな。誰かを手の平で転がしてみたくなったのさ」

「実験体かよ、ぼくは」

「そうだな。だが、実験体になるのもなかなか面白いだろ?」

「ふざけんなよ」ぼくは露骨に嫌悪感を出した。「お前のせいで鬱っぽくなったり勉強できなくなったり、散々なんだよ」

「そうか」今神は全く動じずに言った。「まあ、暗い話と難しい話しかしてないからな。じゃあ、今度は面白いものを見せてやろう。そこの左の部屋に入ってみろよ」

 いぶかしく思いながら、今神があごで指したふすまの方に行く。中を見て、息を飲んだ。

 また部屋中に本棚がギッシリ詰まっているのだけど、その中身が全部、漫画なのだ。リビングと違って机や椅子もなく、部屋中に可能な限り本棚が敷き詰められ、一体何千冊あるのか、見渡す限り漫画だらけという夢のような場所だった。

「マジで!?」

 さっきまでの文句はどこへやら、甲高い声が口を突いて出てしまう。

「お前、漫画も読むのかよ!」

「物語は」と今神は静かに言った。 

「大きな学びになるんだ。世の中の様相を理解したり、異なった考えに触れたり、他者の生き方をモデルにしたりできる。実用書よりも遥かに役立つことが多分にあるんだ。だから俺は小説もドラマも映画もアニメもたくさん見ているんだが、その中の一つが漫画というわけだ。楽しみのためじゃなく、学びのために読んでいる」

 話半分に聞きながら、夢中で本棚を見渡す。知らないやつや難しそうなものもたくさんあったけど、ぼくが大好きな少年漫画もたくさんあった。思わず心が踊る。

「お前が望むなら、ここに来て自由に読んでもいいぞ。シフトは変則的だが、今週は木曜日以降なら入っていない」

 ぼくの心を読んだかのように今神が言った。やっぱり無表情のその顔を見ながら、揺れる。

 読みたい漫画が無限にある上にお小遣いの少ないぼくからすれば、この無料の漫画喫茶のような場所は楽園に思える。だけど、今神とこのまま関わることにリスクがあるのは確かだ。悪いやつではないようだけど、今神のせいで結果的にぼくの日常はどんどん壊されてきている。こいつの狙いがどこにあるのか分からないけど、このままこいつと付き合い続ければ、ぼくはもっと酷いことになるんじゃないか? ていうか何より、ぼくは受験生だろ?

 悩んだ末、「まあ、気が向いたら行くかも」と曖昧に答えた。


 ところが、ぼくは早くも三日後の木曜日に今神の家を訪ねることにした。

 理由の一つは、ユウが言ったようにいつもの二人と放課後に一緒に過ごせなくなったことだ。ユウは塾に行く日が増えていたし、タツヤは体育祭が終わった後ヒマになるかと思いきや、AO入試の準備や練習で慌ただしくなった。

 そして二つ目の理由が、家に帰ってもやることがなくなってしまったことだ。これまではあまり集中できなくても一応机に向かっていたのだけど、今神にあれだけ学校の勉強の無意味さを説かれてしまっては、もう馬鹿馬鹿しくてとてもじゃないけど取り組めなかった。

 そんなわけで暇で仕方なくなったぼくは、今神との奇妙な付き合いを始めた。

 最初こそ抵抗があったし気まずかったけど、それはすぐに刺激的で充実した時間になった。読み放題の漫画に加え、今神の話もなんだかんだ面白かったからだ。

 今神は折を見てたくさんの話をした。ぼくも知っている少年漫画についてありえないくらい深い考察を語ってみせたり、障害者のことを可哀想だと思うかと訊いたり、タバコはこの世から撲滅させた方が人類の幸福度は上がるんだと持論を展開してきたり、色々だった。どれも難しいし普段だったら絶対興味のない話なのに、いつも分かりやすい言葉を使ってくれるおかげでよく理解できたし、思えば最初から感じていたことだけど、今神の話し方には人を惹き付ける不思議な力があった。

 漫画を読みに行って二回目の時、今神が「鈴木先生」というタイトルの漫画を勧めてきた。「うちの担任と同じじゃん」なんて笑ったけど、一話を読んでみてとてつもない衝撃を受けた。

 給食時間に突如問題行動を起こし始めて「何が不満なんだ?」と叱られた真面目な中学生男子が、担任の鈴木先生をキッとにらみ、「見ても分からないなら、言っても分かりません」と言うのだ。

 それを受けて鈴木先生は一週間、その男子生徒を観察し、彼が何を不満に思っているのかを学校でも家でも延々と考え、ついに原因を突き止める。その原因というのはかなり特殊でぼくにはよく分からなかったのだけど、そんなことはどうでも良かった。とにかく、その考える過程での鈴木先生の心中のセリフが最高に感動的だったのだ。

──この謎かけが真意を打ち明けるにふさわしい相手かをはかる取り返しのつかない最後の賭けだとしたら、俺はなんとしても今日! 真実にたどり着かなければならないんだ。

 これだよ! と思った。ぼくたちの担任の鈴木先生はじめ、大人は「悩んでいることがあったら言ってね」とか「不満があるならなんで言わないの!」とか言う。だけど、悩みや不満なんて、ぼくたちは言えないのだ。それは、言うのが恥ずかしいからとか、言ったところでどうにもならないから、とかいうのもあるけど、一番はたぶん──気づいて欲しいんだ。ぼくたちは大人に反発しながらも、心のどこかで期待をしている。親は子供を理解してくれるし、先生は生徒を助けてくれる。そう期待しているから、口を閉じ、向こうから気づいてくれるのをじっと待っているんだ。

「今神」

 一話を読み終わった後、ぼくはぽつりと言った。

「土井もさ……こんな風に、鈴木先生に気づいて欲しかったのかな」

 今神は少しの間ぼくを見つめてから、「たぶんな」と答えた。相変わらず無表情ではあったけど、目からは少しだけ、悲しみの感情が読み取れた。

「土井は、SOSを発してたのかな」」

「鈴木先生にはどうだったか知らんが、クラスメイトには発してたよ」

「え?」思わず頓狂な声を出す。「どんな風に?」

「それぐらい自分で考えろよ。見てたら簡単に分かったことだ。よく思い出せ」

 言われて、考える。土井はいつも何をやってたっけ……? 思い出そうとしても、何も出てこなかった。ぼく、あいつのこと本当に無関心だったんだな。ずっと、空気みたいに思ってたんだ……。

 黙っていると、今神が「SOSって、何の略か分かるか」とやや出し抜けに訊いてきた。

「いや、分かんない」

「Save Our Soulsだ」

 静かに答えた今神の瞳をじっと見つめる。今度ははっきりと、悲哀の色を帯びていた。まるでこの世の全ての不幸と悲しみを見てきたかの様な、深い絶望の闇を宿しているように見えた。

 Save Our Souls。「私たちの魂を助けて」か……。

 急に、胸がきゅうっと締めつけられるのを感じた。体でも、心でもない。魂を助けてと、土井が叫んでいるのを想像する。涙を流し、声を枯らして叫んでいるのに、誰も気づかない。ぼくも、鈴木先生も、クラスのみんなも、誰もが近くにいながら素通りしていく。

