此処は夢の世界 だった
毎晩夢を見る。
それは、明晰夢というのだろうか。
凄まじい現実感を持ち、もしここが現実だよ、と言われればそのまま信じてしまいそうな程よく出来た夢。それを将臣は毎晩見ていた。
夢の中で、将臣は魔術師であった。
この世界が夢であると断言できる理由、それは剣と魔法が日常の中に存在し、皆それらを使って生きているからだった。 だから将臣はこの世界を現実では無いと感じる事が出来た。最初は戸惑った。毎晩決まった夢で、とても夢とは思えないようなリアリティのある世界。
そして十回目の夜を迎えたとき、将臣はこの夢の世界を楽しむ事に決めた。そこから更に夜を超え、十、二十、三十と過ぎて行く。そして今日も将臣は夢を見る。今日で丁度、四百回目の夢だった。
将臣が目を開けると、そこは宿屋の一室であった。木目の見える天井、手のひらに感じる荒いシーツの感触。
何ら現実と変わらない、だが混乱する事はない。慣れたものだと勢い良くベットから起き上がり、言葉を口ずさむ。
インベントリ^防具^魔術師セット
ベットから立ち上がった将臣の服装が一瞬で変わる。青白い魔方陣が足元から頭の天辺まで通過する、ただそれだけで全ての支度が整った。
丈夫な茶のズボンに鉄の編み込まれた地味目の上着、それに金の刺繍が施された黒のローブを着こんだ姿。右手と左手には幾つもの指輪が装着されている。これが魔術師の武器である魔術具であった。
一通り自分の姿を確認した将臣は、そのまま部屋を出る。部屋の外は幾つかの部屋の出入り口と繋がっている廊下、すぐ傍に下の階への階段があり、それを下って行った。
「よぉ色男、お早うさん、飯はどうする」
将臣を色男と呼ぶ筋肉質な男、頭皮が剥き出しで要するに禿げ頭。この宿の主でコック長も兼任していた。
「何でもいい、腹の膨れるものを」
「へいへい」
すぐ厨房に引っこみ、暫くして朝食手に戻ってくる。コーンスープにパン、野菜サラダと分厚い肉だ。
「重いな」
と将臣は言うが、探索者ならこれくらい食えと言われ渋々フォークを手に取った。
ちまちまと野菜サラダを口に運んでいく。探索者と呼ばれる者は総じて豪快に飯を食ったり、大雑把な性格の者が多いが、その点将臣は物静かな性格だった。
しかし、と将臣は思考する。相も変わらず味覚まで再現するとは、大した夢だと何度目かも分からない感嘆の息を吐いた。
「んで、ゼオさんよ、今日はどうするんだ」
店主がプチトマトをつつく将臣に向かって問いかける。ゼオというのは勿論、将臣の事である。
初めてこの明晰夢を見たとき、知り合った女性に名を聞かれ咄嗟に答えたのが切っ掛けだった。この夢の中において、何だかんだで馴染んでしまい、今の今までずるずると使い続けてきた名だ。
「今日はリディアの迷宮に潜る予定だ」
リディアは今、将臣が滞在している町に存在する唯一の迷宮。中級から上級者向けとされる場所であり、ある程度熟練した探索者ならちょっとした稼ぎ場所兼修練出来るスポットとして知っているだろう。
「リディアか、いいねぇ儲けそうじゃないか」
一度の探索で得られる金額を想像し、どこか羨ましそうな眼差しで将臣を見る店主。
「店主も探索者になったらどうだ」
そういうと、冗談だろと言わんばかりに肩を竦めた。「俺はあんた等みたいに強くないんでね」そう言って厨房へと戻る。
「それに、俺が探索者になったらこの宿はどうするんだ、ゼオもそれじゃあ困るだろ?」
そう言われると、確かに。それもそうだと返事をして、パンを手に取った。千切って、口に運ぶ。その後店主と他愛もない世間話をしながら、朝食を完食した。
基本、この宿にはあまり客が来ない。現在、将臣を入れてこの宿に泊まっている客は四人だけだ。その為、将臣と駄弁っていも何ら問題はない。他の客が起きてくる気配も無く、宿の中は閑散としていた。
「それじゃあ、行ってくる」
部屋の鍵を店主に預け、宿の外へと踏み出す。この町での現在の季節は春。暖かい日差しを浴びながら、将臣は迷宮の方角へと歩いて行った。
目につくのは『古典的なファンタジー世界の街並み』………ではなく。ローマ建築、古典建築、バロック建築などが入り混じった建築物。道は石材で整えられているが、上を走っているのは専ら馬車である。蒸気機関すら発明されていない、産業革命前の世界。だが、ここには科学以上の神秘の力が存在していた。
さて、今日も夢の世界を堪能しよう。
澄んだ空を見上げながら、将臣は迷宮へと続く道を行く。
ここから、何が始まるのかも知らずに。
【飛来する刃】
青白い、半円形の魔術が子鬼をバターの様にスライスする。
子鬼は三枚に卸され、緑色の血を撒き散らしながら地面に肉片をばら撒いた。
将臣は、ふぅと息を吐き出し、指輪の調子を見る。どうも、魔術はいつもどおり使えそうだと確認。問題なし。
初めて魔術を使った時は、大いに驚愕したものだと、懐かしむように指輪を撫でる。
今の【飛来する刃】は第一階位の魔術であり、最も初級と言われる魔術である。
将臣は宿屋の店主に言った通り、現在迷宮へと潜っていた。迷宮第一階層、最も迷宮の中で浅い部分であり、ここだけならば駆け出し冒険者でも攻略は可能。問題はその先なのだ。
将臣が身を乗り出し、下層へと続く穴を覗き込む。
基本迷宮は探索者しか利用しない為、梯子や階段などと言う気の利いた物は存在しない。自然に空いた穴から下層へ降りる為、上に戻りたいならば帰還の魔術か希少な帰還魔術具を使用するしか無い。その為、基本迷宮探索の際は一人か二人、魔術師を入れるのが鉄則である。
子鬼の肉片を踏み潰し、大きく息を吸い込んで、跳躍。一気に下層へと飛び降りた。
この迷宮の穴は三層直下型であり、一階層から第四層まで繋がっている。
将臣の狙いは第四層、意識が暗転しそうになる落下に強い虚脱感を感じるが、将臣はこれが幾らリアルであっても夢であると知っている。その為冷静に落下地点を見極め、魔術を演唱する。
【衝撃吸収Ⅲ】
将臣の足裏に青白い光が発生し、着地の瞬間に多大な風を巻き起こす。それは将臣の落下の衝撃を完全に殺し、まるで羽の様に将臣は地に足を着けた。
ローブの裾がふわりと舞い、将臣は周囲に目を向ける。
着地の瞬間を狙って攻撃される可能性も考慮していたが、危険は無し。周囲に敵の影も無かった。息を吐いて、魔術を解除する。青白い光は、粒子となって空気中に溶けた。
将臣は魔術の原理を知らない。そもそも、夢なのだから超常現象で済ませても問題ないと言うのが将臣の持論だった。
つまりは、良く分からない物を、分からないまま使っていると言う事だった。
青色の粒子が空気に溶けるまで見守り、薄暗い迷宮を奥へと進む。一応、いつでも奇襲に備えて魔術演唱の用意はしておく。
そして、何度目かの曲がり角に差し掛かった時、ばっと黒い影が将臣の進路を塞いだ。
【飛来する刃】
将臣がすかさず魔術を放ち、指先から半円形の魔術が放たれる。子鬼程度のモンスターならば即死の魔術ではあるが、目の前の敵はそれを容易く腕で弾いた。
硬質な音が鳴り響き、暗闇が火花によって一瞬昼間の明るさを取り戻す。
「………レッドデーモンか」
その姿は、先程の子鬼を一回り大きくし、肌を赤くした様な姿。大きさや外見に大きな差は見られないが、凡そ子鬼の数十倍は強いと言う存在だ。
体内に高温を発する器官を持ち、肌の表面を硬質化する事が出来るモンスター。詳しい原理は知らない、将臣が知っているのはコイツの内蔵が比較的高く売れるという事だけ。
下級魔術では倒しきれないと判断し、将臣は一段上の魔術を選択する。将臣の指先に、小さな球体が生まれた。それは、ダンジョン内を明るく照らし、周囲に長い影が伸びる。
【魔術矢・貫通】
指先に生まれた球体を、指先で摘む様にして引き伸ばす。丁度肩幅の広さに伸びたそれは、矢の形をしていた。矢尻、矢の先端部分は尖っており、凡そ貫通に特化した形である事が分かる。
将臣はそれを、腕を振り下ろす事によって撃ち出した。速度は十分、数字で表すならば百五十キロは出ている。
レッドデーモンは飛来した矢に対し、避けるような素振りは見せず、正面から腕で防いだ。
バキン、と何かが砕けるような音。そしてレッドデーモンの腕が吹き飛ぶ。その表面は陥没し、矢が深々と突き刺さっていた。
奇声を上げ、痛みに悶えるレッドデーモン。その隙を突き、将臣は魔術弾を空中に数個生み出し、そのまま撃ち出した。ボッ、と言う音が周囲に響き、魔術弾の一つは頭部、もう一つが胴体に風穴を空けた。
そのままレドッデーモンは背中から倒れ、再度動き出す事は無かった。
【飛来する刃】はソフトスキン、【魔術矢・貫通】はハードスキンのモンスター様に編み出した魔術である。
尚、魔術はオリジナルのモノから、この夢の世界の中で一般的と呼ばれる魔術の型が多く存在する。
将臣の場合は、その殆どがオリジナルだった。
倒れたレッドデーモンを範囲指定し、その死体を魔術で作った領域内に引き込む。これも【沼箱】と将臣が呼ぶ、魔術の一つ。回収された物質は、全てインベントリに保管される。
そのまま将臣は、レッドデーモンとの戦いを終え、先へと足を進めた。
第五階層へと続く穴を見つけたのは、それから数分程歩いた後だった。見つけるまでに二度程レッドデーモンの襲撃を受けたが、全て討伐済みである。
さて、今日は第五階層で狩りをしようかと決め、将臣は暗闇へと足を踏み出した。そして、途端。
「っ!?」
真下から、高速で飛来した何か。それが将臣の鼻先を掠めた。被っていたフードがはらりと後ろに流れる。踏み出そうとした一歩を、将臣は辛うじて止めた。
一体何だと下層への穴を覗き込めば、何やら大型のモンスターがこちらを見上げていた。
その姿は蜘蛛に良く似ている。六本足に大きな顎、複数の赤い瞳、そして其処ら中に張り巡らされた蜘蛛の糸。
「いきなりボスか」
名はボウデリック、大型のモンスターであり第五階層のボス、高い攻撃力と拘束能力、そしてタフな事から【前衛狩り】と呼ばれるモンスター。第五階層の中型モンスターを狩ろうと考えていた将臣は、まさかボスの真上に通じる穴に来てしまったとは思っていなかった。
上を見上げれば、先程飛来したものは蜘蛛の糸だと言う事が分かる。べっとりと天井に張り付いた糸。その粘着性は一度付着すれば特殊な溶解液を使用しなければ脱出は不可能。
はっきり言って、魔術師単体では挑みたく無いモンスターである。もし現実なら、踵を返して戻るだろう。
しかし。
将臣は魔術を演唱しながら、穴へと飛び出した。
どうせ夢なら、もっとスリリングに過ごしたい。それが将臣の考えだったから。
【魔術障壁Ⅰ】
将臣が飛び出した途端、吐き出された蜘蛛の糸を障壁で防ぐ。目の前に放射線状に広がったい糸は、将臣の視界を奪った。
それでも慌てはしない、そのまま障壁を展開し、生身のまま下層へと着地した。
落下の衝撃を膝を限界まで曲げる事で緩和し、次いで横に転がる事で勢いを殺す。そのまま埃を払いながら立ち上がり、障壁を解除した。
目の前に迫るボウデリック、その巨躯は見かけによらず素早いものだった。砂煙を巻き上げながらこちらに向かって突進を繰り出す。何もしなければ、脆い人間の身など粉々な威力がある。
「せっかちだね」
だが、将臣は動じない。既に魔術は演唱され、将臣の目前には新たな障壁が生まれていた。
【魔術障壁Ⅳ】
先程の薄い障壁と比べ、圧倒的に分厚い魔術障壁。将臣が考案した物で、魔術障壁のランクに合わせて階層が追加される。
【魔術障壁Ⅳ】ならば、内包される魔術階層は四つ。その合間に衝撃を緩和するスプリングの様な役割を果たす機構を作り、単純な破壊力を持つ攻撃ならかなりの強度を誇る盾となった。
魔術障壁にボウデリックが突進し、風が将臣の左右を流れる。衝撃音が木霊し、音だけで将臣の臓物が揺れた。間接的に受けるだけでも、その衝撃力が伝わる。
だが無傷。
魔術障壁は、ボウデリックの突進を完全に殺した。地面に半ば埋まったボウデリックの足が蠢く。その前に、将臣が次の魔術を放った。
【魔術槍Ⅰ】
先程の矢よりも大きく、長い魔術槍が姿を表す。そしてそれを将臣は全力で撃ち出した。
魔術槍はボウデリックの顔面に直撃し、大きく仰け反るように態勢を崩す。だが、貫通には至らなかったらしい。大きく頭をはね上げたボウデリックだが、数歩蹈鞴を踏むだけに留まった。
「硬いな」
