転生異世界系とセカイ系
前回のエッセイにて非常に見苦しい転生異世界系(以下、異世界系)批判を行い、猛省いたしました。それでもyoutubeのコメント欄のような罵詈雑言(そもそもあのような拙作を見る方自体が少なかったこともありますが)ではなく、諭すような反論をくださった方々には本当にお詫びしたいところです。
しかし、それでも私の異世界系への懐疑はやはり晴れておりません。今回はセカイ系という系譜の不完全さを借りつつ、この疑念をまとめてみたいと思います。
はじめに結論から言います。私は異世界系は「現実世界」でお気楽に日常を謳歌できなかった主人公が、「異セカイ」に逃亡し、夢見た「日常」を手に入れようとする物語の系譜であると考えています。なぜ、ここで「セカイ」と表記したのかが特に今回取り上げたいところです。
一口に理由を言うと、いわゆるテンプレの「異世界」というのは不完全なものだからです。不完全というのは、設定の甘さを指摘するものではなく、ほとんどの異世界系主人公は「現実世界」で否定されたはずの妄想に固執しながら、異世界を確変していくという特徴を述べています。
例えば、現実では悪質なプロのヒキニートであった主人公は、異世界に突然飛ばされてもあまり動揺せず、それどころか異世界生活に必要な手続きを順当に済ませ、出会う女の子たちをたらしこんで行く、といった展開はもはやお馴染みでしょう。作品によっては神様からもらったチートを駆使して、このシナリオに終始するというものありました。
ほとんどの主人公が異世界に飛ばされても狼狽えないのは、「現実世界」ではない場所に来たことへの安堵があると考えられます。大体、例に挙げたような主人公は現実に絶望を抱いたキャラクター(そうでない場合を見てみたい!)なので、むしろ「非現実世界」での生活に想いを馳せてわくわくするのが通例のような気がします。
これはいわゆる物語の序章、つかみの部分に相当することが多く実際に現実に夢も希望もない、似た境遇を生きる読者は主人公に自分を投影したくなるのではないでしょうか。しませんでしたか?私はしました。そして、その後の展開、ハーレム確立や国づくり、大富豪、あるいは平穏無事の生活づくりといった理想の「日常」を手に入れるため、主人公は奮闘していくことになる。
さて、ここで問題になるのは、主人公の行動原理が結局「現実世界」とあまり変わりがないことです。もちろん、行動は全く違うものになってはいるのですが理念、思想は現実で外部から否定されていたものとほとんど違いがありません。そして、それらは物語の初めから最後まで(完結してないものも多いですが)変わらないのです。主人公の理念、思想には倫理的に良いものも悪いものもあるのですが、良し悪しはこの際どうでもよく、主人公の価値観に変化が見られないのは、成長が見られないこととほぼ同義であるように思います。それ故に、異世界系は「現実世界」に帰還することを最終目標に掲げていません。異世界系に似た系譜として「異界物」(『たけくらべ』、『銀河鉄道の夜』など)がありますが、この話系とは完全に区別されるでしょう。あの種の物語は異界での経験、または往来を通じて成長し、その証として「現実世界」への帰還を果たすというわかりやすい目標があるので。もちろん異世界系にも帰還を目的とした物語がありますが、やはり少数な気がします(ここまで言ってなんですが、あれば教えて下さい)。また、帰還を目的としていたのに、異世界で「理想の日常」を手に入れたが為に留まるという場合もあり、せっかく成長したのに現実には帰らない、なんて展開もよく目にします。やはり、ただの妄想に過ぎなかった「理想の日常」が都合良く手に入る異世界に固執する主人公のキャラクターが見えているように思えます。
都合が良いといえば、異世界系における恋愛はちょっと面白いと思います。と言うのは、物語での目標に向かって恋愛が進むという展開ではなく、途中(というか結構序盤)で恋愛が成立してしまう作品をよく見かけるからです。これについては考えがまとまっていないのですが、この場合恋愛によって恋人同士になるというより、友達以上恋人未満の関係になって物語が進んでるように思います(人気作品にも性描写が増えたのは明らかにこのことが関係している気がするのですが、うーん)。進行上の都合なのか、はたまた作品外部の問題なのか。
閑話休題、ここまで述べたきたように異世界系は主人公の成長に物語の軸を置いているのではなく、異世界で欲しかった「日常」を手に入れる、もしくは謳歌することに重きを置いてるように思えます。そしてそのことは、主人公が「現実」に敗北したことを如実に表しているでしょう。「現実世界」では、ダメだ。どこか違う場所にボクのボクらの「日常」を見つけよう。このロジックはとてもセカイ系に似たところがあります。セカイ系は例えば、とある男女の関係が世界を変えてしまう(極端に言えば終末)かもしれないのに、男女は常に2人だけのセカイに固執するため、世界から痛めつけられるというような話系(『時をかける少女』、『最終兵器彼女』、『Q10』など)です。異世界系はまさにセカイ系のその後のような、つまり世界が変わって(替わって)しまったあとの物語だと考えられます。ある個人のセカイが世界を変えられるだけの力を持って、別の世界に降り立ち、個人の思う世界をつくる。これは主人公と読者がシンクロすれば素晴らしい作品ですが、読者の共感を得られなければ、個人の願望(作者ではなく主人公の)と世界が密接に繋がった、ある種の生々しさを感じるのではないかと思います。そういった意味では、セカイ系と区別されるでしょう。セカイ系の主人公たちは本当に理不尽に世界変革の力を授けられてしまい、そこに願望はありません。
ここまで、異世界系の概要とセカイ系との関わり、読者の読みのモードによって見える生々しさなどを述べてきましたが、はじめに述べたように、これは私個人の異世界系に対する懐疑のまとめです。一言でまとめる「現実世界」から都合良く「異セカイ」に行って己の欲求のためにユートピアをつくるって、なんかどうなのってことです。
無論、異世界系が全て上記の通りなわけではないですし、上記の通りの物語を私はおもしれえええって読み漁っていたので嫌いというわけではありません。しかし、1度できたしこりみたいなのが取れなくてモヤモヤしていたので、もう一度異世界系に物申してみました(もっと的を射たことを申したかった)。
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