前編
いつになく酔っぱらっていた。そのせいだったと思う。
居酒屋のトイレで用を足してドアから出た途端、不可解な空間の中に入り込んでしまった。
酔っているとよく自分の席に向かう廊下で迷ったりする事があるが、この時もそれだと思っていたのだ。
異変に気づいたのがドアから出て数秒後のこと。
居酒屋の廊下の地形が明らかに入ってきた時と違う。
そしてあれだけ賑やかだった声が沈黙に取って代わり、今は人っ子一人見当たらない。
目に映る全てが居酒屋のパーツをコピーペーストしてめちゃくちゃに配置したような歪んだ景色の中、床だけが何とか歩けるようになっていた。
入ってきたドアを開けたら戻れるかと思ったが、それは甘かった。
後ろのドアを勢い良く開けた瞬間、そこには床の無い空間が広がっており、奥には暗い壁のようなものが見えているだけ。下は奈落の底のような暗闇だった。
暗闇からは奇妙な風が吹いており、落ちたらどこに行くのか検討もつかない。
覗きこむように少しだけ身を乗り出してみると、何やら見えない力に自分が引っ張りこまれるような異様な感覚を感じた。
「うわ!」
俺は怖くなって身を引っ込め、すぐにドアを閉じた。何だったんだ今のは。
あれだけベロベロだった酔いが嘘のように覚めてしまった。
息を静め、今一度この謎の空間をじっくりと眺める。
今のところ一番奥に一つドアがあるだけ。とりあえずあのドアを開けて進むしかないだろう。
長く続く段差混じりの廊下を進んでいく。
ドアを開けると、また同じような部屋に出てきた。
そしてまた次の部屋のドアを開けるとまた似たような景色。段差や、壁の凹凸やポスターなどの構成が違うだけだ。
同じような部屋を何回も通過していくと、頭がおかしくなったような気がしてくる。この廊下には終わりが無いのだろうか。
何回か部屋を通過した所で異変が訪れた。
少し大きな廊下に出たと思ったら、部屋の中央上から光が差し込んでいるのだ。
そこを覗くように見上げると、狭い空間の奥に天井があり、ドアが下向きに付いていた。
ドアが付いている所を天井と呼んでいいのか分からないが、そう言うしかない。
部屋の真ん中にはイスが置いてあり、まるで誰かが天井までよじ登る為に置いたようだった。
このまま直進するか、それとも上に登るか…
暫く考えた後、俺は天井のドアを開ける方を選んだ。
狭い空間に身を挟み込み、壁の凹凸をつたって少しずつ登っていく。かなりの距離だ。
腕っぷしには自信があるが、流石にロッククライミングの真似事をするのはキツい。
腕も痺れてきた頃、ようやく天井にあるドアを開け、身を乗り出す。
するとその部屋もまた同じようなパーツがコピーペーストされたような空間だった。
しかし今度はドアが複数ある。天井に一つ、前後に一つずつ、合計三つだ。
まさに迷宮、お手上げだ。
もう引き返す事もないだろう。手当たり次第に進むしかない。
俺は3つあるドアの後ろのドア、つまり自分が今まで直進してきた方向と逆のドアを開けてみる事にした。
また同じように何部屋も直進していると、突き当りの廊下に黒っぽい何かが落ちているのを発見した。
焼き鳥だ!
って事はこの迷宮は現存している居酒屋のコピーペーストなのか?
現実で誰かが焼き鳥を落としたのか、或いはここに来た他の人間が落としていったのか。
焼き鳥はまだほんのり温かかった。
これはもしかすると、これから先の食糧になるかもしれない。
俺は焼き鳥をハンカチに包んでズボンのポケットに入れた。
すると次の瞬間、天井にあるドアから誰かが降りてきた。
「お、人がいましたか」
やつれた顔の細身の男が目の前に出てきた。
人がいてよかった。もしかしたら助かるかもしれないと思い、俺は尋ねた。
「あの…一体ここはどこなんですか?」
「さあ…?聞きたいのはこっちの方ですよ。私なんてもうずっと何も食べておりませんよ。ここからは天井にドアのある部屋ばかりですよ、まあ途中で別れ道もありますがね…」
男はこの迷宮に慣れたような口ぶりだった。
男は力無さそうに質問してきた。
「ここまでどんな部屋を通ってきましたか?」
「え、と。ずっと直線に歩いてきて、廊下の真ん中にイスがあったので、そこから長い天井を登って、後ろにあるドアに入ったんですよ」
「ああ、あそこね……ずっと直線が続くだけで何も無いんですよね。でも部屋の造りは入り直す度に少しずつ変わるし、一応行ってみますか。あなたはどうします?」
「じゃあ俺はあなたの来た方向に行ってみます」
「そうですか、ではまた…」
男は立ち去ろうとしてまた振り返った。
「そうそう、上に行くと別れ道が2つあるのですが、1つ目の別れ道はまたここに戻ってきますから横には進まず、上に進んで下さい。
それと、1つ目と2つ目の別れ道の間から重力の向きが変わりますから気をつけて…」
「重力の向きが変わる?」
「体験してみれば分かりますよ」
そう言って疲れたように俺が来た方のドアに入っていった。
あれでは長い天井部分を降りる力も無いんじゃないだろうか。