タフと言われるだけの事はある。第三階位の魔術では表面を砕く事も出来ない。将臣はもっと強力な魔術を使う必要があると判断し、ボウデリックに手を翳した。
【衝撃Ⅱ】
ドン、と腹に響く音が鳴り響き、ボウデリックの巨体が大きく退いた。地面を削るようにして後退するボウデリック、そして壁の数歩手前で停止。
【衝撃】は敵を大きく突き放す為に考えた魔術の一つ。Ⅱであれば、凡そ大型車両程度なら吹き飛ばせる自信があった。
ボウデリックが再度突進を行う前に、将臣は次の魔術を演唱する。
【魔術槍Ⅱ】
将臣の頭上に、三本の魔術槍が生成される。それは先程よりも色が濃く、そして細長い形をしていた。
滞空するそれらを、将臣は腕を振り下ろす事で射出する。そして、ボウデリックが将臣に対し突進を仕掛けたのは同時だった。
正面から衝突する魔術槍とボウデリック、一発目の槍がボウデリックの頭に着弾し、僅かに勢いが衰えた。
そこに後詰めの二発目。それはボウデリックの足に突き刺さる。足元がお留守だったボウデリックは、突進する勢いをそのまま、地面に顔面から突っ込む。そして、無防備なまま地面を転がるボウデリックに、三発目の魔術槍が突き刺さった。
胴体に深々と突き刺さった魔術槍は、役目は果たしたとばかりに粒子となって消えた。
ボウデリックはまだ死んでいない。だが、受けた傷はそう浅くはなかった。足は一本が根元から千切れ、胴体には小さくとも深い穴が空いている。すぐに戦闘可能となる傷ではない。
「本当にタフだ」
感想を口にしながら、最後の魔術を演唱する。立ち上がろうとするボウデリックよりも先に、その魔術が繰り出された。
【重力操作Ⅰ】
ズン、とボウデリックを中心に十メートルの範囲にある地面が一気に陥没する。立ち上がろうとしていたボウデリックは腹を地面に擦りつけ、もがいていた。
重力操作とは言うが、実態は魔力の塊を頭上から叩きつけ、地面に押し付けているだけの魔術であり、なんら重力とは関係が無い。だが、見た目がそれらしいので、将臣は重力操作と命名した。
上から圧迫してくる魔術の力は、段々と力を増し、ボウデリックの表面を覆う装甲がキシキシと悲鳴を上げ始める。
そして、さらに時間が経過した頃、遂にボウデリックの体が魔術の圧力に負け、瓦解した。
ぐしゃりと、押しつぶされるボウデリック。その巨体が先程の半分もの大きさとなり、踏み潰された虫の様な光景になっていた。
将臣は、そのボウデリックの亡骸を【泥箱】に仕舞う。ズブズブと地面に飲み込まれていく巨大蜘蛛を見ながら、将臣は大きく息を吐き出した。
予想以上に魔力を使ってしまった。
元々、ボスと戦う準備もしてこなかったので、重力操作などと言う第五階位の魔術を使ってしまった。
将臣は魔力回復速度も高いので、別に魔力そのものは足りなくなる事は無いが、魔力を使用した時の精神的疲労感が、これ以上の探索を躊躇わせていた。
将臣はローブの懐から時計を取り出す。懐中時計で、この世界に来たばかりの時に露店で購入したものだ。
時計は、丁度昼時を指していた。切り上げるには少々早いが、別に無理に探索する理由もない。将臣はそう考え、今日は早めに切り上げる事にした。
地面に膝を着き、祈るような姿勢を作る。そして拳を胸に当て、魔術を演唱した。
【帰郷】
それが帰還の魔術。将臣の体は青白い光に包まれ、やがて第五階層から将臣の姿は跡形も無く消え去った。
「お、何だゼオ、今日はやけに早いじゃねぇか」
宿に帰ると、店主が将臣を見てそう声を上げた。
店主の手には料理の皿。カウンターを見てやると、恐らく今起きたのだろう、宿泊客の一人である女の姿が見えた。
今起きたばかりだと思ったのは、頭に寝癖が幾つも見えたから。
「五階層でボウデリックに遭遇した」
カウンターに座りながら理由を端的に答えると「そりゃあ難儀だったな」と返される。コトリと、目の前に置かれる水。
それを喉に流し込み、一息吐いた。
「それで、逃げ帰ってきたって事か?」
「冗談、逃げる筈が無い」
将臣が眉を顰めながらそう答える。敵前逃亡などと言う不名誉を被るのはごめんだった。
「はぁ~……単騎でボス狩りねぇ、俺は色んな探索者を見てきたが、お前さんが時々とんでもない奴なんじゃないかと思えるよ」
まさか、そう笑って水を飲み干す。所詮此処は夢、死ぬ心配が無い人間だから、色々無茶が出来るだけだ。その言葉を水と一緒に流し込んだ。
「おじさ~ん、これおかわり」
女が店主に向かって空の皿を掲げる。店主はどこか呆れたような顔をしながら「まだ食うのか」と溜息を吐いた。
「なんだよぅ、此処は宿泊すれば朝食と昼食は無料でしょう?」
「そりゃあそうだが、ちったぁ遠慮って言葉を知れや」
遠慮、なにそれおいしいの? そう首を傾げる女に向かって、店主が再度溜息を吐き出す。将臣は女に視線を向けながら、その容姿に息を吐き出した。
女は、寝癖が立っていても美しい存在だった。短髪に切り揃えられた髪は女を活発に見せ、健康的な肌色が艶やかに目に映る。
横目から見える瞳はアメジストの色、綺麗に顔に収まったパーツは将臣に「美人」と思わせる程度には整っていた。服装も、ラフな部屋着らしいものだったが、彼女が着てもだらしないと言う印象は受けない。寧ろ、接しやすそうな人だと言う印象を抱くだろう。
容姿で人を判断するつもりは無いが、上の中、下手をすれば上の上はある容姿をした女だった。
将臣の視線に気付いた女は、どこかキョトンとした表情をした後、にやりと口元を崩す。その表情はどこか子供らしく見え、彼女の魅力をより一層高める。
「なぁに、ゼオ、私に見惚れてた?」
そう口にする彼女。これは彼女なりの一種のからかいだと知っていた。故に、特に動じる事も無くゼオは正直に「あぁ、少し見惚れていた」と答えた。
「えぇ!?」と驚く声を上げる女、意地悪そうな笑みが一点、頬を染めながら困惑する様な表情を見せる。
何だ、からかってきたのはそちらが先だろうと思いながら、店主に追加の飲み物を頼んだ。
「店主、すまないがデボルジュースを一つくれ」
「はぁ、分かったが………イチャイチャするなら部屋でやってくれよ」
目の前に注文の品を置きながら、どこか疲れた様子を見せる店主。その言葉の意味は良く分からなかった。訝しげな表情を見せれば「まだ気付いてねぇのかよ」と言葉を漏らされた。一体何に気付いていないと言うのか。
一人で悶々としていると、ふと視線を感じて顔を視線の方へ向けた。女が、じっと私を見ている。
「何だ、ファルメ」
ファルメ、それがこの女の名前だった。ファルメと呼ばれた女は、将臣の言葉に「う、ううん、何でも」と言いながら、赤くなった頬を抑えてカウンターに突っ伏す。
その動作に疑問符を浮かべる将臣に対し、店主が重い溜息を吐いた。
「それでゼオ、お前午後はどうするんだ?」
そう店主に問われ、さてどうしようかと頭を悩ます。ファルメは先程「ご、ご馳走様」と言って部屋に走って行った。隣で積み上がった皿の枚数を数え、彼女にしては少ない方だと思考する。
部屋でじっとするのも勿体無い、元々魔力消費は少ないし、少し休憩したらもう一度迷宮に向かうのもアリだろう。そう考え、その旨を店主に伝えた。
「別にお前がする事に口を挟む立場でもねぇけどよ、少し働き過ぎじゃねぇか?」
そう言われ、将臣は首を傾げる。
「ゼオがこの宿に来て半年位か? お前ほどの長期滞在客って言うのも珍しいし、ある程度親愛の情っていうか、まぁ、何だ、親しみも覚えるわけよ」
そう、どこか恥ずかしそうに口にする店主。将臣は「悪いが俺はノーマルだ」と口にすると、店主は「俺には妻が居るっての!」と言い放った。
「ったく、兎に角、お前はここ半年ずっと狩りに出かけてるじゃないか、休日らしい休日も無いし、少しは休んだらどうだ?」
呆れた様にそう言われて、将臣は初めてこの夢の中の世界においての生活スタイルを思い出した。
確かに、この夢の世界に入ったら、飯を食べてすぐに狩り。昼、夜と似たようなものだ。今まで少しもそのことに疑問を抱かなかったのは、狩りが仕事だと思っていなかったから。
どちらかと言うと、将臣にとってこの世界での狩りは、ストレス発散の様な役割を持っていた。
別に休みが欲しい訳では無いのだが、流石に店主の言いたい事も分かる。将臣は助言を受け入れ、頷いた。
「そうだな、確かに少し働き過ぎかもしれん、午後は久々の休暇にするよ」
そう言うと、店主は「おう、休みってのは人間必要なんだぜ?」と怏々にして笑った。
「なら、少し街を見てこよう、最近は全く足を運んでいなかったからな」
そう言って、椅子から立ち上がる。勿論、お代はカウンターの上に置いて。銅貨を二枚、木製の椅子から離れ出口の扉に手を掛けた。次いで、フードを被る。
「じゃあ、少し出てくる」
「おう、久々の休暇を楽しんでこい」
にこやかな笑みを浮かべる店主に、心の中で感謝の言葉を呟きながら、将臣は宿を後にした。
「………随分賑やかだ」
果たして、街とはこんなに人が多く居るものだったか。単に人との交わりが少ないだけなのか、将臣には街を騒がす人の往来に違和感を感じていた。呟く様な言葉は、喧騒の中に消えていく。
将臣は、街の中心部に来ていた。凡そ迷宮と宿を往復するだけだった将臣にとって、街の中心部はあまり見慣れない風景。何となく新鮮さを感じながら、往来に混じって足を進ませる。
さて、久々の休暇だが一体何をしようか。
街に来たのは、魔術師としての装備を整えた時以来である。店主も言っていたが、半年は足を運んでいなかった。所々様変わりした店も見え、将臣はどの店に入れば良いのか悩む事になった。
こんな事なら店主におすすめの店でも聞いてくれば良かった。
今更そう思っても後の祭り、さてどうしようかと頭を悩ませた将臣の目に、少し中心部から離れた路地裏に、こじんまりとした喫茶店の様な店があるのを見つけた。
外装は石造りで、小さな子猫の看板が吊るしてある。よく見れば、白く達筆な文字で『チェシャ』と書いてあった。恐らく、店の名前だろう。
あまり人の多い場所は好きじゃない、この店にしよう。
将臣はそう決めると、往来を抜けて路地へと入る。路地は聳え立つ建物が日光を遮り、薄暗い。
何となくスラムの様な印象を受けるが、それは中心部では無く外周辺にのみ存在する。事実、路地であっても定期的に清掃はされており、ゴミが散らかっている様な事もない。この辺の治安は安全だろう、そう判断しての事だった。
店の前にたどり着くと、軽い木製の扉を開く。チリンと、鈴の音が頭上より聞こえ「いらっしゃいませ」と言う声が将臣の耳に届いた。声は店員のものだろう。
室内は数組のテーブルとカウンター。ごく小さな店で、広さは学校の教室程度だろうか。店員もカウンターに一人だけ、客も居ないようで店内は少し寂しげに見えた。
「好きなお席へどうぞ」
そう言われ、改めて店員に目を向ける。若い女性だ、恐らく十代後半か二十代前半だろう。少し長めの髪を一つに縛り、それを肩に掛けている。
肌は白く、顔も中々整っている。さぞかしモテるだろうな、なんて見当違いな事を考えながら、カウンター席の一つに腰を下ろした。
「メニューです」
すかさず目の前に出されるメニュー表。この世界の紙は荒く、現実世界で使用されるような紙は高級品だ。その為、目の前のメニュー表も荒い作りだ。メニューが読みにくい。
元々、文字を目にする機会も無かったので、夢の世界の潰れた文字までは読めなかった。仕方なく、店員に訪ねた。
「何か、オススメは?」
よく聞かれるのか、店員は考え込む事もなく「焼きケラ肉
定食ですかね」と答えた。ならそれで、そう言うと彼女は一礼して厨房へと姿を消す。
ふぅと息を吐き出す。それからゆっくりと店内を見回した。少し所在無いか。そう思うが、暇潰し出来る道具なんて物を持ち歩いている訳も無し。料理が来るまで頬杖をついて待つ事にした。
しかし、チリンと鳴った店の鈴によって、将臣の静寂な時間は終を告げた。客かと思い、視線を向けると、店に入って来た客もまた、将臣に視線を向けた。
そして、その顔には見覚えがあった。
将臣はきっと今、物凄く嫌な顔をしている事だろう。その眉間には皺が寄り、目つきは険しくなっているに違いない。
将臣はさっと立ち上がると、カウンターに料理の料金―値段は分からなかったので、少し多めに―を置き、素早く出口に向かった。そのまま入店して来た客とすれ違う寸前。
