僕と君の二人だけの空間
傘を差しながら、振り返って僕を見る黒い瞳が、にっこりとほほ笑んだ。僕がすぐ前に開けた錆びた扉は、ギィ……といびつな音を立てて戻っていき、しとしとと降りしきる雨音に割り込んだ。
「やっぱり、屋上は雨の方が良いね。前の学校は屋上に入れなかったから、そう思うことはなかったけれど、屋上は雨の方が良いよ。晴れも良いけれど、雨はなんか、味がある」
そう言って、僕の方に寄ってきた。
「はい。濡れるよ」
相合傘となった。雨がはじける、ポップな音が頭の上から聞こえる。君の体温が、雨の少し冷えた空気の中で暖かかった。
「傘はあるよ……」
僕はちょっと俯いて言った。実際、肩にかけた鞄の中に折り畳み傘は入っていた。
放課後だった。置き勉をしている僕のカバンは軽い。せっかくの雨なので、テニス部やら、サッカー部やらはさっさと帰っていた。いつもは屋上でよく聞こえる金属バッドの快音も聞こえない。彼らはきっと、雨宿りができるどこかでティーバッティングでもやっていることだろう。
「自分の傘がいいかい?」「いや、これでいい」即答。「正直でよろしい」
そう言って、君は目配せした。いつものベンチだ。
「さっきまで座っていたからさ。まぁもうちょっとは濡れちゃったかもしれないけど、ほら」そう言って、カバンに掛けたタオルを見せる。肩掛けのカバン、白いセーラー服に、膝上まで、
「なんか、申し訳ないね」「いいっていいって。一人でぼんやりと佇むのも悲しいし、距離は近い方が良いだろう? 傘って、なんだか空間を分ける気がしないかい? その人だけの空間を切り取る……みたいな。最近だとスマートフォンとかもそんな気がするけど。でも、僕たちの空間を切り取る必要はないだろう?」「……よく、そんなことを堂々と言えるね。僕はちょっと恥ずかしい」「照れてないわけがないだろう。まぁ、照れた方が体温が上がって良いかもしれない。なんならもうちょっとくっつくかい?」
完敗だ。いや、どうも君には羞恥心を超えるのにためらいが無いらしい。深い黒色のショートヘアから覗く瞳は意地悪げに揺れている。白い肌には幾つか水滴がついていて、朱い唇の、口角はにやりと吊り上っていた。
君の頬に手を伸ばして、水滴をふき取った。水で滴った自分の右手の人差し指をじっと見る。一瞬だけ、舐めようかなと思ったが、君の体温を右腕に感じて止めた。流石に恥ずかしい……というより気持ち悪いだろう。
君を見ると、びっくりしたように僕を見ていた。顔が真っ赤に上気している。白い、透き通った陶器に朱い紅を注したような……そんな頬。その感触は水滴を通じて僕の指先にほんのりと残っている。
「それは流石に恥ずかしい……」尻すぼみな言葉。思わず僕はにやけて。
「僕も」見つめ合って笑いあう。恥ずかしそうに。
雨は冷えるけれど、ここは暖かい。
傘で区切られた空間の中、僕たちは二人で居た。
雨で視界は晴れていない。丁度、屋上だけ見えている気分だ。視覚の中で切り取られた、四角い空間の中で、丸く切り取られた二人だけの世界に居る僕たちは円満だ。
「えっと、転校してきた来栖朱音です。これから、よろしくお願いします」
丹念に書かれた黒板の字に、全く目がいかなかった。三十度の綺麗なお辞儀はいかにも慣れていて、短く切り揃えられた、吸い込まれるように綺麗な深い黒髪が、重力に従って揺れた。不思議と着飾られていないのに、どこか静謐とした雰囲気がある女の子が君だった。
僕は出会った……いや、一目見たその瞬間から君に心奪われていたと言っても過言ではない。
君はそのあと、親が転勤族で……とか、得意教科は国語で……みたいな他愛もない自己紹介をした。担任の先生が、そこに用意しておいたからーと指示した席は一番右の一番後ろで、僕とは割かし離れていた。というか窓側一番左の後ろから三列目……の隣が偶然空いているはずも無く。今朝方増えていた謎の机の秘密はそれで解かれた、と言った形だ。