 あいつ、辛かっただろうな。悲しくて寂しくて、そして、悔しかった筈だ。どうして誰も、あいつのSOSに気づいてやれなかったんだろう。


 梅雨のせいで、雨の日が続いた。

 今神の家に通うのは楽しかったし色んなことが学べたけど、悪影響もかなりあった。危惧していた通り、ぼくの日常と言う名の歯車がだんだん狂っていったのだ。

 まず、これは三者面談の翌日からのことだけど、授業を真面目に受けられなくなった。勉強自体が馬鹿馬鹿しくなったのもあるけど、それを一生懸命教えている先生達が急に滑稽に思えてきたのだ。「どうせ受験にしか役に立たないのになに張り切ってんの?」と、冷めた目で先生達を見るようになった。

 その冷めた目に拍車をかけたのが、世界史の三浦先生だった。テスト返却の時、「勉強する意味とは」と語りだしたのだ。それは偶然じゃなかった。関西人だからなのか面白い上に熱血な三浦先生は、テストの解答用紙の最後に必ず「なんか書きたいことあったら何でも書いてねコーナー」を設けていて、テスト返却の時に面白い書き込み等を紹介することをルーティーンとしていたのだけど、ぼくがテストの時そのコーナーについ、「勉強って何の為にするんですか?」と書いてしまっていたからだ。三浦先生はそのぼくの質問を匿名で読み上げてから、めちゃくちゃ熱く二十分も持論を語ったのだけど、ほとんどどれも鈴木先生と同系統の主張を膨らませただけだった。やっぱり「学校の勉強」と「それ以外の勉強」をごっちゃにしていたし、今神の考えを覆す視点からの考えは何も聞けず、ぼくの勉強のやる気はもっと下がった。

 そして、漫画の「鈴木先生」を読んでからは、鈴木先生に反抗するようになった。担任のくせに土井のSOSに気づかなかったことを考えると、先生が熱心に授業をしたり冗談を飛ばしたりするのを見る度に無性に腹が立った。それに、あんな間違いだらけの「勉強する意味」をよくもしたり顔で説明できたよなとも思った。

 鈴木先生の授業の時、明らかに話を聞いていないポーズを取って注意されては、謝りもせずムスッとしてから一応ノートを取るフリだけしてみたり、当てられても仏頂面で「分かりません」と答えたりした。

 そんなぼくの異常にクラスメイトもおかしいと思ったのか、「最近どうしたの?」なんて訊かれるようになった。あの吉村でさえ「受験勉強のストレスか?」と心配してくれて、そうした気持ちが嬉しいことは嬉しかったんだけど、素直に感謝することもできなかった。相変わらず土井のことを誰も話題にすらしないことにいい加減ムカついてきたからだ。

 最初は「ぼくもあの時保健室に行かなければみんなと同じだったんだし」と思っていたけど、ここまで土井のことを可哀想に思うようになってしまった今となっては、逆にどうして誰も土井のことを心配しないのかが分からなくなってきた。事件の犯人だと思っているとはいえ、同じ教室のメンバーがもう何日も学校に来てないのにどういう神経を持っていれば平然としていられるんだよ、と思わずにいられなかった。

 タツヤとユウとは休み時間に一緒にゲームをやったりして普通に笑い合っていたけど、これまでと比べて半分くらいしか楽しめていない自分がいた。でもこれは思えば、漫画を読みに行き始めてからじゃなかったような気がする。いつからだろう、今神に「人間とは、自分とは関係のない不幸な出来事にくよくよすることだ」なんて事を言われてからだろうか。この二人は土井のこと心配とかしてるのかなと思うことはあったけど、「土井のことどう思う?」なんて訊くのは、恥ずかしすぎて絶対にできなかった。

 学校での一番の問題は愛田だった。ぼくが授業に集中せず注意されたり鈴木先生に反抗的な態度を取ったりすると、休み時間にわざわざ怒りに来るのだ。「あんたね、ちゃんと授業受けなさいよ!」と、母親みたいなことを言ってくるのがウザったくて仕方が無かった。だいたい、そんな風に正義感を振りかざすけど、こいつだって結局、土井のことなんか一ミリも考えてないんだ。こんなガサツな性格をしている限り土井の機微を想像することなんか一生できないだろうと思うと、ぼくは遠慮なく「うるせえな」などと乱暴な言葉をぶつけ返すことができた。

 家ではもっとひどい状況が起きていた。今神の家に通っている時間は家の近くの図書館で勉強していると説明していたのだけど、その図書館が休館日の日曜日にもうっかりその口実を使ってしまったのだ。「図書館なんてウソでしょ! 毎日何やってるの!」と怒鳴られ、経験不足からウソをつくのに失敗したぼくが「何でもいいでしょ!」と真っ向から反抗して大喧嘩になった。ぼくは最後まで口を割らなかったけど、とにかく遅く帰ることを禁止され、でもまた翌日もぼくが堂々と遅く帰ってきて反抗の姿勢を明らかにし、再度の大喧嘩の末、互いに口をきかなくなった。

 これまでずっと大人しく育ち、お母さんともすごく仲良くやってきたぼくにとって、生まれて初めての反抗期だった。お母さんを怒らせ悲しませることに罪悪感は感じていたし、そもそも別にお母さんには大して恨みもないのに、どうしてこんなに反発するのか、自分でも分からなかった。ただ、今回は引きたくないという意地があった。

 そんな風に、学校でも家でも穏やかならざる日が数日続いた。


 また今神の家に行こうと思っていた木曜日、前日の小テストで赤点を取ったせいで、放課後の英語の補習に呼ばれてしまった。バックれようかとも思ったけど、あの齋藤先生のことだ。逃げたらその理由をねちっこく追究してくるのは目に見えていたから、しぶしぶ受けることにした。

 補習は齋藤先生の都合で十六時半かららしく、一時間ほど時間が余ってしまった。運の悪いことにタツヤもユウも空いておらず、しかも福祉委員の会議で使うとかで三年一組の教室も追い出されてしまい、途方に暮れる。少し考えてから、運動部の活動でも見たら暇つぶしになるかな、と体育館に行くことにした。 

 職員室から渡り廊下を渡って、体育館棟の二階に着く。すると、柔道場の方から叫び声が聴こえた。歩いて行って見てみると、やっぱり──演劇部だ。

 そうか、確か柔道場が練習場所だったっけ。何やら芝居の練習をしている。見るのは初めてだ。

 愛田が、大道具のベッドの上に敷かれたふとんの上で横になっている。どうやら病人の役らしい。しばらく見ていたけど、静かに台詞を言うのでよく聞き取れなかった。

「どう? 面白い?」

 後ろからいきなり声をかけられた。ビクッとして振り返ると、木坂先生が立っていた。数学の先生で三年二組の担任で、かつ演劇部の顧問だ。温厚で謙虚な木坂先生は生徒から人気が高く、もし先生の人気投票をしたら鈴木先生といい勝負になるだろうと言われている。

 木坂先生の担当である数学の上級コースを取るのが今期で初めてだったぼくはまだほとんど話したことがなかったけど、今まで週に二回授業を受けていた感じではかなり好感を持っていた。けど、最近はあんまり授業を聞いていないから、ちょっと気まずい。 