「待って下さい」
肩に手を掛けられ、退店は叶わなかった。将臣は内心舌打ちをしたい気持ちを何とか抑え、ゆっくりと抑揚のない声で「何か?」と口にした。
「不躾なお願いで申し訳ありませんが、そのフードを取ってお顔を見せて頂けませんか?」
そんな事をしたら一発で露見してしまう。
「………すみません、急いでいますので」
そう言って強引に足を進めようとしたが、肩に掛かった手が万力の様な力で将臣を引き止めた。肩がミシミシと嫌な音を立て、将臣の額に冷や汗が浮かんだ。
「お時間は取らせません、すぐ済みますから………ねぇ、ゼオさん?」
その一言に、将臣の背筋に悪寒が走った。まずい、そう思い肩に掛かった手を外そうと動いた時には、もう遅かった。
目前に迫る手、避ける前に将臣のフードが払われる。落ちるな、その思いに反し呆気なく将臣はその素顔を晒した。
交じり合う両者の目線、将臣の表情は歪み、目の前の表情は喜々としたものだった。少しの沈黙の後、先に口を開いたのは将臣。
「何の様だ」
いつもの声よりも数段低い声、それに対して目の前の女はにっこりと微笑み、答えた。
「つれないじゃないですかゼオさん、知らぬ中でもありませんし、お茶でも如何ですか?」
その微笑みは確かに柔らかいものだが、目は全く笑っていない。絡みつくような意思が瞳越しに見えた。
「遠慮しよう、では」
そう言って踵を返そうとしたが、やはり肩から手は離れない。「離してくれ」そう言おうと口を開いた所で、ぐいっと勢い良く引っ張られる。思わず態勢を崩したところに、彼女が背後から抱きついてきた。柔らかい膨らみが将臣の背に触れる。だが、将臣が動じることは無かった。
「何のつもりだ」
「ふふっ、こうでもしないとまた逃げられてしまいますから、
お願いしますよ、別に今日は勧誘で来た訳でもないのですから、少し、少しお話するだけでも構いません」
将臣は逡巡する。別に、強引に振りほどいて退店する事も可能である。追ってくるかもしれないが、魔術を使えば逃走は可能だった。
それでも、将臣とて良識は併せ持っている。例えこの世界が夢であっても、女性に乱暴を働く様な行為は躊躇われた。
そして、良いタイミングで店員の女性が厨房から出てくる。料理が完成したのだろう。逃げるタイミングを完全に逃してしまった。
息を吸い込んで、吐き出す。胸の中の鬱憤を外に吐き出して、口を開いた。
「………勧誘は無しだぞ」
「っ、はい!」
こうして、本日の厄日と相成った。
「すみません、席を変更しても良いでしょうか?」
料理を運んできた店員に将臣はそう訪ね、四人掛けのテーブルを指さした。
最初、店員は「えっ」と声を上げ、将臣の顔を凝視した。その視線の意図が分からず、将臣は訝しげに眉を寄せる。
「あっ、すみません、も、勿論大丈夫ですよ」
慌てて肯定する店員。その言葉に安堵し「では、料理はあちらにお願いします」と変更を要請した。
そのまま、二人で席に着く。その間、店員は素早くカウンターの飲み物などを移してくれた。次いで、紅茶を一つ置いていく。
注文前に用意される事から、馴染みのある客なのだろう。食べ物の注文を目の前の女から聞き、厨房へと消えていく店員。その後ろ姿を見ていると、忍び笑いが耳に届いた。
「何がおかしい、リエル」
リエルと呼ばれた女性、先程将臣を引き止めた女は将臣を見て笑っていた。
「相変わらず、自分の容姿に鈍感なんですね」
そう言って微笑むリエルは、美しい。彼女の場合は、美しい中に可愛らしさも含まれていた。
髪は金髪でストレート、長さは腰に届くか届かないかと言う程度。身長は将臣よりも低く、百六十丁度程だろうか。この夢の世界の人々は総じて背が高く、男性でも将臣は背が低い方だった。
肌は白く、窓際で読書する様な光景がふと見えてくるような、そんな女性だった。
「お前には言われたくないな」
「あら、私は自覚していますもの、ゼオさんとは違います」
実際、ゼオは多少は自分の容姿について自覚している。
この手の話題についてはあまり話したくないゼオは、早急に話題を変えた。
「しかし、何故お前がこんなところに来た」
「あら、このお店をこんなところだなんて、良いお店ではありませんか、静かですし、雰囲気が良いでしょう?」
「まぁ、否定はしないが」と言うゼオの言葉に微笑みリエル。この女性の事を、ゼオは苦手だった。
「それにしても、ゼオさんが街に出るなんてめずらしいですね」と言いながら、紅茶にミルクを垂らすリエル。
「宿の店主に、働きすぎだと言われてな」
そう答えると、リエルは「ごもっともですね」と同意の意を示した。その様子を見て、将臣は眉を寄せる。
「何だ、お前も働きすぎだと言いたいのか」
不機嫌そうにそう問うと、「えぇ、前々から少しオーバーワーク気味だとは思っていました」と言う答えが帰ってきた。
紅茶を掻き混ぜるリエルの手元を見ながら、将臣は息を吐き出す。
「良く言う、お前の組織なぞもっと酷いだろうに」
皮肉げにそう言うと、リエルは少し驚いた様な表情を見せた。そして次に、嬉しそうな笑みを。
「あら、その手の話題を出すのなら、勧誘も吝かではありませんが?」
その言葉に、即座にやめておこう、そう言った。リエルは「残念です」と零し、紅茶を啜った。
その後、運ばれてきた料理を二人で食べながら、他愛も無い雑談を交わす。
全く街に出ていなかった将臣にとって、この街のほんの些細な変化ですら新鮮に感じられ、話題は尽きることが無かった。
二人が料理を平らげた後、リエルが将臣に提案をした。
「今日一日休暇なら、どうですか、私と一緒に街を見て回ると言うのは?」
その提案に対し、将臣はふっと笑って返事をする。
「冗談、どうせそのままギルドに連れて行かれるのがオチだろう」
そう言うと、リエルは「バレてましたか」と悪びれもなく笑った。
「そもそも、何故ゼオさんがギルドに所属しないのか理解出来ません、所属した方が色々便利ではないですか」
唇を尖らせるリエルに「縛られるのが嫌いなだけだ」と将臣は呟いた。
本音は、義務から狩りをしては、本当の意味で仕事をしている事になってしまうからだった。夢の中でくらい、義務から開放されたい。それは、将臣でなくとも、同じ境遇に陥った人間なら誰でも抱くはずだと将臣は思っている。
「兎も角、勧誘は無しだと言ったろう」
「これは勧誘ではありません、純然たる疑問ですよ」
そう言ってどこか納得いきません、と言いたげな様子のリエル。彼女は食後の紅茶を飲む手を止めると、まっすぐ将臣を見つめた。
「まずゼオさんはご自身の影響力を考えるべきです、貴方の様な傑物がフリーで居られると、私達も色々大変なんですよ?」
そんな事を言われても。それが将臣の正直なところだった。食後の紅茶を啜りながら、将臣は内心で溜息を吐き出す。その間、リエルの説教と言う名の勧誘を聞き流した。
傑物って言うのは少し、過大評価すぎる。
将臣はこの夢を見るようになってから、ゲーム感覚で日々を過ごしていただけだ。そんな事を一年間続けている内に、色々と裏技や抜け道を知り得ただけの事。
ゲームも一年やり込めば、それなりに腕も上達するし主人公のレベル的にも充実する。ゲームをやって、主人公を強く育て上げて、それで誉められたら苦笑いもするだろう。
ここは現実では無いのだ、命が二つあるという事は、それだけでアドバンテージ足り得る。将臣がゲーム感覚でこの夢の世界を楽しめた理由は、そこにあった。
「ふぅ、つまりそういう事です、という訳でどうです? 私のギルドにでも」
「結局勧誘になってるぞ、リエル」
相も変わらずやりにくい、そう思う将臣は代金をテーブルに置いて席を立った。
「そろそろ、お暇しよう」
立ち上がった将臣を見上げて「もうですか?」と零すリエル。その表情は残念だと物語っている。
「貴重な休暇だ、色々見て回りたい」
「貴重な休暇だからこそ、私と一緒に居ては頂けません?」
悪いな、そう言うと頬を膨らませて「いけず」と愚痴を零す。将臣がフードを被って店を出ると、背後から「またお越し下さい!」と言う店員の元気な声が聞こえた。
思ったよりも早く抜け出せた、そう思いながら将臣は裏路地を早足で歩く。リエルが苦手というのは、彼女の勧誘がクドくて長いからではない。いや、それもあるが。
最も厄介なのは、彼女の周囲に潜む影の存在だった。つまりは密偵、隠密集団の事である。
連中は彼女のギルドの狗であり、何かと将臣に突っかかって来ていた。連中の手段は姑息であり、是が非でも将臣をギルドに招き入れようとあの手この手を駆使してくる。
今夜も何かしらアクションがあるのだろうな、何て思いながら重い溜息を吐き出した。
いっその事、今の宿を解約して森の深くにでも家を建てようか。
ふと、そんな事を思い立つ。
誰も知らない場所で、一人のんびり隠居生活。静かな森の奥、湖畔の近くで将臣が優雅に本を読む姿が脳裏を掠めた。
それはまさに天恵だった。将臣はこれまで、目の前の世界の特異性に目を奪われ、魔術、モンスター、冒険、迷宮などの要素ばかりを求めていた。しかし、この世界でもソレが全てではない。
この世界に居る間、別荘の様な場所でのんびり過ごす事も可能な筈だ。それは現実に置いても、将臣自身の精神を大いに癒す事間違いない。
これは、中々良い案なのでは無いだろうか。
将臣は本気でそう思った。
そんな事を考えていた為だろうか、ふと将臣が通り過ぎた分岐路の側で争うような声が聞こえていたのに、少し遅れて気付いた。
「ほら、何やってんだ、こっちだよ!」
「っ………」
不穏な空気とでも言うのだろうか、将臣は一体何だと足を止め、分岐路から身を乗り出して向こう側を覗き込んだ。
将臣の視界に映ったのは、一人の男と小さな少女。男の方はどこにでも居そうな、普通の服装を纏った平凡な男だった。 しかし、その男に手を引かれ歩かされている少女は、ボロ布としか言えない様な服に、やせ細った四肢。病的なまでに白い肌は、その少女の健康状態の悪さを物語っていた。
俯いた表情はここから窺い知る事は出来ないが、良いものでは無いだろう。
揉め事か? 最初、将臣はそう思った。厄介事には首を突っ込まない。それが将臣の処世術であり、スタンスである。将臣は見て見ぬフリをし、踵を返そうとして。
「いいから、さっさと歩けっ!」
男の怒鳴り声と、肉を打つ音に足を止めた。
音を立てて倒れ込む少女、その頬に青痣が見えた。そのまま、剥き出しの腕から出血し、痛みに呻く。
恐らく倒れ込んだ際に石床に擦ったのだろう、男はそんな少女の髪を掴み、乱暴に扱う。
それを見て将臣は眉を顰めた。
将臣のスタンスは、厄介事には首を突っ込まない事である。それは夢だろうと現実だろうと変わらない。しかし、だからと言って公然と行われている悪に目を瞑っていられる程、将臣は屑では無かった。
この場合、将臣が無視出来る程度を超えていた。
全く、この街で厄介事など、珍しい事もあったものだ。
そう愚痴を喉に詰まらせながら、将臣は男に足を向ける。わざと大きく踏み出し、靴音を路地裏に響かせる。薄暗い路地裏に、その音は良く響いた。
男がその音に気付き、視線を将臣の方へと向ける。中腰になった男の前に立ち、将臣は努めて抑揚の無い声で言った。
「感心しないな」
男は最初、将臣を訝しげな目で見る。ローブを着込んだ素性も分からぬ男、確かに将臣の格好は表通りでこそ周囲に埋没する格好だが、裏の界隈ではその限りではない。
「何か御用で?」
男は、少女を掴んでいた手を放して、将臣に向き直る。支えを失った少女の頭が重力に引かれ、ゴッと鈍い音を立てて石床に落ちた。
「流石に、目の前で年端もいかない少女が暴行されていては、見て見ぬフリも出来なくてね」
男の視線に晒されながら、将臣はそう口にする。男と言えば、将臣が纏っているローブに視線を這わせていた。
黒く地味なローブではあるが、金の刺繍も施されており、決して容易に手が届く品物では無い事が分かる。
男はそこから、将臣をどこかの商人か貴族の人間だと予想した。そうでなくとも、こんな場所に足を運ぶ平民など居ない。
「それは、お見苦しいところを……こいつは、ウチの奴隷でして」
先程よりも幾分か柔らかい口調になる男。その言葉には幾分かの媚が含まれているのに、将臣は気付く。しかし、それよりも男の言葉が、将臣に少なくない衝撃を与えた。
奴隷、今、奴隷と言ったか?
