第1章 日常の崩壊
「長所」という二文字を見つめて考える。長所、長所。うーん、もう分からない。
「隆介、俺の長所って何かな?」
隣の席からタツヤが話しかけてきた。開いた口から少しだけ出っ歯がのぞく。
「え、ないでしょ」
「いやいや、なんかあるだろ! 友達じゃん?」
「分かんないって」
「じゃあ短所は?」
「うーん、まずうるさいところでしょ。あと空気読めないところと、集中力がないところ」
「なんでそっちはスラスラ出てくるんだよ!」
バシッと腕を叩いてツッコまれる。ぼくは笑って、自己分析シートに目を戻した。
長所は飛ばそう。短所もいいや。残りの項目は……「高校時代に一番力を入れた事」、「好きな言葉」、「将来の夢」。ああ、無理だ。考えようとしただけで、きゅっと心臓が小さくなる気がした。
高校三年生に上がって二週間。今まで見て見ぬフリを続けてきた「進路」という難敵に、否応無く向き合わされ始めてきている。
「今この時期にきちんと将来のことを考えて準備しておくことが大切です」と校長先生が始業式で言った時、体育館中で一斉にため息が漏れたんじゃないかとぼくは思った。学校の先生も塾の先生もお母さんも、大人は最近みんなそればかりだ。もう耳タコだっつーの。
いや、考えなきゃいけないのは分かる。だって、大人になったら人生の大部分は仕事をしなければならないし、仕事選びを間違えないためには大学選びからきちんと考えなきゃならない。そんなのは分かってるけど、「将来」なんて言われても、やっぱりピンと来ない。近いようで全然遠い。
──こういうのを、「アイデンティティ・クライシス」と言うらしい。日本語で自己同一性の欠如、だっけ。このトシゴロの若者がよく陥る悩みに平凡に陥ってしまっているのが、なんだか悔しい。
現実逃避しようと、少し顔を上げて斜め右前を見た。高藤さんの席だ。
友達としゃべっている高藤さんの横顔はやっぱり可愛かった。ぱっちりとした二重に黒髪ショートというぼくのツボを二つとも押さえたルックスはいつ見ても飽きない。あぁ、あの小柄な体を後ろから抱きしめられたらな……。
「はーい、そこまで!」
せっかく妄想をし始めようと思ったのに、担任の鈴木先生の一声で現実に戻されてしまった。
「まぁ、全部は書けてないだろうな。急で悪いんだけど、明日提出な。来週からの二者面談で参考にさせてもらうから」
えー!というみんなのブーイングを「まあまあ」といつも通り笑って抑えてから、鈴木先生は「今度はこれだ」とまたプリントを配り始めた。後ろに回す時に苦々しい顔をしているみんなの顔を見て、だいたい予想がついてしまう。
「進路希望調査書だ。学校じゃ書きづらいだろうから、今やった自己分析シートを元に家で書いちゃってくれ。親御さんからちゃんとハンコを押してもらった上で、やっぱり明日提出でよろしく!」
自分がうっかり配り忘れてたくせに、鈴木先生は調子良く言った。さっきより大きい「えー!」が教室中に響く。ぼくも思わず叫んだ。進路希望調査書を書くだけでも嫌なのに、親にも見せなきゃいけないなんて。ありえない。
「どうしたんだよ、今日ずっと元気なさそうにして」ユウが訊くと、タツヤが「分かる?」と顔をあげた。
都立西武高校から徒歩五分のところにある中央公園。ぼくとタツヤとユウの三人は、放課後ここでダベることを日課としている。
「俺さ、三ヶ月前から高藤と付き合ってんじゃん?」
タツヤが暗い調子で言う。
この話を聞いてもぼくが嫉妬で狂わないのは、「付き合ってる」というのが現実の話じゃないからだ。半年ぐらい前にたまたまぼくと同じ人を好きになったタツヤは高藤さんを好きなあまり、なんと「脳内で付き合う」という暴挙に出た。それ以来、「昨日手繋いだんだよね!」とか「キスしたらめっちゃ甘かったの!」とか、ヤバイ妄想をぼくとユウに嬉々として話している。もちろん冗談だと分かってるからぼくたちは大笑いするんだけど、二割ぐらいはマジで引いている。
今日はどんな話が聞けるんだろうと思ったら、タツヤは予想の斜め上をいく発言をした。
「実は、昨日別れたんだよね」
「はあ!?」
あまりの衝撃に、ぼくとユウは二人揃って声を上げた。
「別れたの? 脳内なのに?」ユウの声が裏返る。
「うん、喧嘩しちゃって。あいつの誕生日祝い忘れたの、やっぱ相当気にしてたみたいでさ……」
また二人で揃って吹き出した。腹を抱えてゲラゲラ笑う。
笑いながら、やっぱりタツヤは凄いな、と思った。仲の良い友達にとはいえ、どうしてこんなに恥ずかしい話を赤裸々にできるんだろう。ぼくは、高藤さんのことが好きなことを二人にずっと秘密なままなのに。
「お前、付き合うだけならまだしも、別れるっていよいよヤベーって」
笑い過ぎてずれ落ちそうになったメガネを直しながら言ったユウも、こんな話は絶対しない。塾の女子ともう一年も付き合っているらしいけど、何を訊いても「秘密」で通してしまう。顔が良くて勉強もできて、しかもクール。一緒にいると楽しいけど、たまに嫉妬する。
ひとしきり笑ったあと顔をあげると、公園の反対方向に、ランニングしている野球部の姿が見えた。少しだけ目を細めてそれを見る。
入学式の時、「部活こそが青春です」と校長先生は言った。部活動で人間性が形成され、一生の友になるかもしれない人に出会えると。
確かにそうかもしれないけど、それが全てじゃないと思う。放課後毎日こうやって仲のいい友達と一緒にくだらない話をして、飽きたら帰る。そんな何気ない日常も、ぼくにとっては大切な青春だ。
家に帰ると、お母さんが晩ご飯を作っていた。
「お帰り。ちょっと隆介、ニュースすごいよ」
まだ椅子に座ってもないのに、悲しそうな声で言う。テレビを見てみると、夜の七時のニュースが流れていた。
四十歳の男が、自分の母親をバットで殴り殺したらしい。中学生の頃からひきこもりで、ずっとニートだったそうだ。
「何でこんな事件が起きちゃったんだろうね」
お母さんがため息まじりに言った。お母さんはニュースを見ながらよくこういうことを言うけど、ぼくはあんまりなんとも思わない。ニュースで放送される事件なんて、現実離れしたものばかりだからだ。小学生のいじめ自殺も女子高生の痴漢も中東で起こったテロも、全部ぶっ飛びすぎて、全然身近に感じられない。ていうか、自分には関係ないし。
「さあね」とだけ言って、洗面所に行った。うがいと手洗いをする。
鏡に写った自分の姿を見つめた。いつ見てもパッとしない顔で、ため息が出そうになる。良くも悪くもなく、普通の顔。ぼくは普通ばっかりだ。背丈も勉強も運動神経も、全部普通。もしぼくがマンガの主人公だったら、たぶん最初のページは「やあ、ぼくの名前は佐部隆介。どこにでもいる普通の高校生!」で始まると思う。
リビングに戻ると、テーブルに晩ご飯が置いてあった。
「今日は学校どうだったの?」
椅子に座ると、お母さんも向かいの椅子に座りながら訊いてきた。これもお決まりのセリフだけど、いい加減やめてほしい。小さい頃は学校であったことなんかを一から十まで話してたけど、中学生にもなるとなんだか得体の知れない気恥ずかしさを覚えてきて、ほとんど話さなくなってしまった。まあ、反抗とかは滅多にしないし、けっこう仲良い親子だとは思うんだけど。
「普通だよ。いつも通り」
「そう」
会話がなくなり、自然とテレビの方に視線が行く。政治のニュースに切り替わったけど、意味はさっぱり分からない。何か話題がないかと考えて、ちょうどいいのを思いついた。
「あのさ、ぼくの長所って何かな?」
「長所?」
「うん。今日、自己分析シートってやつ学校で書いたんだけど、長所とか短所って自分じゃ分かんないじゃん?」
「そうねえ」
手を止め、少し考えてくれた。お母さんは基本的にぼくの話を真剣に聴いてくれる。
「明るくて穏やかなところじゃない?」
「そ、そうかな」自分から訊いておいてなんだけど、こうやって面と向かって言われると、やっぱり恥ずかしい。
「嫌なことがあっても一晩経てばだいたい元気になるし、人を馬鹿にしたり、怒ったり責めたり絶対にしないでしょ。そこが隆介のいいところよ」
言われてみると、確かにそうかもしれない。波風立つようなことはあんまりしていない気がする。
「じゃあ、短所は?」
「言うと思った。ちょっとのんびりしすぎてるところかな。将来に対する危機感がないから心配だよ。進路の方はどうなの?」
げ。こうなる気は若干してたけど、やっぱりこんな話するんじゃなかった。
「ちょっと待って」と言って、鞄からプリントを取り出す。
「進路希望調査書。学校に提出しなきゃいけないんだけど、親のハンコが必要なんだって。よろしく」
放課後にちゃちゃっと殴り書きした進路希望調査書を手渡すと、お母さんは少し眺めてから、予想通り眉を寄せた。
「第一希望と第二希望はいいけど、第三希望のこれ、何よ? ちょっとレベル低すぎない?」
「それは、落ちた時用で」笑ってごまかしてみるけど、お母さんは笑わなかった。
「あのねえ、別に特別いいとこ行かなくていいっていつも言ってるけど、こんなに低いところは流石に困るの。あんたはやればそこそこできるんだから、このランクは絶対ダメ」
「マジで? 絶対?」
「絶対」
くそう。ぐ、と歯ぎしりをする。
うちは母子家庭だ。借金を作り過ぎたとかで、お母さんはぼくが二歳の時に離婚届を父親に突きつけた。物心ついてからは小学生の時に一度だけ父親に会ったことがあるけど、子供ながらに「嫌な人だなあ」と思ったぐらいだから、相当ろくでもない人なんだろう。でも、父親不在という遍歴がぼくの心に穴を開けているかといえば、そんなことは全然ない。
まあとにかく、そんな父親を見て来たお母さんが、ぼくには真っ当な大人になってもらおうとある程度のレベルの大学に行ってもらいたいと望む気持ちは一応分かる。
でも、なんかなあ。お母さんがギリギリ許すランクの大学は難しいところじゃないけど、確実に入るとなるとそこそこ真面目に勉強しなくちゃならない。遊ぶ時間は確実に減るだろう。「将来の安定」なんていう漠然としてよく分からないもののために、今やりたいことを我慢してつまんない勉強に打ち込むなんて、いまいち納得できない。
早くこの食卓から消えたくて、ご飯を一気に口に入れた。
自分の部屋に入ってパソコンを起動し、いつもの無料動画サイトを立ち上げる。大好きな深夜アニメの第六話を再生した。著作権的に違法な動画だって分かってるけど、知ったこっちゃない。
オープニングが流れた瞬間、さっきまでの暗いモヤモヤとした気持ちが一瞬で吹き飛んだ。キャラクター達がアップテンポな曲に合わせて動き回るのを見ると、現実の嫌なことなんて忘れてしまう。
平凡な男子高校生が美少女の宇宙人や未来人と一緒にハチャメチャな毎日を送るという、日常と非日常を絶妙に混合させたこの深夜アニメは、中高生の、特に男子を中心に十年前ぐらいに大ヒットしたらしい。ぼくはもっぱら少年マンガ派だからこういうオタク系のアニメは敬遠してたんだけど、やたら勧められて見てみたら見事にハマッてしまった。うまく分からないけど、夢中にさせる何かがある。
本編を見ながら、あぁ、と切実に思った。この世界で生きていけたらいいのになぁ。
このアニメの世界には、現実にある嫌なもの──受験勉強とか頑固な親とか将来の不安とか──が一切ない。それが心底うらやましい。
だいたい、出てくる女の子が可愛すぎるんだよな。同じ女子高生でも、現実の方は悲しくなるくらいブスばっか。彼女にしていいと思える可愛い人なんて、クラスに数人しかいない。アニメには絶対出てこないようなブスが現実にはどうしてあんなに多いのか、マジで意味が分からない。まぁ、ぼくも人のことは言えないけど、でも、ブスではない。
高藤さんはアニメのキャラクターに負けないぐらい可愛いけど、めちゃくちゃ遠い存在だ。どうやったらあんな可愛い子と仲良くなれるんだろう。
ユウの彼女、可愛いんだろうな。絶対セックスしてるよな。くっそう、このアニメの女の子とセックスできたらな。
とかなんとか思いながら見ていると六話があっという間に終わり、地味な現実に帰ってきた。しばらく天井を見上げてから、観念する。
カバンを開けて、ファイルから自己分析シートを取り出した。適当でいいから埋めてしまおう。
お母さんが言ってくれた、長所と短所は書き込めた。
次は、「高校時代に一番力を入れた事」か。一分ほど考えて、やっぱり思いつかず頭を抱えた。ぼくは部活もやってなければ行事にもどれひとつとして一生懸命になったことがない。後回し。
「好きな言葉」ねえ。マンガの名言だったらいくらでもあるんだけど、ダメだろうな。こういうときは検索するに限る。
パソコンで「偉人 名言」と検索した。色々なものが出てくる。調子いいことばっかり言ってるな、と思いながら見ていくと、少しだけ目に留まるものがあった。
『人生に必要なものは、勇気と想像力と、ほんの少しのお金です』
──チャールズ=チャップリン(映画『ライムライト』より)
ふーん。なんかよく分からないけど、『ほんの少しのお金』ってオチがいいな、と思って書き写した。書いてから、「人生に必要なものを決めつけるのなんて偉そうだな」と思った。
さて、最後は「将来の夢」だ。マジで分からない。一番難しいし、一番考えたくない質問だった。
昔は、将来の夢はあった。ぼくは色んなものにすぐ影響されやすくて、探偵もののアニメを見たら探偵になりたいとか、消防車の救出活動を見たら消防隊員になりたいとか、お母さんに自信満々で言ってはコロコロと夢を変えていた。