「佐部くんは、愛田さんと中学の演劇部で同じだったんだってね」

 木坂先生がゆったりと言った。余裕のある笑みを浮かべている。まだ四十代ぐらいなのに、達観しているような不思議な雰囲気があった。

 そういえば、今神はこの先生にだけは反抗をしたことがないと聞いたことがある。今期の授業中も、特別に超上級問題を出してもらい、毎回大人しく解いていた。

「まあ、はい」あまり認めたくないことを認めると、木坂先生はふふ、と頬を緩ませた。

「愛田さんね、佐部君のこと心配してたよ」

「え?」

「『佐部君が最近調子おかしいんです。どうすればいいでしょうか』ってさ」

 あいつ、なんでそんなことを担任でもない先生に。

「そんなの、関係ないです。あいつ、無神経じゃないですか。ピント外れてるし、こっちの神経逆撫でするようなことばっか言ってくるし。逆効果ですよ。心配すればいいってもんじゃないです」 

 生意気な返答に反論してくるかと思ったけど、木坂先生はややうつむき、意外にも「そうだね」と認めた。

「確かに、愛田さんにはかなり無神経なところがある。想像力が足りないんだ」

 想像力。今神と同じ言葉を使ったことに驚いた。

「人には想像力がなくちゃいけない。優しさっていうのは想像力なんだ。想像力のない思いやりは、優しさじゃなくて暴力だよ」

 なんだ、ちゃんと分かってるじゃないか。しかし、木坂先生は続けて「でも」と言った。 

「でも、だからと言って、その好意まで完全に無下にしていいものなのかな?」

 のんびりとした口調だった。普通だったらここで「お説教が始まるぞ」と身構えたり反発したりしてしまうところだけど、木坂先生の言葉には素直に聞きたいと思わせる魔力があった。今神とは、また別のタイプの力だ。 

「想像力が足りない部分を嫌うことと、その人そのものを嫌うことは、別の話なんじゃないかな」

 思わず、黙ってうつむいてしまう。最近、それは少し考え始めていた。想像力や思考力が足りないからと言って人を嫌いになってしまったら、ほとんど誰とも付き合えなくなってしまう。

「あとね、鈴木先生も心配してたよ」

「え?」驚いて顔をあげた。

「職員室で、ぼくは隣りの席でしょ? だからよく話すんだけど、この前落ち込んでてね。どうしたんですかって訊いたら、君のことを話してくれたんだ」

 ぼくはまた無言になった。どうすればいいのか分からず固まるぼくに、木坂先生が「座ろうよ」と向こうのベンチを指す。長話をしようという合図だと分かったけど、ぼくは素直に従った。

 先生と並んで座り、ここ最近の出来事や考えたことを打ち明けた。土井が停学になる直前に保健室で二人きりになり、涙を見てしまったこと。突然接触してきた今神に、土井の孤独を想像してみろとか勉強の意味について考えろとか言われ、色んなことが分からなくなり混乱していること。

 木坂先生とはこれまでほとんど話したことがなかったのに、今神以外には誰にも言えなかったこの話をどうしてすんなりできたのか、自分でもよく分からなかった。でも、先生は最高に聴き上手だった。長い話を一度も遮らず、適切なポイントで「なるほどね」とか「そうなんだ」とか、心地良い相づちを打ってくれた。

 話し終わると、木坂先生は「なるほど」と言ってしばらく考え込むように黙り、数秒してから口を開いた。

「土井さんには、ぼくにも責任の一端があるな。学年の先生みんなでかなり叱ってしまったからね。ぼくは情報が少なかったから何も言わなかったけど、先生方を止めることもしなかった。申し訳ない」

 軽くだけど頭を下げられ、どう反応していいか困る。

「本当はこれから助けになりたいところなんだけど、ぼくは土井さんとはほとんど関わりがなかったから、まずは鈴木先生を通さなきゃね。ぼくから話してみよう。きっとなんとかしてくれるよ」

 本当だろうか。半信半疑だったけど、「任せて」と言われ、ぼくは大人しく頷いた。 

「それから、勉強の意味についてなんだけどね」木坂先生が話題を変える。「この問題に関してはぼくにも色々考えはあるんだけど、今言うことはしないでおくよ。佐部君の問題は、たぶんそこじゃないと思うから」

「どういうことですか?」

「話を聞いて思ったんだけどね。その疑問には、答えがあるのかな?」

「え?」

 訊き返すぼくに、木坂先生は少し考えるような顔をした。

「難しい問題だよ。学校の勉強が何の為にあるのかなんて。本気で追究していったら、歴史とか政治とか、かなり色々な観点から考えなければならない。ぼくも今の日本の学校教育には様々な問題点を感じているけど、じゃあぼくが『数学なんか教えても意味ない!』って思って授業を放棄したら、どうなるかな?」

「大変なことになります」

「だよね。そしてそれは、佐部君も同じなんじゃないかな。このまま勉強をやめてしまったらどうなるだろう。高卒で就職できるところを探す? それもひとつの生き方としてありではるけど、たとえ君が良くても、ご両親は納得してくれるのかな? もしその説得ができないなら──佐部君は、お母さんを泣かせてまでその生き方を貫くことに誇りを持てるのかな?」

 木坂先生の言葉が、ずし、と胸にのしかかる。

「そんな覚悟、正直、全然ありません。今のぼくは、ただ文句を言っているだけのガキってことなんでしょうか?」

「はっきり言ってしまえば、そうだね。もちろん、学校の勉強の意味について考えることは大いに結構だよ。土井さんのことを心配しているのも素晴らしい。佐部君のそういうところは、少なくともぼくは、いいなって思う。だけど、もう少し全体を見れば行動は変わってくるんじゃないかな? 愛田さんも、鈴木先生も、たぶん他のクラスメイトもお母さんも、みんな佐部君のことを心配してる。だから」

 木坂先生は一瞬言葉を切り、微笑みながら言った。

「人の気持ちも、考えてみようよ」

 唖然として、木坂先生の優しい瞳を見つめ返した。返す言葉もない。

 今神の言葉に触発されて土井の気持ちや勉強をする意味について考えたのは、木坂先生の言う通り、良かったんだ。その結果、今までは見えていなかったものがたくさん見えるようになったから。

 でも反対に、見えないものも多くなった。孤独の殻に閉じこもり、土井の気持ちをもっと考えてやれよと思いながら、()()()他の人の気持ちを全然考えていなかった。思えばこの数日、ぼくは周りのみんなを傷つけてしかいない。それも、ぼくのことを思ってくれている人たちを。

 愛田は空回りが酷いけど誰よりもぼくのことを心配してくれているし、鈴木先生は土井のことに気づかなかっただけでいつも熱心に生徒の相談に乗ってくれる。お母さんも、受験のことが絡んでいるから熱くなっているけど、普段は優しいし、何よりずっとぼくのことを懸命に育ててくれたんじゃないか。