焼き鳥を恵んでやれば良かったか。しかし俺だって食べなきゃ死んでしまう。
それにしてもあの人、ずっと何も食べてないと言っていたな。
という事は、落ちている焼き鳥で飢えを凌いでいくのは無理って事か。
何としても早くここから抜けださなければ…
気を取り直し、男がやってきた方のドアを開けて進む。
あの男の言うように天井にドアのある部屋ばかりで疲労は溜まっていく一方だ。
運良く天井の低い部屋や天井に続く段差のある部屋であればラッキーだが、そうでなければ入り直して待つ方がいいみたいだ。
時間をかけて根気よく壁をよじ登り、天井のドアを開けてゆく。
1つ目の別れ道の部屋に来た。これをそのまま上に進めと言っていたな…
そのまま2つの部屋を進み、3つ目の部屋の天井のドアを開けて身を乗り出した途端、俺の体が壁の方に吸い寄せられた。
「な、何だ!」
ドアを開けた側、つまり最初に直進してきた方向に体が「落ち」て、蝶番に脇腹をぶつけてしまった。
横だと思っていた所が今度は下になったのだ。
あの男が言っていた重力の方向が変わるとはこういう事だったのか。
奇妙な感覚だ。下半身は下に落ちそうなのに上半身は横に引っ張られているのだから。
部屋に入るために身を乗り出して壁に着地する。
着地すればそれはどこであっても床である事に変わりはない。
ええ、と。来た道は今の感覚だと横だけど、ずっと上に向かって進んできたから…このまま前に進めば、前の感覚では上に進んでいる事になるのか。
…ややこしいな。とにかくドアはまだ一つだけだ。前に進もう。
新たな重力のこの部屋は、ドアの位置こそ高いものの、前方にドアが付いているので比較的楽に進むことができた。
何部屋か進むと、今度は前と床にドアのある部屋にやってきた。
「ここがあの男の言っていた2つ目の別れ道か」
…あの男はどっちに行ったんだろう。体力が無さそうだからよじ登って来たとは考えにくいな。よし!俺は下に行ってみよう。
これがまた過酷な旅の始まりだった。
永久に続くかと思われる長い長い下への道。
登るのも辛いが、ドアを開けて天井から降りるという作業もなかなか消耗が激しい。
休みながらもひたすら降りていく。
とある部屋の床に降り立つと、部屋の隅で一人の男が倒れていた。
近づいて確かめてみると、もう息が無い。
様子からして、死んでからそれほど時間が経っているわけでも無いようだった。
ふと見ると、その男の傍には紙とペンが置いてあった。
その紙を拝借してジッと眺める。何か立方体を繋いだような図が書かれている。
これは地図だ!
動き回って地図を書きながら進んでいたが力尽きて死んでしまった、という所か。
歪んだ部屋の輪郭までしっかりと書かれてある。
概ね完成されているように見えるが…
更に地図を眺めていると、ある事に気付いた。
この形、何かの漢字に似ているな…「西」?いや、違うな…「酉」かな。
向きは定かでは無いが部屋を繋いだこの地図全体がどうも酉という字に見える。
しかし自分が来た道を考えてもこの地図に合うような箇所は無い。今自分がどこにいるか分からなければ、この地図も意味がない。
仕方なく俺は先に進む事にした。
更に下に降り続けているとようやく一番下に到着した。今度は前後にドアがあるぞ。
また地図を見てみる。「酉」という字のどの部分だろう…
地図を横向きにしてみる。T字の部分を降りて逆T字の部屋に来たのだから、「酉」という字の下から2番目の線が交差する点のどちらかにいる事になる。さて、どっちだろう。
ええと、俺が来た道をおさらいしてみよう。
まず直進してから上に登って、それから後ろに戻って突き当りで男に出会って、それから上に向かって進んで、それから1個目の別れ道を上に進んで、重力場が最初に直進してきた方向に変化して、2個目の別れ道を今度は下に降りていったんだから…
重力の事、そしてあの男が言っていた「1つ目の別れ道で曲がると元の場所に戻る」という事も頭に入れると、ようやく理解する事ができた。
まずこの地図は逆さまに見なきゃダメなんだ。
なぜなら最初のエリアの重力場は「酉」という字の上方向にかかっているのだから。
この字のまま考えると、「酉」の一番右上が最初に居た位置、それから直進して下に降りる、重量は反対だから上に上がるわけだ。そして右に戻る。そして道を曲がって下に降りると、重力場が左に移る。つまり左が現実で言う下になるわけだ。そのまま2番目のT字を曲がって突き当たると今いる位置に到着する。
これだ、これしかない。
しかし何故重力場が変わったのか…そしてここまで地図ができているのに、何故この男は力尽きたのか…
後の質問の答えは一つしかない。
この地図の通りに進んだ所で、どこにも行き着かないって事だ。ループと行き止まりしかないのだから。
俺は力を無くして地面にへたり込んだ。
もう駄目だ。この訳の分からない迷宮で、謎も明かせぬまま餓死するしかない。
全身の力が抜けた。もうどうにでもなれって感じだ。