だけど、中学三年になってから、パタリとなくなってしまったのだ。分からなくなってしまったというよりかは、そもそも何かを目指す気力がなくなってしまった。
それでもなんでもいいから適当に書けばいいんだ、と思うけど、先生に訊かれた時に動機をどう話せばいいか分からず、やっぱり書けない。
十分ほど考えてからやっぱり無理だと思い、本棚を眺めた。漫画がずらっと並んでいる。ぼくは大の漫画好きで、趣味といえば唯一これだけだった。少し葛藤してからやっぱり誘惑に負け、“ONE PIECE”を一冊手に取る。
結局ぼくはこの日、自己分析シートを埋めきれなかった。
英文をノートに写しながら、つい眠りに落ちてしまった。顔をあげて書き直すけど、またすぐに意識を失ってしまう。ブルブルと頭を振って、周りを見渡してみた。
見ると、実に半分近くの生徒が睡魔と闘っていた。みんなこっそりとノートに落書きをしたり、手にシャーペンを突き刺したり、様々な方法で気を紛らわせている。きちんと授業を聞いているように見えるのは十人もいなかった。
今年度新しく赴任してきた英語の齋藤先生は、五十代のおばさんだ。今日で四回目の授業だけど、最初の授業を受けて数分もしないうちに、クラス全員が理解した。この人の授業は、つまらない。説明がヘタな上に、テンポもめちゃくちゃ悪いのだ。
だったらせめて寝るか内職をすることを許して欲しいのに、それを絶対に許さない所がタチが悪い。まぁ、それでも工夫してバレないように内職している人はけっこういるんだけど。
黒板の方を向いていた齋藤先生が振り返る。
「じゃあ、この一文はどういう風に訳せるかな?」
「はいっ!!」
ビックリマークが二つか三つ付くぐらい元気な「はい」とともに手を挙げたのは、愛田優希だった。つま先までピンと真っ直ぐ伸ばしているけど、背が低すぎて大した高さになってない。
「さっきも当てたけど、まぁいいでしょう。はい、愛田さん」
「ジョンは昔、メアリーに命を救われたことがあった!」
正解、と言われて愛田は満足そうに笑い、ノートの続きを書く。
みんな睡魔と闘ってる中、どんだけテンション高いんだよ。明らかに浮いていた。
疑心とか打算とか憎悪とかいった人間の負の部分が一切無く、百パーセントの天真爛漫さでできているという、マンガやアニメにあるような設定をそのまま具現化したのが、愛田優希だった。何事にも積極的だし友達想いだし、先生たちには人気があるけど、生徒たちからは煙たがられている。
齋藤先生は次の問題をまた誰かに当てようとして教室をぐるっと見渡し、廊下側の真ん中あたりの席に目を留めた。じっと見つめてから、その席に向かう。
「吉村君、何やってるのかな?」
ガリ勉で成績優秀だけど気弱な吉村が、びくっと顔をあげた。机の下で英単語を覚えてたみたいだ。
「すみません」素直に謝って英単語帳をしまう。
「勉強するのはいいことだけど、今は授業中よ。次同じことやってたら没収しますからね。みんなも、いいですか?」
誰も答えないのに、齋藤先生は満足そうに笑って黒板に向き直ろうとし──今度は窓側の後ろの方に目を留めた。思い切りしかめ面をし、つかつかとそちらへ歩いて行く。
「本を読むのをやめなさい」
見ると──今神賢人の席だった。
途端、クラスの空気が変わった。眠りかけていた人たちが一斉に覚醒したのが分かる。
常に冷静沈着、クールで決して誰とも馴れ合わない男、今神賢人。授業は一切聴かず常に本を読んでいるのにテストでは常にダントツ一位の成績をキープしているという、孤高の天才だ。
そう、ぼくの周りには、マンガやアニメにしか絶対にいないようなキャラクターの人物が二人もいるのだ。しかもまったく両極端のタイプが、同じクラスに。奇跡としか言えないけど、これが大問題だった。
「待ってました! 久々だな、これ」
タツヤがニヤニヤしながら隣りでささやく。ぼくもワクワクしていた。
今神は一瞬だけ視線を上げて齋藤先生を見て、何事もなかったかのように本に視線を戻した。長い足を組み、本を机上に出したその様子は堂々としたものだった。タイトルを見ると、「社会主義の勃興と終焉」と書いてある。マジかよ。
「今日まで三回注意した筈よ。もう許しません」
これまでは一度注意して引き下がっていたけど、今日はとことんまでやるらしい。
今神が無言で齋藤先生をじっと見据える。いつも思うけど、なんてイケメンなんだ。彫りが深く、鼻がすっと通っている。でも目は恐ろしいほどに暗く、眼鏡の奥に光が宿っているのをぼくは一度も見たことがなかった。
今神はやがて諦めたようにふーっと息を吐くと、少しだけ顔の向きを変えた。
「何故ですか?」
深みのある、落ち着いた声だ。静かなのに迫力があった。
「はい?」自分の耳がおかしくなったのかといった様子で齋藤先生が聞き返す。今神は同じトーンで再び言った。
「何故、授業を真面目に受けなければならないのですか?」
「あなた、本気で言っているの?」
「質問しているのは俺です」
齋藤先生は一瞬黙ったあと、高圧的に言った。
「そんなの、説明するまでもないでしょう。学校の勉強をしなければきちんとした大人になれないからです」
「でも、俺はもうこんなレベルはとっくに全部分かりきっています」
「本当に全部分かっているの?」
「はい」
「じゃあ、あなたが授業をやってみなさい」
「おおっ」と何人かが言った。ベタベタなパターンだった。本当に教師はこれが好きだな。
今神は本を閉じて、ゆっくりと教壇に向かって歩いていった。黒板に書いてある長文を一瞬見てから、解説を始める。
それは圧巻だった。割と難しい単語や構文が入った文章なのに、どれが主語でどの部分が何を修飾しているのかなど、端的に分かりやすく説明していった。さっきまで難解に思えた文章が急に易しく見える。
今神が三文目を説明し終わった時、「今神先生」と言いながらユウが手を挙げた。
「何だ?」
声の低さも目の暗さも一切変えないまま、今神が無表情で訊く。
「この文章、『助ける』って訳すところが二つあって、片方には『help』が、もう片方には『save』が使われてるじゃないですか。同じ『助ける』なのに、どう使い分けてるんですか?」
ぼくも気になっていたところだった。ユウのやつ、いいところを突くな。
「それは、コアイメージで考えればいい」今神は即答した。
クラスみんなの頭の上にハテナマークが踊る。今神は続けた。
「英語には『文脈に限らず単語本来が持つ意味』というのがあって、それをコアイメージと言うんだ。『help』のコアイメージは『手』で、厳密には『手助けする』という軽いニュアンスしかない。一方、『save』のコアイメージは、『大切な物を失わないようにする』というもので、『人や命を失わないようにする』という原義を、分かりやすく『助ける』と訳しているんだ。つまり、saveの方がより深刻な場合に使うと覚えておけばいい」
「おお」と感心する声があちこちからあがった。今神はにこりともせず更に続ける。
「ちなみに、saveには『助ける』の他にも、『保存する』や『抑制する』など、色々な意味があるだろう。これらには一見法則性がないように見えるが、実は全部ひとつのコアイメージが元になっているんだ。『データを失わないように保存する』『エネルギーを失わないように抑制する』といった具合にな。このように、コアイメージを知っていれば英語がずっと体系的に理解できる筈だ」
「は、はい」
ユウが呆気にとられた表情で言った。すげえ、と顔で言っている。
「もういいわ」
教室の後ろで見ていた齋藤先生が言って、教壇の方に歩いた。努めて冷静なふりをしているけど、声の震えを全然隠しきれてない。自分でも、負けたと思ったんだろう。
「そこまでよく分かっているなら、いいでしょう。勝手にしなさい」
今神が無言で席に戻ると、齋藤先生はみんなを見渡した。
「ただし、今神君は特例です。他の人はここまで分かっている筈ないんだから、他のことをやるのは許しませんからね」
「先生」
また今神だった。席に座ったまま、齋藤先生をじろりと睨んでいる。
「分からないんですか? そもそも、『授業をちゃんと聴きなさい』と言うことが、自分の無力さの証明になっていることに」
「なんですって?」信じられないと言う顔で甲高い声を出した齋藤先生を、今神は眼鏡越しに鋭く睨みつけた。静かではあるけど、怒りをたたえているように見える。
「あなたが本当に有能な教師で授業が素晴らしかったなら、注意なんか一切せずとも、全員集中して授業を聴くんじゃないですか? 眠ったり内職をしたりする生徒がいるというのは、それだけあなたの授業がつまらないということです。そんなことも分からないんですか?」
齋藤先生は血相を変えて今神を見つめた。みるみる真っ赤になり、こめかみがピクピクと震える。「そんな失礼なことを」と言いかけて、今神に遮られた。
「しかもその原因が自分にあると認め反省するどころか、生徒が悪いとみなして偉そうに注意するなんて、どういうことです? 何故あなたのつまらない、無益な授業を我慢して、貴重な時間を割いて聞かなければならないんですか? 責められるべきは俺たちではなく、あなたではありませんか?」
「失礼だって言ってるでしょ!」
ついに齋藤先生は泣き出してしまった。生徒にここまで、それもクラスの皆の前でけなされるなんて初めてのことなんだろう。
「俺が失礼かどうかと、俺の言っていることが正しいかは別の問題です」
今神が淡々と言った。教室が静まり返る。
今神はこれまで何度もこのやりとりをしてきた。どんなに頑なな先生にも怖い先生にも一歩も譲らず、ひたすら冷静に議論をして黙らせてきた。去年からいる先生は、もはや誰一人として今神を注意できない。それほどに今神は強かった。
「もうやめて!」
そのとき叫んだのは──愛田優希だった。またみんながざわつく。このパターンも久しぶりだったからだ。
「先生、泣いてるじゃん!先生を泣かせるなんてひどいよ!」
愛田はそう言ってゆっくりと立ち上がった。目を真っ赤にはらして泣いている。齋藤先生の倍以上は涙を流しているんじゃないかと思うほどだった。どんだけ感受性強いんだよ。
「どこがひどいんだ?俺の言ったことのどこが間違っているのか説明しろ」
「だから、人を傷つけていることが悪いって言ってるの! 先生は下手でも健気に授業してくれてるじゃん!」
ぼくは思わず吹き出しそうになった。ここまでストレートに傷をえぐれるとは、流石だ。齋藤先生を見てみると、案の定ものすごい形相で愛田を睨んでいた。
まさにこれが、愛田優希の欠陥だった。優しいし誰よりも正義感に満ちあふれてるけど、突っ走り過ぎて人の気持ちが考えられない。無神経なことを言って人を傷つけながら自分は誰よりも良いことをしていると迷いなく信じ込んでいるという、非常に厄介な性格をしている。
ところがこんなヤツが、この都立西武高校で唯一、ぼくと同じ中学出身の人間なのだ。ホント、どうしてよりにもよってコイツなんだろう。
今神が再び口を開いた。
「店で買った商品に不備があったらどうする? クレームを言ったり商品を交換したりするよな? そんなことは当たり前の権利として認められているのに、どうして教師の授業には何も言ってはいけないんだ?」
「私はどんな欠陥商品でも大切にするよ! もったいないでしょ?」
「もういいです!」
齋藤先生が金切り声をあげた。血走った目で二人を睨みつける。
「好きにしなさい!私の授業がそんなにつまらないなら、寝るなり内職するなり好きにすればいいじゃない!」
涙を拭いて、齋藤先生は授業を再開した。根性はすごいと思ったけど、なんだか哀れだった。
今神の方を向くと、もう本に視線を戻している。勝ち誇ったように笑うでもなく、何事もなかったかのように静かに自分の世界に入っていた。ものすごい速さで目を動かし、十秒に一度くらいのペースでページをめくっていく。いつものように、チャイムが鳴る頃にはもう次の本を読んでいるんだろう。
「いやー、久しぶりに面白いもの見たな!」購買で買ったパンをかじりながら、タツヤが嬉々として言った。
「確かに最近なかったな」ユウが弁当の唐揚げを頬張る。「齋藤先生はともかくとして、愛田もよく懲りないよな。もう何度目? 今神に泣かされるの」
屋上前の階段は、どのクラスも掃除する区域に入っていないせいでいつも埃にまみれている。ぼくたち三人のもうひとつの日課は、昼休みにここで集まって昼食を食べることだ。
今神と愛田の話はすぐに終わり、昨日放送された深夜アニメの話になった。今期から始まったその深夜アニメは“萌え”色が強いだけでストーリーが薄っぺらく、ぼくは全然好きじゃない。だけどどういうわけか二人がハマッているから、ぼくも話題についていくために毎週見ている。適当に相づちをうち、愛想笑いをしながら、ぼくは意識の半分で愛田のことを考えていた。
中学で、ぼくは愛田と同じ学校なだけでなく、部活も一緒だった。演劇部だ。愛田の無神経には毎回本当に呆れていた。
バラシで一生懸命に釘を抜いている後輩に「そんなチマチマ仕事してないで」と言い捨てたり、辞めた部員を元気づけようとその人が最後に出た公演のアンケートを本人の机の中に入れたり。思い出したらキリがない。
高校で二年に上がって愛田と同じクラスになったとき、あいつも流石に少しは成長しているだろうと思っていたぼくは愕然とした。完全に中学の頃のままだったのだ。おかげでクラスでは浮きまくってるし、高校でも入った演劇部の部員達にも嫌われているらしい。