授業中、なんとなく廊下の方を見てしまうのは性だ。仕方が無い。この時ばかりは、伊波月影という名前を恨んだ。ワ行とか、ラ行ならちょうどよかったのに。そう思わずにはいられなかった。
数日たって、芝居がかった喋り方と、奇怪な一人称から君の周りから人は減っていって、ついに教室の隅、君は一人で昼食を食べるようになった。臆病者の僕が君に話しかけられるはずもなく、友人といつも通り、隅で弁当を食べていた。
屋上の吹く風は涼しい。五月の学ランが暑くなり始めた時期だ。野球部の新顔もようやくなじみ始めて、声だしも大分こなれてきたころだ。
僕はいつもの通り、屋上のベンチに寝ッ転がりながらぐうたらしていた。ほぼ全員幽霊である文芸部の部員なので、暇なのだ。目を閉じて空気の流れを感じる。誰からも隔絶された一人ぼっちの空間。空をひとしきり眺めて、夏の少し淀んだ空気を見てからそっと目を閉じた。
昼休みなんかはカップルなんかで混む屋上だが、放課後にわざわざ来てくつろぐようなのんきな人間は僕以外に居ない。
ぎぃ、と扉の音が聞こえた。どうせ直ぐ踵を返すだろうと無視した。
ぱかぱかと、上履きがコンクリート床に反響する間抜けな音が聞こえる。それが近くで止まって、ぱっと、僕の顔の陰になった。
流石に、目を開けた。
「おはよう……でいいのかな」
「おはよう……ございます?」
多分、これが僕と君の最初の会話だ。ちょっと悪戯っぽく笑う君の笑みに、当然のように僕の胸は射抜かれて。
ギリギリ、スカートの中は見られなかった。僕が寝ていたベンチは存外に高いらしい……そうじゃなければ、君はこんな傍まで来なかっただろうけど。しかし、細いけれども肉感的な太ももは見えて、僕は思わず見とれてしまった。そして、我に返って視線を上に上げると、君は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。僕と視線が合って、十秒くらいしてから視線を外し、グラウンドの野球部やサッカー部を見て、最後に空を見た。その様子を、僕はあっけにとられながらじっと見続けていた。
「前の学校は、屋上が閉鎖されていた。今の時代。屋上への規制は大分厳しくてね……僕は教室とか、図書室の窓からじっと空を見続けていたけど――やっぱり、屋上は開放的だ。昼寝したくなる気持ちもわかるよ」
そりゃあそうだ。現にこの学校だって簡単には乗り越えられないように鉄柵が張られている。
「一人でベンチを独占していちゃあずるいだろう。僕にも分けてくれないかい? いや、別に嫌ならいいんだ。しかし、偶然クラスメイトと屋上で遭遇したんだ。多少くらいなら歓談したって良いじゃないか。しかも、その姿勢だと僕のスカートの中が危うく見えそうになる。尤も、見えないように気をつけてはいるけどね」
僕は素直に起き上がって、場所を譲った。随分、積極的……と言うか慣れ慣れしいな、と思った。僕は少しも君に近づこうと出来なかったのに、君の方からはいとも簡単に僕の方に近づいてくる。きっと感情の質が違うからだな、と納得はしても、それは認めたくない。いや、君に一目ぼれを求めることなんて酷く滑稽だと思うけれども。
君は隣に腰かけた。二人だけの空間が出来上がった。
「いつも君はここに居るのかい?」「まぁ……そうだね。放課後はあんまり人がいないから。教室なんかだとたまにうるさい奴とかいるけど、ここなら野球部と吹奏楽部くらいの音しか聞こえないし。本とか読むのも、割かしここかな。図書室でもいいんだけど、あそこは静かすぎるから」
ふぅん……と興味深げにじっと僕を見た君。僕は恥ずかしくて、その顔を直視は出来ず、少し視線が下がった。鎖骨。首。白い、折れそうな首があった。吸い込まれるような魔力を感じて、僕はじっとそれを見た。
「僕も、屋上に来ていいかな」「え?」「いや、こんな時期に来ちゃったからさ。運動部とかには入れないじゃないか。中学では僕は一応テニスをやっていたけど、高校は文化部さ。――殆どサボっていた華道だ――それで入れる部活なんて、あんまり活動していないのに限られているだろう? そう言えば、君は……月影くんはどこの部活に入っているんだい?」――こんな時間にここに居るんだし、僕が入るにはちょうどいいだろう。と君は微笑みながら付け足した。