 ぼくは、一体何をやってるんだ。ただの思い上がっていた大馬鹿者じゃないか。

「木坂先生」

 小声でつぶやいた。少しだけ涙声になっているのが恥ずかしい。

「うん?」 

「ぼく、やっぱり勉強頑張ってみます。鈴木先生とかにも謝らないと」

「そっか。それなら良かった」

 木坂先生は微笑んだ。その表情には、「いいことしたな」等という優越感や自己満足感は微塵も感じられなかった。ただ純粋に、ぼくの言葉を喜んでくれたように感じた。

 でも、本当に頑張れるだろうか。学校の勉強をやる意味なんて、結局全然分からないままだ。だけど、「人のため」なら、分かりやすい。そう考えれば、頑張れる様な気がした。

 立ち上がろうと足に力を入れてから、やっぱり力を抜いた。ふと、ある質問をしてみたいと思ったのだ。

「あの、全然話変わるんですが」

「なに?」

「先生はどうして、演劇部の顧問になったんですか」

 木坂先生は少しだけ驚いたように顔をあげた。二秒ほどぼくを見つめた後、ゆっくりと微笑む。そして、驚くべきことを言った。 

「世界を変えるためだよ」

 え、と声が漏れる。

「ぼくは、演劇で世界を変えたいと思っているんだ」

 真顔で言う木坂先生に、訊いておいてなんだけどポカンとしてしまった。いきなり何を言い出すんだ? 実は変人なのか?

「せ、世界ですか?」

「うん。世界だ」

 木坂先生はまたはっきりとした口調で言った。少ししてから、そうか、これは表現だな、と分かった。「世界を変えるぐらいのつもりで頑張る」とか、そういう表現だ。

「どうしてそんなこと思うんですか?」

「それは、今度の演劇を見てもらえればきっと分かるよ。再来週の月曜日に校内公演をやるんだ。もし良かったら、来てくれると嬉しいな」

「分かりました」

 つい、反射的にそう答えてしまった。もう演劇を観るのはやめようと決めていたのに。

「ところで、今日はどうしてこっちまで来たの?」 

 言われて、元の用事を完全に忘れていたことに気がついた。慌てて時計を見ると、もう十六時半を十分も過ぎている。大急ぎで立ち上がった。

「英語の補習が始まるのを待ってたんですけど、ヤバいです、行ってきます! あの、ありがとうございました!」

 木坂先生は愉快そうに笑ってから、「頑張ってね!」と見送ってくれた。

 補習に遅刻したせいで齋藤先生にめちゃくちゃ怒られる羽目になったけど、その説教は全く耳に入らなかった。木坂先生に対する感謝と感動で胸がいっぱいになっていたからだ。人の話を心からしっかりと受けとめ、ぼくにない視点からのアドバイスをあれほど適切な温度感と言葉で伝えてくれるなんて。あんな凄い大人が存在するなんて思わなかった。


 家に帰ると、食卓に肉じゃがが置いてあった。リビングのソファで黙ってテレビを見ているお母さんがチラリとぼくを見てたけど、何も言わずにテレビに視線を戻す。

 謝らなきゃと思ったけど、ごめんなさいなんて勇気がなくて言えそうになかった。少し心の準備をしてから、「あのー、これからは勉強ちゃんとするから」と下を向きながら言った。

 お母さんが顔を上げる。しばらくぼくを見つめてから、「頼むからね、ホント」と懇願するように言った。泣きそうな顔を見て、やっぱり心配かけてしまったんだなと反省する。

 その日ぼくは、すごく久しぶりにリビングで夕食を食べた。


 翌日の金曜日、朝のHRが終わると、鈴木先生が「ちょっといいか」と教壇の方にぼくを呼んだ。

「木坂先生から話を聞いたぞ」

 鈴木先生はそう言って、申し訳なさそうな顔をした。

「土井のこと、ずっと心配してくれてたんだな。ありがとう。俺は土井の気持ちにも佐部の気持ちにも気づいてあげられなかった。ごめんな」

 方便とかじゃなくて、心からそう思っているようだった。今まであんだけ怒っていたのに、いざ謝られると途端にこちらが申し訳ない気持ちになってしまう。

「昨日、土井の家に電話をしたんだ。お母様が出て、明日香さんにお会いさせていただくことはできませんかって訊いたんだけど、土井は、もう誰にも会いたくないって言っているそうなんだ」

 苦々しそうな顔をする。ぼくも悲しい気持ちになった。

「もし万が一土井が本当に犯人じゃなかったのなら、俺はとんでもないことをしてしまった。ただ、今は実際、何もできないと思うんだ。土井も自分と戦っていると思うしな。今はまだ、土井の心が回復するのを待たせてくれないか?」

 声や眼差しからその真摯さが伝わってきて、ぼくは嬉しくなった。この数日心の中でかなり毒づいてたけど、鈴木先生はやっぱりいい先生だ。「はい!」と笑顔で答えた。

 その日の国語の授業中、教科書を朗読する時、鈴木先生は一番にぼくを当てた。これまでとは違い、大きな声で、明るさを意識して読むと、みんなが「おお」と微かにざわめくのが分かった。 

 これが分かりやすい復活アピールになった。授業が終わると愛田が真っ先にぼくの席に駆け寄って「元気になったんだね! 良かった!」と笑った。恥ずかしくて何も答えられなかったけど、まぁ安心させられたならとりあえずいいか、と思った。

 その日の放課後、タツヤとユウから一緒に帰ろうと誘われた。元々は今神の家に行く予定だったけど、久しぶりのチャンスに迷わず「うん!」と即答する。

 中央公園の石垣に三人で座り、一ヶ月以上もここに来てなかったんだな、と思った。

「隆介、もう反抗期は終わったワケ?」

 タツヤがニヤニヤして言うので、ぼくは恥ずかしくなった。

「まあ、ちょっと色々あったんだけど、もう大丈夫」

「やー、あのまま隆介が反抗期こじらせたらどうしようかと思ったわ。なぁ?」

 同意を求められたユウは軽く笑ってから、「まあ、もう終わったんだからいいじゃん」と言った。「そんなことよりさ、隆介、日曜日どうせ空いてるだろ? ボーリング行こうよ」

「え、行く!」

 急にテンションが上がり、甲高い声が出てしまった。すごく嬉しい誘いだ。パーッと遊んで、この鬱々とした数日を吹き飛ばしてしまいたかった。

 ユウが意味ありげに笑って言う。

「今回は特別だよ。女子も誘ったんだけど、高藤も来るんだ」 

「マジで!?」

 さらにテンションが急上昇した。

 高藤さんはキンタが死んだショックに負けず、明るく学校生活を過ごしていた。ぼくみたいに荒れたりせず応援団も中間テストも頑張ったのを見て、凄いなと思う反面、あれだけ優しい心を持っている人も土井のことはやっぱり気にしていないんだなと考えると、ちょっと複雑ではあった。

 ぼくとの関わりはというと、告白の日から一度も会話をしていなかった。まあ、元々全然しゃべるような関係でもなかったから当然なんだけど。

 教室や廊下でぼくとすれ違ったり目が合ったりすると、はにかむような何とも言えない微妙な表情をして目を逸らしていた。幸いなことに嫌っている感じではないから、たぶん単純に恥ずかしいのかなと思ってるんだけど、実際どうなんだろう。