愛田はたぶん一生こういう生き方をして、みんなに嫌われながら、それでも自分が誰よりも正しくて立派な人間だと信じるんだろう。
ユウが一番先に食べ終えゲーム機を取り出し、深夜アニメの話は自然と終わった。一瞬遅れてぼくが、次にタツヤが、同じ最新携帯型ゲーム機を取り出す。そう、なぜこんなところでコソコソ集まっているかというと、禁止されているゲームをやるためなのだ。携帯電話は持ち込みアリなんだから、ゲームも許可してくれればいいのに。
プレイするのは、最近流行っているノベルゲームだ。ノベルゲームというのはボタンを押してひたすら文章を読み進め物語を進行させるゲームのことなんだけど、意外と奥が深い。大小様々なイベントごとに選択肢があり、たとえば『まっすぐ帰る』『寄り道する』という選択肢でどちらを選ぶかで、ハッピーエンドだったりバッドエンドだったりが変わってきてしまうのだ。
ぼくたちがやっているソフトは中でも少し変わっていて、主人公が中学一年生から始まり三十歳になるまでプレイするという超長編ゲームだ。ぼくの主人公は今、中学三年生。クラスメイトの美少女二人に好かれていて、どちらを選ぶか決めるところだ。ぼくより少し先に進んでいるタツヤは黒髪の方を選んだらうまくいっているらしいから、ぼくも黒髪の方を選ぶことにした。
選択する前にセーブをして、十二番のデータに保存する。こうしておけば、もしこの選択肢が間違っていたと後で分かった場合、一からやり直さずにこの時点から選択肢をやり直すことができるからだ。無数の選択肢があるこのゲームは最大百個までデータを保存できるのだけど、この機能のおかげでぼくはもう何度も昔のデータに戻り途中からやり直すことができている。
セーブしてから、ぼくはふと、四時間目の今神の言葉を思い出した。
──“save”のコアイメージは、「大切なものを失わないようにする」なんだ。
画面の中の主人公の顔をじっと見つめる。それから、「ねえ」と言った。
「ねえ、人生もさ、セーブできたらいいなって思わない?」
タツヤもユウも、同時に「はあ?」と言った。そりゃ、そういうリアクションになるよな。ぼくは早速後悔し、慌てて付け足した。
「いや、なんかさ、このゲームって、セーブしておけば何回も過去に戻れるじゃん? 全クリして三十歳になったって、中学一年の時のデータをセーブしておけば中学一年に、高校二年の時のデータを残しておけば高校二年生に戻れる。でも現実の人生って、絶対過去には戻れないじゃん。高校になったら、中学生をやり直すことなんてできない」
「急に何言ってんの?」とタツヤは首を傾げたけど、ユウは「俺はちょっと分かるかも」と言った。「まあ、過去に戻ってやり直したいことって誰にでもあるよな。あの時ああしときゃ良かったってめちゃくちゃ後悔してることたくさんあるし」
「んー、いや、後悔してるわけじゃないんだけど」
「え、違うの?」ユウが不思議そうに訊き返す。
「うーん」少し考えてから、恥ずかしくなった。「ごめん、やっぱなんでもないや」と愛想笑いをする。やっぱり最初からこんな話するんじゃなかった。
後悔していると、「別にいーじゃん、過去になんか戻れなくたってさ!」とタツヤが明るい声で言った。「俺、いっつも今が一番楽しいもん! ていうか、過去なんか戻ったらまた勉強し直さなきゃいけないの嫌じゃね?」
思わず笑みがこぼれる。本当に能天気なヤツだ。ユウも愉快そうにくっくっと笑いながら、「お前は幸せになれるよ」と言った。
楽しく雑談しながら絵を描いている内に五時間目の美術はあっという間に終わり、六時間目のロングホームルームの時間になった。鈴木先生が教室に入ってくると、自然にみんな席について静かになる。普段は四十二歳と思えないほど若々しいけど、今はなんだか表情が暗い。教壇に立つと、鈴木先生は神妙な顔で言った。
「また、カッター事件が起こった」
途端にクラス中が騒がしくなる。と言っても、恐怖じゃなくて好奇のざわめきだ。
カッター事件。三ヶ月ほど前から、校内の壁や教壇なんかがカッターナイフのような刃物で切り傷をつけられている事件だ。二週間おきぐらいのけっこうな頻度で起こっているけど、校門にだけある監視カメラの映像からして外部犯の犯行でないこと以外は、犯人の見当はついていない。先生達はめちゃくちゃ怒ってるけど、生徒達にとってはただの面白い事件だった。学校生活なんて、これくらいの刺激がある方が楽しいに決まってる。
「男子更衣室の壁に切り傷がついているのが、昼休みの後に分かったそうだ」鈴木先生は重い口調で言った。これほど怒った様子を見せるのは珍しい。
「もう先生達もさすがに我慢の限界にきている。本当は生徒を疑うことなんてしたくないんだけど、状況が状況だから言うぞ。もし万が一、このクラスに犯人がいたら、もう正直に名乗り出て欲しい。みんなの前じゃ言いづらいだろうから、全員、目を伏せてくれ」
マジかよ、とみんな戸惑った。それやるのって、小学生までなんじゃないの? でも、「ほら、早く伏せなさい」と険しい顔で言う鈴木先生を見て、みんな次々に顔を伏せた。
「絶対に顔をあげるなよ。じゃあ、犯人の人はこっそり手をあげてくれ」
耳をそばたてるけど、誰かが身動きをする音は聞こえない。ていうかやっぱり、高校生にもなってこんなんで手を挙げる犯人なんているわけないだろ。
三十秒ほどして、「よし、顔をあげていいぞ」と声がかかった。みんな一斉に顔をあげ、まぶしそうに若干目を細める。
「じゃあ、岡本」鈴木先生はタツヤの名字を言った。「後で職員室に来なさい」
「えー!」とみんなが一斉に叫んだ。言っちゃうのかよ! ていうか、タツヤ?
すかさず、誰よりも大きな声でタツヤが叫ぶ。「いや、オレ手挙げてないじゃないっすか!」
鈴木先生は急におどけた顔になった。「ん、国語の宿題を最近出してないから注意しようと思っただけだぞ?」
みんなが爆笑した。タツヤも笑って「いや、紛らわしすぎますよ!」とツッコむ。
「いやあ、俺、これ一度やってみたかったんだよな」と笑いながら言う鈴木先生を見て、一気に肩の力が抜けた。
鈴木先生は、よくこういうことをする。冗談が大好きでいつもぼくたちを笑わせにくるんだけど、たまに今回みたいに「それって教師として大丈夫なの?」って思っちゃうようなギリギリなネタもぶっ込んでくれるから、生徒からは大人気だ。
だけど真面目な時は真面目だし、「何かあったらいつでも相談してくれよ」と普段から言ってくれているように、相談をしたら本当に乗ってくれる。本当に、鈴木先生が担任で良かったなとつくづく思う。
鈴木先生はコホンと咳払いをした。
「まあ、今回のはそんなに大した被害じゃなかったことと、このクラスには犯人なんかいないと思ってるから冗談が言えたんだからな。俺は、こんな事件を起こす人はこのクラスにはいないって信じてる。大丈夫だ」
優しいまなざしで、みんなをじっくりと見渡す。それから、いつもの陽気な声色に戻した。
「まあ、犯人について何か知ってることがある人がいたら、後で職員室に来てそっと教えてくれ。じゃ、二者面談の順番を書いた紙を配るぞ」
鈴木先生がプリントを配り始めると、「なあ」と隣りの席のタツヤが小声で話しかけてきた。
「でもよ、マジで犯人誰なんだろうな?」ニヤニヤしている。
「さあ……」
「もしこのクラスならさ、俺、土井が怪しいと思うんだよね」
「土井?」
ぼくは聞き返して、廊下から二列目の一番前の席に目をやった。
超ネクラ系女子、土井明日香がややうつむきに座っている。地味だったり大人しかったりするクラスメイトはけっこういるけど、中でも土井は最悪のレベルだ。いつも一人で過ごしていて、誰かとしゃべっているところなんてほとんど見たことがない。小柄な体をさらに縮こませるような格好をしているし、顔もパッとしないし、おまけになぜか年中ブレザーを着ていて、夏のどんなに暑い日でも絶対に脱がないという変人だ。少し不登校気味で、去年の冬なんか、一ヶ月丸々学校に来なかったこともある。
タツヤはさらに声を抑えて、でも好奇心全開で言った。
「だってさ、あいつ、今神レベルで何考えてるか分かんないじゃん。いっつも暗くしててさ、友達いないし色々ストレス溜まってんじゃねえの?」
「そうかなあ」
まあ確かに、こういう事件を起こす人って、不良系よりああいう真面目でネクラ系だというのはよくある話なんだよな。
回ってきた二者面談のプリントを見ると、ぼくは今週の木曜日──三日後の十六時だった。あーあ、本当に嫌なイベントだ。
ざわざわし始めた生徒を静かにさせるため、鈴木先生は少しだけ声を張り上げた。
「この順番でやるから、どんなこと話したいか少しだけでいいから頭整理しといてくれよ」そして、にっこりと笑う。「じゃあ、次はいよいよ応援団についてだ!」
クラスの大半が高揚するのが分かった。
毎年五月に行なわれる西武高校体育祭での一番の目玉は、競技種目ではなく有志の応援合戦だ。各クラス毎に学年の垣根を超えて結束し、ダンスや演舞などで観客を魅了する。一、二年生の時は三年生の先輩の指導についていくだけだったけど、今年はぼくたちの誰かが団長をやり、三年一組はもちろん、一、二年生の一組の人達も率いて行かなくてはいけない。
審査がされて順位もつくからどのクラスも優勝を目指してかなり熱くなるんだけど、有志だから当然参加しない人もたくさんいる。ぼく含めクラスの三分の一ぐらいの無気力系の人たちにとっては、全く興味のないものだ。
「じゃあ、早速だけど団長を決めるぞ。誰か、立候補したい人は手を挙げよう」
「はいっ!!」
鈴木先生が言い終わった瞬間に手を挙げたのは、振り返らなくても分かる、やっぱり愛田だった。予想していたけど、やっぱり立候補するのか。急激に教室全体のテンションがダダ下がりになったのが分かった。苦い記憶が蘇る。
去年の文化祭で、一組は愛田が提案した演劇をやることになった。言い出しっぺの愛田が脚本と監督をやったのだけど、それがめちゃくちゃスパルタだったのだ。質の高さを追求し厳しく指導し続ける愛田にみんなうんざりし、本番後の反省会でみんなから「俺たちはただ楽しくやりたかっただけなんだよ!」と総ブーイングを浴びた。
「おお、愛田か。他に誰かやりたい人はいるか?」
普段愛田を気に入っている鈴木先生もそれを覚えていたのか、少し困り顔だった。
心の中で、誰か手を挙げろ、と願う。たぶんみんなそうしていた。だけど、手を挙げるやつはいない。みんな消極的だなぁ。ぼくもだけど。
「じゃあ愛田が団長ってことで決定だ。拍手!」
鈴木先生の拍手にみんなも合わせたが、ぱらぱらとやる気のない音しかしない。当然だ。
「じゃあ次は副団長を決めるぞ。副団長ならやりたいって人、いるか?」
「俺やりまーす」
今度は右隣から手が上がった。タツヤだ。びっくりして二度見する。
鈴木先生はまたしばらく待って他に誰も手を挙げないことを確認してから、タツヤを正式に副団長に任命した。また拍手が、今度はちゃんとした拍手が起こる。
「お前、こういうのやるガラじゃなくない?」
ぼくが訊くと、タツヤはにやりと笑った。
「オレ推薦入試狙ってるからさ、こういうとこでポイント稼ぎたいわけよ。どうせ愛田が張り切って色々やるだろうし、副団長なら楽っしょ!」
そんなもんか。でも、お気楽に見えるタツヤでさえ推薦のためにこんな面倒なことをやるなんて、意外とみんな進路のこと、しっかり考えてるのかもしれない。
「じゃあ、早速、どんな演目にするか決められるか?」
鈴木先生に応えて、二人が前に出た。愛田は胸を張って堂々と、タツヤはわざと少しだらしなさそうに歩く。愛田がキラキラと目を輝かせた。
「団長としてみんなを引っ張っていけるように頑張ります!絶対優勝しましょう!! じゃあ早速だけど、私、もう既に曲を考えてるの!」
愛田が、J-POPの曲の名前を言った。いま大流行中のドラマ主題歌だ。みんな、思わず「おお」と納得の声を出す。そう、愛田はこういうセンスは抜群なのだ。
他にも何人かから別の曲が候補に上がったけど、投票の結果、愛田が提案した曲になった。
「よかった!実はこの曲の振り付けももう考えてあったんです!」愛田が顔をほころばせて、黒板に陣形を書く。「三十六人だから、こうやって三列になって」
「え、三十六人?」
疑問の声が口々に上がった。
「応援団は任意参加だって」
瀬川が不満そうに言うと、愛田は意外そうな顔をした。
「そうだけど、でも、最後の思い出だし、参加しない人なんていないでしょう? えっと、参加しない人、いますか?」
全員が唖然とした。なんてやつだ。こんな面倒なものに全員が喜んで参加すると信じ切っているだけじゃなく、参加しない人がいるかという訊き方をするなんて。こんなの、手を挙げにくいじゃないか。
みんなもそんな空気だったけど、それでもぼく含め五人ほどが手を挙げた。
「俺はマジで受験勉強あるから」
吉村が弱々しく言うと、愛田は露骨に憤慨した。
「ちょっと、何よ!受験なんてまだまだ先でしょ?たった一ヶ月、クラスメイトとの最後の思い出作りたくないの?」
「まあまあ」とタツヤが愛田をなだめる。「みんなそれぞれ事情があるわけだし。強制参加は良くないって。なあ、今神?」
なんで突然今神に振るんだよと一瞬思ったけど、すぐに思い出した。確か去年もこうしたもめ事があって、その時に『応援団は素晴らしいっていう一つの価値観をみんなに押し付けるなよ』と鶴の一声を発したのが今神だったんだ。クラス中が今神の席に顔を向ける。