「文芸部。あんま活動はしてないけど」「それなら重畳だ。流石の僕も今から甲子園を目指そう! というのは厳しいからね。というか文芸部に甲子園みたいなものはあるのかい?」「なんだろう。文芸賞とかかな。僕は――こんなところに居る通り、精力的に活動しているわけじゃないから、わからない」「ふぅん……定期的な活動はないのかい?」「さすがに文化祭くらいでは出すけれど、それだけかな。それも全員が書くわけじゃないし、結局、半端者っていうか帰宅部みたいな側面はあるんだ。全員どっかしら部活に入らないとだけれど、全員がそんながちがちの部活に入るわけじゃないから」「じゃあまぁ、僕にとっては最高じゃないか。こう見えて、本が嫌いなわけではない」――どう見ても本が嫌いそうには見えないけれど、とは言い返せなかった。なんとなく自分の風貌を気にしていないように君は見えたからだ。「じゃあ、丁度いいね。部活はまぁ、転校生なら担任に言えば書類を貰って、入れるんじゃないかな」「うむ。そうするつもりだ。担任からも結構せっつかれていてね。急ごうかと思っていたんだ」
その日は大分話が続いて、結局夕日が落ちる頃に二人一緒に帰った。方向は偶然にも一緒で、君の方は綺麗なマンションに住んでいた。――転勤族に一軒家を買うことはできないさ。そう君は言った。僕は親が住んでいる市の公務員なため、普通に一軒家だった。この土地に身をうずめる覚悟らしいが、僕は多分出て行くだろう。
「じゃあね、また明日」――そう言った君の言葉は僕にとってうれしすぎて、ちょっとどもりながらの返答をしてしまった。「そんな緊張することないじゃないか」そう言って君はもう一度僕に手を振り、僕はまた手を振りかえした。
――その日以降、僕は毎日屋上に通った。君が転校する前――高校一年の、屋上を見つけた夏以降は三日か四日に一回の気が向いた時だったが、それこそ毎日になった。君はいつもいた。そりゃあ、僕も君も用事があって行けない時はあったけど、大体は毎日ぐだぐだと過ごしていたと思う。
――そんなわけで、半月も過ぎるころには僕と君は付き合うことになっていた。ウマが合ったし、何より自然とそうなるべき成り行きだった、そんな気がしたんだ。どちらでもなく、ほぼ同時に告白めいたことを言って、結局僕――月影がしっかりと告白をして、それは朱音にスムーズに頷かれた。六月に入ろうか、という時だった。
視界には君の顔と、無限に広がるかのような、澄んだ青空。頭の裏には、柔らかい太ももの感触がある。君は細い綺麗な指を、僕の眼前で遊ばせた。あやとりのように動くその動きは官能的で、不安を表しているようには見えなかった――けど、僕にはなんとなくそれが不安の表れだとわかった。
「どうだい? 膝枕」いつも飄々とした態度の君だが、不安げに感じることが結構多いことを僕は知っていた。今はまさにその時だ。指と手は忙しなく動いているし、瞳の奥が微妙に揺れている。
「気持ちいいよ。すごく。柔らかい。天国にいるみたいだ」「そこまで言うと流石に恥ずかしいだろう?」もうっ、と付け足して、右手で僕のくしゃくしゃの髪の毛を撫でた。くすぐったい、こそばゆい感触だ。「照れ隠しだ」「いいだろう。照れ隠しくらい。なんならコンクリートに振り落してもいいんだぞ」「なるほど。天国か地獄かの審判をする権利は君が握っているのか」
「しかし、落とすわけがないだろう。僕だって君と触れ合っていたいんだぞ」手を握って来た。君の体温と僕の体温が混ざり合っていく。にょろっと君が指をあそばせ、僕もそれに指をピアノを弾くみたいに揺らすことで答えた。