 ユウがにやりとした。

「マジマジ。ちゃんと『隆介も誘っていい?』って訊いたよ。そしたらちょっと驚いた顔してから『いいよ』って。チャンスあるかもよ、隆介」 

 タツヤがすかさず「違うって」と反論した。「あれは隣りに俺がいたから、俺を意識してたんだよ」

「まあ、タツヤはないとしてもさ」とぼくが冗談の口調で言った。「彼氏いるんでしょ?」

「もう別れてるかもしれないじゃん」とユウ。

「そんなことあるかな」

「もし別れててもさ、もうヤッた後だったら付き合うの悩んじゃうよな」

 タツヤが言い、「ヤッてないって!」とぼくが、「お前は悩む必要ないから安心しろ」とユウが突っ込んだ。

 そんなやりとりをしながら、ぼくは自分がすごくホッとしているのを感じた。やっぱりぼくにはこっちの方が合っている。今神とはこんな会話、絶対にできない。

 

 日曜日の朝、ぼくは気合いを入れて早く起き過ぎてしまった。全部支度を終えて、身だしなみをこれ以上ないぐらい入念に整えたけど、待ち合わせの十三時まで二時間もある。好きな人に会う直前に勉強なんてとてもじゃないけどできないし、仕方がないのでテレビをつけた。 

 いきなり、とんでもない画が目に飛び込んで来た。右手の無い子供の写真だ。それも、障害があって元からないのではなく、明らかに切り落とされたような断面だった。

 嫌なものを見てしまった、と即座にチャンネルを変えようとしたとき、場面が切り替わった。スタジオで芸能人たちがしかめ面をしている。真ん中に遠山さんが座っているのを見て、コントローラーに置いた指が止まる。

 “途上国カメラマン”──そんな肩書きを自称しているこの男性は、最近よくテレビに出て、自身で撮った写真や映像を使って途上国の現状を熱く伝えている。やっぱりコイツの仕業か。ぼくはチッと舌打ちをした。

 ぼくはこの人が好きじゃなかった。特にこれといった理由はないし、立派と言えば立派だとは思うんだけど、なんだろう、何故か生理的に受け付けない。 

 まぁせっかくだから少し見てみようと思い、コントローラーをテーブルに置く。

「今のインドの子、どうして右手が無いか分かりますか?」遠山さんがスタジオの芸能人たちを真剣な顔で眺めながら訊いた。

「断面で分かると思うのですが、切り落とされているでしょう。あれ、実は父親がやったんですよ」

 え、と思った。親がこんなことを? 虐待だろうか。

「極度に貧しい人たちは物乞いをして生活していますが、健康体の人はあまりお金を恵んでもらえない。だからああやってわざと四肢を欠損させることによって余計に同情させ、お金を多く恵んでもらおうとしているんです。父親は息子を愛しているのに、食べさせるためにやむなく右手を切り落としたんですよ。信じられますか?」

 そんなことがあるのか。ひどいと思ったけど、あまりに突飛な話すぎてにわかに信じられなかった。芸能人達はみな、気の毒そうに顔をしかめている。

「こうした貧困が、世の中にはたくさんあるんです!」遠山さんが語調を強めた。

「なのに、皆さんの認識が低すぎる。私は一番の問題は、こうした問題が起きていることそのものより、みなさんが無関心であることだと思っています。去年、ガラスの天井という言葉が流行しましたよね?」

 少し記憶を辿り、ああ、と思い出した。アメリカの大統領選に負けた女性候補者が、「ガラスの天井を打ち破ることはできなかった」とか言っていたっけ。ニュースにほとんど関心がないぼくも、それくらいは知っていた。

「一応説明すると、あれは、アメリカに残っている女性差別の問題を、“見えないが打ち破れない壁”という比喩で言い表した言葉なんです。確かに、そういう壁も壊せたらいいでしょう。ですが、“見えない壁”の前に、“見える壁”があるということを、私は声を大にして言いたい!」

 遠山さんの語りの熱さはどんどんエスカレートしていった。

「アメリカの女性差別の問題なんて、せいぜい昇進ができないとか、男性と同じ賃金がもらえないとか、そういった程度のことでしょう? 基本的人権が守られた上で、より完全なものを目指している。ですが途上国の人々は、まず基本的人権が守られていないんです。腕を切り落とされるだけじゃない。先祖の作った借金のために一生奴隷のように働かせられたり、八歳の女の子が体を売らされたりしているんですよ。こうした問題のことを、私は、“ガラスの天井”ならぬ“コンクリートの天井”と呼んでいます。途上国のあらゆる問題は、アメリカの女性差別の問題よりもずっと見えやすく、しかも壊すのが遥かに難しいからです。でも、壊せなさそうだからと言って、放っておいていいんですか? 見て見ぬフリをしていいんですか? そんなこと、許してはいけないでしょう。我々は、コンクリートの天井を打ち破らなければならないのです!」

 顔を真っ赤にしたまま演説を終えると、スタジオがしーんとなった。どの芸能人も神妙な顔で頷いている。泣いているアイドルもいた。ぼくはこれ以上耐えられなくて、テレビを消した。 

 ああ、胸くそ悪い。これから久々にパーッと遊ぶっていう時に、こんなもの見なければ良かった。

 ぼくは昔から、途上国支援が嫌いだった。理由はよく分からないけど、ああいう明らかに不幸な貧しい人の写真とか、そういう人のことを熱く語る人とかを見ると、無性に胸がムカムカするのだ。

 本当は、同情しなきゃいけないのは分かっている。確かに残酷なことだとは思うし、さっきの右手がない子のことだって、可哀想だよなとは思う。けど、どうにも心が入り込めない。

──想像してみるんだ。

 ふと、今神の言葉を思い出した。

 今神、お前は、こういうことも想像してみた方がいいって言うのか? こんな、ぼくたちとは全く違う世界にいる人たちのことも?

 悪いけど、ぼくには無理だよ。


 渋谷で待ち合わせをした。せっかくパーッと遊ぶ日なのに、雨こそ降っていないもののどんよりとした曇り空なのが気に喰わない。

 ぼくとタツヤとユウが三人でゲームをしていると、程なくして高藤さんと長崎さんと橋本が現れた。真っ先に高藤さんの私服に目が行って心が踊った。短い白のスカートに、赤いノースリーブはいつにも増して可愛い。さっきのテレビのことなんて吹っ飛んでしまった。

 

 ボーリング場に着いてからチーム分けのジャンケンをすると、ぼくと高藤さんと橋本がグーを、タツヤとユウと長崎さんがパーを出した。やった! と心の中でガッツポーズをする。タツヤは露骨に悔しそうな顔をした。

 受付でチーム名を書き込む紙を出されると、タツヤが我先にと前に出てボールペンを握った。自分のチーム名を「TATSUYA」と大文字の横書きで書き、「俺、こうやって書くとTSUTAYAみたいっしょ!」と言うと、女子が「ほんとだー!」と笑った。

 タツヤにボールペンを渡され、せっかくだから真似してみようという気になった。RYUUSUKEだと長くて読みにくいなと思い、「SABE」と書く。別に面白くもなんともないけど、「佐部」と書くよりはカッコいいかな、と思った。