今神は珍しく本を読まずに、腕を組んで前の二人を見ていた。みんなの視線には目もくれず、数秒考えるような顔をしてから口を開いた。
「いや、強制参加でいいんじゃないか。それでもどうしてもできない人はやらないだろうし、基本的に全員強制参加でいいと思う」
おいおい、と思った。去年と言っていることが違うじゃないか。今神が自分の意見を翻すなんて初めてのことだった。その空気を感じたのか、「考えが変わったんだよ」と今神はやや小声で言った。
「お、おう、マジか。どうしましょう、先生?」
タツヤが困ったように、今度は鈴木先生に水を向ける。先生は「うーん、難しいな」と頭を掻いた。
「クラスみんなで最後の思い出を作りたいっていう愛田の気持ちはよく分かるんだけどなあ。でも強制参加にしてしまうと、『嫌だ』って声をあげられない人がいたら辛いだろうから、俺は好きじゃないんだ。だけど、『やりたいです』って手を挙げるのを恥ずかしがる人もいるだろ? だから」
言葉を切って、机のひき出しから大きくて白い紙を取り出す。
「応援団に参加したい人は、後でこの紙に名前を書くというのはどうだ?」
なるほど、これなら強制にはならないし、手を挙げづらいという問題もなくなる。みんなも口々に賛成した。
ロングホームルームが終わると、クラスの半数以上が教室の左後ろに集まった。後ろの壁に貼られた参加表明の紙に、横に紐で吊るされたボールペンで次々と名前を書き込んでいく。あっと言う間に二十人近くの名前が書き込まれ、早速始める練習にみんな校庭に行ってしまった。教室にはぼくとユウの他は数えるほどしかいない。
帰ろうとカバンを持ったら、「タツヤの副団長っぷりを見学しようぜ」とユウに言われ、渋々了解した。まあ、どうせ帰ってもやることないからいいんだけど。
四階の教室から三階の踊り場に降りた。露骨に目の前で練習を見るのは恥ずかしくて嫌だけど、ここからならそんなに目立たずに見ることができる筈だ。本当は二階の踊り場の方がもっとよく見えたけど、既に他クラスの人が同じようにしていた。
窓から顔を出すと、みんなの前で愛田が一人で踊っているのが見えた。自分で考えた振り付けを手本として見せているらしいけど、やっぱり凄い。振り付け自体も自然かつ面白いし、ダンス力も見事だ。手足を指の先までピンと伸ばしたりダイナミックに回ったりし、みんなを感心させていた。あいつは中学の時からそうだ。空気が読めないしウザいところはたくさんあるけど、ダンスや演技をやらせたら誰よりも上手い。
みんなに踊りを教える段階になると、今度はタツヤが活躍した。振りを覚えるのは他のクラスメイトより遅いけど、ムードメーカーとしていい感じに機能しているように見えた。声までは聞こえないけど、明らかにタツヤの冗談でみんなが何度も爆笑しているのが分かった。
「隆介はなんで参加しないの?」ユウが出し抜けに言う。「俺は普通に塾あるからだけどさ、隆介は塾も部活もないし、なんで?」
「だって、面倒じゃん?」明るい調子で言ったら、ユウは「ふーん」とそっけなく返した。
「なんだよ」
「いや、なんか、隆介っていつもそうだなって思って。去年の文化祭も大抵みんな何かしらの役割持って関わってたのに、隆介は全然関わろうとしなかったじゃん。修学旅行とかも、なんとなくノリきれてない感じしたし」
「そうかな?」
「うん。休み時間とか放課後は楽しそうだけど、行事になるといつも距離を置いてる感じがする」
ぼくは思わず黙ってしまう。こいつ、人のことよく見てるな。何か言おうと思ったけど、「まあ、いいんだけどさ」とユウは勝手に話を切り上げてから、「そういえば」と話題を変えてしまった。
「俺さ、塾通う日増やすことになった」
「え、マジで?」思わず声が裏返る。
「うん。今までは月、水だけだったじゃん?それが木、金も。だから火曜日しか遊べなくなるわ」
「マジかよ」
「あれだな、タツヤも副団長になったからしばらくは遊べないだろうし、もう、放課後三人でまったりって日、ほとんどなくなっちゃうな」
ズキンとした。受験生になった以上、昨日の放課後の様なのんびりとした時間が減っていくだろうことは分かっていたけど、その時がこんなに早く訪れるなんて。大切なぼくの青春が、失われていく。
できるだけ長くこの放課後を友達と一緒に過ごしたくて、というか、応援団の練習の見学が思いのほか面白かったのもあるんだけど、ぼくたちは最後まで練習を見てしまった。時計を見ると、もう十八時になるところだった。愛田が最後の号令みたいなのを言うと、みんな思い思いに解散し、近くにまとめて置いてあったスクールバッグを手に持った。砂がかかるから去年までは荷物は教室に置いておいてたんだけど、カッター事件があってからは教室に物を置きっぱなしにするのが禁止になっていた。バッグどころか、教科書ひとつでも置いて帰ってはいけないことになっている。
それぞれが校門を抜けていく中、一つだけ校舎の中に入って行く姿があった。女子だ。
「あれ、高藤じゃね?」ユウが言う。
「え?」意識して普通の音程で訊き返した。もう一度下を見るけど、もう姿は見えない。
少しして、タンタンタンと階段を駆け上がる音が聞こえた。振り返ると、本当に高藤さんが現れた。
「お前、どうしたの?」ユウが訊くと、高藤さんは「キンタに餌やるの忘れちゃってて!」と言って、そのまま駆け上がって行ってしまった。
キンタというのは、ぼくたち一組の教室で買っているでかい金魚だ。金魚を教室で飼うなんて高校じゃ普通あり得ないけど、生き物が大好きな高藤さんが「どうしても飼いたいんです!」と鈴木先生に粘り強く懇願し続け、二ヶ月かけて実現にこぎ着けたのだ。高藤さんが全部自分で世話をしているのだけど、一年近く一緒にいて愛着が湧いてきたのか、他のクラスメイトもよく可愛がっている。
突然の高藤さんの出現に密かにドキドキしたぼくは、次の瞬間、待てよ、と思った。今は十八時過ぎ。三年生のほとんどは部活を引退しているし、応援団はみんな帰った。ということは、今高藤さんは、誰もいない教室に向かっているということじゃないか? だとすると、今ぼくが教室に行けば、高藤さんと二人きりになれるってことじゃないか! つまり、告白のチャンスだ!
だけど、隣りにはユウがいる。このまま一緒に帰る筈だったのに、今四階に上がるのは変だ。「忘れ物しちゃって」作戦も……ダメだ、置き物禁止令のせいで使えない。ぼくは初めてカッター事件の犯人を恨んだ。
くそ、なんとかして、この場で教室に戻るのに自然な動機を考えないと!
「行ってこいよ」ユウが言った。
意味が分からず、「え?」と訊き返す。
「お前、高藤のこと好きなんだろ。告白のチャンスだぞ」
ぼくは目を丸くして、ユウのことをまじまじと見つめた。ウソだろ!?
「え、いや、その」
「バーカ。お前、いっつも高藤のことばっか見てんじゃん。タツヤが高藤の話するときもずっと愛想笑いだし。バカでも見てりゃ分かるっつーの」
ユウは笑ってから、「まぁ、タツヤは気づいてないみたいだけど。あいつ、ニブすぎ」と付け足した。
「い、いつから?」
「たぶん最初から。てか今はいいだろ、そんなこと。早く行かないと、餌やりなんてすぐ終わるぞ」
「で、でも、急すぎて心の準備が」
「あのなあ、じゃあいつだったら大丈夫なんだよ。こんな絶好のチャンス滅多にないんだから、今を逃すと卒業までマジでチャンスないぜ」
ユウが「ほら!」と言って背中を叩く。
「あ……ありがとっ!」
ぼくは叫んで階段を駆け上がった。走ってから、あんまり足音を立てると怖がられるな、と思い、急ぎながらもできるだけ足音を立てないように気をつける。
ユウ、お前、カッコ良すぎだよ! 高校生で、茶化さずに人の恋愛を応援できるやつなんて普通いねーよ! なんていい友達なんだ!
あっという間に四階に着いた。右に曲がり、一組の教室に向かう。手前のドアが開いていた。
ゆっくりと教室に近づいて行く。あと一歩というところで、教室の中からカタンと何かの音がした。やっぱり、いる。ぼくは覚悟を決めて、教室に足を踏み入れた。
土井明日香が、一人で立っていた。教室の左後ろの角にある水槽の前で、目を丸くしてぼくを見つめている。
頭が真っ白になった。目を点にして、ぼんやりと土井を見つめる。な、なんでお前なワケ?
土井はみるみる泣きそうな顔になったかと思うと、床に置いていたバッグを手に取り全力でダッシュした。ぼくがいる方とは反対側の扉をすごいスピードで走り抜けていく。廊下と、それから階段を駆け降りる音が響く。
「なんでだよ!」
ぼくはたった一人でツッコんでいた。ここまでおかしな状況だと、声を出さずにいられない。
なんで土井がいたんだ? あいつ、帰宅部だし応援団にも参加してないのに、どうしてこんな遅くまで教室に残っていたんだ? いや、土井がいたこと自体はどうでもいい。どうして高藤さんがいないんだ! さっきキンタに餌をあげるって言ってたじゃないか!
「佐部君?」
透明な声がして振り返ると、すぐ後ろに高藤さんが立っていた。びっくりしたような顔でぼくを見ている。手元を見ると、ハンカチで手を拭いていた。トイレに行ってたのか! 一瞬で股間がモッコリしたのが分かった。
「どうしたの? ていうか今、独り言言ってなかった?」
怪訝そうに、でも半分笑いながら高藤さんに言われて、ぼくは顔から湯気が出そうになった。
「いや、キンタの様子見にきたんだけど、ちょっとドアに足ぶつけちゃって、『いてっ!』って」
うん、とっさに考えたにしては悪くない理由だ。
「うそー? 佐部くん、キンタ興味なかったじゃん」
「そう? たまに見てるよ」
「ふーん」
高藤さんは納得していない様子だったけど、教室の中に歩いていった。水槽の横にある餌いれを手にし、ふりかける。水槽の中に茶色い粉みたいなものが入っていった。キンタが口をパクパク開けて食べる。
「良かったぁ。忘れてたら、明日の朝までお腹ペコペコにさせちゃうところだったよ」
心からホッとしたように言う。やっぱり良いなぁ、と思った。タツヤは見た目だけで高藤さんのことを好きになっているけど、ぼくは違う。もちろん見た目も大きいけど、性格も大好きだ。
二年生に上がって今のクラスになったとき、ぼくは最初は高藤さんの親友の長崎さんを好きになろうと思っていた。見た目は元々そっちの方がタイプだったからだ。だけど夏休み明けの席替えで高藤さんと隣になった時、ぴょこんと頭を下げて言われた「よろしくお願いします」にイチコロにされてしまった。高校生にもなって隣の席になった人にわざわざ挨拶をするなんて、どれだけ真っ直ぐ育ってきたんだろう。ぼくはそういう純粋培養された子が好きなのだ。
「じゃあ、私帰るから」
高藤さんが言った。
「え、もう?」
「え?」
きょとんとぼくを見る。やばい、言わなきゃ。言え!
「あ、あの、ちょっと高藤さんに言いたいことがあって」
うん、そうだ。まずはこれだ。高藤さんは意外そうな顔をした。
「私に? 何?」
「あの」言うんだ。好きです、付き合ってください! って。
息を吸って、言うイメージをしてから、直後にやっぱり息を吐いた。ダメだ、言えない! 言った後の反応を想像したら怖くて言えない!!
高藤さんは怪訝な顔をした。ああ、可愛いよ! 可愛すぎるよ!
「ちょっと、何? 私、友達待たせてるから行くよ? 言いたいことあるならあと十秒で言って!」
「ええ?」
「じゅーう、きゅーう、はーち、」
高藤さんはまさかのカウントダウンをしながらバッグを持ち、小走りで教室を飛び出して行った。慌てて後を追う。
「なーな、ろーく、ごー、」
廊下を走り、階段を降りて行く。ちょっと待てそっちは、と思いながら駆け降りると、ほらやっぱり、三階の踊り場にユウがいた。唖然とした表情でぼくと高藤さんを交互に見ている。
高藤さんは踊り場で立ち止まって振り向き、カウントダウンを速めた。ぼくも向かいに立ち、高藤さんを見つめる。
「四、三、二、一、ゼロ!」
「好きです!付き合ってください!!」
言った──と思った。けど、それはぼくの脳内で叫んだだけだった。ユウがいる前では尚更だったけど、いなくてもやっぱり言えなかったと思う。
「もう! 帰るから!」
高藤さんが呆れたように階段を降りて行く。そこでユウがため息をつき、高藤さんに向かって言った。
「あのな、佐部がお前のこと好きなんだってよ」
ぼくは信じられない思いでユウを見た。言うなよ! いや、けど、ああもう!
恐る恐る高藤さんを見ると、ぼくに負けないぐらい驚いた表情をしていた。演技でもオーバーリアクションでもない。ぼくが告白したいって分かってたのかと思ってたけど、全然分かってなかったのかよ。むしろなんだと思ったんだ!
「私?」
高藤さんはぼくを見つめ、自分を指差した。ぼくは黙って、コクリと頷く。
その時、運の悪いことに、上から階段を降りてくる足音が聴こえた。三人揃って上を向く。少しして、男子生徒が降りて来た。なんと、あのガリ勉の吉村だ。だからなんでこんな時間に学校にいるんだよ。お前も帰宅部で応援団もやってないだろ!
吉村はぼくたちを見ると眉を寄せた。
「あれ、何やってんの?」
誰も答えなかった。あまりの不意打ちに頭が回らない。
「ま、いいけど」
吉村は眉を寄せたまま、それだけ言ってそのまま階段を降りて行ってくれた。
少ししてから、高藤さんが口を開いた。
「あの」
目を泳がせる。ど、どっちだ?