「しかし、そろそろ夏休みじゃないか」君はまだ手を揺らしている。僕と君はお互いに手でコミュニケーションを取っていた。「そうだね。どこか遊びに行こう」「そうしよう、そうしよう。しかし、僕はここの町のどこに遊びに行けばいいのかわからない」「うん……繁華街に出るなら電車で県庁所在地に行った方が良いけれども、この町にはそれなりの滝がある。そこに行きたい気持ちはある」「滝か。それはいいね」君は僕の髪の毛をまた撫でた。僕は何となく対抗する気分になって、頭を太ももに擦り付けた。
「くすぐったい」「そりゃあそうだ。僕もくすぐったかったんだし」
結局日が落ちるまでいちゃいちゃしていた。野球部のノック音は耳の遠くに残響として残るだけだった。君の柔らかいけれども芯のある声が、僕の耳朶にいつまでも残り続けていた。ついでに、いくつかの場所に行くことになった。
「これがマイナスイオンか」「さあ、そこら辺は僕にはよくわからないけど、清涼感を感じることだけは確かだね」
豪快な水が地面へと叩きつけられる音。落ちていく水の流れは突き出た岩の模様で複雑に変化して、途中から合流したり、大きく迂回して最終的に滝つぼに落ちたり、めいめいが好き勝手に動き回っていた。滝つぼについた水はそのまま沢へと流れだし、まだ大きないくつかの岩を削ろう削ろうと流れていく。苔が滑らかそうに生えていて、木も鬱蒼と繁茂していた。
「涼しいね。ここまで滝が涼しいものだとは、予想外だった」「音がね。水だから。それに木々で日陰だし、やっぱり夏の滝は素晴らしい」じっくりと、僕は滝の匂いを全身で感じていた。
君は小走りに滝つぼの傍に駆け寄って、しゃがんだ。右手を水面に手を伸ばし――
「冷たッ!」「そりゃあそうだよ。上流の綺麗な水だし、かなり冷たいと思う」僕は苦笑いして、可愛いなぁ――と思いながら君を見て、近づいた。
君はむっとして振り向いて、立ち上がって駆け寄ってきて、そして接近してから、えいっ! と僕の唇と頬の間あたりに右手の人差し指を突きだしてきた。
「ちゅめたい……」「僕の冷たさがわかっただろう?」「そりゃ、そんなことすりぇばわかるけどさ……」この間、指は僕の頬辺りに突きだされたままである。
「たにょしい?」「すごく」
指が離れて行った。水滴がある。舐めとるか一瞬悩んだ後、舐めとることにした。ちょっとだけ、しょっぱい気も――しないでもない。
「変態」「否定できない」「美味しかった?」「割と」「変態」「わかる」
君はまた滝つぼへと寄って、しゃがんだ。今度は右手だけじゃなくて、両手で水を救うようにした。
「でも、慣れたら気持ちいいな。涼しい。自然の中に居るって感じがする。山の中は良いね。人も居ないし」
そう言って君は僕の方へ近づいてきて。「えいやっ!」と、両手を僕の顔に向かって突きつけようとした。しかし、驚かすために振り返ってすぐ、急いで近づいてきたため照準が外れた。
丁度、首に当たった。
ひんやりとした感触がまず首筋にじんわりと広がった。
次に、君の手のひらの体温を感じた。皮膚と皮膚が触れ合って、お互いの血流を血流で感じた。暖かかった。僕と君は、触れ合っている――ということを感じた。
ぎりっ……と力を感じた。多分、僕と君が考えていることは同じだったと思う。もっと近くで触れ合っていたい。しかし、いくら君が力を入れても僕の皮膚と君の皮膚は血流を――僕自身と君自身を隔てた。
僕が君の両手から視線を外して、じっ……と君を見ると、君ははっとした顔になって、慌てて手を放した。
「ごめん。痛かっただろう?」確かに痛かったが、僕はそれを言うべきに感じなかったし、なんと返答するかで迷った。
「いや、大丈夫」そういったあたりさわりのない返答しかできなかった。さすがに、もう一度……とは言えなかった。
君はぼう……と呆けたようになって、虚空を見つめていた。
僕は水を掬って、君のうなじからちょっとだけ注ぎ入れると、びくっ、と、驚かされた子兎のように飛び上がって、「あっ!」と艶やかな声を出した。
「呆けてたよ」「いや、うん。ちょっとぼーっとしてた」