将臣はこの世界の事を良く知らない。所詮夢の世界なのだから、自分の好きな様に生きて良いじゃないかと言う考えの元、過ごしてきたからだ。
故に、奴隷の存在など知りもしない。そう言えば、それらしい存在も居たかもしれないと考える程度だ。
「そうか、奴隷か」
何でもない様な風に言うが、その実「奴隷なんて存在するのか」と一種の驚愕を覚えていた。
「えぇ、まぁ何と言いますか、少々言う事を聞かない奴でして、申し訳ありません、この様な場所で……すぐ、去りますので」
そう言って男は、少女を無理やり立たせようと腕を掴むが、少女に立ち上がる気配はない。それどころか、ぐったりとして動かない様子は死んでいる様にも見えた。
垂れた髪がその表情を隠し、その事が更に拍車を掛ける。流石にこれは、無視出来ない。
「その女、随分と調子が悪そうだが」
そう将臣が問うと、男はどこかバツの悪そうな顔をしながら、答えた。
「この奴隷、実は『魔力欠乏症』なんですよ」
魔力欠乏症? そう将臣が聞くと「えぇ」と男が頷いた。
「凄く稀有な病気でして、良くは知らないですがね、何でも魔力を自身で生成出来なくなるとか」
その話を聞き、将臣は驚いた。それは、死んでしまうのでは無いのかと。
流石に将臣も、魔術師になる過程である程度の魔力云々の知識は身に付けている。魔力の詳細まで語る事は出来ないが、この世界の一般常識程度の魔力、魔術についての知識は持ち合わせていた。
魔力とは、この夢の世界において全ての人間が持っている物である。そして、それは一種の生命エネルギーと言っても良い。
つまりは、そう、血液の様なものだと言えば良いのか。
魔術師は、その生命エネルギーが常人の数倍から数十倍生成出来る者でなければなれない。魔力とは人間が生きていく上で必要なモノ、それを使って魔術を行使するのが魔術師。
一般的な生命エネルギー、魔力しか持たない者が魔術を行使すれば、魔弾一発だろうと昏倒し、最悪死に至る。
つまり魔力というのは、人間が生きていく上で必要不可欠なものだ。それが生成出来ないというのは、事実上生きていく事は不可能となる。
「その少女は、一体今までどうやって生きてきたんだ?」
「魔術師様から魔力を譲り受けていたそうです、魔石に魔力を込めた物をペンダントにして、しかし、それも数ヶ月前に切れたらしく」
人間は魔術を行使しなければ、魔力の消費というものは微々たるもので、絶対に魔力が不足する事は無い。それは、どんなに生成能力が低い人間でも言える事だ。
だが、魔力消費がいかに少なかろうと、魔力自体を生成出来なくては。
「この奴隷は近々、欠陥品として処理されるかと」
その言葉を聞いて、将臣の顔が歪んだ。人間を処理する、
何とも響きの悪い言葉だ。それは、人に対して使う言葉では無い。
倒れ込んだ少女に視線を移す、依然その体は動き出す様子を見せない。よく見れば、腕など既に枯れ木の様で、ボロ布から覗く体の四肢は驚く程細い。肌にはあちこち切り傷や打ち身、痣等が見て取れる。
余程酷い環境に居たのだろう、将臣の表情がどんどんと険しくなっていった。
「魔術師様から魔力を頂くにしても、それなりに値が張りますし、この奴隷にはそこまでする価値は………」
「買う」
将臣の言葉が、男の言葉を遮った。男が将臣を見る。その表情は、どこか呆然としていた。
「何をしている、言い値で構わん、さっさと寄越せ」
尊大な言い方。だが、それに近い雰囲気が将臣には備わっていた。
その出処は単純、将臣はただ怒っていた。それだけの事。それだけの事で、将臣の体内にある魔力が憤怒の感情を感じ取り、物理的な圧力として周囲に働き掛けていた。
男はその底知れぬ威圧感に、唾を飲み込んだ。
「悪い事は言いません、やめた方が良い、この奴隷を買うなど………第一、魔力の調達はどうするのですか?」
男は、どこか訳がわかないと言った風に将臣を問い詰めた。将臣は無言でローブの懐から、小さな布袋を取り出すと、男の目の前に放り投げた。地面にそれが転がり、硬質な音を鳴らす。
「銀貨百枚入っている、足りないか?」
男は将臣の言葉に目を見開き、一度将臣の顔を見つめ、その後地面に転がった布袋を手に取った。
固く結ばれた結び目を解き、中を覗く。そこから見えるのは、ぎっちり詰まった銀貨。
「………定価は銀貨七十枚です、三十多い」
「お前は正直だな、そういう人間は好感に値する、残り三十はお前の懐にでも入れておけ、別に構わんだろう」
将臣はそう言って、倒れた少女の傍に屈んで背と足の下に手を滑り込ませた。そのままゆっくりと持ち上げる。少女は驚く程軽かった。
そして、腕に感じる骨の角ばった感触が、少女の現状を切実に語っていた。将臣は腕の中で身動ぎ一つしない少女に悲しい目を向け、そのまま踵を返した。
「待って下さい」
背後から、男の声が聞こえた。その後、ゆっくりとした口調で「その奴隷の余命は、魔力無しでは後一週間も持ちませんよ」と、諭す様に将臣に忠告をした。
将臣は、首だけで男に振り返ると、少女を腕に抱いたまま、無演唱で魔弾を一つ、宙に生成した。
青白い光を放ち、薄暗い裏路地を幻想的に照らす球体、それが音もなく宙に現れる。
魔術師の代名詞、最もスタンダードな魔術を目にした男は、驚愕の表情を浮かべた。
その後、ゆっくりと魔弾と将臣を見比べる。その瞳には、畏怖の念が見て取れた。
「心配ない、私は魔術師だ」
その言葉を最後に、将臣はその裏路地から姿を消す。後には、呆然とその背を見送った男と、握られた銀貨百枚だけが残った。
さて、少女を買ったは良いが。将臣はこれからどうするべきかと頭を悩ませた。流石に、ボロ布一枚を纏っただけの姿で歩く訳にもいかない。将臣はインベントリを探って、適当な衣服を取り出した。
茶色の外套、将臣が着る用なので随分とサイズは大きいが、無いよりはマシだろうと判断。
少女の体を包む様にして着せ、そのまま表通りを極力避けて通る。流石に、ローブを着込んだ男が小柄の少女を抱いて歩いていては、嫌な憶測をされかねない。
少し早足気味に、それでも時折少女の様子を気遣いながら、将臣は知り合いの元へと急いだ。
徒歩五分、幸いにしてその場所は比較的近場にあった。表通りに出ると、やはりと言うか幾分か人の視線を感じる。
それを無視して、人を避けながら道を進む。そして表通りにある一つの大きな建物、その前で将臣は足を止めた。
白く塗装され、扉の上には『治療院』の文字。将臣はその木製の扉を肩で押し開いた。
「すまない、フェルテッサは居るか?」
受付の女性が、将臣の声に顔を向ける。女性は赤茶色の髪を一つに纏め、白いローブを着込んだ姿だった。見たことが無い顔だ、新人なのだろうか?
最初、抱いている少女の姿を見て、次に将臣を見た。カウンター越しに女性が立ち上がる。
「急患ですか?」
ローブを着込んだ、どこか怪しげな男と小さな少女、それを見ても慌てず、冷静に事に対処する。将臣は目の前の女性の賢明さに感謝し、頷いた。
「そうだ、フェルテッサにゼオと言う男が来たと伝えて欲しい、そうすれば分かる」
「いえ、ゼオ様ですね、院長から聞いています、こちらです」
流石にフェルテッサは気が利く、将臣は女の後に続いて治癒員の中へと進んだ。
順番待ちだろう、木製の椅子に座ったまま待つ患者の脇を通り、職員用通路からフェルテッサの元へと急いだ。
通路には様々な物品が常備してあり、医薬品や治療器具らしいものが並べられ、保管されていた。恐らく、倉庫か何かなのだろう。
それらを横目に、将臣は一般通路へと抜け、最上階にある一つの扉の前で立ち止まる。脇に掲げられたプレートには『院長室』の文字。ここがフェルテッサの私室か。目の前の女が、三度ノックする。
「院長、ゼオ様がいらっしゃいました」
その言葉を聞くと、中から少し物音がし、その後すぐに「入って」と言う声が聞こえてきた。
「失礼します」と一声掛け、そのまま扉を開く。他の扉と違って、多少重厚な造りの扉は重々しい音を立てて開いた。
中には赤い絨毯が敷き詰められ、向こう側には大きなデスクが一つ。その上に何やら資料らしき紙の束が端を揃えて積まれており、そこにフェルテッサは座っていた。
「ゼオ、どうしたの? 私の所に来るなんて、余程の重症かしら?」
彼女は綺麗な群青色の髪を肩に垂らし、将臣を見ていた。
「急患を頼みたい、それと一つ相談がある」
「それは、貴方の腕の中に居る子の事?」
その言葉に将臣は頷く。フェルテッサは一つ溜息を吐き出すと、「一つ貸しよ」と口にした。その言葉に「依存はない」と返せば、彼女は無言で席を立つ。
「私に直接頼まなくても、一般の治療院の者では駄目なのかしら? まぁ、私個人に頼ってくれるのは嬉しいのだけれど」
将臣は受付に居た女に促されながら、院長室にあった大きめのソファに少女を寝かせた。
「どうやら、『魔力欠乏症』という病気持ちらしくてな、信頼できる神官がお前しか居なかった」
「………そう」
少し間が空いたが、返事が来た。フェルテッサに視線を向ければ、そっぽを向いてる。その様子に、将臣は訝しげに眉を寄せた。
「どうした、見てくれないのか」
「いえ、見るわよ、他でもない貴方の頼みですもの、えぇ」
何やらブツブツ言いながら少女の傍へと屈むフェルテッサ、仕事のやりすぎだろうか、少し疲れているのかもしれない。
「それで、魔力欠乏症だったかしら、何とも希な病気を持っているものね」
フェルテッサが少女の顔に掛かった髪を掻き分けて、途端顔を顰めた。そして、将臣が何か言う前に、少女の胸に手を当てる。その後、まさぐる様に手を動かして、一言。
「………ある」
「一体どうした、フェルテッサ」
何かまずい事でもあるのかと、少しばかり焦燥して問えば、キッとフェルテッサが将臣を睨んだ。
美人が怒ると怖いと言うが、それはフェルテッサにも当て嵌る。その表情に、一歩将臣が後退る。
「ゼオ、これは一体どういう事」
一体何がだ、そう問う前に、フェルテッサが将臣を問い詰めた。
「男の子だと思ったら、この子女じゃない! 何で貴方がこんな年端もいかない女の子を連れて来ているの!?」
いや、それは部屋に入った時点から気付いていたんじゃないのか。そう問いたいのは山々だったが、将臣は努めて冷静に「落ち着け」とフェルテッサを窘めた。
「貴方、ファルメとリエルならまだしも………いや、良くは無いけどっ、何でこんな小さな子を、貴方まさかロリコンなの!?」
「落ち着けフェルテッサ、まず自分が何を言っているのか考えろ、次に深呼吸をしろ」
どうどう、そうフェルテッサを落ち着かせ、真っ赤になった顔を冷まさせる。十秒程荒い息を整え、フェルテッサは「ごめんなさい」と口にした。
「少し取り乱したわ、貴方が売春目的でこの子を連れ込んできた訳では無いのは、えぇ、予想出来たわ、ここは治療院ですものね」
落ち着いた様子の彼女に、将臣は安堵の息を吐き出す。
「思考力を取り戻してくれて何より、それよりも早く治療して頂けないだろうか」
落ち着いたフェルテッサにそう頼めば、彼女は「えぇ…」と力なく答え、手早く横たわった少女の外套を脱がし目立った外傷を片っ端から目視していった。
流石に、仕事となると動きも速い。公私混同されていない様で何より、将臣はその様子を横目て見ていた。
「外傷は多いけど、それ程酷く無いわね、これ位なら【小さな癒し】で済むわ」
その言葉に、将臣は胸を撫で下ろす。兎も角、大怪我を負うような扱いはされなかったらしい。
「出来れば、魔力欠乏症とやらも治して欲しいのだが」
一抹の望みをかけて将臣がそう言うと、フェルテッサは少し悲しそうな顔をして、首を横に振った。淡い緑色の光を放つ手が、横たわった少女の外傷を癒す。
「知っているでしょうけど、治療魔術も万能では無いの、治療魔術は本人の怪我や病気を健康な状態に戻す魔術、つまり先天性の病気なんかは治せないのよ、本人にとってはその病気が存在する事が『健康』、つまり普通って事なの、例えそれが体に害するものでも」
流石に、治療は不可能らしい。やはり、そう上手く事は運ばないかと肩を下げた。
「いや、無理を言ってすまない」と将臣は謝罪すると、インベントリから手頃な大きさの魔石を取り出した。迷宮で狩りをしていた時に入手した戦利品だ。
魔石は、主に大型モンスターを狩った際に得られるものであり、魔力を蓄える事が出来る内臓の様なモノだった。