 

 TATSUYAチームはなかなかに強かった。長崎さんはめちゃくちゃ下手だったけど、タツヤもユウもけっこう上手かったからだ。

 一方、SABEチームはあんまり点数が奮わなかった。高藤さんが弱いのもあったけど、ぼくが壊滅的にダメダメなせいだった。何故かガーターばっかりで全然ピンが倒せない。思えば、ボーリングなんて高校に入ってからやってないっけ。中学の時は百五十点とか普通にいってたのに、なんでこんなに劣化してるのか意味が分からない。

 でもぼくたちのチームが惨敗までいっていないのは、橋本が強いからだった。太って重心が安定しているからなのか、ブレないフォームでものすごいスピードのボールを投げ、ストライクをバンバンとっていた。しかし素直に喜べないのは、そのたびに「イェーイ!」と高藤さんとぼくに向けてハイタッチの手を向けてくるからだ。「お前じゃねーんだよブス!」と心の中でツッコみながら、ぼくは愛想笑いでハイタッチを返さなければならなかった。

 高藤さんがストライクを出したらこっちからハイタッチのポーズをしようと思っていたのに、高藤さんは最後までストライクを出せなかった。悔しいけど、そういう運動オンチなところも可愛くて好きだ。

 百二十九対百二十でTATSUYAチームが優勢のまま最後のフレームになった。タツヤとぼくの得点によって勝敗が決まる。九点差ならうまくいけばなんとかなるかもしれないと思っていたのに、タツヤは最初にストライクを出した上、次にスペアを取ってしまった。得点が百四十九点に跳ね上がる。

「嘘でしょ!?」思わず甲高い叫び声を上げた。「ぼく、三回連続ストライク出さなきゃいけないじゃん!」

 今日ぼくがストライクを取ったのは、まぐれの一回だけだった。これで勝つなんて不可能に近い。

「頑張って!」と高藤さんが言った。最初は気まずくて全然会話なんかなかったのに、ゲームのノリのおかげで割としゃべれるようになっていた。

 こんな冗談みたいな状況で真剣に応援してくれる高藤さんはやっぱり天使だと思った。橋本も「佐部くん、自分を信じて!」と喝を入れる。

 ぼくは立ち上がり、高藤さんの姿をしっかりと目に焼き付けて歩いて行った。汗でびしょびしょの手でボールを持ち、レーンの前に立つ。気を落ち着かせようとなんとなく上を見上げ──思わず息を止めた。

 

 高い天井が、広がっていた。あまりの高さに、急に自分がひどくちっぽけに感じられる。そして、嫌な言葉がフラッシュバックした。 

 ──我々は、コンクリートの天井を打ち破らなければならないのです!

 この天井もたぶんコンクリート製だよな、と思った。あんな高くて固いやつどうやって壊すんだよ、と微かに鼻で笑う。

 前を見た。ピンが十本、ぼくを試すかのように綺麗に並べられている。後ろを振り返ると、高藤さんが両手を合わせて必死に祈っていた。

 ここでストライクを取れたら、と思った。この一世一代の賭けの場面でもしストライクが奇跡的に、しかも三回連続で取れたら。あのコンクリートの天井だって、打ち破れはしないだろうか。子供じみた発想なのは分かっている。ぼくのストライクとコンクリートの天井に何の関連性もないのは当たり前だ。だけど、逆に考えてみた。ここでストライクすら取れないようだったら、コンクリートの天井を打ち破ることなんて、もっとできない筈だ。

 覚悟を決めて、腕を振りかぶる。中央のピンを睨みつけ、思い切り投げた。

 ボールは右から左に曲がって行き、ピンまでの道のりの半分も行かないうちにガーターに落ちた。

 後ろからは「あーっ!」という落胆の声すら聞こえなかった。振り返ると、あまりのお粗末ぶりにみんな静かにため息をついている。高藤さんも、両手を合わせたまま無表情になっていた。

 消えたかった。くそう、ともう一度天井を見上げる。好きな女の子の願いさえ叶えられないんだ。一体誰が、コンクリートの天井なんて打ち破れると言うんだろう。 

 ボーリングの後はカラオケとゲームセンターで遊び、さらにファミレスでみんなで晩ご飯を食べ、あっという間に楽しい一日が終わった。

 駅に着きみんなそれぞれの路線に別れる際、なんとぼくと高藤さんが一緒の路線で帰ることになった。しかも二人きりだ。たぶん女子の方も告白のことを知ってて、意識的に二人きりにさせてくれたのかもしれない(タツヤは最初に自分の路線を言ってしまい、高藤さんと違うと分かってから悔しそうな顔をした)。

「じゃ……行こっか」

 高藤さんが言った。やっぱり声が緊張している。みんなといた時より緊張が五倍ぐらいになったけど、できるだけ普通の声を意識して「うん」と答えた。

 高藤さんが先にエレベーターに乗ったので、後ろ姿をガン見できることになった。スカートが短いからちょっとしゃがめばパンツが見えるんじゃないかと思ったけど、流石にそんなリスクは冒せないから、代わりに細い足だけしっかりと目に焼き付けておく。高藤さんの彼氏はこんな綺麗な足を自由にできるなんて、どれだけ幸せなんだよ。 股間がまたモッコリした。

「今日、楽しかったね」高藤さんが振り返ったので、慌てて視線を上に戻した。大丈夫、バレてない。

「そうだね。ぼく、こんな風に遊んだの久しぶりだったから余計楽しかった」

「そうなんだ。私もかなり久しぶりだったよ」

「え、そうなの?」

「うん。キンタの事件があってから、なんか、色々怖くなっちゃってさ」

 いきなりそこに踏み込むのかよ、高藤さん。 

「トラウマっていうか、なんか、人と接するの怖くなっちゃって」

「そうなんだ。明るく振る舞ってたから、立ち直ってたのかと思った」

「ううん。みんなを心配させたくなかったから無理してただけで、本当は全然そんなことないんだ。犯人も、分からないままだしさ」

「え?」聞き間違いかと思って訊くと、高藤さんははっきりとした口調で、「土井さんは、犯人じゃないと思う」と言った。

 ホームに着いた。高藤さんがリードしていき、ベンチの方に向かう。あえて一つ奥に座り、ぼくの分を空けてくれていた。おそるおそる高藤さんの横に座る。こんな風に一緒に座るのは初めてのことで、めちゃくちゃドキドキした。バッグを股間の上に乗せ、モッコリを隠す。

「なんで、そう思うの?」

 ドキドキとムラムラを押し殺し真面目な顔で訊いた。今神とぼく以外にもそう考えている人がいるなんて思ってもみなかった。

 高藤さんはうつむき、白い太ももの上で軽く握った自分の手の辺りを見ながらゆっくりと答えた。

「私、土井さんと一回だけしゃべったことがあるの。いつも、キンタには昼休みと放課後に餌をあげてるでしょ。去年の十二月ぐらいにね、係の仕事で昼休みずっと仕事がある時があって、昼休みが終わる三分前ぐらいに急いで教室戻ったら、土井さんがキンタに餌をやってたの。私びっくりして、『どうして餌やってくれてるの?』って訊いたら、土井さん、驚いてから恥ずかしそうに、『高藤さんが餌あげられないかもしれないと思ったったから』って言ったんだ。だから、その土井さんがキンタをあんな風にするなんて、どうしても思えなくて」