僕はまだ掬った水が残っていたので、ちょいっとかけた。君は「きゃっ」と悲鳴を上げて、むくれた顔になって、「それは流石にやりすぎじゃないかい……?」と言った。そして滝つぼに駆け寄ると、彼女も水を掬って――
その後はちょっとだけ水辺で涼んでから、近くのベンチでぐうたら座った。だいたい一時間くらい、ベンチから滝を堪能して、話に花を咲かせてから帰った。帰りのバスの中、君はしきりに僕の頬をちょんちょんとつついていた。くすぐったかったから僕もやり返そうと思ってつつき返したら、君は顔を真っ赤にした。「恥ずかしい……」「ほんとに、まぁ、こういうのもいいんじゃない?」こんな地方の無名の滝に向かうバス、本数ももちろん少なかったが、乗客もかなり少ない。運転手はこちらを見ていないだろうし、二人だけの空間が出来上がっていた。
「ねぇ、この服はどうだい?」結局僕たちは服屋にずっといることはできないで本屋を巡ったりした。
「海鮮丼、美味しいね。流石港町なだけある」君はここに来る前は、内陸に居たらしい。
「自転車! 結構! 疲れる!」二十キロをチャリで移動するのは結構大変だったけれど、なんとなく自転車で行きたい気分の時はある。
秋の風は涼しいと思うが、九月のこの日はまだまだ残暑が厳しいとしか言いようが無かった。放課後。久々の学校後の部活だからか、野球部のだみ声も小さめだ。
「どうだった? テスト」君は大分頭が良い。夏休み前の期末試験も、十番目には入っていたと思う。対して僕は平均的だ。「普通」「君、普通以外のテストの点数を取ったことはあるのかい?」「高校入ってからはあんまりないかな……」「そんなもんか」「なんか、上の方に行くぞーとまでは勉強が出来なくて。でも、赤点を取るほど勉強をしないわけでもない」「ふぅん……」「君はすごくできているから羨ましい」「そんなこと少しも思っていない癖に」そりゃあそうだ。僕は君が結構真面目に勉強しているのを知っている。当然の結果だ。でも、純粋に凄い。僕はそこまで真面目に勉強できないから。
君はむぅ……と頬を膨らませた。僕を見つめた。僕はちょっと首を傾げた。君はうなずいた。僕はいきなりの行動に怪訝な目をした。君はもう一度僕を見た。じっと、じっと。
「言いにくいことがあるんだけど」
君は僕を直視できていなかった。目を泳がせていた。
「……なに?」
「転校する。あと一ヶ月くらいで」
君は厳粛な顔で言ったあと、すぐその顔を歪ませた。悲しそうに。多分、厳粛な顔で聴いた直後にすぐ歪んた僕の顔が君からは見えていることだろう。
「遠い?」
「北の端。多分、なかなか会えない。寂しい」
「そりゃあ……僕もだけど、なんだって急に……」
僕だって多少理由はわかる。君のお父さんは転勤族だし、同じ部活をずっと出来ていなかったことは確かに聞いていた。すぐに転校するから、仲の良い友人をあまり作ろうとしなかったこともまた。わざわざ口調や一人称を変えてまでそうしていたのだから、頭が下がるばかりだ。その上で、「君とは本当に良好な関係を築けて、すごくうれしいと思っているよ」と破顔しながら言われたら落ちない男はいるだろうか。
「僕だってできることなら転校したくないさ……でも、僕はまだ、一人じゃ生活できない。わかるだろう……?」痛いくらいにわかった。僕だって、できることなら君と離れたくない。しかし、僕も君を養うことはできない。それもはっきりとわかる。
バイトができないわけでもない。禁止されているが抜け道なんていくらでもある。
高校を辞めて働けばいい。そうすれば、僕と君で生活することもできるだろう。
「でも、僕が君にそれをさせたいと思うわけがないだろう?」君の中で僕の心中はお見通しだった。そうだ。君が僕にそれをやらせるはずがない。
「寂しい……と思う」「そりゃあ、僕もさ」
君が気丈にふるまっているだけだというのはわかった。僕は気丈にふるまえなかった。あんなにうるさく響いていた、うるさいねと僕と君で笑い合っていた野球部のだみ声も、吹奏楽部の時々外す演奏も、もう遠くに聞こえる。