大型のモンスターは、その図体の分消費する魔力も大きい。恐らく、そういった経緯で人間とは違う魔石と言う内臓器官が出来たのだと将臣は推測する。
「ゼオ、それは?」
「先日狩ったモンスターの魔石だ、これに魔力を注いでその少女に持たせる、一ヶ月程度は持つだろう」
将臣はこの一年、この世界の常人からすれば信じられない程のペースで狩りを行ってきた。その為、魔力保有量も並大抵の数値では無い。
だが、それは将臣のある種の努力の結果というか、血反吐を撒き散らし、まさに死ぬ気でこの世界で生き抜いてきた結晶とも言えた。
現実世界では味わえない、一種のスリルが将臣に火をつけたとも言える。
魔力を手へと集め、それを魔石へと流す。黒ずんだ色をしていた魔石は、徐々に深い青色へと、やがて綺麗な水色の石へと変化していった。
「こんなものか」
淡い水色の魔石、そこまで魔力を送り込んだところで魔力の供給を止める。将臣の魔力で満たされた魔石を摘み、出来を確認する。
「流石に、このまま渡すのもダメか」
「そうね、身につけられるような物に加工できればいいのだけれど」
フェルテッサの言葉に、少女を買ったときに男が言っていた言葉を思い出す。
「ペンダントが良い」
そう言うと、将臣はインベントリから細い紐を取り出した。念のため、補強の魔術を掛けた後、強度を確かめる為に左右に引っ張る。
そして問題ないと判断し、それを魔石へと通した。透過の魔術で紐を通した後、問題なく繋がっているかを確認する。
紐の両端を持って魔石をぶら下げれば、魔石が重力に従って落下する。そして、紐がその落下を阻止。大丈夫、問題なく繋がっている。
フェルテッサに見せれば「即興の割には、良い出来ね」と頷かれる。それを少女の首にそっと付け、フェルテッサに向き直った。
「取り敢えず、治療が終わったら宿の方へ連れて帰る」
念の為、食事などは消化の良い物を用意して貰う旨を伝えると、フェルテッサは頷きながら少女の方へ顔を向けた。
「先に釘を刺しておくけど、部屋は別々にしなさい」
横目の視線で射抜かれ、その威圧感に顔が強張る。言われなくても、そのつもりだった。
「無論だ、一応看病の為に起きるまでは俺の部屋に置くがな」
フェルテッサが溜息を一つ「まぁ、それくらいなら」と言う返事を得て、将臣は少女を来た時と同じく抱き上げた。やはり彼女は羽の様に軽い、思わず心配になる程に。
「邪魔したな、フェルテッサ」
「大丈夫よ、貸しだもの、そのうち返して貰うわ」
相も変わらず、彼女は損得勘定で生きている人間の様だ。どこかドライなその様子に、苦笑い。その表情をフェルテッサに咎められる前に「では、失礼する」と部屋を後にした。
受付の女が出入り口に立っているので、頭を下げ感謝の意を示す。女と互いに礼を交わし、将臣は治療院を後にした。
「おぉ、戻ったかゼオ、どうだ久しぶりの街は………って」
誰だそれ。
それが宿に将臣が戻った時掛けられた第一声。それは、抱き抱えた少女の事を指していたのだろう。将臣は少女を抱えなおすと。
「買った」
それだけを口にした。
あんぐりと口を開け、呆然とする店主。将臣はその後何も言わず、いつもの調子で階段を上がって行った。
このやり取りが後に、大きな火種となる事を将臣はまだ知らない。
言い訳をするのならば、この時将臣の頭は少女の事で一杯だった。怪我は治療したものの、未だその体は肉付きの悪い不健康体。少し力を入れれば折れてしまいそうな程細いその体つきは、将臣に少しの焦燥感を感じさせる程度には酷かった。
早くベッドに寝かせ、何か栄養のある食べ物を。
その思いだけが将臣の思考を覆っていた。
「まさか、まさか俺のせいなのか、俺が街に、休暇なんかを勧めたから………あぁ、ファルメとリリエに殺され……」
自室の前で鍵を取り出し、開錠、店主の声は、自室に入ると同時に遮断された。
「さてと」
取り敢えずやることは先にやってしまう。少女をベッドに寝かせると、ローブを脱ぎ去ってインベントリに収納する。
次に起きた時にすぐに飲めるよう、飲み水を準備し少女の傍に置いておく。
後は肝心の食事、もし碌な食事を与えられていなかったのなら、胃腸が弱っている可能性が高い。いきなり固形物を食べさせては胃が驚くだろう。
粥か、何かゼリー状の何かか。
将臣は部屋を出て、下へと降りる。カウンターに頭を抱えて何やらブツブツ言っている店主に近づき、その肩を揺すった。
「店主、店主、少し聞きたい事がある」
店主は何やらうわ言の様に話していた口を閉じると、ゆっくりと将臣の方を向いた。
「何か、粥の様なもの、病人に食べさせるような物を教えて欲しい」
そう言うと、店主は「あぁ………」とどこか気の抜けた返事を返し、天井を見上げながら「それならテディルの肉かなぁ」と口にした。
「肉? 病人に肉など、食べ難いだろう」
「いや、テディルの肉は加熱するとゼリー状になるんだ、よく病気に掛かったときは、母ちゃんが作ってくれたもんよ」
そうなのか、と将臣は認識を改める。兎に角、そのテディルの肉とやらを手に入れれば良いらしい。
「店主、それはこの宿に置いてあるか?」
その言葉に、店主は首を横に振って答えた。
「テディルはリディアの迷宮の第六層だか七層辺りに出てくると思うぞ」
迷宮で生まれるモンスターか。どうやら、今日は運が良いらしい。将臣はインベントリから先程収納したばかりのローブを取り出し、素早く着込んでフードを被った。
「店主、少し迷宮に潜ってくる」
それだけ言って、将臣は宿を後にしようとする。
「ちょ、お前今日は休暇の日にするって………というか、さっきの子の事を教えてくれっ、買ったってどういうことだ、おいゼ」
閉じられた扉が、店主の声を遮断する。本日二度目。
さて、さっさと潜って戻って来よう。
将臣は駆け足で人ごみの中に消え、リディア迷宮へと向かった。
迷宮に一日に二度潜る探索者は少ない。それはそうだろう、探索者と言う職業は命懸けの仕事だ。コンディションがいつも最高の状態で潜らなければ、ちょっとした事で死にかねない。
実りも大きいが、いつも死と隣り合わせ。そういう職業だった。
そういう者の中で、ゼオと言う人間は少し、いやかなり異質だった。
一日に二度迷宮に潜る事もあれば、三度の時も。そして最もおかしい点は、それを毎日続けていると言う事。
戦いが積み重なれば、人は疲労するし、精神的にも油断が生じる。それはモンスターとの戦いにおいて、致命的な隙となり得るのだ。
つまり、探索者は基本連続して迷宮には潜らない。確かに、一日の内に幾つか回数を分けて潜る探索者も居ない訳ではない。その点だけならば、将臣もまだ普通と呼べる段階に居ただろう。
だが、それを毎日となると、死にたがりの烙印を捺される。大体、連続して迷宮に潜る人間というのは、借金に追われ早急に金が必要な人間や、単なる自身の実力を知らぬ馬鹿の二択。
将臣は最初、後者だと周囲に哀れみの目を向けられていた。しかし、今やどうだろう、彼が迷宮に姿を現す様になって早一年、彼は迷宮に通う事を一度として止めていない。それで尚且つ、将臣は未だ生きている。
その事で彼を、周囲の人間がどの様に評価しているのか。それは、想像に難くない。
「すまない、テディルと言うモンスターについて知りたいのだが」
将臣が迷宮の入口へとやって来た時、周囲の馴染みの人人間は「あぁ、今日は二回の日か」と思っていた、しかし彼は真っ直ぐ迷宮に潜る訳でも無く、傍に設置してある『迷宮ギルドカウンター』へと足を運んだ。
実力者であっても、ギルドを滅多に利用しない事で有名な将臣の行動に、周囲の人間はざわめき、そしてギルドの受付係ですら驚いた。
「え、えぇっと、テディルですね、はい、どの様な質問でしょうか?」
しかし、流石はプロと言ったところだろうか、即座に笑顔の仮面を貼り付けて、将臣へと返答した。
「このモンスターの出る階層を聞きたい」
「テディルは第六階層にて出現するモンスターとなっております」
素早い受付係の返答に「そうか、助かった」と一言礼を良い、将臣はそのまま迷宮の入口へと足を進める。
その後ろ姿をただ呆然と見送る周囲の探索者、受付係だけがその中で、唯一安堵の溜息を吐き出した。
しかし、何故テディルなんてマイナーなモンスターを狩りに? と疑問に思った探索者が多く居たのは、余談である。
【魔術槍Ⅱ】
青い槍がモンスターに巨大な穴を穿ち、血飛沫を撒き散らしながら死骸が地面を転がる。
第五階層、将臣は直下型の穴を利用し、一気に五階層まで降りて来ていた。本日、五階層のボスは将臣が討伐した為、既に居ない。
その為、低防御力のモンスターを魔術で殲滅しながら下層への穴を探すと言う、悠々とした散策が可能だった。
ムカデの様なモンスターに魔術槍を飛ばしながら、将臣は「テディル」の姿の情報を聞いておけば良かったと後悔。将臣はテディルの姿形を知らなかった。
取り敢えず、第六階層に到達したら適当にモンスターを狩れば、どれか一匹くらいはテディルだろう、なんてアバウトな行動を取ることを決め、第六階層へと続く道を探す。
そして、将臣は下層へと続く穴を見つけた。覗き込めば、すぐ下に地面が見える。丁度、一階層分らしい。
運が良い、将臣はそう呟くと【衝撃吸収】の魔術を演唱し、そのまま穴へと飛び込んだ。然程長くもない滞空時間の後、地面に足を着ける。一階層分と落下距離も短く、将臣は軽やかに着地。
しかし、次の瞬間、将臣の踏みしめた地面が発光し、小さな魔法陣を描いた。
「何ッ!?」
マジックトラップ。
迷宮で極稀に見られる、魔術師のモンスターが設置する罠。こんな穴の真下、まるで狙い済ませたかの様な配置に、将臣の脳内で警鐘が鳴り響く。
しまった、将臣が後悔した時には既に遅かった。光が収束し、魔術が発動する。避けられない、そう判断する。
【魔術障壁Ⅳ】
咄嗟に、魔術障壁を展開し顔面を庇う様に腕を突き出す。設置系のトラップは強力なモノも多い。それは、パーティを組んだ者達を一網打尽にする為。
トラップは何だ、爆炎か、氷結か、それとも魔術刃による嵐か。
どんな魔術が来ても、障壁が防いでくれる筈。それでも一抹の不安を感じたまま、将臣はその瞬間を待った。
しかし、インパクトの瞬間は訪れない。
いつまで経っても物音一つしない状況に、将臣は恐る恐る視界を覆う腕を退かす。そして、周囲を伺った。
石床に、薄暗い広間。等間隔で並べられた照明、何時もと変わらない迷宮の様子。しかし、その場所は将臣の落下してきた場所では無い。
さながら、何処かの大広間。迷宮にしては広すぎる空間が、将臣の恐怖感を煽る。どうやら、トラップは転移系のモノだったらしい。
ここは、何処だ。
将臣は観察する。少しの違い、それを見つけようと周囲に目を走らせた。
もし転移系のトラップならば、転移される先はモンスターハウスの確率が高い。だが、出入り口一つ見当たらないこの場所は、モンスターハウスと言うよりも、隔離された隠し部屋と言った景観だった。
何かないかと、将臣は視線を走らせ。
そして、見つける。
将臣の数メートル先、そこに四メートル程の石像があった。 いや、これは。
将臣は、目を凝らす。
そして、その物体をもう一度確認した。そして、将臣は驚愕する。
最初将臣は、目の前のそれがオブジェクトか何かだと思った。よく美術館に置かれている様な、少し大きめの石像、そんな認識だった。
しかし、目を凝らしてそれが間違いである事に気付く。
それは、モンスターだった。
奴が、途轍もない加速を以て、将臣との距離を詰める。
唐突に振り上げられた拳、それは打撃と呼ぶのも生温い、巨大な質量を持った何かが地面ごと将臣を粉砕せんと迫った。
喰らったら、死ぬ。それは火を見るより明らか。
【魔術障壁Ⅳ】
防御が間に合ったのは奇跡だった。或いは、将臣の生存本能が叫んだ結果だった。
巨大な拳がとんでもない速度で障壁にぶち当たり、衝撃が将臣の内臓を揺らす。同時に、くらりと視界が揺れた。拳の余波が将臣の脳を揺らしていた。
なんだ、こいつ。
ズン、と将臣を除いた周辺の地面が陥没する。ミシミシと魔術障壁が歪み、まずい、そう将臣が感じた時、将臣は全力で横に跳んだ。
瞬間、拳が将臣の魔術障壁を打ち抜く。
轟、と音を鳴らして地面に打ちつけられた拳は、大量の石片を飛び散らし、間接部位まで埋まった。そして、周辺には巨大なクレーター。