「ごめんなさい」
ガラガラと、何かが音を立てて崩れ落ちるのが分かった。ああ、終わった。それから高藤さんは言いにくそうな表情で続けた。
「私、実は今、付き合っている人がいるの」
ハンマーで脳天を思い切り殴られたかと思った。くらくらする。
「本当に、ごめんなさい!」
高藤さんは本当に申し訳なさそうにぺこりとお辞儀をして、階段を全速力で駆け降りていった。
ユウが気まずそうにちらりとぼくを見る。ぼくはだらしなく口を半開きにしたまま、力なく立ち尽くしていた。
帰ってから、ぼくは気が狂いそうな勢いでベッドにダイブした。うつぶせになり枕に顔をうずめる。すぐに涙が出てきた。
くそう、高藤さんにフラれた! あっさりと! いや、フラれたのはいい! 正直、ぼくなんかが付き合えるわけないとは思ってたさ! だけど……彼氏がいたなんて! それは予想外だった!
一体誰だ! ていうか、何ヶ月付き合ってるんだ? もし半年とかだったら、もう、もう、セックスはしたのか?
高藤さんが男とセックスしているのを想像して、ベッドでのたうち回った。いや! それだけはあってはならない! 絶対にない!!
どこのどいつだ! もし高藤さんとセックスしてたら殺してやる! 死ね! 死ねえ!
二時間ほど悶々としたあと、まだ今日の日課をこなしてないことに気がついた。気分転換も兼ねてと思い、いつものエロ動画サイトを立ち上げる。適当なのを一個選んで再生して──すぐに消した。
ダメだ! 高藤さんが彼氏とセックスしているところをイメージしてしまう!
ぼくはずいぶん久しぶりに日課を放棄した。その晩は、結局一睡もできなかった。
翌日、またカッター事件が起きた。ぼくは高藤さんのことで頭がいっぱいだったからみんなが騒いでいるのを見ても最初は気に留めていなかったけど、内容が聞こえてくると思わず食い入ってしまった。やられたのが今神の机だったからだ。行って見てみると、机の表面に大きく×印の溝が掘られていた。登校時間ギリギリに教室に入って来た今神は自分の机を見ると一瞬立ち止まってから、何事もなかったかのように表情を変えず座った。タツヤが野次馬根性で「いやいや、今神、流石に少しは戸惑えよ!」と言うと、「別に。下敷きを使えば支障ないだろ」と澄まして答える。
ぼくは、昨日の土井を思い出していた。土井が昨日立っていたのは、教室の左後ろ──今神の机のすぐ近くだ。体が後ろの壁の方を向いていたから水槽でも見ていたのかと思ったけど、今神の机に用があったのか? そしたら、昨日遅くまで残っていたことの説明がつく。でも、昨日高藤さんと一緒に教室にいた時点では確か、今神の机に傷なんてついていなかったような気がする。教室を飛び出したあと、また戻って来たのか?
しばらくはそのことを考えていたけど、やっぱり高藤さんへの関心の方が圧倒的に強くて、二時間目にもなると高藤さんのことで頭がいっぱいになった。今日はまだ目も合わせていないけど、高藤さんも少しぼくを意識してるんだろうか。
昼休み、いつもの屋上前の階段で、ユウもいる前でタツヤに告白の報告をした。ユウは本気で同情してくれたけど、タツヤは忙しい反応を見せた。まず「お前も高藤のこと好きだったの?」と驚き、次に「告白したの? 俺を差し置いて?」と怒り、それから「あいつ彼氏いんのかよ!」と落ち込んだ。そして五分ほど呆然としてから「やっぱもう、ヤッてるよな」と言い始め、ユウが「ヤッてるだろ。間違いなく」と断定するものだから、ぼくは「あの純粋な高藤さんがヤッてるわけないでしょ!」と必死に否定しなければならなかった。
ドン底の気分だったのに、ぼくはふと、やっと二人に高藤さんへの気持ちを話せてちょっとスッキリしている自分がいることに気がついた。三人で「ヤッてる!」「いやヤッてない!」と言い合うのも、半分は本気だけど半分はギャグで、ぼくたちはゲラゲラ笑った。
こんな風にバカ笑いする日々が、いつまでも続けばいいのにな。お腹がよじれるほど笑いながら、密かにそんなことを思った。
五時間目は体育だった。
ピッピッと規則正しく鳴るホイッスルの音に合わせ、行進する。右、左、右、左。くそ、あちい。死ぬほど暑いし、ダルい。いつまでやらせんだよ、バカじゃねーの。
もう三周目だ。体育祭の入場の行進の練習は、みんなが真面目に手足を振ってピタッと揃うまで、何度も繰り返しやらされる。このあまりの無益さに毎年イライラしてるんだけど、今日はイライラだけでは済まなかった。徹夜明けの上に灼熱の太陽というダブルコンボが急速な勢いで体力を奪っていっているからだ。さっきから足元がフラフラして、今にも倒れそうだった。
ようやく最後の地点に着き、その場で慎重に足踏みをする。権田先生の「ぜんたーい、とまれ!」という号令で、今度は全員の足音が揃った。
壇上に上がった権田先生が「行進ぐらい幼稚園児でもできるんだぞ」とかなんとか言っているな、とぼんやり感じているうちに、いつの間にかみんながバラけた。休憩みたいだ。
ヨロヨロと蛇口まで歩いて行くと、吉村が並んでいるのに気がついた。ちょうどよかったと思って、「あのさ」と話しかけると、ビクッとして顔をあげる。ぼくは決めていたセリフを言った。
「昨日のあれさ、高藤さんとケンカしてたんだよ。ユウが仲裁してくれてて。だから、告白とかじゃないから」
授業中ずっと考えて、これ以上自然なウソは思いつかなかった。吉村も行進で疲れて機嫌が悪かったのか、「別にいいよ、なんでも」とぶっきらぼうに言って、そのまま歩いて行ってしまった。
その後ろ姿を見ながら、なんだかなぁ、と思った。吉村は、性格を大雑把に分けるとぼくと同じ「おとなしい系」の部類に入る。だけどちょっとキレやすいというか、ちょっとしたことで怒るから付き合いにくいといころがあって、ぼくはあんまり関わらないようにしている。松下や野口とよく一緒にいるのを見るけど、二人は吉村と付き合ってて疲れないんだろうか。
ていうか、吉村のこの性格って絶対、勉強のやり過ぎのせいだ。休み時間はほとんどずっと塾の参考書に取り組んでいる。一体何でそんな頑張っているのか知らないけど、毎日勉強漬けになってればそりゃ、性格が歪みもするだろう。一組の中でカッター事件を起こすやつがいるとしたら吉村なんじゃないかとぼくは密かに思っている。受験勉強のストレスで何かをめちゃくちゃにしてみたかった、なんて、めちゃくちゃよくあるパターンだ。
なんとなく左に視線をやって──心臓がぴくんと跳ねた。左隣りの蛇口のところに高藤さんがいたからだ。黒髪が水に濡れないように耳にかけながら水を飲んでいる。横顔のあまりの美しさに、既に高かった体温が更に上がった。
日光の反射でキラキラ光っている蛇口の水を飲む体操服姿の黒髪美女の横顔か。カレンダーにしたいな、なんて思っていたら、水を飲み終えた高藤さんとまともに目が合った。お互いサッと顔を背ける。少ししてから恐る恐る顔を戻すと、高藤さんはもう遠くで友達に話しかけていた。
ぼくを見た時の表情、すごい驚いてたな。あんなにすぐに顔をそらしたってことは、やっぱり昨日ので嫌われたのかな? ていうか、左の蛇口に並べば良かった。間接キスできたかもしれないのに。
そんなことを考えていたら、ぐらっと視界が歪んだ。恋の悩みのせいかと一瞬思ったけど、違う、明らかに体調不良だ。マジでヤバいやつだ。蛇口の列を抜けて権田先生のところに行く。体調不良を訴えると、すぐに保健室に行く許可をもらえた。
重い足をできるだけ早く動かして廊下を進んだ。一刻も早く涼しい場所に行きたい。
保健室に着き扉を開けると、中には女子生徒が一人、部屋の奥の椅子にぽつんと座っていた。土井明日香だ。
なんでだよ! またかよ! と心の中で思い切りツッコむ。なんでコイツばっかり現れるんだ?
予想外の事態に戸惑いながら、「えっと、先生は?」と尋ねてみた。
土井は突然の来訪者にかなりギョッとしたようで、一瞬たじろいでから、「ちょっと用があるんだって。すぐ戻るって言ってた」と、今にも消えてしまいそうな声で答えた。
土井と二人か。うん、気まずい。一度も話したことのない相手と密室で二人という状況はかなりキツいぞ。しかも昨日のことがあるし。ていうか、何でこいつここにいるんだ? お前はいつもジャージで見学だろ? 見学してたのに具合悪くなったのかよ。ていうか、なんで下は半ズボンで上はジャージなんだよ。まぁ、今日はぼくも格好に関してはあんまり人のこと言えないけど。
まぁ、いいや。すぐ先生が戻るならそれまでの辛抱だ。
「そっか」
そう言って中に入ると、一瞬で冷たい空気に包まれた。ああ、気持ちいい。浄水器のところに行って紙コップに水を入れ一気に飲む。めちゃくちゃ冷たくて、だいぶ生き返った感じがした。
どこかに腰掛けようと思ったけど、困ったことに土井の目の前にしか椅子がなかった。ベッドに行こうかと思ったけど、汗まみれの状態でベッドに横になるのも気が引ける。仕方なく土井の方まで歩いていき、その椅子に腰掛けた。お互い横を向き合う状態だ。携帯電話をいじろうと一瞬思ったけど、体操服だから当然携帯なんか入ってない。まずい、完全に詰んだ。
チラリと土井に目をやった。普段も暗い顔をしているけど、いつにも増して顔色が悪いように見える。そして、目には異様な侘しさをたたえていた。
心配になったからというより無言が気まずかったから、おそるおそる声をかけることにした。
「具合悪いの?」
土井はまたビクッとしてから、「ちょっと、暑くて疲れちゃって」とうつむいたまま答えた。
「そっか。ぼくもそんな感じ」適当に同調してから、間が空かないように次の言葉を探す。「さっき、行進三回も繰り返されてさ。あんな意味のないこと、マジで二度とやりたくないわ」
土井は少し間を開けてから、「意味?」と訊いた。どうしてそう訊き返したのかよく分からなかったけど、それ以上言葉を続ける様子もない。ぼくは土井の意図を汲んでというより、自分の思っていることを言った。
「いや、行進ってより体育祭自体なんだけどさ。なんか思っちゃうんだよね。こんなことやって何の意味があるんだろうって」
言ってから、どうしてこんなことを土井なんかに言ってるんだろうと思った。いつものぼくなら誰にもこんな話はしないし、ましてや初めて会話する人になんて。でも、親しくもないどうでもいいヤツだからこそ、昨日久しぶりに感じた想いを吐き出しやすかったのかもしれなかった。土井にというより、ほとんど自分自身に自嘲的にこぼした言葉だった。
土井はしばらく黙った後、少しだけ、本当に少しだけこちらにゆっくりと顔を向けた。そしてまたうつむいて、ぽつりと言った。
「ほんと、何の意味があるんだろうね」
「え?」
ドキリとするような悲しみを帯びた声に驚いて土井を見ると、どういうわけか泣き出しそうな顔をしていた。は? なんで?
戸惑うぼくの理解を待たず、土井はさらに続けた。
「もう私は、生きる意味が分かんないや」
目から涙がポロリと床に落ちる。
待て待て待て。なんだこの状況は。今のやり取りからどうしてそんな言葉が出るんだよ。どこに泣く要素があったんだよ!