「そんなことあったんだ」小声でつぶやく。あの土井がそんな親切を働いてたなんて、知らなかった。

 左の方がピカッと光る。ゴオーッと音を立て、電車がホームに向かって来ていた。

「保健室で泣いてたら土井さんが犯人って聞かされた時、信じられなかった。でも土井さん、カッター持っててしかも自分がやったって言ったんでしょ。それだけの証拠があるなら否定できないし、それにキンタが死んだショックで頭混乱してたし、私、何も言わなかったの。だけど、そのこと今すごい後悔してる。停学期間が終わってからもう一ヶ月経つのに、まだ土井さん学校来ないから。土井さんじゃないと思いますって私がすぐに言ってれば、土井さん、こんなことになってなかったかもしれないのに」

 そんなこと考えてたんだ。ぼくと今神以外に土井のことを心配している人なんて一人もいないと思っていたけど、高藤さんもちゃんと心配していたんだ。

 電車が止まり、扉が開いた。高藤さんは立ち上がる素振りを見せず、続けた。

「私、最低だよね。しかも、後悔してるとか言いながら、今からだってそのこと言えばいいのに、今更言ってもムダだって思ってる」

「最低じゃないよ。事件の日は本当にショック受けてたんだから仕方ないし、今更言ってもしょうがないってぼくも思うし。でも、そうやって心配してるだけで、土井、嬉しいと思う」 

 ぼくは言ってから、あれ、と思った。

「ていうか、どうしてこんな話、ぼくにしてくれるの?」

「だって、佐部君も、土井さんのこと心配してたでしょ」

「え?」

 それまで首を高藤さんの方に少しだけしか傾けていなかったぼくは、思わずまともに高藤さんの方を向いた。高藤さんも、うつむいていた顔をぼくの方に向ける。目が合い、これ以上速くなることはないと思っていた心臓の鼓動がさらに速くなった。

「だって佐部君、ずっと何かに悩んでたでしょ。ひどくなったのは最近だけど、その始まりって、あの事件が起きた後だったもん。あの事件の直前に保健室で土井さんと佐部君が話したってリコから聞いたから、心配してるのかなって思ってたんだけど、違うかな?」 

 すごい、高藤さん、そんなことにまで気づいてくれていたんだ。ぼくは見つめ続けるのが耐えられなくなり、目を少し逸らしてから「うん、心配してた」と答えた。

「やっぱり。どんな話をしたの?」

「ちょっとだけしか話さなかったんだけど、生きてる意味が分からないって言ってた。なんでそんなこと言ったのかなとか考えたら、あいつ本当に犯人なのかなとか思って。それで、病んでた」

 本当は、ゴールデンウィーク明けにはだいぶ気にしなくなっていて、でも今神が「想像してみろよ」なんて言ってきたからここまで心配するようになったのだけど、今神のことを話すと複雑になるから省略した。

 高藤さんはしばらく黙ったあと、ポツリと言った。

「私、やっぱ最低だ」

「え?」また高藤さんの顔を見て、ギョッとした。泣きそうな顔をしていたからだ。 

「やっぱり土井さん、あの事件で犯人になっちゃう前から辛かったんだ。ずっと一人だったの、やっぱり寂しかったんだ」

 震える声で続ける。

「私、土井さんが寂しそうにしてたの気づいてた。一緒の教室にいて気づかないわけないじゃん。でも、話しかけなかった。もう私にはグループができてて、土井さんはその、暗いから、あのグループには入れられないって思っちゃったの。もし無理矢理入れようとしたら、私が変な目で見られるって」

 それは、分かる。友達の輪ってそういうものだ。

「それで、『土井さんは一人でも平気な人なんだ』って自分に言い聞かせたの。そんなわけ、絶対にないのに! 人と関わらない人生が楽しいと思う人なんて、いるわけないじゃん!」 

 人と関わらない人生──。そのフレーズを聞いてふと、半年ぐらい前にたまたま見た中高生の不登校・ひきこもり問題についての特集を思い出した。


 その特集では半年間家から家から出ていない中学生の男の子がいる家庭をクローズアップしていて、外に出るよう何度も説得しては息子にキレられる母親の苦悩を写した後、コメンテーター達が活発に議論した。

「やっぱり、学校に行けないのは可哀想ですよね」とある女性が神妙な顔で言うと、いつも鋭い切り口からの発言で世間を賑わせている芸能界のご意見番のような男が、「なんでそう決めつけるんですか?」と怒ったように返した。

「学校が辛かったら休ませてやればいいじゃないですか。学校に行かなければならないっていうプレッシャーがね、逆に子供を追い込んでるんですよ。いじめがあるかもしれないし、すごく怖い教師がいるかもしれない。そんな学校、行く必要がどこにあるんですか? 現に今のケースは、本人が行きたくないって言ってるんでしょう? だったら本人の意思を尊重してやればいい。無理矢理行かせようとすると逆効果ですよ」

 すると、またさっきの女の人が返した。

「そりゃ、私だって学校が全てとは思ってませんよ。だけど、今行っている学校が辛いなら転校するとか、あるいはフリースクールに通うとかっていう選択肢もあるわけじゃないですか。私は、友達と関わらずに一人で篭っていることが問題だと言っているんです」

 男は、なるほどと納得するかと思いきや、負けじと言い返した。

「だから、それはあなたの価値観でしょう? どうしても人とのコミュニケーションが苦手で、一人でネットやゲームをやってれば幸せだっていう人も一定数いるわけじゃないですか。今の時代、パソコン一台あれば退屈なんてしないし、ネット上で人とコミュニケーションもできるんです。その気になれば、仕事だってできる。色んな生き方があるのに、何が何でも生身で人と関わる人生じゃなきゃダメって言うのは、エゴだと思うなあ」

 女の人はまた何か言い返そうとしたけど、そこで司会者が「まあまあ」と二人の議論を収めて次のVTRに移り、ぼくは「男の意見の方が正しいよなぁ」とぼんやり思いながら、チャンネルを変えたのだった。


 だから高藤さんの言ったことも決めつけだよなぁ、とは思いながら、でもその真剣な叫びに気圧され、ぼくはどう考えていいか分からなくなった。

「土井さんさ、休み時間ずっと絵描いてたじゃん」高藤さんが声の調子をぐっと下げ、静かに言った。「友達がいない子って普通、休み時間に一人でいるのを誰かに見られるのがキツいからトイレとかに隠れたりするのにさ。土井さんは十分休みも昼休みも、ずっと自分の机でアニメの絵を描いてたでしょ。あれさ、『何描いてるの?』って、誰かに話しかけてもらいたかったんだよね」

 ガーンと頭を殴られる様な衝撃を覚えた。そうだ、土井はいつも絵を描いてたんだった。どうして思い出せなかったんだろう。

「土井のSOSは、あれだったんだ」思わずつぶやくと、高藤さんが一瞬「え?」という様子でぼくを見てから、「そうだね」と言った。そしてまたうつむき、ついに涙声になった。