それは凡そ、生物が生み出せる規模の破壊では無い。それも、片腕一本で。
「………」
将臣はここまで来て、自分が何故目の前の存在を『ただの石像』としか見れなかったのを理解した。目の前に佇む巨人、いや、よく見れば所々人間とは違う形をしている。
その生物が発する圧力、プレッシャーは生物が発せられるソレを遙かに越えていた。今まで味わったことのない種の圧力。それは将臣の許容限界を超えていた。
人間は、あまりにも強大な恐怖に襲われると、記憶を飛ばしたり幼児退化を起こしたりする。目の前の奴は、その類だ。
一概に、将臣が今平常心で居られるのは能力のおかげ、強力な魔力による精神防御、それで保護して尚、震える足を抑えるのに精一杯。
将臣は確信する。
コイツは、今まで戦ってきたどんな敵よりも強い。
【敵対者観察】
将臣が知る数少ないこの世界の汎用魔術の一つ、敵対するモンスターに対して、そのモンスターの名と出現階層を知る事が出来る。
この世界に来たばかりの時、将臣が最初に購入した魔術。ただ観察するだけで、第四階位の魔力を使用するので普段は敬遠していた魔術であり、テディル相手に使用したくなかった中規模魔術。
将臣の視界に、揺らめく蒼炎で名前が描かれる。
『ガルエンディア 出現階層【第十階層】※危険指定種』
「第十階層………」
唖然とした。
信じられなかった。
それは、将臣の見間違いでなければ、未だ誰も到達していなかった、幻の階層。
そして目の前のモンスターは、恐らく第十回層のボス。それは、未だ誰も相手をしたことが無いという事。脅威は即ち、未知数。
ガルエンディアが咆哮し、空気が物理的に将臣を揺らした。
来る、そう直感した。
その直後、砲撃。
人間に良く似た頭が突然空洞となり、強烈な空気砲撃を行う。将臣は反応できずに、空気の固まりが直撃した。
それでも、吹き飛ばされるだけで済む。空中で身を捻り、地面に転がりながら起き上がる。
魔力で空気を硬質化してある、僅かに裂けたローブを見ながらそう推察した。
【魔術槍Ⅳ】
深い青色の槍を生み出し、射出。
後手に回っては蹂躙されるだけ、将臣は攻勢に転じた。
唸りを上げて撃ち出されたそれは、ボスの胸元表面に着弾。その肌が貫かれる想像を、将臣は脳裏に思い描く。攻撃が凄かろうと、当たる前に倒せば問題は無い、そう思った。
しかし、着弾の瞬間、魔術槍は青白い光となって霧散した。
「嘘だろ…っ」
将臣は、思わず言葉を漏らす。ボウデリック、第五階層のボスですら刺し貫いた槍が、即座に打ち消される。絶対の自信が、覆される。
しかし、後悔する余裕すら与えんとばかりに、ボスの鋭利な尻尾が将臣を穿った。
慌てて跳び退いた瞬間、地面に無数の穴が空く。将臣にとっては、相手の攻撃全てが即死級。一瞬のミスが即死に繋がる。
尻尾が引くと同時、将臣は次の一手を考えた。絶望なら、後でも出来る。ガルエンディアの装甲は、思った以上に強固らしい。
魔術槍で貫けないのならば。
右腕に魔力を溜め込み、跳び退いた勢いを反転、一気に踏み込んで加速する。
振り下ろされた拳を避け、飛び散り散弾となった石片を薄い魔術障壁で防ぐ。ビリビリとした空気が肌を振るわせ、思わず冷や汗が流れる。
そして、迎撃の為だろう、真上から突き出された尻尾の一撃を避け、ボスの懐へと潜り込んだ。
零距離からの直接魔術攻撃。
これは、【魔術矢】【魔術槍】この汎用魔術で貫け無いモンスターが現れた際に、将臣が攻撃の糸口を得る為に考えた魔術。
原理は単純かつ明快。最も演唱が短く、また単純であるが故に威力、突貫力は他魔術に類を見ない。
【魔術杭】
手に集めた魔力を、零距離で相手に打ち出すごく単純な魔術。
手元でごく小さな、だが強烈な魔力爆発。それにより、魔術で硬質化された杭状の魔力が、拳の先端から打ち出される。 零距離で放たれたそれは、寸分違わずボスの腹部へと吸い込まれた。
轟音が鳴り響き、将臣の腕が弾かれる様に後退、拳の先端から煙が上がる。だが撃ち出された杭は半ばまで埋まり、ボスの腹部周囲に亀裂を生んだ。
貫通した。
【魔力杭】はボスの装甲を突破出来る貫通力を持っている。完全に貫通したまでは行かないが、十分効果は期待出来る。
もう一発。
腕に魔力を再装填し、撃ち出そうと構えたところで、ヒュッという風切り音が真横から鳴り響いた。
途端、三半規管を揺らす強烈な一撃。辛うじて防いだ【魔術障壁Ⅲ】が一発で砕け散った。
尻尾での一撃。
将臣が視線の端で捉えたのは、ボスの尻尾。それを鞭に様にしならせ、将臣に叩きつけたのだ。
流石に、連続で攻撃を許しはしないか。
凍える様な圧力の中、辛うじて退避。ボスは追撃する様な事はせず、ただじっと将臣が退く様子を見ていた。部屋の中央、そこまで戻った将臣は、詰めた息を吐き出して額の汗を拭った。牽制用の【魔術槍Ⅳ】を生成しながら、目前の敵を見据える。
将臣は態度にこそ出さないが、思わぬ強敵との遭遇に内心恐々としていた。
この世界に来て、苦戦こそした敵は居るものの、目の前のモンスターはこれまで遭遇したモンスターのどれよりも強く思える。いや、実際強い。
【魔術槍Ⅳ】は魔術槍の中で最も上位の魔術、その貫通力は並大抵の鎧、いや例え名工の重装甲だろうと、貫ける自信がある。
それを先端一ミリとも通さないとなれば、剣や弓、並の魔術では表面に傷一つ付ける事も叶わないだろう。
将臣は先程、【魔術釘】で破壊した腹部に目をやる。表面の装甲が剥がれた様に、ぱらぱらと石片を散らすボスの腹部。しかし、その内部には明らかに硬質な第二の装甲が顔を覗かせていた。
二段構えか。
将臣は唾を飲み込み、死地へと飛び込む覚悟を決めた。
将臣を後押しするのは、この世界が夢であるという事実。命のストックがあることは、予想以上に将臣に安心感を与えた。
宙に生成した魔術槍を順次射出し、同時に距離を詰める為に走り出す。ボスは飛来する魔術槍を鬱陶しいとばかり払い、同時に将臣に向けて拳を繰り出す。
【魔術障壁Ⅳ】を展開し、ボスの拳を受け止めるが、数秒も持たずに障壁は決壊する。
破られるのは承知の上、障壁を突破された時、既に将臣はボスの懐へと潜り込んでいた。
【魔術杭】
右手に魔力を集中させ、大きく振り被る。
狙うは先程と同じ、腹部。同じ場所に二度たたき込めば、流石に頑丈な体と言えど、血を流すことになるだろう。そう考え、腕を振り抜く。
しかし、その前に大きな腕が将臣の攻撃を遮った。衝撃が周囲に伝搬し、将臣のすぐ側へと着弾したそれは、将臣を衝撃だけで吹き飛ばした。
最早、殴るってレベルじゃないぞッ!
礫と共に地面を転がりながら、将臣は悪態を吐く。
それは、例えるなら砲撃。音速を超えた拳が、まるで砲弾の様に地面を粉砕、将臣の魔術障壁すらぶち抜く。
飛び起きて、後退したくなる気持ちを抑えつけながら、接近。腕を振り下ろした状態から、緩慢な動作で腕を引くガルエンディアの懐に、素早く到達した。
一発、入る。
振り抜いた拳は、先程装甲を剥いだ箇所に、寸分違わず打ち込まれた。魔力爆発、拳が弾け杭が打ち出される。そして、それは第二の装甲をぶち抜いた。
地面を転がって、跳ね起きる。そしてすぐに相手の被害状況を確認。見れば、ガルエンディアの腹部には確かにはっきりと穴が空いていた。そして、そこから漏れ出す黒い何か。
将臣はそれが、恐らく奴の血だと思った。
血を流すなら、殺せる。
ガルエンディアが攻勢に転じるよりも早く、将臣は次の手を打つ。
【重力操作Ⅱ】
ボウデリックを仕留めた重力操作の上位版、今現在将臣が使用出来る拘束魔術の最も強力なモノ。それを発動する。
ガルエンディアの今まさに飛び込んで来ようと持ち上げられた尻尾が、将臣の重力操作によって地面に叩きつけられる。ガルエンディアの周辺にある石床が円型に陥没し、ガルエンディアは倒れこそしないものの、その両腕は地面に着けられ、遂には膝を着いた。
ガルエンディアは行動不能となった。この状態なら、将臣が一方的に攻撃を加える事が出来る。
だが、そう上手くは行かない。
【重力操作Ⅱ】は魔術階位にして第七階位に相当する。一秒、その状態を維持するのに必要な魔力は、相当なものだ。魔術を絶えず演唱し続ける重労働。
将臣の指先の感覚が無くなり、原因不明の悪寒が将臣を襲う。これは、魔力欠乏の前兆。
長くは持たない、それが将臣の結論だった。
ここで仕留める。将臣はそう決断し、全ての魔力を注ぎ込む勢いで演唱を開始した。
【魔術槍Ⅴ】
魔術槍の最上位版、それを無数に生成し、射出。ガルエンディアの腹部目掛けて、宛ら連射砲の如く順に撃ち出す。
質より量、その圧倒的数を以て唯一の突破口をこじ開ける。腹部の亀裂を少しでも広げる為に。
【魔力爆球Ⅰ】
将臣の指先から、シャボン玉の様な小さな球体が幾つか生まれる。それは指先を離れると、魔術槍が降り注ぐガルエンディア目掛けて、ふわふわと近付いて行く。それは、途轍もなく緩慢な移動。
そして最後に。
【第十階位魔術発動開始】
【魔法陣展開】
将臣の周囲に、無数の魔法陣が浮かび上がる。それらは青白く光り、薄暗い周囲を明るく照らした。
第十階位魔術、それは発動に時間を要する大規模魔術。他の魔術と違い、ほぼノータイムで撃てるものでは無い。故に、通常は前衛などが敵を押し込めている間に演唱するのが定石。
しかし、ソロである将臣は、自身の拘束魔術で敵を行動不能にし、その上で必殺の一撃を叩き込むのが定石であった。
魔法陣が回転を始め、それは徐々に速度を増す。そして、回転数が頂点に達した時、将臣は【重力操作Ⅱ】を解除した。
同時に、魔術槍の連射が止まる。
ガルエンディアは、魔術槍による連続攻撃により、その腹部の亀裂をより大きなモノとしていた。
所々攻撃によって剥がれた装甲、ゆっくりと魔術が消えた事を確かめるように動き、ガルエンディアは将臣に視線を向けると、巨躯をゆっくりと起こした。
【無情の嵐】
将臣の第十階位魔術が、立ち上がったガルエンディアに炸裂した。
ガルエンディアを中心として、将臣の周囲に浮かんでいた魔法陣がくるくると回る。そして、徐に停止したかと思えば、一際強く発光。
そして次の瞬間、無数の魔法陣から黒い光が出現、ガルエンディアの巨体を貫いた。
【無情の嵐】は対一の戦闘を想定された魔術、無数の棘とも言える魔術が敵を貫き、死に至らしめる。そして、その刺は対象を刺し貫いた後。
敵の肉体諸共、爆散する。
目の眩む様な発光、巨大な爆発が起こり、爆炎が周囲を包んだ。将臣のフードが後ろへと流れ、ローブの裾が強く地面を打つ。それは【無情の嵐】だけの爆発では無い。事前に生み出しておいた【魔力爆球Ⅰ】の威力も兼ねた爆発。
あの球体は、単体だけでは意味が無い。しかし浮遊した球体に衝撃を加えた途端、強烈な爆発を起こす。
それが無数に浮遊していた中での、爆散。連鎖的な爆発は、途轍もない威力を生んだ。
爆炎が燃え盛る中、爆風が収まり、周囲に炎が燃え礫が落下する音のみが聞こえる。ガルエンディから十メートル前後は火の海と化し、石床は大きく抉られていた。
「っは………はっ、はぁ」
詰めていた息を吐き出す。魔力を消費し過ぎたのだろう、目眩が酷く、思わず膝を着く。
しかし、少しすれば将臣の高い魔力回復能力が最低限必要な魔力を生成、よろけながらも立ち上がり、火の海に視線を向けた。
仕留めたか。
将臣はそう思う、しかし気を抜きはしない、もしこれでも倒し切れていなかった場合、追撃の必要性が生まれる。
将臣が拳を握り締め、息を整えていると、炎の壁を突き破り、将臣に向かって突進して来る物体があった。
それは、片腕と頭部を失い、体中に穴を空けたガルエンディア。
将臣は驚愕に目を見開き、思わぬ奇襲に体が硬直した。
倒しきれてるとは思っていなかった、だが、まさか、こんなに早く動けるなんて。
ゴッ、と鈍い音。それは、防御の為に咄嗟に頭と飛んで来た拳の間に挟んだ腕から聞こえた。次いで、べきり、と骨の砕ける音。
拳がぶつかったとは思えない。そう、鉄骨の様な、巨大で途轍もなく硬い何かが、将臣を腕ごと吹き飛ばした。
悲鳴も上げられない。石床の上を石ころの様に転がり、部屋の隅まで飛ばされる。
一体、何メートル吹き飛ばされたのか。血を撒き散らし、ローブがボロボロに引き裂かれた。