ぼくは目の前の理解を超えた生き物を少しの間呆然として見つめてから、決めた。
逃げよう。
「ぼく、けっこう元気になったし、グラウンド戻るね」
そう言って、足早に保健室を出て行った。
廊下を歩きながら、ちくしょう、と心の中で何度も悪態をついた。
まさか三分もしない内に保健室から出る羽目になるなんて、どれだけツイてないんだ。でも具合が悪いのは本当だし全然回復してないし、グラウンドには戻れない。
とにかく眠りたいけど、保健室以外に横になることが許される場所なんてあるのか? 少し考えてから奇跡的にひらめき、体育館棟に向かった。
ずんずん歩いて行き、男子更衣室の扉の前に立った。「使用禁止」の張り紙が貼ってある。中を見てみると、やっぱり誰もいなかった。
うん、ここなら誰も入ってこないだろうし、そこまで暑くない。ここで寝ることにしよう。
せっかくだから、みんなが体操着袋を入れる木製の棚に目をやった。本当だ、十箇所くらいが刃物で斬られてる。数カ所は木がめくれてささくれだっていて、確かにこのまま使用させるのは危険だなと思った。
とにかく眠い。横になると、床が若干ひんやりしてて気持ちよかった。目をつぶってから、万が一でもこんなところを人に見られたらヤバイなと思ったけど、結局一瞬で眠りに落ちた。
目覚めて時計を見ると、六時間目が終わって三分が経過していた。仰天して飛び起きる。二時間続きの体育だから目覚ましをかけなくても大丈夫だと高をくくったけど、一時間近くも寝てたのか。
起き上がると、体がずっと軽くなっているのに気がついた。体育を休んで得たささやかな非日常体験が成功して、ちょっとだけ得をした気分になる。
上機嫌で教室に戻ると、なにやら異様な空気になっているのがすぐ分かった。教室の後ろに人だかりができている。その中心からは女子の泣き声も聞こえていた。
「何、何かあったの?」
近くにいたタツヤに声をかけると、タツヤが興奮した声で言った。
「隆介! やべえんだよ、キンタがズタズタに切り裂かれて死んでんの!!」
「はあ!?」
思わず大声を出す。背伸びして人だかりの中心を見てみると、真っ赤に染まった水槽の一部がチラリと見えた。
ウソだろ? キンタが切られた? カッター事件はこれまで何度もあったけど、ここまでひどいのは初めてだ。ていうか、キンタは高藤さんが可愛がっていたのに! ということは、泣き声の正体は、高藤さんか! しゃがんでいて見えないけど、泣き声はそう考えてみれば確かに、高藤さんのものだった。
そのとき、二つの強い感情がぼくに芽生えた。ひとつは、犯人なんて許せないという怒り。そしてもうひとつは──傷ついている高藤さんに優しい言葉をかければ自分を好いてくれるんじゃないかという期待だった。後者は自分でも気持ち悪いと思ったけど、そういう感情を持ってしまったことは事実だった。
その時、教室の前扉が勢い良く開く音が聞こえた。鈴木先生が、学級委員の田代と一緒に教室に入ってくる。
「全員、席につけ!」
怒りを刻んだ表情で、毅然とした声を出した。今度は冗談なんかじゃない、大マジだ。人だかりが一瞬で散らばり、みんなが席に着く。──二人を除いて。
「高藤、保健室に行きなさい」
高藤さんは水槽の前でしゃがんだままだった。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、その背中を、長崎さんに次ぐ高藤さんの親友である橋本がさすっていた。こんな時に思うのもアレだけど、本当に手足太いよな。ブスだし性格も良くないし、なんで高藤さんはこんなヤツと仲良くしてるんだろう。
水槽の方を見ると、切断されたキンタの頭が真っ赤な液体の中にかろうじて見えた。想像以上のグロい光景に、キンタに愛着のないぼくでさえ気持ち悪くなる。
鈴木先生がもう一度「高藤」と言うと、高藤さんは金切り声をあげた。
「いやです!キンタと離れたくない!」
鈴木先生は「そうだな」と言ってから、誰か水槽を保健室に持って行くよう指示を出した。動物に全然興味がないくせに高藤さんに近づきたいという理由だけで飼育係になったタツヤと、高藤さんの友達の中沢が手を挙げた。
「よし、じゃ、頼む。それと長崎、高藤を保健室に連れて行ってやってくれ」
長崎さんも「はい」としっかりと答えて、高藤さんの肩を担いだ。「大丈夫? 大丈夫?」と何度も話しかけながら、水槽を持った二人の後ろにつき、ゆっくりと教室を出て行く。
鈴木先生は四人が廊下を歩いて行くのを見届けたあと、扉を勢いよく閉めてぼくたちに向き直った。
「誰がやったんだ!」
バーンと何かが爆発したかのような衝撃が教室全体に走る。憤怒の表情だった。
「これまでの事件だって良くないことだが、今回のはレベルが違う! 生き物を殺すなんて! しかも、みんなが可愛がっていたキンタを! これは絶対に許されないことなんだ!」
息を荒げ、みんなを睨む。
「キンタがやられた以上、普通に考えて、犯人はこの一組にいる可能性が高いと思う。もちろん他クラスにも後で話は聞いてみるつもりだが、まずはこの一組を徹底的に調べなくちゃならない。誰か、犯人だと名乗り出る人は? もしくは、犯人について知ってるという人は?」
この緊張感の中、勇敢にも森が手を挙げた。
「あのー、俺たちさっきまで体育の授業中だったじゃないですか。全員グラウンドにいたんだから、あんなことするのは無理だと思います」
そこで、今度は橋本が手を挙げた。
「でも、授業中にグラウンドを離れた人がいるんです」
ギクリとした。これは、非常にまずい。
「土井さんです」
橋本が憎しみを込めながら言った。もう犯人だと決めつけている顔だった。全員の視線が一気に土井に集まる。
「土井さん、見学していたのに、すぐにどこかに行ったんです。そうだよね、土井さん。どこに行ってたの?」
うつむいていた土井はわずかに顔をあげたけど、何も言わなかった。鈴木先生が「土井?」と声をかけても変化がない。
その時、今度は浅井が発言した。
「だけど、佐部も体育の時間、出て行ったよな。行進で具合悪くなったとか言って」
やっぱりきた。こうなることは必然だった。今度はみんなが一斉にぼくに注目する。すかさず弁明した。
「ぼくは、本当に体調不良です。今日の塾の宿題が終わってなくて昨日からかなり寝不足で、そのうえ炎天下で何度も行進やらされて。それで、保健室に行ったんです。そこに土井もいました」
みんながザワザワし始めた。なんだよこれ。なんかサスペンスドラマみたいになってるじゃんか。自分が観客だったら楽しいんだろうけど、容疑者Bとしては最悪の気分だった。
「保健室でどんなやりとりをしたんだ? お互いどんな感じだった?」
土井は口を開かないことを覚悟していたんだろう、鈴木先生はぼくの方だけを向いて訊いた。保健室でのやりとりを思い出し、なんと答えていいか迷う。
「会話はあまりしませんでした。ぼくは途中で出て行ったから」
言ってから、しまったと気づいた。「出て行ったから、土井の様子はほとんど知りません」と言うつもりだったけど、途中で保健室を出ただなんて、自分の首を締めているようなもんじゃないか。
「保健室を途中で出た?」案の定、米沢がツッコんだ。「お前、教室に戻ったのはさっきだったじゃねえか。何してたんだよ」
「その、土井と二人きりって、なんか気まずくない?それで思わず出てっちゃって、あとは、校内をフラフラしてた。でも、ぼくじゃないって! キンタを傷つける理由なんかないし! ていうか、体育の時間の前後の、誰も教室に人がいない時にだって素早ければ犯行はできるんだし、ぼくたち以外も疑うべきでしょ」
必死に訴えても、みんなの怪訝な顔は変わらなかった。
「あーもう、なんでこんなめんどくさいことになってんだよ」内藤がイライラした声で言った。「オレ今日塾だから早く帰りたいんだけど。この二人の持ち物検査すりゃあ済む話なんじゃないの?」
鈴木先生は少し考えるように腕を組んでから、首を縦に振った。
「そうだな。ここまできたら、もう仕方ないだろう。本格的な調査はあとで別室で女性の先生もつけてやるとして、とりあえず今、ポケットにあるものを出してもらっていいか? 悪いな」
これで疑いが晴れるんならと、ぼくは躊躇いもなくポケットのものを取り出して机に置いた。本やハンカチはいいけど、使いかけのティッシュも出す羽目になって少し恥ずかしい。ポケットをひっくり返して、何も残ってないことをアピールした。
「土井?」
鈴木先生が怪訝な声を出す。土井は何も机上に出さず、じっと固まっていた。
「土井、ポケットにあるものを出しなさい」
鈴木先生が静かにすごむ。土井はもう数秒間じっとしたあと、やっと右手を動かした。ブレザーの右ポケットに入れ、握った拳を取り出す。机の上にその拳を置き、ゆっくりと開いた。カランという音がし──机の上に、カッターナイフが置かれていた。
教室中にどよめきが走った。「土井!」と鈴木先生が大声で怒鳴る。
「これはどういうことだ!!」
両目をカッと見開き、もの凄い形相で睨みつけた。
「お前がやったのか?これまでのことも、今日のことも、全部土井がやったのか?」
怒りながら、泣きそうな声だった。土井はうつむいていた顔をゆっくりとあげ、鈴木先生を見た。さっき保健室で見た、あの侘しい目をしていた。恐怖するでも罪悪感に打ちのめされるでもなく、何かを諦めたような悲壮感漂う顔に、ぼくには見えた。
土井はしばらく先生のことをその目で見つめ──ゆっくりと、首を縦に振った。
「土井!」
バーン! と、鈴木先生が土井の机を思い切り叩く。
「どうしてこんなことを! 人を困らせて何が楽しいんだ? 金魚なら殺していいと思ったのか? なんでだ!」
そう叫んですぐ、今この場で追究しても仕方ないと思い直したのか、鈴木先生は急に調子を下げた。必死に理性を取り戻そうと奮闘しているのが分かる。
「とにかく、このあと面談室で話を聞こう。三年生の担任団全員とだ。今日はHRはなし。このまま解散だ。全員、速やかに帰るんだぞ」
鈴木先生がそう言うと土井はゆっくりと支度をし、鞄に教科書などを詰めてから鈴木先生と一緒に教室を出て行った。
ちょうど、下校のチャイムが鳴った。
一人で帰りの電車に乗りながら、ぼくは複雑な気分だった。まさか、土井が犯人だったなんて。床を見つめながら、保健室で土井が言った言葉を思い出す。
──もう私は、生きる意味が分かんないや。
あいつ、どうしてあんなことを言ったんだろう。ずっと死にたかったのか? なんかでストレスが溜まってて毎日死にたくて、そういう気持ちの捌け口として一連の事件を起こしたっていう、ドラマとかでよくあるベタなやつなんだろうか。
それから数日は、土井の話題で持ち切りだった。罰則として二週間の停学をくらって土井が学校に来ないのをいいことに、あの大人しいヤツがまさかとか、キンタを殺したのはやり過ぎだよねとか、みんな口々に騒いだ。もちろん、キンタが死んで本当に悲しんでいる一部の女子を覗いては、みんなただの野次馬根性だ。
高藤さんは木、金と二日連続で学校を休んだけど、週明けにはちゃんと登校した。トラウマになっているんじゃないかと心配したけど、見た感じはすごく明るくて元気そうだった。
結局、あの日から一週間経つ頃には騒ぐ人も悲しむ人もほとんどいなくなり、またいつもの退屈な日常が戻った。のだけど、ぼくだけはどうにもモヤモヤしたままだった。保健室での土井の表情と言葉が何度もフラッシュバックするからだ。
あいつは本当に辛そうだった。ぼくとのやり取りのどこにスイッチがあったのかは本当に謎だけど、とにかくあんな些細なやり取りで泣き出してしまうぐらい、限界の状態だった。それだけの自分の気持ちを抑え切れなくて事件を起こしてしまったのなら、鈴木先生があんなに怒鳴ったのはちょっと酷すぎるんじゃないか?
チッ、と、もう何度目かの舌打ちをする。くそ、どうしてぼくがこんなこと考えなきゃいけないんだ。土井なんて全然関係ないし興味もないのに。下手に思い悩むせいで、授業に集中できない時が多くなった。学校でも塾でもぼんやりとして、先生から度々注意された。
とはいえ、やっぱりずっと引きずるほどぼくの神経は細くなかったみたいで、ゴールデンウィークで学校から数日離れると、土井のことなんかほとんど気にならなくなっていた。
だから連休明けの月曜日はまたいつも通り普通に授業を受けて平和に過ごしたのだけど、その翌日に事件が起きた。
朝、普通に登校して教科書を自分の机の中に入れると、中になにか入っているのに気がついたのだ。手を入れ取り出すと、それは丸めた紙だった。
誰かのいたずらかと思い広げてみると、こう書かれてあった。
“土井は犯人じゃない。真実を知りたければ、放課後、一人で屋上に来い。一人でなければ真実は話せない”
思わず凝視する。なんだ、これ?
土井が犯人じゃない? だとしたら誰が犯人なんだ? 誰がこんなものを? どうしてぼくに? ていうか、屋上は鍵が閉まってるだろ?
パソコンで書かれた文字だから筆跡から誰かを推測することもできない。これは、この手紙の言う通りにすべきなのか?
少し考えてから、乗ってみよう、と思った。危険もあると思ったけど、それ以上に好奇心が圧倒的に勝った。土井とは別に犯人がいるなら知りたかったし、何よりこんな奇妙なことが起こるなんてワクワクした。こういうドラマの中でしかないような体験は、できる限りしておいた方がいいに決まってる。
放課後、塾や応援団の練習のために大半の生徒が教室からいなくなった頃、ぼくは誰にも気づかれないように周りを伺いながら屋上に向かった。扉は閉まっている。やっぱり無理だろうと思いながらダメ元でノブを回してみると──開いた! マジでピッキングされてる! ドラマかよ!
息を潜めながら扉の外に出てみる。見たところ、誰もいなかった。奥まで見渡せたけど、人影はない。もしかしたら貯水槽の裏の方なのかもしれないと思って回ってみたけど、やっぱり誰もいなかった。騙されたのか? それか、まだ来ていないだけ?その時、「よう」と上から声がした。上?
見上げると、貯水槽の上に男が立っていた。──今神賢人だ。
「い、今神?」
あまりにも面食らって、声が裏返った。今神が貯水槽から飛び降りる。けっこうな高さなのに難なく着地した。ぼくの斜め前に立ち、こちらに顔を向ける。
「誰かと一緒じゃないか見させてもらったけど、本当に一人みたいだな」
相変わらずにこりともしてなかったけど、教室にいる時よりは柔らかい表情のように見えた。声も、いつもほどは低くない気がする。だけど目だけはやはり暗く、ぼくの目を見ているようで、なんとなく焦点が合っていないような感じがした。ぼくよりずっと奥のどこかを見ている感じだ。
予想外すぎる人物の登場にぼくはしばらく呆気にとられていたけど、少ししてからやっと口を開くことができた。
「なんで、あんな手紙をぼくに?」
今神は表情も声色も変えずに答えた。
「お前、土井のことずっと気にしてただろ」
う、と喉が閉まる。なんでそれを知ってるんだ。
「授業の様子を見ていたら分かるさ。ゴールデンウィークに入るまでお前はずっと浮かない顔をしていたし、土井の席を何度も見ていた」
「だったら何だよ。ていうか、土井が犯人じゃないってどういうことだよ? 犯人って、誰なわけ?」
「真犯人を知っているわけじゃない。ただ、土井が犯人じゃないことは分かるんだ」
「なんで?」
「だってあいつ、優しいだろ」
え? 土井が、優しい?