「まだ会えるさ」「うん……」多分、お互いに呆けながら、いつも通りの放課後を過ごしていたと思う。君といるこの時間は何よりも大切だって、そう思った。
その日は布団に籠った。現実の不条理に抗えない僕が何よりも嫌だった。涙をいくら流しても、流したりなかった。
終わりが見えた日は、目まぐるしく過ぎるものだということがよくわかった。
「ねぇ、首を絞めてよ」転校前日、僕は君に言った。
「え?」
放課後も、だいぶ更けてきたときだった。もうだいぶ暗くて、野球部も帰り支度を始めている。楽器の音もだいぶ聞こえなくなってきている。
君は呆けた顔をしていた。僕も君にそんなことを言われたら――内心は少しわかりつつも――呆けた顔をするだろう。
「夏休み……覚えてない?」僕は聞いた。いや、聞く必要もなかったけど、聞くのが確認だった。
「覚えているけど……」
僕はもう一度君を見て、一つうなずいた。
学ランを脱いで、ベンチの上に放り出す。
Yシャツのボタンをはずした。
十月の秋の風は、薄着には寒かった。
「良いのかい? あのときも、苦しく……?」
「君と居たっていう痕跡が欲しい。苦しくないと、意味が無い」
僕はまっすぐな瞳でそういったと思う。少なくとも、暗い中、ほんの少しの灯りだけで見た君の双眸に反射した僕の瞳は真剣だった。
「じゃあ……」おずおずと差し出された両手は電灯に照らされてぼんやりと白く光って見えた。指先が妖しく揺れる。
――触れた。
体温。少しずつ僕の首を這っていく。ぞわぁ……という感触と共に、首で君を感じられる面積がちょっとずつ増えていく。
いいの……? と言いたげに、君は手を動かすのを止めて、僕の方を見た。
頷いたら風情が無いような気がして、僕は右手を握って、親指を突き出した。
「わかった。」今度はためらいが無く、僕の首の周囲をぐるりとつかんだ。
ちょっとずつ、力が入れられていく。力が入れられる度、少しずつ君の体温が感じられる気がした。
秋風の寒さも今は気にならない。このシチュエーションへの興奮と、君から伝わる体温で温かみが全身を満たしていた。
「どう?」
声を出そうとしたら、かすれた声も出なかった。喉仏が揺れて、君の手のひらをつついた。
僕も手を伸ばして。君の背中を二回タップした。そのままちょっと、抱きしめるみたいな体勢になった。
君は受け入れたように微笑んで、
僕もそれを見て、苦しそうに、寂しげに、でも嬉しそうに、今が、君と触れ合っている今こそがうれしいというように、微笑んだ。
今こそが、僕と君の二人だけの空間だった。
僕と君は確かにつながっていた。続いていた。君の痕跡は滔々と僕に流れていた。君がいたことを、確かに僕は実感した。
心地よい苦しさを感じて、君と一緒の最後の放課後は去っていった。ゆっくりと、名残惜し気に。空間そのものが僕と君の別離を悲しんでいるみたいだった。
「僕は絞めなくていいのかい?」最後の帰り道、僕は君に聞いた。満足げにした僕の顔を見て、君は僕の腕を興味深げにじろじろと見ていたからだ。
「いや、取っておこう」「え?」思わず素っ頓狂な声が出た。
一瞬、君が何を言っているのかわからなかった。
「君が僕の痕跡を感じるために、僕に首を絞められるっていうのならね。僕は君と再会した、また一緒に歩んでいける。そういう証拠――痕跡を得るために、首を差し出そうと思ってね。何より、君と再会する楽しみは多いほうが良い。そんなに君がうれしそうにしていたんだ。いやでも期待が上昇してしまうだろう」
そういって、いたずらっ子っぽく君は笑った。僕も思わず笑い返した。
「じゃあ、またね」
十分位前まで僕と触れ合っていた手のひらを、これまでの毎日のように振って、君は去っていった。
「ああ! また!」
僕はそれに答えた。役目が残っている両手で。
次の日、教室の机は一つ少なくなっていた。そのことに寂寥感を少し感じながら、左の後ろから三番目の自分の席に着いた。頬杖をついて、自分の右手のひらを見た。