仰向けに転がった状態で、立ち上がろうと床に手を着く。だが、右腕が全く動かなかった。痛みは無い、ただ、動かないと言う事実だけが将臣に異物感を与えた。
一発で、腕が一本逝った。
いや、寧ろ、腕一本で済んだ事に喜ぶべきか。石床で切ったのだろう、額から流れる血をそのまま、将臣は立ち上がろうと藻掻いた。視界一杯に広がる石床に、ぽたぽたと血が垂れる。
何とか、壁に背を預ける様にして、立ち上がる。膝はガクガクと笑い、視界が何重にもブレて見えた。
額の血を拭い、自分を殴り飛ばした原因を見据えた。
爆炎を背景に、将臣を殴り飛ばした格好のまま硬直するガルエンディアは、表面が全体的に焼け焦げており、所々に穴が空いている。そして、左腕と頭部は吹き飛んだのだろう、跡形も無く消滅していた。
それでも尚、動けている。
頭を潰しても、左胸に大穴が空いていようと動いている。
「冗談」
将臣の口から、言葉が漏れる。確かに、殺した確証は無かった。だが、アレを受けて尚ここまでの力を残しているなんて。
規格外にも、程がある。
ガルエンディアは、ゆっくりと姿勢を元に戻すと、将臣を正面に捉える。その威圧感は、気のせいだろうか。腕や首がなくなった分、増した様に思えた。
来る。
将臣がそう感じた瞬間、その巨躯は驚異的な加速を見せた。凡そ、万全な状態の将臣ですら反応が難しい速度。矢の様な速度で、ガルエンディアは将臣へと接近した。
【衝撃Ⅲ】
ボウデリックを吹き飛ばした魔術、その最上位。
それを目前に向けて撃ち出す。それは、矢の様に疾走するガルエンディアへに直撃し、その巨躯は石床を削る様にして後退した。
第十階位魔術を構築する時間も、魔力も無い。そして、重力操作を行う様な魔力も。
であるならば、魔力消費の少ない魔術で仕留める他無い。
【魔術杭Ⅱ(バンカー)】
ガルエンディアが後退した瞬間、将臣は無事な左腕に魔力を集中させる。それも、先程よりも強く、大きく。
ガルエンディアの装甲を貫ける、第二階位の魔術。魔力消費は攻撃力と比べ、断然少ない。それを一段階、引き上げる。ⅠからⅡへ。
震え、歩く事すら困難な足に魔力を通し、無理やり動ける様にする。その間に、再度ガルエンディアは途轍もない速度で将臣に迫った。
双方の距離が限りなく零になった瞬間、将臣は覚悟を決める。
来いよ、殴り合いだクソ野郎。
ガルエンディアの拳が風切り音を鳴らし、将臣の頭を砕かんと振り下ろされる。
それを【魔術障壁Ⅱ】で防ぐ。
勿論、完全に止める事は不可能。Ⅳですら防げない拳は、Ⅱ程度では一秒拳を留めるのが精一杯。
だが、この瞬間においてはその一秒が何よりも重かった。
ガルエンディアの拳が届く前に、将臣の【魔術杭Ⅱ】がガルエンディアの胸部に叩き込まれる。
先程までは装甲を貫通するだけだった、しかし、【魔術杭Ⅱ】は強烈な衝撃をガルエンディアに叩き込み、その巨躯を数歩よろめかせた。
ガルエンディアの胸に、穴が空く。第二の装甲まで貫いた。
「もうッ………」
将臣の左腕に、再度魔力が集う。回復したばかりの魔力が根刮ぎ使用され、体が悲鳴を上げる。
だが、【魔術杭Ⅱ】より強く、大きく溜め込んだ魔力は強い光を放っていた。
【魔術杭Ⅲ】
「一発ぅッ!」
将臣が、ガルエンディアの鳩尾に向けて腕を振り抜く。その瞬間、ガルエンディアも拳を振り下ろした。
【魔術障壁Ⅰ】
ガルエンディアの拳が届く瞬間、将臣と拳の間に極薄い障壁が展開する。最早、魔術杭に魔力の大部分を使い果たし、これ以上の障壁を展開するだけの魔力が残っていなかった。
障壁は、拳を一瞬その場に留めた。それは一秒にすら満たない刹那。たったそれだけだった。
将臣の【魔術杭Ⅲ】は、ガルエンディアの鳩尾を文字通り貫通した。大きな光の本流が、ガルエンディアの背へと流れ、その巨体が衝撃に揺れる。同時に、巨大な拳も将臣を捉えていた。
ゴッ、という鈍い音。それは将臣の肩から発せられ、将臣の体は何の抵抗も無く宙を舞う。
障壁一枚、それで威力を削げる筈もなく、将臣は一度石床に叩きつけられ、その後壁へと衝突した。
頭を強く打ち、視界に火が散る。体が床に転がる感触が、他人の様に感じられた。
焼ける様な痛みが将臣を襲う。左肩に直撃した拳は、将臣の肩を粉々に砕いた。
額を地面に擦り付ける様にして、何とか上体を起こす。無理が祟ったのだろう、両足は小刻みに震えるだけで、最早立ち上がる事すら許してはくれそうにない。
将臣がガルエンディアの方へと視線を向ければ、丁度その巨体が倒れ込む瞬間だった。
地響きが鳴り響き、巨大な質量が地面に倒れ伏す。その余波は将臣まで届き、強い風が頬を撫でた。
「か……った」
第十階層のボスを討伐。将臣の視界が、その瞬間を捉えた。
そして、その安心感からか。将臣はゆっくりと倒れこみ、意識を飛ばした。
どれだけの時間、意識を飛ばしていたのか。
ベッドにしてはやけに硬い感触に、将臣は瞼を開く。途端、強烈な痛みが将臣を襲い、思わず呻いた。
喉の奥から唸り声を上げながら、何とか痛みを堪える。そして、周囲を確認。
場所は迷宮、最後にガルエンディアと戦った場所。視線を走らせると、倒れ込んだガルエンディアの骸もあった。
「っ……あぁ、全く、今日は厄日だ」
悪態を吐きながら、起き上がろうとする。だが、両腕に力を入れた途端、強烈な痛みに思わず声を上げた。
そうだ、両腕とも今は使えない。将臣は小さく舌打ちすると、自身の魔力残量を確認した。体内に残留する魔力を感知し、八割程回復している事を理解する。
どうやら、結構な時間意識を飛ばしていたらしい。
【強制修復】
将臣は、魔術を演唱する。途端、将臣の全身に青い線とも言える光が走った。
そして、負傷箇所で一際強く輝き、将臣は先程と同じく腕に力を入れ、上体を起こす。
痛みに脂汗が浮かぶが、声は上げなかった。
【強制修復】は将臣の考えた、治療の代替術とでも言うのだろうか、負傷した体を無理矢理動かす術だった。魔術師は基本、治療魔術を覚える事が不可能なのだ。
この術は、あくまでもその場限りを凌ぐ為の術であって、根本的な治癒は行われない。
言ってしまえば突貫工事の様な、その時だけ何とかなれば良いと言う発想の元生まれたものだ。
その為、実際負傷が癒えている訳では無いので、骨折した腕を動かす時の痛みなどは、そのまま将臣に還元される。
将臣は覚束無い足取りで立ち上がり、ガルエンディアの元へとふらふら歩く。そして、その巨体の傍に立つと、魔術を演唱した。
【泥箱】
ガルエンディアの真下に大きな影とも言える領域が広がり、ズブズブとその巨体を飲み込んでいく。その進みは遅々としたものだが、三十秒もすればその全てを跡形もなく飲み込んだ。
流石に、これでただ働きは御免だ。
第十階層のボスならば、相応の値段になるだろう。そう考え、回収した将臣だった。
ビキビキと体が悲鳴を上げ、将臣は「うっ」と言う呻きを漏らす。流石に、今日は無理をしすぎた。今日程の死闘は、この夢の中でも一位二位を争うだろう。
さっさと帰って、体を休めよう。
将臣はそう決めると、石床に膝を着き、帰還の体勢に入った。
【帰郷】
将臣が演唱し、周囲に光が溢れる。その光の粒子は将臣を包み込み、第十階層から将臣の姿は消えた。
この時、もし将臣が冷静であったなら、もしかしたら見逃していなかったかもしれない。
自分がなぜ、意識を飛ばしたと言うのに、現実世界へと戻っていなかったのか。
何故意識を取り戻して尚、この世界に留まっているのか。
この時既に、異変は始まっていた。
帰還した将臣は迷宮の入口からふらふらと外へ足を運び、一番最初に空を見上げた。
まだ薄らと赤色の混じった空だった筈のそれは、既に真っ暗な夜空と変わっている。
何時間程気を失っていたのか、将臣は溜息を吐き出した。
結局、目的の物も得る事も出来なかった。
自分の姿を見下ろせば、ボロボロのローブに装備品。これも買い換えなければならないだろう。金は別に問題では無いが、その為にはまた街に繰り出さなければならない。
気が重い。
将臣は取り敢えず、本来の目的であるテディルの肉を買うために、ギルドへと足を向けた。
ギルドで肉を買って、宿に戻って。彼女はもう起きているだろうか、だとすれば見知らぬ部屋で一人心細いだろう、早く飯を食わせて、早く休もう。
疲労した将臣の頭にあるのは、それだけ。自分がボロボロの姿である事も忘れ、街の中へと入っていった。
夜のギルドは騒がしい。それは、迷宮に潜った探索者や商人などが成功を祝って祝杯を上げるからだ。迷宮から戻る度に祝杯を上げる者も少なくない。
いつ死ぬか分からない仕事と言うのは、モチベーションが無ければやっていけないのだ。
将臣は、まるで幽鬼の様な足取りでギルドへと足を踏み入れた。周囲のドンチャン騒ぎに眉を顰めながらも、ギルドの売買カウンターへと向かう。
「すまない、テデイルの肉は売っているか?」
そう将臣が声を掛けると、最初受付嬢は「はい!」と元気な声を上げ、将臣を見た。そして、次の瞬間にはどこか、呆けた様な顔をする。
「どうした」
将臣が訝しげに、内心早くしろと苛立って受付嬢を見れば、彼女はほぅと溜息を吐く。一体何だ。
「すまない、テディルの肉が欲しいんだ、出来れば少し多めに、なるべく早く」
言外に、さっさと用意しろと言うメッセージを飛ばすと、彼女は「はっ」とした様に意識を取り戻し、直様背後の棚を漁り始めた。
背中越しに「しょ、少々お待ち下さい」と言う声が聞こえる。
どうやら、あるらしい。その事に将臣は胸を撫で下ろす。もしこのギルドに無ければ、他のギルドや一般の商店を梯子しなければならなかった。
流石、最大規模のギルドは品揃えが良いと思っていると、「お待たせしましたっ」と言う声と共に、少し大きめの麻袋がカウンターに置かれた。
「テディルの肉です、大体一体分ですが、これでよろしいでしょうか?」
「あぁ、問題ない」
中身を覗き若干透明な肉を確かめ、頷く。恐らく、これがそうなのだろう。代金である銀貨五枚を支払い、将臣はカウンターを後にした。
後は、帰るだけである。
そう思い、将臣が踵を返した所で背後から声が掛かった。
「あ、あのっ」
それは受付嬢の声、将臣は踏み出した一歩をそのまま、首だけで受付嬢を視界に捉える。
「す、すみません、その、規則なので、お名前を」
そう言って、おずおずと差し出して来た一枚の比較的綺麗な紙。最初将臣は、一体なんだと訝しげに紙を覗き込んだが、そう言えばギルドには売買者の名前を書くシステムがあったなと、思い出した。
ギルドに所属している探索者ならば無意識の内に済ませる事なのだろうが、ギルドを滅多に利用しない将臣は失念していた。
「すまない、忘れていた」と一言謝り、差し出されたペンを手に取る。ずらりと並んだ名前の下に、二つの空欄があった。その一つに名前を書き込む。
スラスラと署名する中、何故かやけに真剣な眼差しで将臣の名前を凝視する受付嬢。防犯対策かな、なんて暢気に考えている将臣だったが、数秒と経たずに書き終わる。
「はい、ありがとうございます」
受付嬢は紙の署名を確認、その言葉を聞き届け、将臣はやっと帰れると早足にその場を立ち去った。
そして、これが将臣の二つ目のミス。
ギルドを出て、真っ直ぐ宿へと向かう。道中、なにやら視線を多く感じ、自分の格好を失念していた事に気付く。確かに、こんなボロボロじゃ視線を集めてしまうなと。
もしかしたら、あの受付嬢はこの格好に驚いたのかもしれない。そう考え、一人で苦笑。
実際は違うのだが、将臣の中ではそう結論付けられた。
宿を迷宮の近場に構えていて良かった、そう思ったのは初めてだった。
見慣れた宿の入口は、将臣に安堵を齎した。比較的軽い扉が、キィと音を立てて開く。
「今、戻った」
将臣がそう言って、あぁ帰ってきたと感傷に浸っていると、カウンター側から大声が鳴り響いた。
「帰ってきたッ!」
甲高い声、それは将臣にとっては奇襲の様な一撃。一体何だと視線を向ければ、そこに居たのは店主とファルメの二人だった。
「遅いよゼ………っッ!?」
ファルメは最初、将臣を見て咎めようとしたのだろう、しかしその悲惨な格好を見て、思わず言葉を引っ込めた。
「ど、どうしたのゼオ、そんな傷だらけでっ」
慌てて駆け寄ってくるファルメ、店主も「救急箱、救急箱!」と裏へと駆けて行った。思わぬ事態に、将臣は内心で溜息を吐き出す。