「掃除の時は机で床を傷つけないようにきちんと持ち上げて運ぶ。道に落ちているゴミはきちんと拾うし、蚊が止まっても殺さずに逃がす。そんなやつがカッターで誰かのものを傷つけられるわけがない。そう思ったんだ」
「お前、そんな細かいとこ見てんの? え、何、土井のこと好きとか?」
今神はそこで、それまでほとんど変えていなかった表情をサッと崩した。明らかな嫌悪感を顔に浮かべ、「そういう短絡的な思考をするなよ」と、ゾッとするような冷たい声で言った。
しかしその直後、今神は目をつぶった。一秒ほどしてから目を開けると、もうほとんど元の無表情に戻っている。
変なヤツ、と思いながら、ぼくは一番気になっていることを訊いた。
「ぼくをこんなところに呼び出して、何が目的なんだよ。犯人が分からないなら、どうして『真相を知ってる』なんてデタラメ書いたわけ?」
今神は今度は歩き出し、フェンスに手をかけて遠くを見た。
「俺はな、想像力のない人間が嫌いなんだ」
「はい?」
どんな受け答えだよ。全く意味が分からない。
「土井は何故、いつも一人で過ごしていたんだろうか。それは辛くなかったんだろうか。そして、犯人だと認めた時、あれほど責められるべきだったんだろうか。心身ともに健康な人間は、普通あんな事件を起こさない。何か辛い想いを抱えていて、その想いの発露としてあの事件を起こしてしまったのではないだろうか」
ぼくは思わず黙った。ぼくが最近考えていたのは、まさにそういうことだったからだ。
「そういうことを想像しなければならないのに、クラスの連中は誰もそうしなかった。想像っていうのは、相手の気持ちを考えることだ。みんな、その力が欠如している。教師は頭ごなしに叱った後に淡々と授業を行い、クラスメイトも平然と日常を過ごした」
今神はそこでぼくの顔を見て、「でも、お前は違った」と言った。
「お前はあの教室でただ一人、土井のことを考えていた。みんなが平然と日常を過ごす中、土井の辛さをくよくよと想像し思い悩んでいた。そんな姿に俺は好感を持ったんだ。人間にとって一番大切なのは、想像力だよ。想像するから人間なんだ。その資質を、お前は持っていた」
ぼくは何か壮大なドラマの舞台に立っているかのような気持ちになった。「想像するから人間なんだ」なんて、そんなドラマや小説に出て来そうな台詞を現実で真面目に言われるのは、生まれて初めての経験だった。しかも気のせいか、途中から今神の口調に熱がこもったように感じた。
今神が続ける。
「だけど、そんなお前もゴールデンウィークが明けたらほとんど元通りになってしまった。それでは面白くないから、あの手紙を書いたんだ」
「面白くない?」
「お前みたいなやつが一人ぐらいいないと、退屈だからな。お前、もっと土井の気持ちを想像してみろよ。いや、土井の他にもあらゆる人の気持ちを、想像してみるんだ」
「はあ? なんで?」
「俺の退屈しのぎの為に。それと、お前の将来のために。きっと色んなことが分かる。ただ無心に受験勉強をするよりずっと多くのことが学べるだろう」
「お前な」
今神は目でぼくを制止させ、はっきりと言った。
「もう一度言うぞ。想像できるから人間なんだ。あいつの苦しみを想像してみろよ」
なんなんだ、あいつは。
帰り道、ぼくはなんともいえない複雑な気持ちだった。絶対に誰とも馴れ合わないあの今神が、まさか自分からぼくに話しかけてくるなんて。しかもその理由が、ぼくが唯一土井の苦しみを考えていたからだって? 意味が分からない。
それに、今神がぼくに期待しているとしたら、それは大外れだ。確かにぼくはこの一週間土井のことを考えてはいたけど、想像力とやらが人より優れていたわけじゃない。あいつがあんなことになる直前にたまたま保健室であいつが泣くのを見てしまったから、少し気になっていただけだ。だからといって心配でたまらないというわけじゃないし、もしあの時保健室に行ってなければぼくはみんなと同じように平然と授業を受けていたに違いない。人間にとって一番大切な資質なんて、ぼくにはない。
翌日の一時間目、鈴木先生が国語の教科書を読んでいる間、ぼんやりと土井の席に目をやった。昨日で停学が解けた筈なのに、空席のままだ。まぁそりゃ、あれだけの大事件のあとに学校に来れるわけもないか。元々不登校気味だったしな。そういえばあいつ、どうして学校休んでばかりだったんだろう。やっぱ、友達がいなくてつまんなかったのかな。
ああ、くそ。なに素直に今神の言うことを聞いてんだ。土井なんてどうでもいいし、今神にだって何の義理もないのに。
首を左に捻って後ろの方を見た。今神は昨日までと同じように冷めた目で分厚い本を読んでいる。さっき廊下ですれ違った時にぼくに何の反応も示さないでいてくれたのは有り難かった。今神なんかと話したと他の人に思われたら厄介だ。
顔を黒板の方に戻す。それにしても、鈴木先生、元気だよな。土井が犯人だということになってから三日間ぐらいはやつれてたけど、それ以降は元通り明るくなって冗談も言うようになった。
でも──。教科書を朗読する鈴木先生を見ながら、思った。犯人であってもなくても土井は今ドン底だろうに、普通に授業なんてしている場合なんだろうか。いや、たとえ落ち込んでたりしても授業はしなきゃいけないんだけど。一人が辛い思いをしているのに日常が行なわれているのが、少し奇妙に感じた。授業って、そんなに大事なものなんだろうか。
一時間目のあとの十分休み、愛田が教室の前に立って、昼休みに応援団の練習ができなくなったと連絡した。雨でグラウンドが使えない上、体育館も視聴覚室も他のクラスに使われていたからだ。放課後は部活や塾がある人が多くてあまり集まらず、短くても昼休みの練習が一番重要だと日頃から言っていた愛田は悔しそうだったけど、大半のクラスメイトは久しぶりに休めて嬉しそうだった。
久しぶりにタツヤも含めて三人で遊べると思ったのに、タツヤが図書室に行こうと言い出した。AO入試で必要な読書感想文の為に何を読めばいいか分からないらしい。
久しぶりに入った図書室は、前とあんまり変わっていなかった。司書の清水さんがいなくてホッとする。
ユウが「で、テーマは何だっけ?」と訊くと、タツヤが頭を掻いた。
「んーと、あれだ。『あなたの人生に最も影響を与えた本について、自由に書きなさい』」
「ふーん。まあ、なんでもいいってことか」
「そうなんだけど、簡単でしかも感動的な本がいい! 俺マンガはめっちゃ読むけど小説は全然だからさ!」
「うーん。俺はけっこう小説読むけど、お前でも理解できてかつ読書感想文として適しているものって言ったらなんだろうな」
ユウが頭を掻く。
ぼくも本は好きな方だけど、考えてもすぐには思いつかなかった。少ししてからユウが「あ」と言った。
「重松清の『エイジ』なんてどうだ?中学生男子の日常とか心理をリアルに書いたやつなんだけど、今まで読んだ小説の中でも抜群に面白かったな。ちょっと長いけどすごく読みやすいし」
「エイジか! あれ、確かに面白いよね」ぼくも頷く。高校一年生の時にこの図書室で読んで、あまりの素晴らしさに衝撃を覚えた本だ。
ごく普通の中学二年生の少年「エイジ」が住んでいる街で女性をバットで殴る連続通り魔事件が起きていたのだけど、逮捕された犯人がエイジのクラスメイトだった! という話。それがきっかけで主人公が色々悩んで行くんだけど、最後には清々しく前を向く──。
あれ、と思った。このザックリとした概要は思い出せるけど、他にはほとんどなにも覚えていない。犯人はなんで通り魔事件を起こしたんだっけ? 主人公は最後どうして前を向いたんだっけ?
細かいことは思い出せないけど、主人公が悩み過ぎてどんどん重くなるのに、最後にはその重さを全部吹き飛ばす爽快なラストになっていて、「すげえ!」と思ったことだけ覚えている。
ていうか、クラスメイトが通り魔事件って。思わず苦笑した。ぼくたちの学校で起きていたこととそっくりだ。
「長いのかー。まあ、本当に読みやすいかによるな。どこにあんの?」
「俺、学校の図書室は全然利用しないから分からないんだよね。検索するか」
ユウがそう言ってパソコンの方に向かおうとするのを、「いや」とぼくが止めた。
「確かあっちにあった筈」
窓から三列目の本棚まで歩く。確か一番下の段の右側に──あった。二年前、読みたいと思える本がなかなか見つからなくて疲れてしゃがんだ時にこのタイトルを見つけ、なんとなく手にした記憶が残っていた。
「はい」
手渡すと、タツヤは驚いた顔をした。
「何、隆介、図書室詳しいワケ?」
しまったと思った。なんでこんな迂闊な行動をしてしまったんだろう。
「たまに、ラノベとか探しにね」とっさに答えると、タツヤは「ふーん」と言ってページをめくった。ぼくは他の本を探すフリをしてさりげなく二人から離れる。
本棚から顔を出すと、図書室全体がよく見えた。雨が降っているというのに、十人ぐらいしか人がいない。
そういえば、今神は毎日ここに来てたな。欠かさず来ては猛スピードで本を読み漁って行く姿に最初は本当に衝撃を受けた。
ふと、窓際の一番端の席が目に入った。あの席は──以前、土井が座っていた気がする。いつだっけ? かなり初期だったと思う。一時期、一ヶ月か二ヶ月か、毎日のように昼休みをあの席で過ごしていた。
土井は今頃、どんな状態なんだろう。この二週間、どんな風に過ごしてたんだろう。このまま学校に行かないつもりなんだろうか。犯人じゃないなら戻ってくればいいのに。
待てよ、と思った。今神の言う通り本当にあいつが犯人じゃないなら、どうして土井はカッターナイフを持って来てたんだろう? 百歩譲ってそれに何か事情があったとしても、鈴木先生の「お前がやったのか?」という問いに対して違うと言えば済んだ話じゃないか。どうして首を縦に振ったんだ?
「隆介」
タツヤが後ろから声をかけた。ユウも隣りに立っている。
「俺、この本に決めたわ! いいな、これ!」
「え、決めんの早くない? もっとページ数少ないのある筈だし、他のも見てみれば?」
「だって、他の探すのめんどくせえじゃん」
バカだな、と思った。簡単な本を探す方が明らかに労力は少なくて済むのに。
「なあ、二人ともこの本からどんな影響受けたか教えてくれよ! 自分でも読むけど、参考にさ」
タツヤが期待を込めた目をする。ぼくが「ごめん、ぼく内容全然覚えてないんだよね」と答えると、ユウも困った顔になった。
「俺は最近読んだからけっこう覚えてるけど、影響つっても、別にねえな。面白かったし感動はしたけどさ」
胸が、ざわっとしたのを感じた。「マジかよー」と嘆くタツヤを横目に、ユウに訊く。
「ユウってさ、小説たくさん読んでるって言ってたけど、何か影響受けたやつって一つもないの?」
「んー。まぁ、特にないな」
「なんで?」
「だって」と、ユウは薄く笑った。「フィクションじゃん。フィクションっていうのは、現実から逃げてその瞬間を楽しむための物だろ。実際に影響を受けるなんて馬鹿馬鹿しいよ」
当たり前だろ、とでも言いたげだった。「えー!」とタツヤがツッコむ。
「お前、マジで!? オレ、小説は読まねえけど、マンガからは超影響受けてんだけど!」
「たとえば?」とユウ。
「いやもう全部でしょ!少年マンガの主人公みたいにカッコいい生き方してえっていっつも思うもん。『まっすぐ自分の言葉は曲げねぇ。それが俺の忍道だ』とかさ!」
「お前、忍者じゃねーじゃん」ユウが笑う。
「あと、彼女がチンピラに襲われたら、血まみれになっても絶対立ち上がって守ろうと思ってるし」
「まず彼女作ろうな」
「うるせー!」
二人が笑った。ぼくも合わせて笑ったけど、顔だけだった。心にポッカリと穴が空いているような、奇妙で気持ち悪い感覚に陥っていた。
週明け、タツヤは『エイジ』の感想をぼくたちに熱く語り始めた。
「いやぁ、もうマジ、めちゃ感動しちゃったよ。この俺が小説を三日で読み終えるとはな。で、思ったんだけどさ、俺、ツカちゃんに似てね?」
「確かに」とユウが言う。ツカちゃんって確か、主人公の一番の友達の、お調子者のやつだったっけ。ぼんやりとだけど、確かにタツヤみたいなキャラクターだった気がする。
タツヤが続けた。
「俺が一番いいと思ったのはラストよ! ツカちゃんがタカやんをぶっ飛ばすシーンあるだろ?」
「ああ」思わず声が漏れた。一瞬で記憶が蘇ってきたからだ。
ラスト、通り魔事件の犯人であるタカやんが、少年院の刑期を満了して教室に戻ってくる。当然誰もタカやんに話しかけられないでいたところを、ツカちゃんが後ろから思いっきりはたいて、「ほら、後ろからいきなり殴られたらびっくりするだろ。痛いだろ。わかったらもう二度とやるんじゃねーぞ。そこんとこ、よろしくっ!」と言うのだ。言いたいことをぶつけて、しかも最後はズッコけて、クラスのみんなが笑い、タカやんは救済される。斬新で爽快で、すごく印象的だったそのシーンを、今言われて初めて思い出した。
「あれがめっちゃカッコいいなって思ったんだよな! 俺さ、土井が戻って来た時、同じことやろうと思うわ」
タツヤがニヤニヤして言うと、「土井ねえ」とユウがため息をついた。
「もう停学解けて一週間だけど、全然学校来ないじゃん。あんなこと起こしちゃったらさ、やっぱもう教室戻れないと思うけど」
ぼくも薄々感じていた。このまま戻らなかったら、あいつはどうなるんだ?