「私、無理してでもグループに入れれば良かった! それが無理でも、時々私だけでも話しかけるとかできたのに! 私、本当に冷たかった」

 うつむく高藤さんを見ながら、ぼくは「でも、高藤さんが土井のこと気にしてて良かった」と言った。

「ぼくが最近おかしかったのはさ、土井が学校に来なくなったことそのものより、そのことを誰も気にしてないことが悲しかったからなんだ。クラスメイトが何日も学校に来てないのにみんな知らん顔なんて、薄情者ばっかりじゃんって。高藤さんもそうなのかなって正直思っちゃってたけど、そうじゃないって分かって良かった」

 やっぱり、ぼくが好きになった人だから。心の中でキザなセリフをつぶやくと、高藤さんは顔を上げ、またぼくを見た。今度は、しっかりとした目だった。

「私以外にも、土井さんのこと心配してる人、いると思う」

「え?」

「みんな、何も思ってない筈ないよ。たぶんみんな、私みたいに土井さんのこと心配してるけど、恥ずかしかったり、意味がないような気がして表に出さないだけだと思うんだ。だって、私がそうだったもん。それに佐部君だって、人から見たらなんで悩んでるのか分からないと思うし。私は、たまたま予想できたけど」

 ハッとした。表に出していないだけで実は心配している人がいるかもしれないなんて、考えたこともなかった。ぼくだって確かに、「土井のことで悩んでます!」とみんなの前で口に出した覚えはない。現に吉村だって、ぼくが受験勉強のストレスで荒れているのだと思っていたじゃないか。なぜぼくだけが、土井のことを心配しているなんて思ったんだろう。

 だけど、もう少し考えて、本当にそうだろうか、と思った。

「でもさ、たとえばタツヤなんか絶対心配なんかしてないって。そんなキャラじゃないもん」

「そんなことないって。じゃあ、佐部くんは『そんなキャラ』なの?」

 うまいことを言うな、と思った。反論できない。

「ね、だから、佐部君、みんながみんな冷たい人だと思わないで。そうすれば、もう少し楽になれる気がするの」

 高藤さんは真っ直ぐぼくを見つめ、そして、ふっと笑顔を作った。 

「人って、意外と優しいんだよ」

 まじまじと見つめ返す。高藤さんの言葉がすっとぼくの中に入り、温かく溶けていった。

「そっか」言葉が無意識に漏れる。「そうかもしれない」

「そうだよ」高藤さんが力強く頷く。

「なんか、ありがとう。ちょっと元気出たかも」

「でも、佐部君、おとといも急に元気になったよね。なんで?」

 木坂先生の話をすると、高藤さんは真剣に聞いてくれた。ついでに、鈴木先生がHRでぼくに話したことも伝える。

「だから、今は土井が心を開くのを待つことしかできないと思う」

「そうだよね」高藤さんは、自分に言い聞かせるように頷いた。「結局、木坂先生の言う通り、一生懸命学校生活を送ることしかできないよね」

「うん」そう言ってから、また、あれ、と思った。

「もしかして、この話をするために、今日のボーリングの誘いに乗ったの?」

「それもあるけど、あともうひとつ、言ってなかったことあったなって思って」

 そう言って、少し気まずそうにもじもじする。まさか。ドキドキしながら「何?」と訊き返すと、高藤さんがはにかみながら言った。

「私を好きになってくれて、ありがとう」

 ズキューン! と、恋の矢が心臓を射抜いた。 

「あのときは緊張しちゃって、近くに高橋君もいたから逃げるようにしちゃって、本当にごめんね。でも、自分を好きでいてくれる人がいるなんて、すっごくありがたいことだよね。本当は、めちゃくちゃ嬉しかったんだよ」

「でも、彼氏いるんじゃ」

 掠れ声で訊くと、高藤さんは「まあ、いたんだけど」と言ってから、急におどけるような口調になった。「別れちゃった」

「マジで!?」思わず甲高い声を出す。「てことは、今、フリー?」

「まあ、そうだけど」

「え、ちょっと待って、彼氏とは何ヶ月付き合ってたの?」

「一ヶ月だけ。お互い好きだと思ってたんだけどね、付き合ってたら違うなってなって」

 よっしゃあ!! ぼくは心の中でガッツポーズをした。一ヶ月だけなら大丈夫だ! 高藤さんは、処女だ!!

「じゃ、じゃあ」ごくりと唾を飲み込む。「ぼくと付き合ってもらうことはできない?」

 散々色んな話をしたおかげか、自分でもビックリするくらいさらりと言えた。

 高藤さんはクスッと笑ってから、「だーめ!」といじらしく言った。「私、好き同士じゃないと絶対に付き合わないって決めてるの」

 淡い期待が一瞬で粉々になる。 

「じゃあ、一緒にご飯食べに行くだけでも」

「二人きりで?」

「う、うん」

「それも、だめ! 好きな人じゃなかったら男の人と二人で出かけないことにしてるから!」

 がっくりと肩を落とすぼくに、高藤さんはにっこりと笑った。

「だから、私と付き合いたかったら頑張ってね!」

 そして、急に立ち上がる。

「私、実は反対方向だから! じゃあね!」

「え、ええ?」

 突然の事に戸惑っているうちに、高藤さんは反対側の電車まで駆けて素早く飛び乗った。タイミング良く扉が閉まる。高藤さんがぼくの方を振り返って、笑顔で手を振った。ぼくも振り返しながら、力なく笑う。

 高藤さんが見えなくなってからも、ぼくはしばらく口をゆがめてニヤニヤしていた。

「私と付き合いたかったら頑張ってね」か。すごい事を言う人を好きになっちゃったんだなぁ。

 でも──。高藤さんを好きになって、良かった。


 久しぶりに太陽が顔を出し、街を明るく照らした。

 天気予報によると、今日からしばらく「梅雨の晴れ間」というやつらしい。じめじめとした湿気が急になくなって、カラリと気持ちのよい気候になった。

 それから一週間、ぼくは絶好調だった。どの授業も積極的に受けたし、友達とは大いに笑った。

 何より、教室や廊下で高藤さんと目が合う度、意味ありげにニコッと笑ってくれるのが最高だった。二人にしか分からない秘密を共有しているような不思議な絆が感じられた。

 なんか色々あって一時期は本当にヤバかったけど、あの鬱々とした日々が嘘のように思えるほど爽快な毎日だった。木坂先生のおかげでもあるけど、高藤さんも木坂先生に負けないぐらい良いことを教えてくれた。

──人って、意外と優しいんだよ。

 教室で授業を受けている時、教壇に立つ先生やみんなの後ろ姿を見ながら何度もその言葉を思い出し、そうじゃないか、と一人で頷いた。ぼくが調子悪かった時、みんな心配してくれたじゃないか。いじめも差別もないし、ちょっとタイプが合わなかったり空気読めないやつはいるけど、基本的にみんな優しくて良い人だ。土井のことを心配してる人だって、気づかないだけでたくさんいるに決まってる。

 天気のせいだけじゃない、世界が確かに、明るくなった気がした。

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