「あぁ、見た目は酷いが、別に命に別条はない、ただ腕と肩が粉砕骨折しただけで」
「それ十分に重症だからッ! いいから、こっち来てっ」
腕を引っ張られ、カウンターの椅子へと連行される。引っ張られる腕が痛みを発し、抗う事は出来なかった。
痛い、痛い、これは大人でも泣くぞ。実際、将臣もそこまで痛みに耐性がある訳でもない。平常時でこの痛みは、少々辛い。
「今、フェルテッサを呼ぶわ、流石にあの子も将臣の重症を聞けば仕事放り出してでも来るでしょう」
その言葉を聞き、将臣は反射的に「待て」と制止の声を上げてしまう。連絡に向かおうとしたファルメが足を止め、怪訝な顔をした。
「どうして?」
そう問われて、将臣は「しまった」と後悔。今日貸しを一つ作ったばかりで、一日に二度も貸しは作りたくない。
何て言えば、目の前のファルメに何を言われる分かったものではない。
努めて冷静な声で、将臣は咳払いを一つ。
「大丈夫だ、フェルテッサを呼ぶ必要はない、この程度、普通の治癒院に行けば治る」
「ダメよ、もしも治しきれなかったら嫌だもの、悔しいけどファルメ以上の癒し手はこの街に居ないわ」
説得失敗。
ファルメは通信石を取りに、自室へと階段を駆け上っていく。その背中に掛ける言葉は持ち合わせておらず、将臣はその背を眺めるだけに終わった。
あぁ、ファルメにまた貸しを作ってしまうのか。一体、どんな無理難題を押し付けられるのやら。
陰鬱な気分になって俯く将臣。そうこうしている内に、店主が救急箱を片手に将臣の元へ戻って来る。
所々にある傷に塗り薬や絆創膏を貼る作業。流石に骨折は治せないが、擦り傷や打ち身に治療を施してくれた。
「すまない店主、迷惑を掛ける」
将臣がそう言うと、店主は「気にすんな」と一言。
「だが、そう思うのなら少し自重してくれ、今日は休暇の日って言ってただろう」
「そう言われると、返す言葉も無いな」
将臣は素直に反省する。今回は、自分が悪い。
普通にテディルはギルドで購入すれば良かったのだ。自分から狩りに向かった将臣の判断ミス。
モンスターの素材を買うと言う考えが欠如していた将臣は、今回の件で一つ確かに学んだ。
「あぁ、そうだ店主、一つ頼みたい」
将臣がそう言って、店主に差し出したのは、先程ギルドで購入したテディルの肉。
腕が使えないので、直接インベントリから出現させ、店主の足元に置く。店主は最初、突然出現したソレに驚き目を見開いたが、何も言わずにテディルの肉が入った麻袋を拾い上げた。
「すまないが、粥か何か一品作ってくれないか? 病人が食べる様な物を」
差し出されたテディルの肉を受け取った店主は、頷きながらも「お前さんが買ってきたとかいう、あの子の為か?」と聞いてきた。将臣は、特に隠す様な事でも無いと頷く。
「分かったが………しかし、ゼオは一体何と戦ってきたんだ? まさか、テディルにやられたと訳じゃないだろう」
第五階層のボスを単騎で討伐する様な奴が、第六階層の小型モンスター如きにやられはしまい。その言葉に頷きながら、「まぁ、少しな」と言葉を濁した。
別に、第十階層のボスとやり合いました、なんてバカ正直に話す必要も無いだろう。これ以上、騒ぎが大きくなっても困る。
「取り敢えず、粥の件は頼んだ」
将臣は、椅子を蹴って立ち上がる。「お、おい」と店主が将臣を椅子に座らせようとするが、その腕を抜けて階段へと小走りに駆けた。
「あの子の様子を確認したい、もし起きていたら心細いだろうからな」
それだけ言って、階段を駆け上がる。背後から「ファルメが怒るぞ」と声が聞こえたが、聞こえないフリ。
腕が使えないので、何とか四苦八苦して自室の扉を開ける。幸い、鍵は将臣が宿を出る時に閉め忘れ、掛かっていなかった。
もし施錠されていたら、口で鍵を加えて開ける必要があった。
薄暗い自室の中に入り、魔術でランプに火を灯す。すると、徐々に浮かび上がってくる少女の姿。
ベッドに横たわった姿は、未だ動く気配が見られない。それは死んでいる様にも見えて、将臣は少女に近づいて顔を覗き込んだ。
路地裏の時は怪我にばかり目が行って顔を眺める様な事はしなかったが、こうして改めて見ると確かに、可愛らしい顔をしていた。
栄養不足のせいで全体的に細々としているが、そんな中でも素朴な可愛さとでも言うのだろうか、そういったものが感じられる。
少しくせっ毛の髪の毛、すらっと整った鼻や長い睫毛。恐らく、魔力欠乏症なんて病気に掛かっていなければ、奴隷としてもっと高い値段が付いた筈だ。
いや、もし病気に掛かっていなければ、奴隷に身を窶す事もなかったかもしれないが。
魔石の効果だろうか、この部屋に連れて来た時よりも頬に赤みが戻った様に見える。少女も少しは回復したと言う事だろうか。
「良かった」
小さく呟く。
ともあれ、起きていないのならばそれはそれで好都合。少女が起きる前に粥を作り、着替えなども済ませたい。
流石に初対面でこんなボロボロの姿を見られては、警戒心の一つ二つは持たれてしまうだろう。
少女を起こさないように、物音を立てずに部屋を後にする。取り敢えず、少女が起きているかどうかは確認出来た。心配事が一つ減る。
将臣がゆっくりと階段を下りていると、一階から何やら不穏な空気が。
「ゼオ、少し………お話があるんだけれど」
青ざめた表情の店主、仁王立ちで何故か怒気を振りまくファルメ。
こういう時は先に謝るのが良いとばかりに「あぁ、勝手に出歩いてすまない」と将臣が口にすると、ファルメはふっと表情を緩ませた。
「えぇ、そうね、怪我人は大人しくしていて欲しいわ………でもね、今私が怒っている事はその事じゃないの」
ファルメの言葉に、将臣の頭上に疑問符が浮かんだ。では、一体何に怒っているというのか。
流石に、それを口にする様な事はしないが、恐らく表情に出ていたのだろう。
ファルメはすっと目を細めて、将臣に問うた。
「ゼオが部屋に連れ込んだっていう『女の子』についてよ?」
フェルメの額には青筋が浮かんでいる。そして、その握られた拳が小刻みに震えているのに、将臣は気付かなかった。
故に、「あぁ、その事か」と暢気に発言する。
どうしたと聞かれても、それは確か店主にも聞かれた事だった。だからこそ、将臣の回答はシンプルな言葉となる。
店主に答えた様に、ごく簡潔で色んな意味を内包する。
「買った」
その後、宿にファルメの怒号が鳴り響いたのは、言わずもがなだろう。
将臣がその騒動から開放されたのは、数時間経った頃。
いい加減夜も深まり、将臣を治療しに来たフェルテッサが帰らなくてはならない時間になった為、何とかお開きとなった。
将臣の少女買収の話を聞いた時、ファルメは鬼神となった。
それはもう、将臣の手に負える様な怒りでは無く、フェルテッサが宿に到着するまで延々と説教された。
もし将臣が怪我人でなければ、その場で剣技の一つや二つをお見舞いされたかもしれない。それ程の怒り様だった。
フェルテッサが到着した後もひと悶着あり、曰く「何故将臣の身辺にこれ以上女を増やす様な真似をするのか」と言うのがファルメの言葉である。
将臣自身、そんな女を侍らす様な生活をしている訳では無いので、その発言の意図は分かりかねる。
対する、将臣を治療しながら反駁するフェルテッサの言葉はこうだ。
「あら、貴女はあんな年端もいかない少女に盗られると心配しているの? 随分と器の小さい女ね」
それは火に油だった。
ファルメの表情が段々と険しくなり、まさしくその表情が鬼と化した時、将臣は介入する事を諦めた。
事は既に、自分の手の届かないところまでに及んでいると。
その判断は実際正しかった。両者の舌戦は将臣の理解する範疇では無く、双方の言い分は将臣が理解出来ないものが多い。
フェルテッサの治癒によって骨が元通りになった将臣は、店主と二人で店のカウンターに座り、二人の言い争いが終わるのを待った。
もし無言でこの場を去ろうとするものならば、高い察知力により二人に拘束され、嵐の中に放り込まれる事を、将臣は過去の経験から学んでいる。
故に今将臣が取れる最善の行動は、二人の視界に留まり、かつ必要以上に介入しない事。もし何か同意を求められる様な事があれば。
「そうだな」
「勿論、私はそう思うよ」
「あぁ、その通り、君は悪くない」
とマニュアル返答を返す。
実際、これで何とかなっていた。
「ただですらライバルは多いと言うのに、長い目で見たら年端もいかない少女だろうと、十分危険になる得るでしょう?」
「それは自分に自信が無い証拠ね、別に良いわよ怖気づいたなら、諦めて尻尾を巻いて逃げると良いわ、彼は私が貰うから」
「そんな事出来る訳無いでしょ!? 私はね、アンタなんかより全然長い付き合いなんだからっ」
「あら、恋や愛に時間は関係無いわ、選ばれた方が勝者、当然でしょう? ねぇ、ゼオ」
「そうだな」
「だから自分が選ばれるって考えてるワケ? はっ、甘いわね、アンタはゼオの事を少しも知らないわ」
「なんですって………?」
「私はね、アンタの知らないゼオを沢山知っているの、勿論、アンタが目にしたくても、出来ないようなあられもない姿も………ねぇ、ゼオ?」
「勿論、私はそう思うよ」
「なっ、同じ宿に宿泊しているからと言って、貴女一体何をっ」
「ふふっ、アンタが幾ら望んでも見れない様な光景よ、せいぜい悔しがると良いわ」
「くっ、私とて治癒院さえ無ければっ」
「残念ねぇ、才能があるばっかりに重い責務を背負わされてぇ」
「ふん、好きに言いなさい、それでも、最後に笑うのは私よっ!」
「へぇ、その自信は一体どこから来るのかしら?」
「あら、お忘れ? 私はゼオに貸しを二つも作っているのよ?」
「っ!? 滅多に人を頼らないゼオに貸しですって!? それも………二つッ!?」
「えぇ、一つは件の少女を助けた際に、もう一つはたった今、ゼオの治療、私がゼオ相手にお金を貰わないのは知っているでしょう? ねぇ、ゼオ」
「あぁ、その通り、君は悪くない」
「フェルテッサ、貴女っ」
「ふふっ、悔しいでしょう? 羨ましいでしょう? 貸しを使えばあんな事やこんな事も、それこそ貴方が望んで止まない様な行為さえ………」
「こ、この卑怯者ぉっ!」
「あはははっッ、何とでも言いなさいなっ!」
ほらこの通り。
店主と共にちびちびと飲みながら嵐が過ぎるのを待つ。だが、舌戦は徐々に熱を上げ一向に収まる気配を見せない。
これは、徹夜かもな。
店主が息を潜め、そんな事を口にする。まさか、そう思うものの、背後で繰り広げられる戦いを目にすれば途端に自信が無くなる。
それは嫌だな。
これは本心。将臣がそう呟くと、店主も同じように思っているらしく、二人の溜息が喧騒の中に溶けた。
そして事の顛末は先の通り、フェルテッサが宿を去る事によって終息する。
二人の言葉に相槌を打つだけの作業だった筈だが、その疲労感はとても大きく感じる。一緒に飲んでいただけのマスターも、心なしか窶れて見えた。それだけ重圧のある空間だったのだ。
「疲れた……」
自室に戻り、第一声。ベッドを確認すると、少女は未だ起きる気配が無い。粥の件は、明日の朝一で店主に作って貰う事になった。
兎に角、今日は色々な事があり過ぎた。やはり、慣れない事はするものでは無い。一日本人として、ルーチンワークがこの身に染み着いているのだ。
インベントリ^防具^寝間着セット
青い魔法陣が将臣の足下に展開し、体全体を通過する。そして、ボロボロのローブ姿だった将臣の姿は、完全な寝間着へと早変わりした。
少し生地の薄いラフな格好。白を基調とした寝間着は、将臣が一番最初にこの世界に着た時に着ていた服。
風呂は次の朝に入ろう、明日現実世界で過ごして、その後、そうすれば少しは体力も回復しているだろう。
少女の隣に転がり、少し窮屈なベッドの上で瞼を閉じる。少女を起こさないように布団を被り、他人の体温を感じながら将臣は段々と意識を沈めていった。
あぁ、明日も現実世界、確か明日は期末考査があった。
なんて、この世界から目覚めた後の世界を考え、意識を閉ざす。
勿論、それは早すぎた。
この世界に異変が起こり始めて、現実世界に想いを馳せるなど。
将臣はこの時から、確かに抜けられない運命の中に居た。
それを知るのは、将臣が次の朝を迎えた時。
静かに寝息を立てる将臣は、ついぞ異変に気付けなかった。