タツヤは「うーん」と言ってから、「まぁ、もし戻って来たらってことで!」と笑った。
いよいよ体育祭が翌日に迫った日、体育で例年通りリハーサルを行なった。またかよという気持ちで行進をしながら、もう何度も考えたことをまた考える。土井が泣き出したのは、「行進なんて何の意味があるんだろうね」というぼくのぼやきがきっかけだった。どうしてあの言葉にあんな反応をしたんだろう。
あーあ、分かんねえ。だからなんで土井のことを考えなきゃいけないんだっつーの、とうんざりしながらふと首を上に向ける。
それは本当に何気ない動作だったのだけど、ぼくは思わず首をピタッと斜め四十五度上で止めた。校舎の三階の一番端の窓からわずかに小さく見える図書室司書の清水さんを凝視し──突如、雷に撃たれたような衝撃を受けた。
まさか、そういうことだったのか? 急に心臓が早鐘のように鼓動し始めた。
行進が終わってからすぐ仮病を訴えてまた保健室に行く許可をもらい、校舎内にダッシュした。階段を駆け上がり、あっという間に図書室に着く。息を整えもせずに窓際の席まで歩き、席に座って窓の外を見た。
グラウンドがよく見えた。休憩中のみんなが思い思いに過ごしているのが分かる。
「あの、清水さん」
二つ向こうの棚で本の整理をしている清水さんに声をかけると、清水さんは顔をほころばせた。
「あら、佐部くん。久しぶりじゃない。元気?」
「土井明日香って分かりますか? 一組の」問いかけを無視し、早口で訊く。清水さんは驚いたようだったけど、すぐに「ええ、分かるわよ。あの小さい子でしょ」と答えた。
「最近、この席に連続で座っていませんでしたか?」
「ええ、そうね。あの子、普段は図書室なんて来ないんだけど、急に毎日来る時期があるのよね。思えば、毎年このぐらいの時期かしら。決まってあの席に座ってたわ」
やっぱり──。ぼくは、胃に穴が空いたような気持ちになった。記憶の「初期」というのは、四月から五月だったに違いない。その間、土井は毎日この席に座り、窓越しにグラウンドを見ていた。──グラウンドで行なわれている、応援団の練習を。
一年生の時もクラスで孤立していた土井は、応援団に憧れて、練習を見たかったんだ。だけど一人で見ているところを誰かに見られるのは恥ずかしかったから、誰にも知られずこっそりと見たかった。そこで見つけたのが、この席だったんだ。屋上は入れないし、ここなら本を読んでいるフリをすれば窓の外を見ていることにはまず気づかれない。
なんだよ、土井のやつ、応援団参加したかったのかよ。だったらなんで参加しなかったんだ。手を挙げるのは勇気がいるけど、今年はその必要はなかったじゃないか。ただあの紙に名前を書けば──
またしてもぼくは稲妻に撃たれたような衝撃を受けた。二秒ほど呆然と空を見つめてから、矢のようなスピードで走り出した。「ちょっと、佐部君!?」という清水さんの声をまた無視する。
また階段を駆けて、今度は一組の教室に入った。肩で息をしながら、左後ろの壁に貼ってあるあの応援団参加表明の紙を見る。みんな控えめに小さく名前を書いているのに、「岡本達也」という字だけ他の人たちの五倍くらいの大きさだ。目を凝らして探してみると──あった。右下の隅に、小さく十字が書かれてあった。二画目まで書いたところだったのか。
そうか、そういうことだったんだ。高藤さんに告白する直前の時のことを鮮明に思い出す。緊張しながらゆっくりと歩いて教室の中を覗くと、中には高藤さんじゃなくて土井がいた。教室の左後ろで、まさにぼくが今立っている場所で、ぎょっとした表情でぼくを見ていた。
土井が放課後遅くにここにいたのは、今神の机やキンタを傷つけようとしていたからじゃない。応援団参加の名前を書く、この紙が目的だったんだ。それが証拠に、ぼくが入った瞬間、カタンと何か固い音がしていたじゃないか。あれはたぶん、紐でつり下げられたボールペンを手に持っていて、それを放した時に壁にぶつかった音だ。
まだ紐で吊り下げられているボールペンを、実際に手に持ってみた。少し持ち上げ、手を放してみる。小さく、カタン、と音がした。間違いない、あの時聞いた音と同じだった。
「土井」の「土」の出来損ないを見ながら、さっきより一層、心が押しつぶされそうになった。土井はこの紙に名前を書きたくて、でもみんながいる前で書く勇気はなかった。だから放課後遅くまでどこかに隠れ、みんなが帰ったあとに書きにきたんだ。そしていざ書こうと勇気を振り絞っている時に、タイミング悪くぼくが来てしまった。だから恥ずかしくなって逃げ出したんだ。あれは本当に泣き出しそうな表情だった。
全部が一度に繋がった。やっぱり、土井は犯人じゃない。放課後遅くに教室にいたのも、毎日図書室に通っていたのも、体育祭の応援団に関心があったからだ。本当はみんなと一緒にダンスがしたかった。
そういえば、全員強制参加にするかどうかという話になったとき、タツヤが今神に意見を求めると、「別にいいんじゃないか。強制参加で」と言っていた。あれは、そうしなければ土井が参加しにくいと分かっていたからじゃないだろうか。今神はそこまで見抜いていた。
──あいつの苦しみを想像してみろよ。
今神の言葉を思い出す。ようやく意図が分かった。土井のこの想いに気づいてあげられた人は、今神を除いて誰一人いなかったんだ。
翌日の体育祭本番、ぼくは最低の気分だった。行進も百メートル走も騎馬戦も、ずっと土井のことばかりをぐるぐる考えて本気が出せなかった。あいつ、体育祭自体も楽しみにしてたんだろうか。今参加できていないの、悔しいだろうな。
昼休み後の応援合戦だけはきちんと観た。みんなが頑張っていたからではなく、土井が参加したいと願ったものだったからだ。
他のクラスもなかなか良いものを見せていたけど、一組は圧巻だった。段違いのレベルのダンスを一糸乱れず見せつけ、観客を魅了した。最後に愛田を先頭に巨大な花が描かれ、「ドーン!!」という全員の叫びと共に愛田が満面の笑みでポーズを決めると、客席から惜しみない拍手が送られた。
応援団の優勝が一組だと発表された時、クラス中が歓喜に沸いた。応援団のメンバーだけでなく、メンバーにならなかったクラスメイトも飛び上がって喜んだ。
教室で慰労会が行なわれた。愛田はもちろん応援団メンバーの多くが号泣している中、ぼくはただ一人悲しみに暮れていた。土井もこの中にいたかっただろうと思うと、胸が締め付けられて仕方なかった。
慰労会が終わり、みんなが打ち上げの話で盛り上がる。タツヤがやってきて、「隆介! カラオケとボーリングとどっちがいい!?」とハイテンションで訊いてきた。
なんと答えようか、迷った。「土井が苦しんでるのにお前らのんきだな」? そんなカッコ良すぎてカッコ悪いこと、絶対に言えない。
自分がどんな感情なのか、どう感じるべきなのか、何がしたいのか、分からなかった。衝動的に、無言で教室を飛び出す。タツヤが「え、隆介? なんで?」と戸惑う声が後ろで消えた。
昇降口に降りると、「よく考えたようだな」と背中に声をかけられた。振り返ると、やっぱり、今神賢人だ。話すのは屋上で会った時以来だった。
「まさかここまで期待通りになるとはな。辛かったか?」
いつもの無表情だ。ぼくを見てはいるけど、やっぱり焦点が合っていない。
ぼくの胸中は複雑だった。そもそも今神のせいでこんな風になったんだという怒りと、この気持ちを分かってくれるのは今神だけだろうという期待がせめぎ合い、でも今は疲れと絶望で、何も考えられなかった。
「ごめん、もうぼく、今日は限界だから帰るわ」
「もし良かったら」
今神が言って、こちらに歩く。 ポケットに右手を入れた。
「明日、俺の家に来ないか?」
そう言って、ポケットから小さい紙きれ取り出す。ぼくは驚き、まず今神を、それから紙きれを見つめた。真っ白な紙面に、達筆で住所が書いてあった。
「気が向いたらでいい。ここに訪ねに来いよ」
それだけ言うと今神は背を向け、教室へ続く階段へと歩いて行った。
翌日、ぼくは昼までたっぷり寝た。カーテンを開ける。いい天気だ。筋肉痛が残っていて迷ったけど、結局今神の家に行くことにした。いや、自分に対して迷うフリをしただけで、本当は最初から決めていたのかもしれない。
電車でまっすぐ五駅進んだところの駅を降り、携帯で地図を見ながら歩いていく。今神のキャラクター的にものすごい大きな一軒家に住んでいるのをイメージしていたのに、住所が指し示す場所に近づけば近づくほど、貧しい建物ばかり目に入るようになった。
やっと住所が指し示す場所に着くと、そこは小汚い団地だった。建物全体にヒビが入っていて、「ここは十年前に廃墟になったんです」と誰かに紹介されたら信じてしまいそうなくらいボロかった。もしかして騙されたのかなと思ったけど、住所の通り七一〇号室のポストを見ると、「今神」と書かれてあった。
恐る恐るエレベーターを上がって七一〇号室の扉の前に立つ。恐る恐るインターホンを押した。
「佐部か?」
今神が応答する。「うん」と言うと、すぐにドアが開いて部屋着姿の今神が現れた。上下ともにシンプルな黒のスウェットだ。
「よく来たな。上がれよ」
相変わらずそっけない話し方に緊張しながら部屋に上がる。途端、息を呑んだ。
本、本、本。どこを見ても本の山だった。部屋の全ての辺に端から端まで、それも天井ギリギリまで伸びる本棚が敷き詰められている。しかも、部屋の真ん中に椅子と机とノートパソコンがある他は、物がほとんど何もなかった。なんなんだ、この部屋……。
「かけろよ」
今神が椅子を指した。部屋中を見渡してもやっぱりこの一脚しかない。一人暮らしなのかと思ったけどすぐ、向かいにふすまが二部屋分あるのに気がついた。一人で住むのにリビングと合わせて三つも部屋って必要なものなのか?
「家族は?」
今神の方を見ると、食器棚の取っ手をつかんだところだった。
「一人暮らしだよ」
「親は?」
今神は食器棚からコップを取り出しながら「まぁ、色々あってな」とそっけなく答えた。さりげなくはあったけど、それ以上訊いてはいけないオーラが出ていたので、ぼくはそれ以上何も訊かないことにした。愛田と違って、ぼくにはそういう分別がある。
今神は洗面台の蛇口をひねり、コップに水を入れた。「悪いな、水しかなくて」と言い、そのままぼくに差し出す。どんだけ貧乏なんだよ、と思った。
「で?」今神が洗面台に寄りかかり、腕を組む。ぼくを斜めから見下ろす形だ。「土井のことをどんな風に想像したんだ?」
「別に、あれからすぐあいつの気持ちを深く想像したわけじゃないよ。ぼくには想像力なんて大してないから」ぼくは正直に言った。
「ただ、あいつのことを考える時間は多くなった。そしたらたまたま、毎日あいつが図書室から応援団の練習を見ていたことに気づいたんだ。本当は応援団に参加したかったんだなって思ったら、なんつーか、悲しくなった。それだけだよ」
「それが想像力だよ」今神が静かに言った。
「土井が応援団に入りたかったの、お前、知ってたんだろ」
「ああ。俺も図書室に毎日通っているからな」
こちらを見ている今神から、ぼくは思わず目を逸らした。今、「俺も」って言った。ということはやっぱり、こいつは初めからそれが分かっててぼくに近づいたのか?
今神がまた口を開く。
「それに、文化祭で土井は楽しんでただろ」
途端、ハッと思い出した。去年の文化祭の演劇で土井は余った大道具係に指名されたのだけど、ピンク色の折り紙で作る桜の木の花びらを大量に作ってみんなを驚かせていた。女子に「すごーい!」と言われて、一度笑ったのを見たことがある。忘れてたけど、あいつにもそんな風にクラスの人と関わった時があったんだ。
「とにかくさ、そういうこと考えたら、あいつ、めちゃくちゃ可哀想じゃん」ぼくはうつむきながら、胸の中に溜まっている気持ちをゆっくりと吐き出した。
「誰にも孤独を気づいてもらえなくて、たぶん違うのにカッター事件の犯人にまでされてさ。つーか、みんなが酷すぎるよ。あいつの停学が解けても学校に戻らないことを誰も気にしないで、応援団の活動に一生懸命打ち込んでさ。みんな、目の前の人に対しては優しいよ。それは知ってるけど、目の前にいない人に対してはこうも無関心でいられるんだって思ったら、すごく残酷に思えたんだ」
もちろん、ぼくだってあの時保健室に行ってなければ、みんなと同じようになっていただろう。だから、ぼく含めみんなが残酷だと思った。
「だけど、そんなことでセンチメンタルになるなんてぼくらしくないっていうか。あんなクラスの隅っこにいるやつのことでくよくよするなんてダサすぎるから」
そういう色んな感情が錯綜して訳が分からなくなって、だから教室を飛び出したんだ。そう続けようと思ったら、今神がピシャリと言った。
「そんなことはない」
顔を上げると、今神が真剣な眼差しでぼくを見ていた。奥のどこかなんかじゃない、初めて、確かにぼくの目を見ていると感じた。声も力強く、訴えるような迫力があった。
「ダサくなんかない。たとえ体育祭を頑張っていようが何も想像してない人たちより、お前はずっと上等だよ。何故なら、人間というのは」今神はそこで何故かひと呼吸置いた。
「自分とは関係のない不幸な出来事に、くよくよすることなんだからな」
ポカンとして、今神を見つめた。言われた言葉が、少しの間を置いてから心の中に入ってくる。心臓をドンと叩かれるような感覚がした。
目を逸らし、それまで息を止めていたことに気がつく。慌てて呼吸をしてから、「なんだよそれ」と言った。
コップの水を飲みながら、今神をチラリと見る。こいつ、冷たそうに見えて、本当は優しいヤツなのか?
水を飲み干してから、ぼくは何をやっているんだろう、と思った。よく分からない部屋でよく分からないヤツからよく分からない言葉を言われて、うろたえているなんて。
でも、気のせいじゃない。おとといから胸の中につかえていた何かが、綺麗に無くなっていた。